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恭介とエレノア

 二〇五号室に入るとすぐに、エレノアはジャケットをハンガーにかけ、飛び乗るようにしてベッドに腰かけた。

 連日、朝早く起きてミスクララとウィントンの様子を見に行き、日中は恭介の付添人を務めながら馬主たちへ挨拶回りをする。

 さらにレースが終わればペガサスを預けてくれそうな馬主に接触し交渉するのだから相当疲れが溜まっているのは間違いなかった。


 恭介は窓際の机にある椅子をベッドの近くに置き、腰を掛けた。

 さすがにエレノアの隣に腰かけるのは気が引けたので、少し遠慮した形になる。


「はー、今日も疲れたわね」


 不意にエレノアは相好を崩すと、両手をついて胸を反らして上体をあお向けた。

 遠慮のない仕草に恭介は思わず心臓を打たれる。

 ブラウスの襟からのぞく鎖骨が灯に照らされ艶やかに見えた。


「キョースケも、おつかれさま」


 エレノアはさっと顔を向ける。


「お互いさまだろ」


 意図せずに少々気障っぽくなる恭介。


「あ、そうだ。飲み物でもいる? 冷蔵庫の中に入っているから」


「いや、いいよ」


「そう。わたしはいただくわ」


 と言ってエレノアは腰を上げ、部屋の隅にある小型の冷蔵庫から瓶を出すと、備え付けてあった栓抜きで手際よく栓を開け、またベッドに腰かけた。


「慣れてるなぁ」


 と、恭介はつぶやく。


 その声が耳に届いたようで、エレノアは一口飲むと恭介に視線を向ける。


「なに言っているのよ、これぐらいのことで。子どもじゃないのよ」


「なんとなく貴族のお嬢さまって召使い? お付き? まあ、そんな下々の人に身の回りの世話をやらせているのかなって」


「そういう人もいるわよ。貴族出身の騎手って執事を付添人(バレット)にしている人もいるぐらいだから」


 エレノアは笑みを浮かべ砕けた口調で言った。


「そういや、エレノアって現役のとき、付添人はいたのか?」


「うん。実家のメイドがやってくれたの」


「メイドねぇ」


 やっぱりお嬢さまだな、と思う恭介。


「お父さまの指示でね。でも、お世話してくれたのは競馬場にいるときだけよ。他のことは自分でやっていたわ」


「それもそうか。なんでもかんでも他人任せにはしないよな」


「他の家のことはわからないけど、うちじゃそうなの」


「貴族の習慣も、一律ってわけじゃないんだな」


「最低限のマナーはあるけど、あまり気にすることもないわね。自然とできてしまうから」


「子供のころからの躾ってやつ?」


「そういうこと」


 と、無駄話が続く二人。

 思いがけず楽しい時間ができて、眠気もどこかへ飛んでいった。

 それにエレノアのプライベートな部分が知れた喜びもあった。


「あ、そうそう。話があるんだったわよね」


「そのことなんだけど」


 恭介は今日あった出来事を話し始めた。


 オリアナがベンを見つけ、恭介が投げ技で逃亡を阻止したくだりになると、エレノアが顔を輝かせた。

 自分のところの厩務員と騎手が犯人を取り押さえて誇らしいのかもしれない。


 しかし聴取の様子を話すと、彼女は不機嫌に眉根を寄せた。

 おまけにオーリックが強引にベンを連れて行ったと話すと、いきり立ったかのように腰を上げた。


「また意見書を書くわよ。まったく今回の査問委員会はどうなっているのかしら」


「落ち着けよ、エレノア。騎手組合も動いてくれているからさ」


「落ち着いていられないわよ。オーリックったら怪しいにもほどがあるわ。いったい何を考えているのよ。まったく」


「たしかに怪しすぎるけど、証拠がないからな」


 と恭介が言うと、エレノアがじろっと顔を向けた。

 腰に手を当てて上体を曲げると、エレノアは恭介に顔を近づける。


「キョースケ、なんでそんな冷静でいられるの。あなたのことでもあるのよ」


 さらに顔を近づけるエレノア。

 彼女の迫力に押されて恭介は思わず背中がのけ反る。

 お互いの鼻がくっつきそうになった。

 彼女の吐息が唇を掠めて心臓が高鳴った。


「冷静ってわけじゃないけどなぁ。ただ、処分が覆らなかった場合のことも考えただけだよ」


 恭介は努めて平静を装う。


「覆すわよ、うちのペガサスにも乗ってもらわなきゃならないし、依頼もたくさん来ているのよ」


「マジか」


「ほんと。平地競走ならキョースケに乗せれば何とかしてくれるって期待しているのよ。それに飛翔競走にも乗せてくれる人もいるし、騎乗停止になったら予定が狂うわ」


 エレノアは顔を離し恭介を見下ろしてから、またベッドに腰かけた。


 恭介が騎乗停止になるということは、自動的にスピレッタ調教場のペガサスたちにも支障が出る。

 他の騎手はスピレッタ調教場の依頼を断るので、恭介しか乗る騎手がいない。

 ガウンやアイヴァーのような一流どころは他の良い馬に乗ると想像がつくが、平凡な騎手たちにも断られる有様である。

 エレノアが描いていたプランが一気に崩れるのだ。


「一応、アイヴァーさんとガウンさんが査問にかけ合って処分を取り消すように言ってくれたみたいだぞ。送ってもらったときに色々聞かせてもらったよ」


 さっき話しそびれた車中での話をエレノアに聞かせる。


「どうかしらね。オーリックのことだから意地になってキョースケの処分は据え置きってことになりかねないわ」


「そんなもんか」


「そんなものよ。まったく贔屓もいい加減にしてほしいわ」


「ペガサスレーシングクラブの本部はどうなんだ? あれだけ問題のある査問委員を放っておくわけないと思うけどな」


「うーん」


 と、ここでエレノアの調子がトーンダウンした。

 ボトルを持ちながら手を後ろにつき、天井を見上げる。


「本部が動いたとしても、今回の開催中に取り消されるのは難しいと思うわ。いろいろと精査しなきゃならないし、時間がかかるわね」


「じゃあ、オーリックによっぽどのチョンボがないとダメだな」


「あと、捕まったベンと、指示をしたジャッド、二人ともスケープゴートね」


 と、エレノアは決めつけた。

 恭介もそう思っているので、あえて否定はしない。

 その二人を差し出してジュスタンとオーリックは逃げ切るはずだ。


「ジュスタンとのつながりを証明できれば一気にひっくり返ると思うけど、それも望み薄ね」


 エレノアはまたボトルに口をつける。


 一介の騎手と調教師では疑惑を突き止められないと悟った。

 リンウェルダウンズ競馬場の開催もあと二日、その間にオーリックとジュスタンがつながっている証拠が出ない限り処分の取り消しは望み薄だった。


 ただし状況証拠はある。

 ジュスタンのペガサスに乗っている騎手の処分が軽く、それ以外の騎手には処分が重い。

 現に恭介は落馬の原因を作ったと言いがかりをつけられ騎乗停止処分を食らったのだ。


 それだけではない。

 不公平な処分が続くと、騎手たちの間で不満が溜まりかねない。

 現に、控室で乱闘が起きた。

 プルネラとリジャイナの諍いをきっかけに騎手たちの不満が爆発したのだ。


 オーリックが強権を振るったせいで、査問委員会が正常に機能していないのが原因の一つだった。

 あのとき、グラントがジュスタン陣営の騎手たちが汚い真似をしていると言いがかりをつけた。

 だが、言いがかりなどではなくグラントは確信を持って言ったのかもしれない。

 実際、不公平な処分が下されているのだ。

 グラントはまともに騎乗している騎手たちの不満を代弁したとも捉えられる。


 ――プルネラとデインどう思っているんだろ?


 ジュスタンの主戦を務める二人は彼の所業を知っているのだろうか。

 特に時おりヒントを投げかけてくるプルネラは何か思うところがあるのかもしれない。


「エレノア」


「なに?」


 と、エレノアは恭介に向き直る。


「ちょっと相談があるんだけど」


 単なる思い付きだったが、試しに言ってみることにした。


「プルネラってまっすぐなところがあるって言ってたよな」


「うん。普段は思わせぶりな態度を取っているけど、わたしから言わせればそれはカモフラージュ。本当はもっと素直なのよ」


「素直過ぎて怖いときもあるけどな」


「もう、茶化さないの」


 エレノアはそう言いつつ可笑しかったようで笑みを零す。


「説得することはできないか?」


「どういうこと?」


「ジュスタンと何か話しているかもしれないからな」


「わたしもそう思ったんだけどね……」


 エレノアは俯きがちになり、ボトルを握りしめた。

 オーリックやジュスタンたちの不正は許せない思いと、大切な友達を巻き添えにしたくないという配慮がエレノアの胸の内で交錯し、迷いを生じさせているようだった。


 たとえ不正絡みで勝って嬉しくないと感じても、プルネラも騎手である。

 勝ち星を増やして大きなチャンスにつなげたい思いもあるに違いなかった。


 ――もしかしたら……。


 プルネラも葛藤しているのかもしれないな、と思う。

 もしジュスタンに対して何も含むものがなければ、恭介に回りくどい忠告などしないはずである。


「ねえ、キョースケ」


 エレノアは顔を上げ、憂いの表情を浮かべながら見つめてくる。


「プルネラも悩んでいるのかしら?」


「…………」


「あの子、自分の乗るペガサスがトマトを食べていないって気づいているはずだわ」


「勝つチャンスは逃したくない、でも――」


「勝利に名誉は伴わないわね」


「ああ」


 それから二人は黙ってしまった。


 プルネラを使いオーリックとジュスタンとのつながりを暴くのは気が引ける。

 プルネラが加担しているとは思わないが、自分の勝ち星が不正のおかげで増やせたとはっきりわかったら彼女はどう思うか。


 それにプルネラの今後にも差し障りがある。

 主戦契約を結んだ馬主が他馬にトマトを混入させたとあっては、プルネラもその一味だと見られてもおかしくない。

 

 特に内部事情を知ることのないファンからの視線が厳しくなり、正当に勝ち星を増やしても、謂れのない中傷を浴びる恐れがある。


 さらにプルネラは美人騎手として人気があり、やっかみを買いやすい立場である。

 仲間内でさえリジャイナのように突っかかる騎手がいるのだ。

 ジュスタンの不正を暴いたら、プルネラを不利な状況に追い込みかねないのだ。


 恭介は壁にかかった時計をちらと見た。

 フォルアースの時計も地球と変わらない。

 静けさの中、針の動く音が耳に入ってくる。

 すでに十時を回っており、そろそろ寝ないと明日に差し障りが出そうだった。

 外は墨を塗ったような暗闇が広がり、部屋の灯を受けた窓にうっすらと恭介の姿が映る。


「やっぱり」


 とエレノアが呟くように言うと、恭介は彼女に顔を向ける。


「プルネラと話してみる。あの子もこのままじゃすっきりしないと思う」


 声は小さいが、恭介を見据えるエレノアの眼差しに決意が秘められている気がした。


「キョースケはレースに集中してね。あとはわたしがやっておくから」


「ああ、任せてくれ。じゃあ、俺はそろそろ寝るよ」


「うん。おやすみ」


 不意にエレノア微笑んだ。


 恭介は立ち上がろうとしたが、身体が上手く動かなかった。

 改めてエレノアの姿を見てしまったからだ。

 いつの間にかブラウスのボタンがもう一つか二つ外れて、胸元が見えてしまった。

 ギリギリのところで下着が見えない。

 灯に照らされた胸のふくらみが光沢を帯び艶やかに見えた。


 ――いやいや、待て待て。


 突如沸き起こった下心を必死に抑える。


 普段はわかりにくいが、エレノアの胸は形よく盛り上がっている。

 平らでもなく、かといって下品な大きさでもない。

 恭介好みの、適度な胸だった。

 女性経験の少ない恭介を刺激するには十分だった。

 いっそのこと、このままエレノアに寄り添い、肩を抱いてベッドに押し倒して既成事実を作り――。


「キョオオォォォウスケくぅぅん」


 エレノアが妙に間延びした言い方をした。


 気づけば恭介はエレノアの胸をガン見していたのだ。

 本人も全く意識しておらず、下心を殺したつもりが息を吹き返してしまったようだ。


 エレノアの静かな怒りに気づき、おそるおそる彼女の顔を見る。

 笑みを湛え、うっすら影が刷かれていた。


「あ、いや、その、つい」


 手にあるボトルで殴られるかもしれないと気づき、両手を前に突き出してエレノアの怒りを宥めようとする。


 むろん効果はない。


「なにを見ていたのかしら?」


「エレノア、気にし過ぎだって。だって男ってきれいな女性には興味を持つもんだろ。ほら、つい見惚れてしまったんだよ」


「ふうーん」


 もちろんエレノアは恭介の戯言に耳を貸す気はないようだ。

 顔の影がまだ消えていない。


「ねえ、キョースケ。一つだけいいこと教えてあげる」


「……」


「女の人ってね、どこを見られているか、よぉーくわかっているのよ」


「え、あ、はい」


「ま、いいわ。キョースケ、今回の開催が終わったら練習場へ行くわよ」


「へ?」


「キョースケったら、まだ飛翔に慣れていないでしょ。また飛び降りてもらうわ。じゃあ、今日はもう寝ていいわ。おやすみ」


「いいや、ちょっと待てエレノア。また飛び降りろって――」


「お・や・す・み。さっさと寝て明日に備えて」


 これ以上余計なことは言わない方がよさそうだと思い、恭介は逃げ出すように部屋を出た。


 ――そもそも男を無警戒に部屋へ入れた方が悪いんじゃねえか!


 その考えが責任転嫁だと気づかない恭介だった。


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