第14話: 現実は、いつも私たちの空想よりも厳しい3
土曜日。
学校の授業がないため、合唱部の活動は午前中のみとなる。
朝の9時からお昼の12時まで、みっちり3時間の練習だ。
いつもと違って、部員全員がジャージ姿なのはなんだか新鮮で不思議な感じがする。
そんなことを思いながら、私はメゾ部屋に向かって荷物を下ろした。
「樺音ちゃん、おはよう」
「……おはよう~」
そこから、なかなか会話が続かない。
(できればもっと仲良くなりたいんだけどな…)
隣でマイペースに荷物を整理している樺音ちゃんの横顔を見ながら、私は小さくため息をついた。
そんな私の焦りを見透かすように、ドアから紬先輩が顔を出した。
「部活始めるから、みんなメインホールに出てきてー!」
「はーい!」
返事をして向かうと、なぜか先輩たちが「はぁ……」と重いため息をついたり、暗い顔をしたりしている。不思議に思っていると、杏奈先輩が手を叩いて、めちゃくちゃ大きな声を張り上げた。
「はーい! 今日はみんなが大好きな、トレーニングの日でーす!」
瞬間、一年生一同がピシッと凍りついた。
(トレーニング……!?)
「一年生のために説明するね」
怯える私たちに、紬先輩が優しく声をかける。
「私たちは歌を歌うために、喉じゃなくて筋肉を使います。『腹筋で音を支える』っていうのが正しいかな。この身体の使い方ができると、どんなに長時間練習しても喉を痛めなくなるし、声もすごく強くなる。だから、私たちの先輩の代から、土曜日はトレーニングの日って決まってるの。夏休みの合宿は一日中歌い続けるから、体力もないと乗り切れないしね」
週に一度はみっちり筋トレ。平日にもメニューが少し食い込んでくるらしい。
「ということで、まずは外に出て校舎の外周一周走ってきまーす! 終わった人から音楽室に戻ってね。用意、ドン!」
「うわあああ!」「無理ーー!」
部員たちから一斉に悲鳴が上がる。陽葵ちゃんに至っては、絶望したように頭を抱えていた。
私はゆっくりと紫の隣に並んで、小声で聞いてみる。
「紫、中学の時もこういうトレーニングってあった?」
「うーん、腹筋とかはあったけど、外周までは走らなかったかな。うちの中学、そんなに強くなかったから。やっぱり『全国大会目指してます!』って、気合いの入り方が違うね……!」
そんな会話をしながら、私たちはぞろぞろと外へ出た。
「それじゃあ走るよ! 他の部活の迷惑にならないようにね!」
杏奈先輩の掛け声とともに、全員が一斉に走り出した。
アスファルトを踏みしめる、懐かしい感触。
(……なんか、こういうの本当に久しぶりだな)
自然と、陸上部だった頃の記憶が頭をよぎる。
ただ、あの頃は走ることが苦しくて、怖くて、仕方がなかった。
いつも重いプレッシャーに押しつぶされそうで、足がすくんでいた。
でも――。
今、こうやってみんなと並んで走ってみると、不思議と全然苦しくない。
(走るのって、こんなに気持ちよかったっけ……?)
全盛期の頃に比べたら、スピードは全然落ちているはずだ。
だけど最近、楽譜が読めなくて落ち込んだり、周りの部員と自分を比べて焦ったり、
そんなモヤモヤが走る風と一緒に後ろへ吹き飛んでいくような気がした。
(ちょっと……すっきりするかも)
私はだんだん、無意識にスピードを上げていった。
誰も追ってこない。ただ自分のペースで、風を切る。
気づくと、私は一番乗りで音楽室に戻ってきていた。
「ふぅ……っ」
少し息は乱れているけれど、全然平気だ。まだ走れる。
「早く走らなければ置いていかれる」というあの頃の負の感情は一切ない。
今は単純に、走ることが少し楽しいと感じていた。
「さすが元陸上部! 速いね!」
不意に後ろから声をかけられ、私は慌てて振り返った。
そこには、見慣れない二人の先輩が立っている。
「あ、えっと……っ!」
確か、アルトの先輩だったはず。私は急いで姿勢を正した。
「あはは、そんなにかしこまらなくていいよ」
ショートカットの先輩が、気さくに笑う。
「ちゃんと挨拶できてなかったね。私たち、アルト高校二年の常磐凪と、高橋胡桃。」
「よろしくお願いします!」
私が深くお辞儀をすると、凪先輩が胡桃先輩を見ながら言った。
「いつも私たちが一番乗りだったのにねー」
「お二人も、運動部だったんですか?」
「私はバドミントン部で、胡桃はテニス部だったんだよね」
「そうなんですね! ……あの、そろそろ皆さん戻ってきますかね?」
音楽室の入り口に視線をやりながら私が尋ねると、凪先輩は苦笑した。
「うーん、あと十分は誰も来ないかな。いつもそうなの。そして、それがうちの部活の直さなきゃいけない弱点でもあるんだよね」
「弱点、ですか?」
今度は、胡桃先輩が静かに口を開いた。
「凪の言う通り、普通は校舎外周一周くらい、運動部じゃなくてもそんなに時間はかからないはずなの。つまり、うちの部活は圧倒的に――部員の体力がないのね」
「でも、合唱部って文化部ですよね……? 運動部ほど体力って必要なんですか?」
私が素朴な疑問を口にすると、凪先輩が「そこが甘いところなんだなー」と、人差し指をチッチッと振った。
「例えばね、もし宮城県大会を突破したとするじゃない? 次は東北大会。でも、東北大会がいつも宮城で開催されるとは限らない。遠方に移動して、慣れないホテルに泊まって、本番を迎える。体力が尽きると、いざ歌うって時に集中力が切れちゃう子が本当に多いの」
「それに、夏合宿なんて朝から晩まで歌いっぱなしだよ」
胡桃先輩が続ける。
「ちゃんとお腹を使って歌えないと、すぐに喉を潰しちゃう。だから、体力をつけておいて損はないんだよね。私たちも、体力キープのためにたまに個人的に走ったりしてるし」
(なるほど……。文化部だからって舐めてたら痛い目を見るんだ)
よくよく聞けば、運動部の大会並みにシビアな世界だ。
「お二人は、もともと音楽をやられてたんですか?」
私が聞くと、「私は昔, ピアノをやってたよ」と胡桃先輩が答える。
凪先輩は、制服のポケットから一枚の写真を取り出した。
「私は音楽経験0。 だけど、これが大好きで、自分も歌いたくて合唱部に入ったんだ」
差し出された写真には、きらびやかな衣装を身にまとった、もの凄く美しい「男役の女性」が写っていた。
「これって……もしかして、宝塚ですか?」
「そう! 中学の時に親と一緒にハマっちゃってさ。舞台の上の人たちって、みんな自信に満ち溢れてるでしょ? 私、中学時代はバド部で、全然自分に自信がなくて…合唱部に入ったんだ。音楽の経験なんて一ミリもなかったけど、今は入ってよかったと思ってる」
確かに凪先輩の話し方や姿勢には品があり、宝塚が好きときいて納得した。
(音楽の経験がない先輩って……凪先輩のことだったんだ)
私は思わず、本音をこぼしてしまった。
「あの……不安にならなかったですか? 私、楽譜すらまともに読めなくて。同期の子との差に、すごく焦っちゃってて……」
凪先輩は、私の不安そうな瞳を真っ直ぐに見つめ、微笑んだ。
「わかるよ、その気持ち。私も最初は、胡桃に個人レッスンつけてもらってた。本当に大変だった」
「いや、マジで大変だったよ? 何回私がキレそうになったか」
胡桃先輩がすかさずツッコミを入れる。
「あはは! でも、その代わり毎回スタバ奢ってあげたじゃん!」
楽しそうに笑い合う二人を見て、少しだけ肩の力が抜ける。
「でもね、茜ちゃん」
凪先輩が、少し真面目なトーンで言った。
「初めて楽譜が読めたときの感動。初めて自分の声がみんなの音と合わさって、大きな響きになったときの感動。……そういう『初めての達成感』ってさ、初心者しか味わえない特権なんだよ。辛いこともあると思うけど、その『初めて』を大切に、楽しんでほしい。私は今、歌うのが楽しいから。」
――初心者しか、味わえない特権。
凪先輩の言葉が、冷え固んでいた私の心を、じわじわと温めていく。
ただ焦って、周りと比べて、勝手に諦めそうになっていた。
でも、できないからこそ、これからたくさんの「初めての感動」が待っているんだ。
(……そっか。私、焦りすぎてたんだな)
「……なんだか、もやもやしてた気持ちが、少し軽くなりました。
ありがとうございます!」
「どういたしまして。」
凪先輩は宝塚の団員のようにお辞儀をした。
「あの、私のこと、『茜』って呼んでいただいて大丈夫です」
そう私が話すと、背後からずるずると這いずるような、ゾンビのような声が響いた。
「じゃあ……私も……茜って呼ぶぅ……」
振り返ると、杏奈先輩が今にも力尽きそうな顔で床に倒れ込んできた。その後ろから、紬先輩も肩で息をしながら、ゾンビの群れのような部員たちを率いて入ってくる。
「本当に体力なさすぎだな。」
凪先輩が呆れたように二年生たちを叱る。
「だ、大体全員集まった……? 一年生、全員いるか確認して……」
ゾンビから息を吹き返した杏奈先輩が、荒い息のまま呼びかけた。
その時、紬先輩が
「あれ……? 樺音ちゃんがいない」
「え?」
「メゾの高校一年生が、一人足りない。」
周りの部員もざわざわ「見た?」聞いたりしていたが、誰一人 樺音ちゃんに気付いてなかったみたいだ。
「まじか。そろそろ白井先生も来ちゃうね…凪と胡桃には筋トレお願いしてもらう予定だし…」
すぐに筋トレをして、発声練習に入るスケジュールだ。今から外に見に行こうにも、走ってきたばかりの二年生の先輩たちは、誰一人として足が動かない状況だった。
その状況を見て、私は声をあげた。
「あの! 私、見てきます! もう一周くらいなら、全然走れます!」
私にはこれくらいしかできない。
「えっ……ごめんね、お願いしてもいい!?
もし見当たらなかったら、すぐ戻ってきてね。スマホは持ってる?」
「はい!」
私はスマホをポケットにねじ込み、音楽室を全力で飛び出した。




