蠢く悪意
人間が何気なく食しているものの中には、他の動物に食べさせてはいけない食品が数多くある。
例えば犬にチョコレートを食べさせていけないのはあまりにも有名である。
それと同じように、馬にももちろんある。
チョコレート、キャベツ、ブロッコリー、カリフラワー、ジャガイモ、アボガドなど。
馬に携わる者の基本として忌避する食材を覚えておかなければならない。
そして、アーチャーズノートに与えられたのは、トマトである。
トマトが属するナス科植物にはある種のアルカロイドが含まれ、馬が中毒量を摂取すると疝痛(腹痛)や下痢を起こす。
ペガサスにもそれが当てはまるようだった。
――妙なとこで現実的だよなぁ。
魔力を秘め、空を翔けるペガサスも一介の生き物に過ぎないと感じる恭介。
この場にパウルとダウドがいなければ、地球のサラブレッドも一緒だと言いそうだった。
「じゃあ、アーチャーズノートの体調が悪かったのってトマトのせいなんすかね」
恭介も、トマトを食べた馬の姿を見たことがなかった。
ダウドがアーチャーズノートを引いていたとき、どこか元気なさげに首を下げていたので、もしかしたらすでに症状が始まっていたのかもしれない。
「たぶんそうですね。オリアナさん、どれくらい混入されていましたか?」
「どれくらいかなぁ。たぶん一個分だと思うけど」
「しかしずいぶん危ない橋を渡るもんだな。合法的に体調崩す方法なんていくらでもあるんだが……」
パウルは頭を掻いて申し訳なさそうに言った。
トマトの存在を見抜けず、厩務員として恥じているようだった。
「量次第では飼葉の中に隠せるからではないでしょうか。大量に水や飼葉を与えるだけでもコンディションを崩すことはできますが、かなり手間がかかりますし、準備している間に見つかってしまう恐れがあります。だからトマトを使ったのだと思います」
ダウドは慰めるように言った。
「出走取消を狙ったのか?」
と訊くパウル。
「それならレースの前日に中毒量を与えればいいだけの話じゃないすかね」
「キョースケさんの言う通りですね。おそらく露見しないように少しずつトマトを与えたのではないでしょうか」
「レース当日に合わせてってことね。明らかに体調不良だとわかったら出走取消になっちゃうし。なるべくスタッフや獣医に見破られることなく、負けさせるって感じなんじゃないかな」
オリアナは後ろ首に手を組んだ。言いながら考えをまとめているようだ。
「まどろっこしいなぁ。自分とこの馬を勝たせたいなら、出走取消を狙ってもよさそうなもんだけどな。なんでそうしないんだ?」
「そこまではわかりません……でも、トマトが飼葉に混ぜられたのは事実です。きわめて由々しき事態だと言わざるを得ません」
さっきまでのしょげた態度とは違い、ダウドの口調に自信が滲み出ていた。
自分の診立てが正しいと証明されて安堵したのもあるらしかった。
四人は犯人が何の意図をもってトマトを混入させたのか、頭を捻らせていたが、トマトしか証拠がないので、この場で結論を出すのは難しそうだった。
そこで、恭介は話題を変えることにした。
「ダウドさん、ちょっと訊きたいんすけど」
「どうかされましたか?」
「アーチャーズノート以外にも体調の悪い馬がいるんすよね。もしかして――」
と、恭介は今回の開催で騎乗するペガサスの馬名を挙げた。
「ええ、そうです。ですが、全てではありません。それにキョースケさんが乗るペガサス以外にも似た症状がありました。未勝利戦、条件戦問わず、有力視されているペガサスが被害に遭ったようです」
そう言うと、ダウドは被害に遭ったペガサスの馬名を次々と言い始めた。
――俺だけじゃないってことか。
有力馬を狙ってトマトを仕込んだのは間違いなさそうだった。
ただ、ジュスタンの陰謀だと決めつけることはできなかった。
恭介の邪魔をするだけなら、昨日今日のレース中の執拗なマークだけにしておけばよかったはずだ。
わざわざリスクを冒して中毒性のあるトマトを仕込む理由が見当たらなかった。
もし事が露見し、犯人が捕まれば重い処分を下るに違いない。
「ってことは、昼夜問わず見張りをしなきゃいけないかな」
オリアナがため息交じりに言う。
「そうだな。これは俺たちだけの問題じゃない。ここに来ている関係者すべての問題だ。他の奴らと協力して犯人を捕まえる必要があるな」
と言って、パウルは席を立った。
「どちらへ?」
ダウドが訊く。
「誰が犯人かわからないからな。とりあえず信頼できる奴だけにこのことを打ち明ける」
くるりと背を向けて席を離れると、パウルは近くのテーブルにいた厩務員に声をかけ始めた。
「では、僕もこれで失礼します。厩舎を見回ってから診療所に戻ります」
続いて席を立つダウド。さっきまでの気弱な態度とは打って変わって力の入った足取りで外へ出て行った。
「どう思う? キョースケ」
ダウドが出て行くのを見届けてから、オリアナはテーブルに両肘を置き、頬杖をついた。
恭介は周りの様子を探る。
厩務員たちは酒を飲み、仲間たちと談笑し、ときにはどっと笑い声をあげる。
その中でパウルが色んな厩務員に声をかけていた。
こちらに気を取られている厩務員がいないと確かめてから、恭介は身を乗り出してオリアナに顔を寄せた。
「オリアナさん、ダウドさんが言った中にジュスタンさんの馬っています?」
タドカスター調教場の厩務員がいるかわからないので、恭介は思わず小声になってしまう。
「うーん、どうだったかなぁ。資料があればわかるんだけど」
「当てにならないなあ。エレノアだったら空で言えるのに」
「お嬢さまが異常なんだって。ほとんどの現役馬の情報をインプットしているんだからさ」
顔を歪めて不服そうな顔色を浮かべるオリアナ。
すると、なにか思い出したように、ああ、と声を出した。
「あたしが知る限り、ジュスタンさまの所有馬はいなかったはずだね」
「じゃあ、やっぱり」
「ありえるけど、確証がないね」
刑事のような言い方をするオリアナ。
「とりあえず、エレノアにも言った方が良いっすね。もしウィントンやミスクララに異常が現れたら困るし」
「うーん、できればお嬢さまには秘密にしておきたいんだけどなぁ」
「どうして?」
「このことを知ったら、張り切って犯人捜しを始めるよ。ただでさえ忙しいのにこれ以上の負担はかけられないよ」
「でも、エレノアは調教師です。自分の馬に危害が加わるかもしれないのに、知らせないわけにはいかないでしょ」
「あたしがなんとかするよ。レース本番までウィントンとミスクララを見張っているからさ。お嬢さまに余計な心配をかけたくないし」
行儀の悪い態度とは裏腹に、エレノアを案ずる気持ちがオリアナの言葉に滲み出ていた。
口元をほころばせて余裕の表情を見せている。
「オリアナさん……」
恭介は顔を背けてかける言葉を探した。
オリアナの気持ちを汲むべきか迷う。
「オリアナさんを信用していないわけじゃないんすけど」
迷いを振り切れずに不明瞭な口調になってしまった。
「なにさ? はっきり言いなよ」
オリアナは苦笑いを浮かべる。
「やっぱりエレノアには報告した方が良いっすよ」
「…………」
オリアナは頬杖を外し、窺うような目つきで恭介を見据える。
「オリアナさんの心配はわかるんすけど、ちゃんと教えとかないと、あとでエレノアが怒って悲しむんじゃないかって思うんです。俺たちが隠し事をして伝えなかったとなれば、エレノアは自分が信頼されていないって思っちゃうんじゃないすか。それにこんな不正が起きたんじゃ、ペガサスレーシングクラブも動くでしょうし、黙っていてもエレノアの耳には届きます」
「うーん、でもなあ」
一理あると言わんばかりに、オリアナは腕を組んで考える素振りをする。
一方でエレノアへの気遣いとない交ぜになり、どう判断していいか迷っているようでもある。
「俺がエレノアを説得します。オリアナさんを信用して自分の仕事をしろって言いますから」
恭介はテーブルに額をこすり付けんばかりに、頭を下げた。
この仕草がマルスク王国の人間に誠意の証だと伝わるかわからないが、率直な気持ちをオリアナに告げたかった。
「わかったよ。キョースケを信じる」
根負けしてオリアナはため息を吐く。
「その代わり、お嬢さまには見張りはさせないからね。あたしたちが絶対に犯人を捕まえるからって伝えておいて」
よし、とやる気を出して、オリアナは席を立ち、伸びをする。
「キョースケ、あんたもあたしたちに任せてレースに集中しなよ」
と言い残して、オリアナは外へ出て行った。
一人取り残された形となった恭介も宿泊先へ戻ろうと席を立とうとしたとき、何気なく談笑する厩務員たちの姿が目に映った。
一日の作業を終えてわずかな団らんを過ごしたあと、彼らは床に就く。
中にはアルコールの入っていない飲み物を飲んでいる厩務員もいるが、おそらく夜間の見張りでもするのだろう。
酒を飲み過ぎたらしい中堅の厩務員がコップを倒して酒をテーブルの上に零すと、仲間たちからからかわれる。
うるせえ、と文句を言う厩務員には苦笑いが浮かんでいる。
――スタッフは……。
労力をかけてペガサスを管理しているんだ、と不意に思った。
環境の悪い宿泊所に文句を垂れながらも、ペガサスに対する愚痴は聞こえてこない。
多少意識の高低はあるにせよ、競馬場までペガサスを連れてきたのだから、誰でもレースで勝ちたいと思うのは当然である。
それに、さっきから時おり、ペガサスについて意見交換する声もちらほら聞こえる。
若手の厩務員が中堅ベテランからアドバイスを貰っていて、パフォーマンスをあげる飼葉の作り方、いわゆる勝負飼葉の作り方を聞いていた。
この世界でも馬を扱い、結果を出すために努力を重ねる人々がいる。
笑顔を見せる彼らの裏側には、普段の苦労をものともせず、競馬を愛するものとしての顔を持ち合わせていると感じるのだ。
――こういう人たちのためにも……。
騎手はレースで全力を出さなきゃならない、と恭介はなんとなく思った。
飼葉にトマトを混入させた輩を許す気はないが、自分にできることはなさそうだった。
そのことはパウルやダウド、それにオリアナのような善良な関係者に任せておけばいい。
そんなことを考えながら、宿へと戻った。
参考文献:愛馬のためのカイバ情報 Vol.28 https://www.jra-f.co.jp/wpkanri/wp-content/uploads/2018/11/kaibavol28.pdf




