思いがけないトラブル
第三レース未勝利戦、距離二四〇〇メートル。
坂の下りからスタートする難しいコースである。
スタートでダッシュがつきすぎると、スピードに乗って馬がかかっていまい、オーバーペースになりかねない。
そのことを考慮に入れて、恭介はなるべく内側に位置を取ろうとした。
バリヤー式発馬機なので騎手たちの駆け引きや牽制でスタートの位置を決められる。
幸いにも内から五頭目の位置を取れた。
それに両隣の一番と九番はテンの速い先行馬でいずれも人気どころである。
上手くいけばこの二頭の後方に控えてレースを進められると考えた。
恭介は外側にいるペガサスと騎手たちを一瞥した。
その中にはプルネラやデイン・レギュラスなど見知った顔が何人もいる。
レベルの低い開催だと聞いていたが、ここで勝ち星を稼ぐ意図があって参戦している関係者も多いようだ。
ロープが跳ね上がると同時に、一番と九番は好スタートを決め、馬体を併せて先頭に立った。
その後ろに三頭控える格好となる。
スタートしてまもなく、恭介は先頭から六、七番手の外目にポジションを取った。
内側にいたペガサスもスタートが良く、内埒沿いのコースを取れなかったものの、こればかりは仕方ないと割り切った。
息を入れてスタミナを温存しようとしたとき、三頭の馬が後方から追い上げて、先頭にとりついた。
騎手たちは先頭にとりつくように指示を受けていたらしく、手綱をしごいて逃げ馬二頭に鈴をつけに行ったのだ。
「妙だな」
そろいもそろって先頭を奪うことに躍起になっている感があった。
それにまくって行った馬たちはみな差し馬のはずだった。
ペースが遅くなると予想したにしても、何頭もの馬が同時にこんな戦略を取ることに違和感を覚える。
さらに本来の逃げ馬二頭の横にずらっと並び、異様な光景が恭介の目に入る。
外側を回るロスを考えていないレース運びに見えた。
その動きに惑わされそうになりながらも、恭介は折り合いをつけることに専念した。
やや前進気勢が強くかかりそうになっている。
いつも通り手綱を柔らかく持ち、銜が馬の口に強く当たらないように心掛け、機嫌を損なわないようにする。
若干前に行こうとするものの、なんとかギリギリのラインで折り合いは保てていた。
すると、第二コーナーを曲がる直前に先頭の外を走る馬の騎手たちが後ろを振り向いた。
「なんだ?」
恭介は彼らの視線が自分に集まっているのに気づいた。
いくら恭介が目立った成績を上げているとはいえ、今乗っているペガサスは力が足りず、せいぜい四、五着が精一杯である。
彼らは過剰に恭介を意識している感があった。
――あっ!
ここでレース前にプルネラに言われたことを思い出した。
自分がマークされるのは想定済みでも、その背景にまで思いが至らず、事前の対策が不足していたとわかった。
プルネラとデインがいることで想像力を働かせるべきだったと遅まきながら気がついた。
恭介は首を回して馬群を見渡す。
ジュスタンの勝負服着た騎手が何人もいる。
彼がエレノアに向けた恨みが、今自分にも突きつけられているような感覚に陥った。
――落ち着け……。
言い方は悪いが、たかが未勝利戦だ。
いくらジュスタンが恨みを持っているとはいえ、このレースで恭介が乗っているのは力の足りないペガサスであり、しかもスピレッタ調教場のペガサスではない。
必要以上に恭介をマークしたところでジュスタンの陣営に利益があるはずがない。
そう思い直して、恭介はレースに意識を向けた。
第二コーナーに進入すると、内埒沿いを走っていた一番と九番は巧みにコーナーを回る。
その外に並んでいた馬たちは距離のロスが生じ、コーナーを曲がるにつれて徐々に遅れ始めた。
先頭は一番と九番が馬体を併せる格好でレースが進んで行く。
このとき、恭介の前と外にペガサスが接近していた。
第二コーナーで置かれた馬たちで、前方にいるのが十三番、外側にいるのが十番である。
さらに内側から別の馬がポジションをあげて、これも恭介の内側に張り付くようにして走っている。
三頭の馬が恭介を囲む形となった。
「なんのつもりだ!」
恭介は声を張り上げて周りの騎手たちへ怒鳴った。
だが、彼らは何の反応もなく淡々とレースを進めている。
勝ち目の薄い馬をマークする必要が感じられず、これでは逃げた二頭に勝ってもらうと言っているようなものだ。
ここにきて恭介は自分の甘さに気づく。
前と外にいる騎手の勝負服が一緒で、しかもあのジュスタンの勝負服であった。
内側の騎手は別の勝負服だが、恭介を囲めるチャンスと見たらしかった。
まさか、と思うことが恭介の頭を過る。
恭介を妨害するためにこんなレース運びを指示したのだろうか。
日本にいたころ、ある馬を勝たせるため同厩舎や同馬主の馬がチームを組んでレースを運ぶケースが海外の競馬ではあると聞いたことがある。
だが、それはせいぜいペースメーカーがレースを引っ張ったり、特定の有力馬をマークすることがほとんどである。
実力の足りない馬を潰すために何頭もの馬を出走させ、馬群から抜け出せないようにするなんて話は聞いたことがなかった。
それにこのレースは未勝利戦である。
わざわざ何頭もの馬を出して、しかも勝ち目の薄い馬を執拗にマークするのは常軌を逸している。
三頭に囲まれたままレースは最終の第三コーナーへ向かおうとしていた。
ペースが思ったよりも早く、後方からまくってくる馬は今のところいない。
恭介はコーナーを使って外にいる馬を押しやろうと考えた。
曲がる際の遠心力を利用してわざと外に膨れさせるのだ。
馬体が接触しかねない乗り方だが、それはレースでは日常茶飯事で、ペガサス競馬の初騎乗初勝利を挙げたときもガウン・ボウズ騎手にぶつけられたことがあった。
あのとき、ガウンはなんの処分も受けていなかったので、ペガサス競馬でも多少の接触は処分の対象にならないと踏んだ。
そして第三コーナーに差し掛かろうとした。
「どけえ!」
内側から耳を突きさすかのような声がした。しかも女性である。
恭介はちらと後ろを振りむくと、プルネラが身体を動かして、追い出しにかかっていた。
七番の騎手が進出してくるプルネラに馬体を寄せたところ、逆に相手に馬体を寄せて少し外へ弾いたようだ。
彼女は逃げた二頭の間か内埒沿いの間隙を突く気でいるようだ。
列車で会ったときのプルネラは蓮っ葉ながらも落ち着いた大人の女性のように見えたが、エレノアが言った通りレースになると性格が変わって気の強さをむき出しにするらしかった。
「ま、こうじゃなきゃ女で騎手なんて務まらないよな」
恭介は驚くと同時に感心もしていた。
レースになれば男も女も関係なく、女性に優しくするという気遣いは存在しない。
容赦なく進路を狭めて来るし、馬体を寄せたりもする。
勝つチャンスがあると見れば、誰であろうとも遠慮しないのが騎手という人種なのだ。
少なくとも、プルネラは騎手向きの性格をしている。
男が相手でも全く怯む気のない気の強さは彼女の武器であるらしかった。
「と、感心している場合じゃないな」
顔を前に戻すと、すでに第三コーナーの入口に進入しようとしていた。
恭介は外にいる十番の騎手――ヴォートに顔を向ける。彼は恭介の視線に気づき、目を合わせてくる。
「悪いな。こじ開けさせてもらうぜ」
コーナーを曲がりながら恭介は外に膨れる。
ヴォートは進路を譲る気を見せず、むしろ内に寄って恭介を押し込めようとする。
脚色も十番の方がわずかにあり、首の差リードを取っている。
コーナーを曲がりきる直前、わずかに右足が馬体に触れたと感じると同時に、外にいた十番が外に膨れ、前に進路が開けた。
「さて、届くかな」
内に目を遣ると、プルネラが先頭にとりついて、逃げる二頭の間を割って入ろうとしていた。
恭介のペガサスにどれだけの脚が残っているわからないが、あとはゴールに向けて追うだけである。
だが、予想もしない事態が起きた。
恭介はそれを目の端で捉える。
外へ膨れさせたヴォートが突如バランスを崩し、馬上から落ちそうになっているのだ。
「んなバカな」
たしかに接触はしたが、あの程度で落馬するとは思えなかった。
それにヴォートがバランスを崩したタイミングがおかしかった。
接触してから数秒間、バランスを保っていて落ちる様子がなかった。
それなのにコーナーを曲がり切ってから落馬しかけるのは不自然だった。
「ちっ、仕方ねえ」
今は自分のペガサスをを無事にゴールさせるのが先決である。
恭介は右鞭を一発入れて、追い出しにかかった。
思ったよりも手応えはいいものの、やはりの力が足りない。
じりじりと先頭との差は詰まるものの、突き抜ける感覚はなかった。
突如スタンドからどよめきが起きた。
ヴォートが落馬したのだろう。
構っている暇はなかった。
内側前方ではプルネラが逃げた二頭を差し切って先頭に躍り出た。
恭介も懸命に手綱をしごいて一つでも上の着順を目指す。
プルネラを差すのは無理でも、せめて二着は確保したかった。
外から脚音が近づいてきた。
恭介は懸命に手綱を動かすが、その音が近づいてくる。
「お先に」
あっという間に横に並ばれた。
声を掛けたのはデインだった。
後方からの追い込みに賭けたらしい。
恭介を抜き去り、脚の上がった三番と九番に追いすがろうとする。
プルネラといい勝負ができそうだった。
結局、プルネラが一着になり、デインが二着となった。
恭介は三番を差したものの九番をとらえきれず、四着に終わった。
ゴールを駆け抜けてから馬のスピードを緩め、鞍に腰を下ろした。
全馬ゴールをしたあと、常歩でコースを引き返す。
空馬になった十番が外埒沿いをキャンターで走っていたところ、係員に捕まり、観客から拍手と歓声が送られた。
落馬したヴォートも何も問題がないようで、コースの上を歩いて戻っていく。
恭介は検量室前で下馬し、スタッフの一人にねぎらわれたあと、検量を済ませた。
「ハタヤマ騎手、査問委員会のカワードです」
体重計からおりてすぐに、声を掛けられた。
短い茶髪の若い男である。
「なにか?」
と訊いたものの、ヴォートが落馬した件だろうと察しがつく。
「査問室へ来てください。聴取を行います」
カワードは恭介の横に張り付くようにして、ついて来るよう促す。
――やっぱ、まずかったかな。
呼び出しを食らったのは、十中八九ヴォートが落馬したことについてだろう。
にわかに胸が高鳴り、もしかしたら過怠金ぐらいの処分が下るかもしれないと思った。
いずれにせよ、あれぐらいのことでは重い処分を食らう恐れはないはずだと踏んで、恭介は確かな足取りで査問委員会へと脚を向けた。




