インターフェア
開催六日目の早朝、恭介は眠気をこらえてウィントンの調教をつけていた。
遠征してきたペガサスたちは本番のコースを使って調整を行う。
すでに強い負荷をかけた調教をしてきたペガサスが多く、ほとんどが速歩や駈歩で走らせる程度の軽い調教である。
中には飛翔させる陣営もいて、空と芝を色とりどりのペガサスたちが駈けていた。
レース前ということもあって、ウィントンには恭介が乗っている。
調教中、逐一状態を確かめていた。
ウィントンの出来は良く、軽やかに駈歩をこなしていた。
最終コーナーを曲がって直線に入っても走法に乱れはない。
息遣いも良く、乗っている限り悪い点は一切なかった。
もちろんオリアナの努力もあってトマトが入れられた様子もない。
明日のレース、万全の状態で臨めそうだった。
ゴール板に辿り着くと恭介はウィントンを外埒に向かわせた。
途中でスピードを落とし常歩でエレノアとオリアナの元へ向かう。
彼女は埒の外から調教を見守っている。
「大丈夫そうだ」
昨夜、エレノアの胸を凝視してしまった負い目があるので、心持ち声たどたどしい口調になった。
一方のエレノアはそのことを忘れたかのように笑顔を浮かべる。
ウィントンの状態に満足がいったようだ。
埒をくぐってから馬場に入り、ウィントンの状態をつぶさに確かめる。
「うん。毛ヅヤもいいし、走法も問題なしね。明日、楽しみだわ」
「あとは、あたしがちゃんと世話すれば問題ありませんね」
オリアナも出来に納得しているようだ。
引き綱を頭絡につなぐと、首筋を撫でてよしよしと声をかける。
恭介はウィントンから降りて鞍を外した。
あとはエレノアとオリアナに任せて、控室に引き返すことにした。
調教をつける騎手のために、リンウェルダウンズ競馬場の控室は早朝から解放されている。
そこで朝食を取ったり、休憩したりしてレースが始まるまで思い思いの時間を過ごすのだった。
これなら調整ルームのような宿泊施設も作ってほしいと思ったが、ペガサスレーシングクラブの慣習に渋々ながらも付き合うしかない。
新人騎手が要望を突きつけても説得力がないのでその点は我慢するしかなかった。
控室までの道中、恭介はつば広帽のような帽子をかぶった小柄な男が横を向いて立ち止まっているのに気づいた。
仕立てがよさそうな灰色のジャケットとズボンを着用し、上を見上げて物思いに耽っている。
その仕草が上品に見え、あまりにも様になっているので、馬主かペガサスレーシングクラブの重鎮だと思った。
通り過ぎざまに挨拶をしようとしたら、彼がこちらを振り向き、にこやかに笑った。
「おはようございます」
と、恭介は足を止めてぎこちない口調で挨拶をする。
「おはようございます、キョースケ・ハタヤマ騎手ですね」
物腰の柔らかい口調だった。
帽子を取り、笑顔を向ける。
ごま塩頭をきれいに整えた髪型だった。
歳のわりには毛量が多いなと失礼な感想が浮かんだ。
「はい。えーっと」
「デクスター・ロランドと申します。少し前まで役人をしておりました」
「キョースケ・ハタヤマです。この間デビューしたばかりで……」
「ええ、存じております。変わった乗り方でペガサスに騎乗し、目覚ましい成績を収めていると」
「ええ、まあ」
恭介は曖昧な返事をする。
知らない人から褒められてもどう反応していいかわからない。
「はっはっは、レースを楽しみにしていますよ」
では、と言ってデクスターは背を向けスタンドの方へ向かって行った。
「退職した公務員が何の用だ?」
しかもこんな早朝に。
あの様子だとスタンドのどこかで調教を見ていたのかもしれない。
今の時間帯、関係者しか競馬場に入れないはずだった。
となれば定年退職した公務員がペガサスレーシングクラブに天下りしたのかもしれないな、と日本でありがちなことを思い浮かべた。
「ま、俺には関係ないか」
恭介は控室へ向かった。
六日目の競馬、恭介は目ぼしいペガサスに騎乗していないせいもあって、二着が最高だった。
それでも人気薄を三着以内に持って来たこともあり、担当スタッフから喜ばれた。
勝てなかったのは悔しかったが、負けて元々だったので、さほど気落ちせずに済んだ。
気持ちを切り替えて最終日に臨む。
◇
第一レースの返し馬を行っていると、スタンドに目が行った。
リンウェルダウンズ競馬場の開催最終日、この日は朝から観客に入りが良かった。
ペガサス競馬では飛翔競走よりも人気の劣る平地競走とはいえ、重賞が行われるとあってはやはりファンの注目度もそれなりにあるようだ。
特にゴール前はかなり混んでいた。
大勢の観客たちがレースを待ち望んでいる様子が窺える。
話し声がうごめくように聞こえ、レースを待ち望んでいる感がある。
ペガサス競馬はマルスク王国の国民的スポーツだと聞いたことがあった。
レベルの低いはずの開催でこれだけ観客が入るようなら、あながち誇張ではないのかもしれない。
スタンド前を通過し、一八〇〇メートル戦のスタート地点へ向かったとき、恭介はプルネラの様子が気になり、四番のペガサスに目が行った。
前走二着に入線したこともあって彼女はこのレース一番人気である。
日の光を反射するゴーグルのせいで目元は見えないが、口元をぎゅっと引き締めている。
手綱を強く握り、背筋を伸ばしていて身体全体が強張っている観があった。
――エレノアの説得が効いたのか?
ペガサスたちが第一レースのパドックに入場する前、エレノアが恭介の支度を手伝ってくれたあと、プルネラを人目のつかない場所へ呼び出して二人きりで話した。
昨日はお互いに忙しく、話す時間がなかったので、最終日に話すことにしたようだった。
前に言った通り、プルネラからジュスタンが不正に関わっている手がかりを掴もうとしたのだ。
かなり話し込んでいたらしく、恭介が騎乗する直前になって二人は戻ってきた。
慌てて戻った感じがあったので、まだ結論は出ていないのかもしれない。
輪乗りをしながらプルネラの様子を観察していると、スターターがコースにロープを渡し始める姿が横目に映った。
各馬こぞって馬場の真中あたりにポジションを取り始める。
開催も最終日になり、見た目にも内側の馬場が荒れていた。
芝が所々剥げ、でこぼことした馬場になっている。
多少距離を損しても荒れた馬場を走るのを避けた方がよさそうだ。
だが、恭介は迷いなく内埒沿いぴったりにペガサスを寄せた。
そのラインだけが荒れていない。開催初日からレースに騎乗し続ける中、リンウェルダウンズ競馬場で騎乗する騎手たちの技術が拙いと見抜いていた。
彼らは内埒に張り付くようなコーナリングの技術を持っていない。
この開催のレベルが低いと言われる証左でもあった。
そのせいで内埒沿いの馬場が荒れていないのだ。
恭介がロープ前にペガサスを佇立させ、外側に整列するペガサスたちを横目で見た。
すると何頭かが列を離れてこちらに寄ってきた。
プルネラ、グラント、リジャイナ、それにジュスタンの勝負服を着た騎手二人が跨ったペガサス計五頭である。
アイヴァーとデインはこのレースに騎乗していない。
――ん?
彼らの様子がおかしい。
ジュスタンの勝負服を着た九番、十三番の騎手二人が恭介の隣についただけならまだしも、プルネラが不満げに口元を歪めたのが不自然だった、
事前に示し合わせた作戦ではないようだった。
彼らが並んだ直後、ロープが跳ね上がった。
恭介のペガサスはダッシュがつかず、少し出負けたが、それは織り込み済みである。
予想外だったのは、十三番も恭介の動きに合わせたかのように出負けて馬体を併せてきたのだ。
プルネラが七、八番手あたりにつけた。恭介はその一馬身ほど後ろにつけ、横をちらと見る。
外から九番が強引に前へ押し上げ、プルネラの横につけた。
そして十三番は右斜め前にいるが、行き脚がつかないのか全身を動かしてペガサスを促している。
嫌な予感がした。
今回の開催、恭介はジュスタンの陣営から執拗なマークにあっていた。
なんとかその包囲網をくぐり抜け、十勝目まであと二つと迫っている。
しかもG3のバロンクラウスカップとウィントンが出走する条件戦を含め、今日騎乗する四鞍すべて勝ちの見込めるペガサスに乗るのだ。
それに加え、ジュスタンはエレノアを敵視している。
恭介に対して直截的な恨みはないはずだが、スピレッタ調教場の主戦は恭介である。
エレノアを貶めるため、恭介に危害を加えても不思議ではない。
十三番がまだ追っていた。
すると、なにを思ったのか鞭を抜いて左手に持ち替えた。
それが見えたとき、恭介の予感は確信へと変わった。
後ろを振り返ると、グラントのペガサスが真後ろにつけ、その横にリジャイナがいる。
逃げ場はない。
せめて関係のないグラントとリジャイナを巻き込みたくなかった。
「グラントさん、リジャイナ、よけろ!」
十三番の騎手が左鞭を大きく振りかぶり、一気に振り下ろしたのを目の端で捉えた。
恭介のペガサスは鼻先をしたたかに打たれた。
鼻は馬の急所である。
そこに強い衝撃を受けると、どうなるか想像するまでもなかった。
恭介のペガサスは痛みのあまり首を振った。
手綱を動かして必死に宥めるも効果はなかった。
ペガサスは走法を崩し、バランスを保てなくなった。
どうしようもないと諦めたとき、ペガサスが左に大きく飛び、内埒に激突した。
けたたましい音が耳に轟く。
気づいたときには内馬場に投げ出されていた。
キョースケーと叫ぶ誰かの声が聞こえてきた。
「く、あの野郎」
念のためペガサスの蹄音が遠のいてから地面に手をついて、起き上がった。
幸い痛みを感じない。
着衣にかかった緩衝魔法がある上に、反射的に上手く受け身が取れたおかげで助かったようだ。
恭介は辺りを見回して騎乗していたペガサスを探した。
すると、いつの間にか駆けつけた係員たちがペガサスから垂れ下がる手綱を手に取り、引き綱をつけた。
ペガサスも今のところ問題はないらしかった。
引き返そうと足を踏み出したとき、救護係の姿が目に映った。
白衣を着、頬のこけた男がばたばたと乱れた足取りで駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか?」
息を切らし、両手を膝について喘いだ。
「……そっちこそ大丈夫ですか?」
どちらが怪我をしているのかわからなくなった。
「すみません。ゴール前の内馬場から走ってきたものですから。それで、どこか痛みはありませんか?」
男は忠実に職務をこなそうとしていた。
まだ息が乱れているものの、救護係らしく恭介の身体を隈なく観察するように目と首を動かしていた。
「今のところは」
「とりあえず、医務室へ行きましょう。どこか怪我をしているかもしれません。ひとまず検査を受けてください」
「しょうがないっすね」
恭介は素直に応じた。
今は痛みがなくともどこか怪我をしている恐れがある。
「あっ」
歩いている途中、大事なことを思い出した。
いつだかプルネラが落馬したとき、その日のレースに乗れなくなったことがあった。
あのとき、何ら支障がないのにもかかわらず、彼女は医師の診断により騎乗予定をキャンセルせざるをえなくなったのだ。
もし恭介も同じ診断を下されたら、今日のレースはすべて乗り代わりになる。
ウィントンやアーチャーズノートを勝利に導き、十勝目を挙げて飛翔競走に乗る資格を得たかった。
それが、不可能になるかもしれない。
「どうかしましたか?」
救護班の男の声が遠くに聞こえた。
レースに騎乗するため、どうやって医師の診断を誤魔化すかしか考えられなくなっていた。




