獣医師ダウドの言い分
宿泊所の休憩室は厩務員たちでにぎわっていた。
簡易宿泊所のような施設とは聞いていたものの、彼らは与えられた環境で楽しみを見つけているらしく、あまり不満の声は洩れている様子はない。
リンウェルダウンズ競馬場の近くに飯屋や酒場がないせいか、彼らは酒や食料を持ち込んで他愛もない談笑をしていた。
宿泊所は恭介が泊っている宿よりもいっそう古びている。
むき出しの板壁の木材が黒ずんでいて、人が歩くたびに床板がぎしぎし音を立て、いつ踏み抜いてもおかしくなかった。
クロスの敷かれていない細長いテーブルはささくれ立ち、長椅子の脚がすり減っていて、少しでも尻を動かすと折れてしまいそうなほどの古さだった。
さっきから向かい合わせに座っているパウルとダウドが一言も口を開かない。
パウルは腕を組んだまま顎を引いてダウドを睨みつけ、一方のダウドは肩をすくめて俯きがちになり、時おり顔を上げては下げるの繰り返しである。
険悪な雰囲気に耐えられるかの我慢比べでもしているかのような滑稽な光景に見えた。
恭介はオリアナを呼びに行ったとき、あとで行くから、と言われた。
まだ作業が残っているらしく、余裕のない表情をしていた。
早いところ来てこの嫌な雰囲気を打破してもらいたかった。
人生経験の少ない若い恭介は、この場を捌く自信がなかった。
パウルは日に焼けた顔に皺が刻まれ、手の皮の厚い自負心の強い風貌をしている。
厩舎でのやり取りから判断すると、自分のやり方に自信のあるタイプである。
職人のように経験を積んできたパウルにいくら理屈で話して通じそうにない。
現に若い獣医師のダウドの言うことに耳を貸さなかったあたり、かなり頑固な性格なのが窺える。
「あの、もう一度整理させてほしんですけど……。ダウドさん。そもそもなんで勝手にアーチャーズノートを連れ出そうとしたんすか? 体調の良し悪しだけじゃ馬房でも診れたはずじゃ」
場の空気に耐えられず、恭介は口開いた。
二人は同時にこちらを振り向いた。
あまりにも息がぴったりで、恭介は思わずのけ反りそうになった。
パウルは眉根を寄せて不機嫌な気持ちを隠そうともしない。
一方のダウドは不安げに恭介に目を遣る。
ちっ、とパウルは舌打ちをした。
その反応を恐れたのか、ダウドはパウルに顔を向けるとまた俯いてしまった。
「こいつの言うには、馬房だと都合が悪いんだと」
「都合って?」
「誰が見ているかもわかりませんから」
ダウドはつぶやくように言った。
「それだけじゃよくわかんないですよ。もっと詳しく話してくれないと」
「ずっとこんな感じなんだよ」
パウルが不機嫌なままの口調で割り込む。
「どこか悪ければ診てもらうのもやぶさかじゃねえけど、おかしところはない。獣医の出る幕じゃねえよ」
「なにも異常がないのに、獣医が診察します?」
恭介がそう訊いたのは、パウルたちに何らかの手違いやアクシデントが起こったのではないかと疑ったからである。
「俺たちが間違っているとでもいうのか?」
「なんでそうなるんすか。俺は筋を追って話を聞きたいだけですよ」
話し合いの行く末がどこに行きつくのか見当もつかなくなってきた。
思ったよりもパウルは冷静さを失っているようで纏まった話が聞けるか不安になる。
「で、ダウドさんでしたっけ? アーチャーズノートのどこが悪いんですか?」
「覇気がないんです。おそらくカイ食いが悪くなっていると思われるんですが、ちゃんと診察しないことには……」
ダウドは自信なさげに上目遣いになる。
「食欲がないってわけか。ここの水が合わないとか、そんな感じっすかね」
「それはないな。以前、遠征に来たときにもここの水を飲ませたんだが、そのときは何も異常がなかった。もちろん今回もだ」
とパウルは言った。
「それにアーチャーズノートだけじゃないんです。他のペガサスも似たような症状を見せています」
「でも、今までのレースでそんな感じの馬はいなかったけどな」
リンウェルダウンズ競馬場で騎乗したペガサスたちの様子を思い返す。
少なくともレース中、状態が悪いとは感じなかった。
「明日以降のレースに出走するペガサスがほとんどなんです。アーチャーズノートだけじゃない、未勝利戦や条件戦に出走するペガサスにも同じ症状が出ています」
「こいつはそう言っているが、何の異常もない。アーチャーズノートだって普段通り飼葉を食っているし、朝の調教でも問題なく動けている」
と、パウルは反論した。
遠征馬たちは早朝に競馬場のコースで調整を行っている。
恭介もミスクララやウィントンの他にも、調教師の要請に応じてレースに乗る何頭かのペガサスに跨って調教をつけていた。
「うーん。どうなんだろうな」
恭介には荷が重すぎる。
多少馬の知識があるとはいえ、獣医学は専門外である。
ベテラン厩務員のパウル、若手獣医師のダウド、どっちの言い分を信じるか判断しかねる。
「たしかルテリエさんが診てもらいたいって言ったんですよね。調教師なら何らかの異常を感じても不思議じゃないんじゃないですか」
「はい。ですがそれは僕たち獣医がルテリエ調教師をなんとか説き伏せたので、パウルさんが反感を抱くのも当然かもしれません」
「当たり前だ。俺たちは普段から自分の担当しているペガサスをつぶさに観察しているんだ。それを強引に連れ出しやがって」
ダウドが譲歩する姿勢を見せたせいか、パウルは頭を掻いて態度がわずかに軟化した素振りをする。
「でもおかしな話だな。覇気がないくらいで獣医が診察するのはちょっと大げさじゃないすか。普通、しばらく様子を見るもんだと思うんですけど」
「確信に変えたかったんです。もしアーチャーズノートや他のペガサスの症状が僕たち獣医の予測通りなら、大変なことになります」
ダウドは肩をすくめ、俯きがちに言った。
経験の浅い若手の獣医のせいか、自信が持てないようだ。
それに、ダウドの言葉を聞いていたパウルが睨みつけるように彼を凝視している。
思い切った行動に出たわりには、気弱な性格である。
職業柄、ペガサスの不調を見過ごすことはできず、獣医としての使命感からアーチャーズノートを強引に連れ出したらしかった。
「大変なことってのはなんすか?」
恭介がそう訊くと、
「あっ」
とダウドが声を洩らし、一瞬目を見張った。
「お前、何か隠しているな」
パウルの目つきが鋭くなり、射貫くような眼光を放っている。
「好きで隠しているわけではありません。ただ……」
ダウドは口籠ると、パウルの肩越しに厩務員たちが談笑する様子に目を向けた。
恭介も厩務員を見渡したが、どこも怪しい点は見られない。
ついでに入口のドアに目を遣ったとき、蝶番のきしむ音を立ててオリアナが入ってきた。
彼女は部屋中を見渡して恭介を探し始めた。
「オリアナさん。こっちこっち」
恭介は声を張って手招きをした。
「お疲れ。なんか込み入っている感じだねぇ。あ、パウルさんお久しぶり」
オリアナは右手をあげて挨拶をすると、恭介の向かいに腰を下ろした。
テーブルの陰に隠れてよく見えないが、脚を組んだようだ。片
肘をテーブルについて頬杖をする。
エレノアが見ている前では絶対に取らない態度だった。
「相変わらずの跳ねっ返りだな」
パウルは目を細めて微笑する。
「で、この獣医が悪さをしたんだって?」
「ああ。この野郎、うちのアーチャーズノートを勝手に連れ出そうとしやがったんだ」
「ふーん、じゃあこれと関係があるかもね」
オリアナは組んだ脚を解くと、ジャンパーのポケットを探った。
すると、彼女は何かを取り出してテーブルの上に置くと、手についた飼葉の屑を払った。
「なんだこれ?」
と、恭介が声を出す。
何かを包んだハンカチだった。
中身は水分を含んでいるらしく、ハンカチがわずかに滲んでいた。
「これは……」
ダウドがハンカチを広げた。
他の三人もその様子を見守っている。
広げたハンカチの上に極小の赤い果肉とドロッとした液体が表れた。
それ見た一同は驚愕に包まれた。
「ウソだろ」
恭介は目を疑った。
ハンカチの中にあったのは、馬が決して口にしていけないものだったからだ。
「わかったようですね」
「おい、こいつは……」
と言って、パウルは果肉をつまんだ。
オリアナも顔を近づけて中身を見る。
「トマトだ」
パウルは指先についたトマトの果肉を、絶句しながら呆然と眺めていた。
休憩室の中は無駄話で盛り上がっている最中だった。




