再び出張馬房へ
リンウェルダウンズ競馬場の開催も五日目を終え、残りあと二日となった。
様々な思惑が渦巻き、時には混乱に陥りながらも、恭介は好成績を収めていた。
これまでのところ、十七戦四勝。
前回のグレイラム競馬場の開催も併せて通算八勝を挙げた。
今回の開催で飛翔競走の騎乗資格が得られる可能性が大きい。
この日のレースがすべて終わり、恭介は出張馬房へ行こうと考えた。
レースに勝ったミスクララをねぎらい、最終日に出走するウィントンの様子を見ておきたかった。
控室に屯っていた騎手たちに軽く別れの挨拶をしてから外へ出る。
夜闇が忍び寄る時間帯になり、赤いインクを滲ませたような夕焼けがリンウェルダウンズ競馬場の空を覆っていた。
東の空に力なく漂う雲が丘の稜線を掠めるように浮かび、その裏に闇が這い寄っている。
カラスに似た鳴き声が遠くから聞こえてきた。
競馬場内の敷地を横切り、出張馬房の手前まで来た。
厩舎の前にある駐車スペースには何台もの馬運車が停めてある。
馬運車の運転席には人がおらず、かわりに休憩所らしき掘っ立て小屋から賑やかな声が聞こえてきた。
ペガサスが来るまで時間を潰しているらしい。
特に気に留める話が聞こえてくるわけでもないので、恭介は足早にミスクララの馬房へ向かう。
広い通り道には、ペガサスが厩務員を伴って行き交っている。
これから自分たちの所属する調教場に帰ったり、レース前日に入厩するペガサスがいて、中には恭介がレースで騎乗したペガサスも見かけ、顔見知りになった厩務員に礼を言われることもあった。
彼らのほとんどは一か八かペガサス競馬で唯一モンキー乗りをする恭介に望みを託した人たちだった。
力が足りないペガサスを好走させた恭介に好意を抱いている厩務員たちを見て、なおさら期待に応えたい気持ちがあふれてくる。
日本では冴えない騎手だったとか、自信がないとか言っていられる立場ではなくなりつつあると感じていた。
競走馬をレースに送り出す以上、それに関わったスタッフは勝つ望みを捨てていない。
恭介が今まで乗ってきた競走馬はみなそういう状況に置かれていた。
もちろんステップレースのような叩き台や、長期休養明けでレースに使わないと仕上がらない馬もいるが、それは今後を期待された素質馬の話である。
一縷の望みをかけてレースに出走させる競走馬が多い以上、恭介は最善を尽くして勝利を目指したいと思うようになった。
それは皮肉にもリンウェルダウンズ競馬場で起きているトラブルが要因となり、恭介の矜持を奮い立たせたのかもしれない。
禁忌であるトマトを混入させた下卑た人間の思惑通りに事を運ばせたくなかった。
日々の調教を積み、知恵を絞って自分の馬を勝たせる努力をする人たちの気持ちを汚す犯人を許す気になれない。
自分がレースに勝つことで犯人の思い通りにさせたくないという感情が自分をレースに乗せてくれた関係者への感謝へとつながっていた。
一介の騎手でしかない以上、恭介ができることはレースで勝つことだけである。
犯人捜しはパウルやオリアナたち心ある厩務員や、ペガサスレーシングクラブの担当者に任せておけばいい。
とりあえず自分の出来ることをしておくのが先決である。
いろんなことを考えながら足を進めているうちに、出張馬房の近くまで来た。
今でも厩務員たちがトマトの混入を防ぎ、あわよくば犯人を捕まえるために見張りをしているはずだった。
夜の闇が迫りくる中、厩舎には静けさが漂っていた。夕日が建物に射し、古びた馬房の陰影を際立たせている。
どこかの馬房でペガサスが寝藁をこする音がするだけで、人っ子一人見かけなかった。
――なんだ?
ミスクララとウィントンがいる馬房に足を向けている途中、あまりの静けさに違和感を覚えた。
厩務員たちがトマト混入を警戒しているさなかに、誰も見かけないのは不自然だった。
開催も五日目を終え、調教場に帰ったペガサスもいるとはいえ、まだ多くのペガサスが滞在しているはずである。
そのことが気になって、恭介は近くの厩舎に足を踏み入れた。
明かり取りの窓からわずかな夕日が射し込んでくるだけで、一層暗い闇が広がっている。
連なる馬房から何頭かのペガサスが顔を出しているのが見えたが、厩務員らしき人は誰もいない。
どこかでペガサスが鼻を鳴らしたり、寝藁をこする音がしただけである。
「不用心だな」
と、恭介はつぶやく。
ざっと厩舎の中を見回し、なにも異変がないと感じて外へ引き返した。
そのとき、遠くから怒号が聞こえた。
辺りには誰もいない。建物を隔てた道からのようだ。
さらに聞き覚えのある女の声がすると、けたたましい足音が耳を打つ。
「まて、コラ」
声の主はオリアナのようだ。
足音がだんだん近づいてくる。
「みんな逃がすな! 追え、あの野郎だ!」
今度はパウルの大喝が飛んでくる。
ペガサスが驚かないかと心配になるが、それよりも犯人を取り押さえるのが先だと思っているらしい。
恭介も足音に気をつけながら駆け出した。
声の様子から犯人が見つかったらしい。
交差する道まで差し掛かると、騒ぎ声がいっそう激しく聞こえてくる。
恭介は辺りを見回した。
すると、右の道から人の影が大きくなってくるのに気づいた。
犯人らしき人が全力で疾走し追いかけてくる厩務員たちを振り切ろうとしていた。
恭介は人影に向き直り、両手を上げて少し右足を引いた。
競馬学校に在籍していたときの柔道の授業を思い出す。
ただし、礼節を学び、落馬などの怪我を回避するための練習である。
受け身の練習にほとんどの時間を割いたので、投げ技には自信が持てなかった。
だがそうも言っていられない。
千載一遇のチャンスを逃してはならなかった。
人影が迫ってくるにつれ恭介の心臓が激しく脈を打つ。
激しく道を叩く足音がそのまま襲い掛かってくるような感覚があった。
犯人の姿かたちがはっきりするにつれ、焦りが生じているのが見て取れる。
大人数の厩務員たちに追いかけられながらもなんとか逃げ場を探しているようだ。
長距離を走ったせいか、たたらを踏んだかのように前のめりになりながら逃走していた。
それでも、犯人は足を止めようとしなかった。
目の前に恭介一人しかいないと気づくと、最後の力を振り絞ってスピードを上げた。
「どけ!」
犯人は男だとはっきりわかった。
恭介よりも体格が良く、力で押し切る気でいた。
彼は上半身に力を籠めショルダータックルを仕掛けてきた。
恭介は相手の動きが良く見えていた。
肩がぶつかる寸前に状態を屈め、右腕を犯人の首に絡ませると、左手でシャツを掴み、男の身体を腰に乗せた。
勢い余った犯人は両足が浮かんだ。
恭介は絡まるように自分の身体も回ってしまい、男を地面になげたものの、バランスを崩して彼の上に倒れてしまった。
不格好ながらも腰車が決まり、結果的に男の動きを止める形となった。
「が……」
受け身が取れず、恭介の全体重をもろに受けた男は苦しそうな呻き声を上げる。
恭介は逃げられないように彼の身体に乗っかり、両肩を押し付けた。
「大丈夫か?」
駆け付けたパウルが声をかけてくる。
「やるじゃん、キョースケ」
追いついたオリアナが息を切らしながら言った。
他の厩務員たちも続々と集まってきて、恭介と男を囲んだ。
「こいつが犯人なんすか?」
恭介は必死に男の動きを押さえながら訊いた。
「そう。トマトを、食べさせよう、と、したのを、パウルさんが見つけてね。ああ、疲れた」
オリアナはかなりの距離を全力疾走したらしく、息も絶え絶えで、額に汗が滲んでいた。
「で、どうします? 査問に引き渡しますか?」
「いいや、まずは俺たちがわけを聞く。査察に渡すのはそれからだ。キョースケ、お前も来い」
とパウルが言うと、恭介は犯人から身体を離し、立ち上がった。
「あれ? この人」
倒れた犯人を見下ろした。その顔に見覚えがあった。
「タドカスター調教場のスタッフだ」
以前、合同調教をしたときに声をかけてきた若い男だった。
苦悶する男の顔に、苦労が滲み出た不健康そうな隈があった。すでに抵抗の意志は失われ力なく大の字になった。
恭介は彼に憐れみを感じながら、立ち上がり黙って彼を見下ろした。




