あと一つ
ウィントンは二歳時に未勝利戦で勝ち上がったものの、その後骨折が判明し、半年の休養を余儀なくされた。
復帰してから二桁着順が続いていたが、前走四着に入線し復活の兆しを示した。
エレノアはウィントンの競走能力を高く買っており、今回のレースの内容次第では次走重賞に出走させる青写真を描いていた。
ファンもウィントンの能力を認めているらしく、三番人気に支持した。
パドックでウィントンは堂々と歩いている。
恭介が騎乗すると首を振って暴れる素振りを見せる。
「ほらほら、大丈夫だって。キョースケは味方だよ。あんたをちゃんと勝たせてくれるんだからさ。さ、落ち着いて」
オリアナが優しく声をかけた。
すると、ウィントンは落ち着きを取り戻し、おとなしくオリアナに引かれながら、本馬場へと向かう。
もちろん馬は人間の言葉を解さない。
声音や普段の接し方で人間を信頼するかどうかを決めるという。
ウィントンは普段から世話をしてくれているオリアナには心を開いているらしい。
そのオリアナが背中に乗っている人に不信感を抱かなかったと察したので、ウィントンは彼女の言うことを聞いたようだ。
本馬場に入り、引き綱を外してウィントンを解き放ち、返し馬を始める。
芝生の上を走るウィントンに、恭介は手応えを感じた。
調教の時よりも前進気勢が強く走る気を出している。
脚捌きも滑らかで、力強い走りをしている。
アシタスと併せ馬をしたときは、あっさり突き放されてしまったが、そのときはまだ完調に程遠い状態だったようだ。
エレノアたちの尽力もあってここまで状態を整えられたのだ。
返し馬を終え、輪乗りをしていると係員がロープを渡し始めた。
ロープの前にウィントンを誘導すると、例によってジュスタンのペガサスが恭介の両隣につけた。騎手たちの目がいつもより険しく感じた。
エレノアのペガサスに乗るとあっては、いつもより厳しくマークされるだろうと恭介は睨んだ。
ジュスタンはエレノアを敵視している。
衆目の集まる場で恥をかかされた恨みは未だに根強く残っているに違いなかった。
しかし、レースは呆気なく終わった。
ロープが跳ね上がるや否や、ウィントンは抜群にスタートを切った。
他馬を置き去りにし、先頭に立つ。
ハナを叩くペガサスがいない。
いや、ウィントンのスピードについて来られなかったのだ。
ジュスタンのペガサスも出走しており、スタート直後に出ムチを入れ手綱をしごいているが、ウィントンに追いつく気配が全く見られない。
さすがにペースが速すぎるかな、と一瞬思ったが、手応えが全く衰えず、しかもウィントンは気分よく走っている。
このまま余計なことはせずに仕掛ければ十分だと恭介は感じた。
残り三〇〇メートルあたりになってようやく後続が差を詰めてきた。
ウィントンの手応えが衰えない。
恭介は追い出しにかかると、ウィントンは徐々に加速をし始めた。
さらに後続との差を広げた。
ウィントンは八馬身の差をつけ圧勝した。
ゴールを駆け抜けると場内から歓声が止み、代わりにどよめきが起きた。
バロンクラウスカップに出走しても勝てたんじゃないかという声が聞こえる。
勝ち目があると考えたファンがそれなりにいたとはいえ、ウィントンが影をも踏ませぬ逃げ切り勝ちを収めたのは予想外の出来事だったようだ。
検量室に行くと、エレノアとオリアナが喜色を浮かべて恭介とウィントンを迎えてくれた。
恭介はすぐに下馬し、鞍を外した。
「ありがとー、キョースケー」
エレノアが飛びついてきた。
腕を恭介の胴に回し身体を密着させてきた。
「おお」
と、周りからどよめきが起きる。
ペガサス競馬界で有名なエレノアが一介の騎手に抱きつくのだからこの反応は当然と言えた。
「ちょいエレノア。他の人が見てるだろ」
と良識人ぶる恭介だが、顔が上気し夢心地になる。
手に鞍を持っているのが惜しかった。
恭介も腕を回してエレノアを抱きしめたかった。
張り込んでいた記者たちが写真を撮り始めたのが目に入った。
今日G3のバロンクラウスカップが行われることもあって記者の数が多い。
「あっ」
とエレノアが正気付いたように目を見張り、ぱっと恭介から離れた。
「お嬢さま、もう少し嗜みというものを心掛けていただかないと」
オリアナは貴族に仕える者らしく諫言するが、いたずらっぽい笑みを浮かべていた。
ミスクララが勝ったときに燥いで注意を受けた意趣返し含んでいるかもしれない。
エレノアはそっぽを向いて照れくさそうに口をとがらせる。
「そうそ。エレノアは有名人なんだから、人目を気にした方がいいぞ」
意に反してエレノアに注意してしまう恭介。
「いいじゃない別に。勝って喜ぶなんて当たり前でしょ」
エレノアは言い訳がましく言う。
オリアナを注意したときのことを棚に上げた。
もっとも本人も自覚しているせいか、オリアナに視線を向けると、すぐに逸らした。
その様子を見たオリアナが複雑な笑みを浮かべる。
「とにかく、キョースケの言った通り周りの目があるのですから、もっと気をつけていただかないと。それに今のお嬢さまは調教師です。場をわきまえないと馬主さんから信頼されませんよ」
オリアナの口調にどこか等閑な感じがある。
言葉から察するに騎手時代のエレノアは勝つたびに喜びを爆発させるタイプだったのかも、と想像する恭介。
オリアナはその光景を何度も見ているので、今さら注意しても仕方ないと思っているかもしれない。
――人間関係の構築は上手くいっているって感じか。
気兼ねなく調教師に注意をしているあたり、スピレッタ調教場は風通しのいい職場かもしれないと思った。
記者たちがカメラを切る音が耳を打ち、恭介は我に返った。
「じゃあ、俺は検量に行ってくるわ」
と、そそくさと検量室に入る。斤量に問題はなく、すぐにウィントンの一着が確定した。
「やられたよ」
同じレースに騎乗していたアイヴァーが声をかけてきた。
「ウィントンが良い馬だからです。ただそれだけっすよ」
「おまえの腕もあってのことだ。謙遜するな」
アイヴァーの表情が晴れやかに見えた。
なす術もなく負けて、むしろ清々しい気分になったようだ。
「いやいや、あれだけ着差がついたんだから、騎手は関係ないっすよ。エレノアたちがちゃんとウィントンを仕上げたから勝てただけです」
「スタッフの手柄にするか。なかなか如才ないところがあるな、お前」
「事実っすから。スタッフがちゃんと仕上げてくれなきゃ騎手は何もできないって、アイヴァーさんもわかるでしょ」
「そうだな」
アイヴァーは少しの間目を瞑った
。なにか考え事をしている素振りに見えたとき、アイヴァーの目が開いて恭介と目を合わせた。
「だが、メインは腕比べと言ったところだな。お前には負けんぞ」
不意にアイヴァーの目が鋭く光った。
騎手組合会長としてではなく、真剣勝負を挑む一人の騎手として恭介に狙いを定めたのだ。
「いや、勝つのはこっちです」
恭介とアイヴァーは視線を合わせ、逸らそうとしない。
互いの自信が漲り一歩も引かない空気が醸成されていた。
メインのG3バロンクラウスカップ、アイヴァーは大本命リジーズプライドに騎乗する。
彼のような優秀な騎手がレベルの低い今回の開催に参加したのは、バロンクラウスカップに騎乗するためである。
恭介の騎乗するアーチャーズノートと同じであくまでもG1へのステップレースだが、アイヴァーの様子から察するに、ここも勝って次につなげるという思惑があるようだ。
対して恭介は、あと一勝すると飛翔競走に騎乗できる資格を得られる。
本来なら、重賞のようなプレッシャーのかかるレースではなく、未勝利戦や条件戦で十勝目を上げたかったのが本音である。
しかし、今の恭介はそんなことを微塵も考えていない。
圧倒的な実力を持つリジーズプライドとアイヴァーに勝ち、最高の形で飛翔競走に臨みたかった。
傍から見ると、二人の様子は剣呑さを帯びて激しく静かな睨み合いが繰り広げられていると感じたのだろう。
周りのざわめく声が耳に入る。
カメラのシャッターが切られる音がすると、アイヴァーは不意に相好を崩し、恭介の肩をポンと叩いて背を向けた。
――本気だな。
もう言葉はいらない。
そう告げられたと思い、恭介は己を奮い立たせた。




