バロンクラウスカップ 1
「キョースケ」
エレノアが声をかけてきた。
すぐには気づかず、恭介はアイヴァーの後ろ姿を見つめたままだった。
「キョースケ」
もう一度エレノアの声が聞こえると、恭介はおっと声を洩らしてエレノアに顔を向けた。
「どうした?」
「どうした、じゃなく。すぐに行かないと。もうパドックにペガサスが来ているんだから」
「そうだったな」
「もう。敵はリジーズプライドだけじゃないのよ」
エレノアは恭介とアイヴァーのやり取りを見ていたらしい。
二人が話し終えるまで、待ってくれたようだ。
「わかってるよ」
「ほら、控室に戻って。早く勝負服に着替えないと」
エレノアは調教師から付添人に立場を変えて注意する。
レースの終えたウィントンはオリアナに連れられて出張馬房エリアに戻って行った。
これから引き運動でクールダウンをし、飼葉を与えて労う予定である。
恭介は控室に引き返し、ヘルメットとキプロン伯爵の勝負服を脱いでエレノアに渡すと代わりに橙色に両袖が白の勝負服を受け取った。
アーチャーズノートの馬主、ブルーネレスキ卿の勝負服である。
エレノアはヘルメットの布を橙色のものに付け替えて恭介に渡す。
「じゃあ、わたしは馬主さんのところに行ってるから」
「アーチャーズノートの?」
「うん。あとはよろしくね」
と言ってエレノアはすぐに控室を出て行った。
「大変だな」
と独りごちた。
慌ただしい時の中、控室にも張り詰めた空気が漂っているのに気づいた。
一レース一レースが勝負とはいえ、重賞ともなるとやはり独特の雰囲気が醸し出される。
レースに乗らない騎手たちは早くもモニターを注視している。
騎乗する騎手は集中力を高めるため、各々の時間を過ごしていた。
デインは周りの仲間と話し、プルネラは壁際の椅子に腰を下ろして、目を瞑っている。
他の騎手たちも新聞を読んで直前までレース研究したり、水を飲んで笑い話をしながら時間を潰していた。
恭介はいち早くパドックに出た。
モニターではなく、直にペガサスの様子を確かめたかった。
パドックではすでに出走馬十五頭が周回をしていた。
アーチャーズノートは六番である。
引き綱を引くパウルは出張馬房で会ったときとは違い、髭をきれいに剃り、黒光りするスーツを着た正装だった。
ベテランらしくアーチャーズノートを引く姿は様になっており、澱みのない足取りでパドックを周回しながらほどよい緊張感を楽しんでいるようだ。
パウルに引かれるアーチャーズノートには不調の跡が見られない。
トマトによる疝痛が収まったらしく、以前見た時とは違い首を軽く弓なりに曲げていた。
どことなく顔つきも精悍で、馬体に烏の濡羽のような艶があった。
恭介はパドックに浮いているマジックビジョンに目を向ける。
オッズ付きの出馬表が映し出されていた。
やはり圧倒的一番人気はリジーズプライドである。
ペガサス競馬でもトータリゼーターを使っているらしくオッズが時おり変動する。
リジーズプライドはおおむね一・五倍前後に支持されていた。
二番人気はアーチャーズノート。
あと一歩のところで勝てないレースが続いているので、今度こそはと思うファンが多いのかもしれない。
二頭以外のペガサスには高いオッズがつけられており、最低人気に至っては三百倍近くのオッズがつけられていた。
要するに、バロンクラウスカップは恭介とアイヴァーの一騎打ちムードが漂っている。
「キョースケ」
と恭介に近づいてきた人がいる。
アーチャーズノートの調教師ルテリエである。
ベージュのつば広帽をかぶり、灰色のスーツに真白なシャツを着、黒いネクタイを締めている。
日に焼けた顔と痩せた体格にぴったり合った服装だった。
「よろしくお願いします」
と恭介は姿勢を正して挨拶をする。
「ああ、こちらこそよろしく。ところでスピレッタ調教師は?」
ルテリエが訊いた。
エレノアを名字でしかも調教師付で呼ぶのは、彼なりの礼儀なのかもしれない。
彼も腕利きの調教師だと聞いていたが、それにふさわしい気品が漂っている気がした。
「馬主さんのブルーネレスキ卿と一緒に観戦すると言っていました」
「そうか、彼女も大変だな。スピレッタ調教場は人も馬も足りていない状況だろう」
「はあ」
「私のところも手狭になっているからな。ブルーネレスキ卿が新しいペガサスを君たちのところなら入厩させても文句は言わないよ」
ルテリエは穏やかな微笑を浮かべる。
――たしかルテリエさんって……。
少数精鋭の調教師と言われたのを思い出した。
特定の馬主に偏ることなく自分の目に適ったペガサスを入厩させているらしかった。
それと同時に、ルテリエが言ったことに引っ掛かりを覚えた。
「ルテリエ先生はスピレッタ調教場は良くないと見ているんですか?」
「どういうことかね?」
「気を悪くしたらすみません。君たちのところならっておっしゃったものですから。言い方は悪いですけど、眼中にないんじゃないかと」
「いやいや、そうじゃない。ライバルが多い方が楽しみが増えるという意味だ。私のところだけではなく、他の調教師にも良いペガサスがいないことにはこっちも張り合いというものがなくてな。少し言葉を選ぶべきだったかな。申し訳ない」
「あ、いえ、こちらこそ」
恭介はルテリエが相当な食わせ者だと感じた。
他の調教師に良い馬を取られてもかまわないという調教師はまずいない。
おそらくルテリエはスピレッタ調教場をけなすつもりはないにしろ、相手にはなりえないと考えているらしかった。
「まあそのことはどうでもいい。作戦の確認をしよう」
「はい」
気になることはいくつかあるが、恭介は目の前のレースに意識を持っていく。
馬場の状態、他の馬の様子、騎手たちの調子など、恭介とルテリエは今回の開催で気づいた点をお互いに述べ、作戦を立てる。
さらにアーチャーズノートの癖も念押ししてきた。
アーチャーズノートが惜敗を続けるのには明確な理由があった。
先頭に立った瞬間にソラを使う、つまり集中力が欠けて急減速してしまうのだ。
ゴール前で差し切ったと思いきや、差し返されるというパターンを繰り返していた。
もし恭介がアーチャーズノートを勝たせることができれば、今後も乗せてもらえるかもしない。
主戦騎手が勝たせることができなかったペガサスで勝利を収めれば、恭介の評価も上がり、様々な関係者から有力馬の騎乗依頼が舞い込むことだってありえる。
あと、恭介にとってもう一つ大切な意味合いを持つレースである。
飛翔競走に騎乗する資格が得られる一戦でもあるのだ。
ミスクララやウィントンとは別の意味でスピレッタ調教場にとっても大事な一戦と言い換えてもいいだろう。
「あと、タドカスターの四頭にも注意だな。ペガサスの力でなんとかなるかもしれん」
「たしかに。特にプルネラとデインの馬は力がありそうですからね」
恭介も事前の研究で油断できないと見立てていた。
プルネラのペガサスはしぶとい粘り腰を発揮する逃げ馬で、デインの方はロングスパートを持ち味とする。
二頭とも展開次第では勝ち目がありそうだった。
さらに他の二頭も無視できない。
これまで通り、恭介の妨害を企てているかもしれないのだ。
さすがに注目の集まる重賞であからさまな真似は出来ないと思うが、あらゆるケースを想定しておく必要がある。
ルテリエとの話が終わったころ、ペガサスが周回を止めた。
騎手たちが駆け足でそれぞれのペガサスに近づく。
恭介はパウルに一礼をし、彼の補助でアーチャーズノートに跨った。
「お前には世話になるな」
パウルは気軽に声をかける。
トマト混入事件の犯人、ベン・クロードを捕らえた礼も含んでいる。
「こっちこそ。いい馬に乗せてもらって感謝です」
「嬉しいこと言ってくれるじゃねえか」
パウルは相好を崩す。
「デキは良さそうですね」
「ああ。あれからきっちりケアをして何とかここまで持ってこれた。それにダウドに診察してもらったから何の問題もない」
「なら、大丈夫っすね」
あれから獣医師のダウドに会っていないが、おそらくトマトを食べてしまったペガサスたちの治療で忙しんだろうな、とうっすら思う恭介。
「あとはお前の手綱さばきしだいだ」
「ベストはつくしますよ」
「少し弱気だな。っても、リジーズプライドがいるんじゃ仕方ないか」
パウルがそう言ったので、恭介は不意にリジーズプライドに目を遣った。
素人目でもわかるほど鹿毛の馬体に張りがあり、日の光を受けた瞳には星のような輝きを放ち、首をまっすぐ伸ばしながら悠々とパドックを周回している。
鞍上のアイヴァーは何の不安も感じていないらしく、引き綱を引く厩務員と笑顔を交えて言葉を交わしていた。
「それに、おまえにはきついマークがついているからな」
「むしろ馬体を併せてくれた方が好都合かもしれませんよ。アーチャーズノートが気を抜かずに走ってくれるから」
「で、ゴール前でリジーズプライドと馬体を併せて接戦に持ち込む、と」
「それが理想ですね」
「気をつけろよ。タドカスターの連中、なにやるかわかったもんじゃねえからな」
タドカスター調教場の厩務員によるトマト混入事件、それにたびたび起きる恭介への執拗なマークを心配している。
パウルもジュスタンが首謀者だと感じているらしいが証拠がない以上、はっきり言えないようだ。
「勝って、パウルさんたちの期待に応えます。」
「へ、いっちょ前に言いやがって。いいぞ、そう来なくっちゃな」
身だしなみの整った姿に似合わない口調だった。
恭介は強気に言ったものの、どこか上滑りしているなと自分で感じていた。
リジーズプライド、妨害してくるはずのジュスタンのペガサス、潜り抜けなければならない関門はいくつもある。
それでも恭介は己を鼓舞する。
俺の力でアーチャーズノートを勝たせるんだ、と胸の内に言い聞かせる。
鞍上が不安を感じていたら鞍や手綱を通して馬に伝わってしまう。
それだけは避けたかった。
騎手と馬の精神が同期するなら、ポジティブな方向にもっていきたい。
だからこそ強気に振る舞い、弱い心を封じるのだ。
前にエレノアに自信がないと痛いところを衝かれた。
さらに彼女は恭介が途轍もないことを成し遂げる騎手だと言い、胸を張ってほしいと願ったのだ。
――平地競走だったら、誰にも負けない。
不遜かもしれない。
だが、自信を持つにはそう思い込む必要もある、と恭介は胸の内で思う。
弱気な心を湛えたままレースに臨んでも意味がない。
たとえ根拠のない空虚な自信でも、馬の力になるのなら常に強気でいようと思った。
「勝ってこい! キョースケ!」
本馬場に入ると、パウルはすぐにアーチャーズノートを解き放った。
その激励に応えるため、恭介は笑みを浮かべた。




