トラブル発生
最終レースは六着に敗れた。
このレースにもジュスタンの馬が三頭出走しており、執拗に恭介をマークしてきたのだ。
スタート地点で大外に待ち構えたとき、二番の馬が恭介の外に並んだ。
ロープが跳ね上がってスタートが切られてからも、二番が恭介を内側に押し込めるようにして、馬体を併せてくる。
それに驚いた恭介のペガサスは弾きとばされたかのように、内にヨレてしまい、さらに後方に待機せざるを得なかった。
幸い走行妨害にはならなかったが、さらに内側を走っていた六番と接触してしまい、少しバランスを崩してしまった。
それから終始、前方にはジュスタンのペガサス、外には二番という形でレースが進み、馬群をこじ開けるスペースもなくなり、馬群に沈んだのだ。
恭介は何もできずに申し訳ない気持ちで一杯になった。
近走も着順が悪くなく、もしかしたら勝てると期待を抱いた調教師や厩務員を失望させてしまい、検量室前で下馬すると、すぐに詫びた。
すっきりしない気持ちを抱えたまま、恭介はリンウェルダウンズ競馬場の厩舎地区に足を運んだ。
コースから少し西に離れた場所にあり、何頭もの遠征馬が滞在している。
レースを終えたペガサスたちが厩務員に引かれて馬房に入って行く。
各調教場ごとに馬房が振り分けられていて、ウィントンとミスクララがいる馬房は厩舎地区のやや奥まった場所にある。
元々草原の丘に造られた競馬場だと聞いていたが、厩舎地区の道はむき出しの土になっていて、きれいに均されている。
石一つ落ちておらず、きちんと管理の行きとどいているようだ。
もし石や固い物が落ちていて馬が誤って踏んでしまうと、挫跖になりかねない。
そのような不注意でレースに出走できないことがないような配慮がきちんとなされている。
出張馬房地区には同じ形の厩舎が軒を連ねているので、きちんと場所を把握していないと迷いそうだった。
時々すれ違う厩務員らしき人に声を掛けられ、軽く挨拶を交わす。
恭介の顔は関係者の間で知られつつあった。
冗談半分でうちの馬に乗ってくれと苦笑交じりに言われると、頼りにされたようで少し気持ちが浮ついてしまう。
スピレッタ調教場に割り当てられた馬房のある厩舎に近づきつつあったとき、一頭のペガサスが厩務員に引き綱を曳かれて恭介とすれ違おうとしていた。
青鹿毛の漆黒の馬体のペガサスである。
首が厩務員の腰辺りまで下がっていて、あまりやる気が感じられなかった。
恭介はどこかで見た覚えがある気がしたが、いつ見たか思い出せなかった。
厩務員が先導する形で歩いていると、急に青鹿毛のペガサスが脚を止めた。
彼が一瞬前に出て足取りを乱すと、引き綱を引っ張ってペガサスに歩くよう促す。
だが、ペガサスはへそを曲げたように動かなくなってしまった。
「どうした」
厩務員が焦った声音でペガサスに問いかける。
彼はフードを目深にかぶっていて表情が良く見えなかった。
自分が関わることではないと思い、恭介は厩務員を一瞥しただけで通り過ぎようとした。
ペガサスだって生き物、いつも人間の思うようにはいかない。
「いたぞ!」
遠くから叫び声が聞こえた。
数人の厩務員らしき人々がこちらに駆け寄ってくる。
男四人女一人のグループで、どこかの厩舎の厩務員らしかった。
「マジかよ」
恭介は呆れた。
数多くのペガサスが滞在する厩舎で大声を出し、しかも激しい足音を立てて走るのがありえなかった。
馬房で休んでいるペガサスが彼らの怒声に驚いて暴れることだってありうる。
経験の浅い厩務員だと思ったが、よく見ると中年の男も混じっているのでそれなりに経験を積んでいるはずである。
皆が必死の形相で駆けてきた。
なにやら切羽詰まった様子で、周りに配慮する余裕が失われていた。
「なんかあったのか?」
恭介が独り言を言うと、青鹿毛のペガサスを引いていた厩務員がいきなり逃げ出した。足を滑らせて前のめりになりながらも、なんとか体勢を立て直し、逃げて行った。
追ってきた人たちは恭介とペガサスの姿を認めたようで、二人が厩務員らしき男を追い、残りの二人が恭介の行く手を遮った。
短い黒髪の女性厩務員がペガサスの引き綱を持ち、よしよしとペガサスをなだめる。
「なんだ、キョースケ・ハタヤマか」
真中に立っていた額の広いブロンドの坊主頭の男が、気の抜けた声を出した。
「なにかあったんですか?」
と恭介は訊いた。
ただ事ではない雰囲気がありありと滲んでいてなにか大変なトラブルが起きたと思った。
あまり関わりたくないが、巻き込まれそうだったのもあり、少し気になっていた。
「あの野郎、余計なことをしやがって。アーチャーズノートをどこかに連れ出そうとしやがったに違いない」
「アーチャーズノート?」
どうりで見覚えがあると思った。
資料の写真で見たからだ。
調教には乗っておらず、レース直前に乗り方の指示を受けることになっていたので、思わぬ形で初対面となった。
女性厩務員に顔を寄せて甘える仕草を見せている。
「そうだ、お前が乗るペガサスだよ。ああ、俺はルテリエ調教師のところで厩務員をやっているパウルだ。こいつらは、別の厩舎のスタッフだけど、気心の知れた中でな。バロンクラウスカップ、よろしくな」
「こちらこそお願いします」
「ほう、礼儀正しいな」
パウルは坊主頭を撫でつけて微笑した。
「それで何があったんですか? なんか、えらいことになっているみたいじゃないですか」
乏しい語彙で訊く恭介。
事態が飲み込めず頭が働かない。
「あいつ、アーチャーズノートを連れ去ろうとしたんだよ」
「誘拐ってことですか?」
「いや、あいつダウドって獣医なんだけど、診てやるっていうもんだから任せていたら、何の断りもなくいなくなりやがって。焦ったぜほんと」
「獣医か。なら診療所に連れて行く途中だったとか?」
「なら、俺に一言断るだろ。なんかの悪だくみがあって連れ出したに決まっている」
パウルと話していると、後ろから人の呻き声のような音が聞こえてきた。
ダウドが捕まったようだ。
「連れてきましたよ。じゃ、パウルさんあとは自分で何とかしてくださいよ」
短い髪を逆立てた若い男がダウドの腕を後ろ手にねじ上げていた。
彼らは手際よく捕まえたようで、ダウドの口の中に何かを詰めてからきっちり口元を縛っている。
手慣れた猿ぐつわだった。
ダウドの呻き声から察するにかなり苦しんでいるようだ。
――やり過ぎだろ……。
と恭介は胸の内でツッコんだ。
大切な馬を連れ去れたとはいえここまで手荒にやる必要を感じられなかった。
「ああ、ありがとうな。埋め合わせはまた今度」
パウルがそう言うと、若者がダウドの背中を押した。
ダウドが前につんのめって地面に両手をつくと、恭介たちに囲まれる形となった。
ダウドは思いのほか若い男であった。
パウルが片膝をつき、獣医の猿ぐつわを解いた。
苦しみから解放されたダウドは、ぷはっと息を吐き、激しくあえぎ始めた。
「獣医さん、なんでアーチャーズノートを連れ去ろうとしたんですか? どこか体調でも悪かったとか」
と訊いたのは恭介である。
レースに騎乗するペガサスが連れ去られようとしたので放っておくわけにはいかなかった。
それにアーチャーズノートの体調が気になった。
女性厩務員の身体に顔を寄せて頭を撫でられているペガサスが本当にレースに使える状態なのかを確認したかった。
「いや、撲は指示通りに従ったまでです」
少し呼吸の整ったダウドがなんとか声を絞り出す。
「誰の?」
と訊いたのは女性厩務員である。
「ルテリエさんです。アーチャーズノートの体調が良くないから診てほしいと私どもに話を……」
「下手な嘘つくんじゃねえよ。なら、なんで俺に黙って連れ去ろうとしたんだ」
「あなたが撲の言うことに耳を貸してくれないからでしょう。この状態でレースに出すなんて正気の沙汰じゃない」
「若造の言うことなんざ信用できるか」
「若いかどうかなんて関係ありません」
「ちょっと待ってください。ここじゃ迷惑が掛かりますから、ひとまずアーチャーズノートを馬房に入れてから話し合いませんか? ほら、大声出すと馬が怯えてしまいますよ」
恭介は躊躇いがちに仲裁に入った。
二人の声がだんだん大きくなっていて、近くの馬房にいる他のペガサスたちに悪い影響を与えかねなかった。
「キョースケさんの言う通りですね」
「あれ? 俺を知っているんすか?」
「ペガサス競馬の関係者であなたを知らないようではモグリですよ」
「ああ、そうなんだ」
若い獣医のダウドにさえ知っているのだから、思ったよりも恭介のことが広く知られているようだった。
「キョースケ、お前も同席しろ」
パウルが有無を言わさないような口調で言った。
「え? いや、俺はうちのオリアナさんのところへ行かなきゃならないんすよ。ほら、うちの馬がどうなのかなって」
「撲からもお願いします。第三者がいてくれた方が話が通じます」
「てめえ、俺がバカだって言いてえのか」
パウルが顔を歪めて静かな怒声を上げる。
一応近くのペガサスたちを気遣ったようだ。
――話、聞けよ。
と、愚痴を吐きたくなる気持ちを抑える。
パウルは大切な管理馬を勝手に持ち出されて気が立っている。
迂闊なことは言えない雰囲気だった。
「ダウドさん、俺も完全な第三者ってわけじゃないんですよ。アーチャーズノートの騎手だし」
そう言うのが精一杯だった。
「ならオリアナも連れてこい。それならいいだろ」
「知り合いなんですか?」
「厩務員ってのは横のつながりが強いんだよ」
宿泊所で待っているぞ、とパウルは言い捨てて女性厩務員からぶんどるように引き綱を手に取り、アーチャーズノートを馬房へ連れ帰った。
ダウドを追っていた厩務員たちもひとまずトラブルが終わったと見て、くたびれた声を上げて散って行った。
「どうなるかなぁ」
とんだ事件に巻き込まれ、辟易する恭介。
レースを見返す時間が取れないと覚悟を決めるしかなさそうだった。




