エレノアとの反省会
結局、飛翔競走で勝ち星をあげることができなかった。
二回目の騎乗ではどうしようもない事態に見舞われた。
というのも、飛翔エリアに進入した際に、ペガサスが飛翔を拒否したからである。
何度手綱を振っても、ペガサスが応えてくれず、生垣に突っ込みかねない勢いで地を駆けて行った。
すぐに恭介は手綱を引いてペガサスを停止させた。
スタンドからため息が漏れる声が聞こえたが、それはごくわずかだった。
恭介のペガサスは人気がなく、勝ち目はないと見られていて、むしろ邪魔なペガサスが一頭消えてよかったと思われる節さえあった。
憮然とした心持ちで引き返すと、厩務員から恨みがましい目つきで睨まれた。
レースに出走する以上、ペガサスの不始末は騎手の責任だと恭介もわかっている。
だが、手順を踏んで飛翔できないのなら、騎手だけの責任ではなく、普段の調教が悪いという気もしてきた。
ただし、一介の騎手がスタッフに文句を言うのはご法度なので、恭介はそのことを口にはできず、ただ謝るしかなかった。
その後、最終レースの平地では九番人気のペガサスを二着に持ってきて、この日のレースは終わった。
帰りの車中、リジャイナから渡された手帳を読んでいた。
元々はエレノアのもので、恭介の騎乗予定が書かれている。
明日は平地三レース、飛翔二レースに騎乗するのを確認してから、騎乗馬の資料に目を通した。
平地の方はそこそこの実力馬が揃っていた。
対して飛翔では勝ち目の薄いペガサスに騎乗する。
できればもう少しいいペガサスに騎乗したいと思った。
初騎乗の飛翔競走で四着、しかもシンガリで巻けてもおかしくなかったペガサスを走らせたせいなのか、恭介の中にうっすらと欲が出てきたようだった。
――今は、我慢だな……。
飛翔での実績が全くないと恭介も理解しているつもりである。
ここは飛翔競走の経験を積むだけでもありがたいと思うべきだった。
あと、飛翔競走だけにかまけていてはいけない。
平地の方は恭介の腕を見込んだからこその依頼である。
確勝級とはいかなくてもレースの展開や他馬との力関係次第では勝ちを拾えてもおかしくない。
時おりリジャイナが話しかけてくるも、内容が耳に入ってこなかった。
適当に相槌を打っていても彼女の声音が変わる様子がなかったので、さして気に留めなかった。
スピレッタ調教場に着くと、すぐに大仲へ向かった。
明日騎乗するペガサスのレースぶりを確認しておくためである。
「あ、おかえり」
ドアを開けてすぐに、エレノアが声をかけてきた。
「ただいま」
自然と出た言葉は、すっかりスピレッタ調教場の一員となった証のような気がした。
慣れた仕草でエレノアの向かい側に座り、荷物を隣の椅子に置いた。
「惜しかったわね」
エレノアは顔を上げて見つめてきた。
仕事の合間を縫ってレース中継を見ていたらしかった。
「ま、平地で一勝できただけましだな」
「そうね。でも飛翔だって上出来よ。特にコーナリングなんて初心者ができることじゃないわ」
エレノアは興奮を抑える気はないようで、顔が上気して赤らんでいるように見えた。
普段はだらけたところがあるが、ことペガサス競馬のことになると一層魅力的な表情になるのがエレノアらしかった。
「けど、次のレースで飛翔拒否だもんな。ああいう場合どうすればいいかわかんなくてアワ食ったよ」
「仕方ないわよ。ペガサスだっていつも騎手の言うことを聞くわけじゃないから難しいところね」
「エレノアもあったのか?」
「うん、何回かね。人気馬が飛翔拒否なんてやったら、すごいブーイングが来るのよ。ほんと、まいっちゃうわ」
エレノアは苦笑する。
「にしても、飛翔競走って不確定要素が多すぎないか? よくそんなんで馬券買う気になるよな」
「お客さんはそれを見越して馬券を買うのよ。あ、ほら新聞にも競走中止の回数も書かれているじゃない」
エレノアは手元に置いてあった新聞を広げてから身を乗り出すようにして恭介の前に置いた。
「そりゃわかるけどさ。でもなぁ」
識字に苦労しなくなりつつあったので、競走中止が書かれている欄があるのを知っていた。
恭介が文句を言いそうになったと察したのか、エレノアは顎を引いて上目遣いになる。
「そんなこと言ったって始まらないわよ。終わったことなんだし切り替えて明日のレースで頑張ればいいの」
エレノアはペンを手に取ると、もう一度身を乗り出して恭介を指した。
ペンとの距離が思いのほか近かったので、恭介は寄り目になり、ちょっぴりのけ反る格好となる。
「わかった、わかったよ」
「よーし、わかればいいのよ。えへへ」
エレノアは照れ笑いを浮かべると、椅子に座り直した。
「あ、そうそう。今日のレース映像ってあるか? ちょっと復習したいんだけど」
「もちろんあるわよ。ええと」
と、エレノアが立ち上がってビデオを操作しようとしていた。
「あ、俺がやるよ」
恭介は慌ててエレノアに近寄る。
「いいって、疲れているでしょ」
「それはお互い様だろ」
「いいってば、もう」
エレノアが頬を膨らませる。
感情が豊かなのか子供っぽいところがあるのか判断がつかなくなる時があるな、と恭介は感じて動きが止まった。
「ほらほら、調教師の言うことはちゃんと聞くの。わたしだってレースを見て研究しなきゃいけないんだし」
そう言うと、エレノアは両手で恭介の肩を掴んでくるっと回転させると、背中を押しながら椅子に向かわせる。
もう一度肩に手を置いて恭介を座らせるとビデオの操作に戻った。
「まずは飛翔競走ね」
エレノアは呟くように言ってから画面に触れた。
すぐにスタート前の映像が流れると、彼女も席についた。
「うーん、やっぱ騎乗フォームが崩れるなぁ」
飛翔時の映像が映し出されると、恭介が感じたよりも後ろに重心が動いてしまっているように見える。
椅子に座りながら上体の姿勢をチェックしてみた。
「改良の余地はあるって感じかしら」
「ああ、もうちょっと重心が安定すると、ペガサスも飛びやすくなるんじゃないか。これだとちょっと暴れすぎだろ」
「そうね。もう少し慣れが必要かも。道中はどうかしら?」
飛翔コースに進入すると、先頭から後方に向けて一頭ずつ映し出されていく。
少し経ってから恭介とブラッククォーツの姿が画面に現れた。
「いい感じじゃない? フォームも安定しているわ。ブラッククォーツも飛びやすそう」
エレノアは感嘆の声を上げた。
そして着陸エリアに差し掛かると、恭介が妨害受けてしまったシーンがきっちりと映っていた。
「これは俺のミスだな。自分のことにいっぱいいっぱいで他の馬を注意していなかった」
「こればかりは仕方ないわ。ちょっと予測しにくいわね」
「でも、予測しなきゃいけないのが騎手だからな」
「ふふ、そうね」
エレノアの視線がこちらに向いているのに気づいた。
恭介は一瞬目を向けただけで、すぐにモニターに目を戻した。
「あと、着陸だよな。どうしても前のめりになり過ぎるし、もうちょっと後ろに傾けないと」
「離陸の時みたいに腰を落としてみたら?」
「それだと着陸の時にすごい負担がかかってしまうかもしれないな。なるべく衝撃を吸収しないと馬が怪我して今後に響くかも」
「うーん、確かにそうね。将来のことを考えると……」
もう一度エレノアに目を向けると、彼女は右手を顎に添えていた。
彼女なりに考える余地があるようだった。
「おっつかれー」
場の空気を打ち破る声がした。
思わず入口の方へ顔を向けると、リジャイナがつかつかと入ってきた。
「お疲れ、きょうはありがとな」
「どーいたしましてー」
リジャイナの調子は軽かった。
「今日は寄り道しなかったでしょうね」
なぜかエレノアの声に怪訝な色が帯びる。
「してないって。もう、少しは信用してよね」
当然リジャイナは抗議し、言葉を続ける。
「でさ、今日ちょっと気になることがあったんだけど」
「どうしたの?」
エレノアがそう訊いたので、リジャイナはケニーが言っていたことを話し始めた。
その間、恭介はレース映像を確認して反省点を洗い出していた。
「たしかに不正の話は絶えないわね」
エレノアがため息を吐いて嘆いた。
「あたしなんかじゃそんな話、持ち込まれないからね。エレノアも気をつけた方がいいかなって」
「わたしは大丈夫だと思うけど。騎手の時もうちの執事やメイド、それにスタッフが怪しい人に近づかないようにしてくれたし、今だってこんな状態だから不正するにしても、ちょっと力が足りないからね」
ちょっとした自虐を交えて否定するエレノア。
執事やメイドといった言葉がさらりと出るあたり貴族令嬢らしかった。
一方の恭介はレース映像を見ながら二人の話に耳を傾けている。
エレノアなら恭介が口を挟まなくてもわかっているはずだし、リジャイナが必要なことを話してくれているので言わなくていいと思っている。
「でさ、ケニーさん、キョースケにしつこく忠告してたし、なんかあるのかなって」
「そうね……キョースケぐらいの実力があれば不正を仕掛けられるし、変な人が付きまとってくるかもしれないわね。キョースケ」
「はい?」
エレノアの声が妙に鋭く聞こえてきたので反射的に返事をして、彼女に顔を向けた。
「わかっていると思うけど――」
「怪しい人に近づくなってことだろ。わかってるって。あっちの世界でも口酸っぱく言われたんだからさ」
「なら良いわ」
「それよりもケニーさんて昔なんかあったのか? 結構念押して言ってきたぞ」
「さあ、わたしが知る限り何もないはずだけど」
「でもさ、不正って八百長だけじゃないよね?」
リジャイナがうきうきした様子で言った。
どうやらこの手の陰謀論は彼女の好みらしかった。
「どういうこと?」
「だってレース中にわざとぶつけてきて落馬させようとしてくるじゃん」
「駆け引きではあるけど、意図的に落とそうと思えば落とせるな」
ペガサス競馬のデビュー戦で恭介はレオポルドから落とされそうになったのを思い出した。
あのときはジュスタンの指示なのかレオポルドが独断でやったことなのかわからず、結局は両者が重い処分を受けて一応の決着がなされた。
「とにかく今は考えても仕方ないわ。わたしたちの出来ることをやるしかないわね」
エレノアはそう結論付けた。
月並みな言葉であるが、今のところ何も起きていないので、あれこれ悩んでいても無意味なのは確かである。
と、ここでエレノアは右手を顎に添える。
「また、考え事か?」
恭介が訊いた。
エレノアのこの仕草は考えを巡らせているときに出る癖である。
「あ、いいえ、何でもないわ」
「なに、エレノア? ジュスタンさんとよりを戻す気?」
リジャイナがエレノアに顔を寄せて怪しげな微笑みを浮かべる。
「違うわよ! ほら、この話はもう終わり。さあ、もう帰りましょう」
強引に場を切り上げるエレノア。さっと席を立つと、手早く書類をまとめて、調教師室へと引きこもってしまった。
「リジャイナ、もうちょい言葉選んだ方がいいぞ。エレノア、ジュスタンさんを嫌っているんだからな」
恭介は呆れて忠告する。
「ちょっと冗談言っただけじゃん。じゃあ、あたしも部屋に戻ろっと」
リジャイナは悪びれた様子もなく大仲を出て行った。
「まったく」
と、独りごちてから、恭介はレース映像を見直した。
空を翔けるベガサスを見ながら、エレノアが考えていた事はなんなのかあたりをつけてみた。
――このままで済むなって言ってたな。
ジュスタンがまた何かを仕掛けてくる、とうっすら思った。




