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去り行く騎手

「引退ってことっすか?」


 恭介はグラントに視線を合わせる。


「ああ。俺もいい年だし、上がり目はなさそうだ。ここらへんで職を変えないと年齢的に厳しいからな」


「リジャイナはどうなの? うー、まだ引退するのは早いと思うけど」


 と、エレノアが訊く。


「あたしは調教師を目指しているの。騎手になったのも将来の役に立つかなって思ったんだけど、全然上手くいかなくてさ。だからどこかの調教場での下積みに切り替えるの」


 リジャイナの声音には努めて明るく振舞う感じが窺えた。


 それが気になり、恭介は改めて訊いてみた。


「本当は、騎手を続けたかったんじゃないのか」


「うん……。本音を言えばね。でも、調教師を目指しているのは本当だよ。騎手で実績を上げられたらいいペガサスが集まるかもって思っていただけだし」


「なるほどね……」


 恭介は腕を組んで顔を俯けた。 


「引退、うー」


 エレノアは呻きながら考える素振りをする。


「そこで相談なんだが、スピレッタ調教場ではスタッフは募集していないのか?」


「うちで働くってこと?」


「そう。あたしもお願い。聞いたわよ、少しずつペガサスが集まっているんでしょ」


「うー、うん、何頭か転厩してくる予定よ。これからも、うー、預託馬が増えるわよ、きっと、うー」


「だったら、スタッフが足りないよな」


「うん、これから募集をかけようとしていたから、うー」


「それじゃあ」


「でも、うー、あなたたちを雇うかどうかはわからないわ」


「どうしてよ」


「二人とも気が短すぎるから。うー、うちのスタッフとうまくやって行けるかどうか、判断がつかないのよ。うー」


「え、ああ、そうね」


 リジャイナは肩をすくめる。


「プルネラにあんなこと言う必要ないでしょ。うー、上手くいかないからっていちいち、うー、不機嫌になる人がペガサスの管理なんてできるかしら。厩舎作業は思い通りにならないことの連続なのよ」


「エレノア、ちょっと言い過ぎじゃないか」


 グラントが仲裁に入る。


「グラントさん、うー、あなたもです」


「お、俺?」


「そう。うー、憶測で人に突っかかる人が上手くやっていけるとは思えません。たしかにジュスタンさまは怪しい点がいくつもありますが、うー、確証があったわけではないでしょう」


「そ、それは」


「調教師として、うー、トラブルを起こしかねない人たちを受け入れるわけにはいきません。いいわよね、キョースケ。キョースケ?」 


 エレノアが肩を揺すってきた。

 実は恭介、途中からうわの空で話を聞いていた。

 グラントたちの気持ちが痛いほどわかっていたからだ。


「えっと、なんだっけ?」


「うー、ちゃんと話を聞いてよ。二人を雇えないって話」


「雇えよ。エレノア、今は人を選り好みしている場合じゃないだろ」


「キョースケ?」


 エレノアはグイっと恭介の肩を引っ張って顔を寄せる。

 恭介はおっと声を洩らし、身体を傾けた。


「どういうことよ。あなたも二人が何をしたのか見てたでしょ」


 エレノアは酔いの冷めた声で言った。

 予想してなかった返事に驚いたらしい。


「少しは大目に見てやれよ。それにうちにはあの人がいるだろ」


「あの人?」


「ほら、オリアナさん。二人が変なことしたら遠慮なく叱ればいいだけの話だ」


「うーん、オリアナの負担が増えるわね」


 エレノアは恭介の肩から手を離し、顎に手を当てて考える素振りを見せる。

 向かい側に座る二人は事の成り行きを見守るようにエレノアを凝視している。

 グラントが喉を動かして唾を飲んだ。


「わかったわ。けど、今すぐってわけにはいかないわ。スタッフと相談して決めるから」


「ほ、本当か?」


「やったぁ」


 二人は両手でタッチをして喜び合う。


「すぐに連絡するから。それと念のため騎手免許は返上しないで」


「どうして?」


 とリジャイナが訊く。


「キョースケに万が一のことがあったら二人のどっちかに乗ってもらうかもしれないから。一応よ」


「わかった」


「じゃあ、またね」


 と言って二人は席を立って一等席を出て行った。


「エレノア、ちょっと気になったんだけど」


「なに?」


「俺がここに来る前、レースに乗ってくれる騎手がいないって言ってたよな。で、アイヴァーさんはその理由に心当たりがあると」


「そうよ」


「あの二人は乗せられるのか?」


「グラントさんもリジャイナもあまり上手じゃないのよ。だから、騎乗依頼を出さなかったわけ」


 エレノアは遠回し言ったが、グラントとリジャイナは下の下の騎手だと言いたげだった。


「なるほどなぁ。要はエレノアたちの眼鏡にかなった騎手に依頼をしていたわけか」


「いくらペガサスが良くても、ちゃんと乗れない騎手じゃ勝てないわ。うー」


 エレノアは二日酔いがぶり返したらしく、身体を傾けて窓に頭を寄せた。


「で、何考えてたの?」


「うん?」


 いきなり質問された恭介は頭を前に出す。


「ほら、うー、さっきあの二人が話しているとき、ボーっとしてたでしょ」


「ん、ああ。ちょっと考え事をしてたんだよ」


「考え事?」


「ああ、これからのこと。飛翔の練習とかレースの進め方とか、普段の調教とかさ。やることが多くなるから頭ん中で整理しておきたかったんだよ」


「ふうん……」


 エレノアの目が細くなり、胡乱げに恭介を見つめる。

 その顔が普段の可愛さと混ざり合って妙に艶めかしく映った。

 少女と淑女の狭間にいる年代特有の美しさかもしれない。

 顔が熱くなってきた。


「な、なんだよ。エレノアに言われたから、俺なりに考えていたんだぞ」


「そう。ならいいわ」


 と言って、エレノアは目を瞑った。

 恭介が本音を言っていないと感じたらしいのだが、気にすることではないと思ったようだ。


 グラントとリジャイナが話している途中、恭介はこの二人の境遇と自分の置かれた立場を考えていたのだ。


 今の恭介ではない。日本にいたころの恭介である。


 ペガサス競馬では一風変わった乗り方を駆使して、勝ち鞍を積み重ねる恭介を周りは評価してくれている。

 だが、日本での恭介はごく平凡な騎手で未だに見習騎手のままである。

 同期には差をつけられ、後輩からの追い上げも厳しくなっていた。

 騎乗馬に恵まれていないと慰めてくれる人もいたが、結果は出ていないのは事実だった。

 騎手生活四年目で通算百勝に満たない成績ではとても一流とは言えなかった。

 トレーニングを積んだり、先輩にアドバイスを求め、レース研究も怠りなくやり、技術の向上に励んできた。

 自分ではたゆまぬ努力を重ねているつもりでも、結果が出てこなかった。

 レースでも勝ち急ぐあまり、ペースを考えずに強引にまくって行ったり、先行しようとして前の馬群に突っ込みそうになってブレーキをかけてちぐはぐの競馬をやらかしたことも一度や二度ではない。

 焦りが新たな焦りを生んで悪循環に陥ってしまった時期もあった。


 グラントやリジャイナが置かれた境遇は、日本にいたころの恭介に似ているかもしれない。

 一旗揚げようと騎手になったはいいものの、結果が出ずに食っていけない有様だった。

 恭介はそこまで悪くなかったが、若くして引退する可能性があるのは同じだ。

 現に日本でも思ったように結果が出ず、早いうちに見切りをつけて調教助手に転向したり、どこかの牧場に再就職する騎手も少なくない。

 それならまだいい方で、関係者の評判が悪ければ競馬に携わる仕事ができなくなるかもしれないのだ。

 華やかな世界に憧れを抱き運よく狭き門を潜っても、凡人に待っているのは残酷な現実しかないのだ。


 ペガサス競馬では新進気鋭の騎手として注目を浴びても、舞い上がる気持ちになれなかった。

 デビューして間もない時期に十勝し、G3のバロンクラウスカップにも勝てた。

 これ以上ないスタートである。

 しかし一方で、凡人に過ぎない人間がたまたま上手くいっているだけという気もした。


 恭介がネガティブな物思いに耽っていたとき、エレノアの頭が窓から離れた。

 一瞬呻き声を上げたかと思うと、今度は恭介の方に頭を倒してくる。

 エレノアは眠気に身を任せるかのように恭介の膝に頭を乗せた。


 声をかけようかと思ったが、開催中、恭介の付添人をこなしつつ、調教師として馬主に挨拶回りをして預託馬集めに奔走していた。

 騎手としてレースをこなすのとは別種の心労があり、酒の影響も相まってエレノアの疲れは頂点に達しているのかもしれない。

 かすかな寝息を立てて眠る姿を見て起こすのを止めた。

 せっかく誰も見ていないところにいるのだ。

 そっと寝かせておいた方がよさそうだった。


 ――エレノアは……。


 俺の考えごとに気づいたのかもな、と思う。

 騎乗技術を褒めてくれて、騎乗依頼を取ってきてくれる彼女への感謝の気持ちが沸々と湧いてきた。

 スピレッタ調教場では恭介しか乗れない事情があるとはいえ、きちんとペガサスをレースで勝てるように仕上げてくれて、自分のみならず恭介の評価も上げてくれた。


 そして、恭介ははっと思い直した。

 エレノアたちが頼れる騎手は自分しかいない。

 日本では平凡でいつ消えるかわからない騎手を信頼してペガサスを託してくれたのだ。

 いや、日本ではだとか、平凡な騎手だとかは関係ない。

 また、恭介自身だけの問題ではない。

 恭介にはペガサス競馬で得られる名声が空虚なものに感じようとも、エレノアたちにとってはかけがえのないものなのだ。


 いずれ、日本に帰る時が来る。

 そのときまでスピレッタ調教場が一流だと証明したいと思った。

 さらに恭介が気づかなかった弱点――自信の無さを見抜き、奮い立たせてくれたことは日本に帰ってからも財産として活かせるかもしれない。


 ――俺のためだけじゃない、エレノアのためにも……。


 勝つんだ、と思った。

 勝利を得ることが幾万の言葉に勝る感謝の示す証なのだ。


 恭介は決意を新たにペガサス競馬に挑むと胸に誓った。


 エレノアの寝息が耳に届いたのに気づくと、そっと視線を下げた。

 膝の上で寝ているエレノアの顔が喜んでいるように見えた。


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