無謀な提案
「本気で言っているの?」
エレノアは恭介に迫らんばかりに顔を近づける。
「俺だってこんなやり方どうかと思っているよ。で、ペガサスレーシングクラブじゃこのやり方を認めているのか?」
「できなくはないけど……」
廊下の端に身を寄せ、視線を落とし、右手を口の下に添えながら考え始めた。
利用客らしき中年の夫婦が二人の横を通り過ぎるとき、恭介と目線が合うと、にこやかな笑顔を見せる。
おそらく男女が喧嘩をしていると勘違いしたらしく、夫の方が妻に見えないようにして、親指を立てた。
不甲斐ない若い男を励ますかのような仕草に、恭介は苦笑いを浮かべて応える。
「キョースケのところだと、これが普通なの?」
「まさか。まあ、預託料を滞納するってのはたまにあるらしいけど。で、スピレッタ調教場の預託料っていくらなんだ?」
「一頭につき一ヶ月で五千オーロ。だいたい庶民の月給の倍以上よ」
「安くない金額だな」
「そうよ。だから……うーん、どうかしら」
エレノアは目を瞑ってこめかみに指を当てた。
恭介の提案が割に合うかどうか思案している。
スピレッタ調教場の現状、ニックがあえてした失礼な振る舞い、パラダイスブライトの戦績、そして恭介の主戦騎手契約。
それらのことが複雑に混ざり合ってどこで折り合いをつけるのか迷っているようだ。
「もしこれが上手くいけば、一歳馬のペガサスも預けてもらえるかもしれないぞ。少しでもレースに出走させて賞金を稼げるって証明できれば、エレノアの調教師としての才能を認めてもらえるんじゃないか」
恭介はそう説得したものの、エレノアの動きに変化はない。
考えに耽って声が聞こえていないと思い、もう一度声を出そうとしたとき、エレノアの目が一瞬見開いた。
「うん。決めた。キョースケの提案にのるわ」
「いいのか?」
「自分で提案してなに言ってるのよ。うん、そうよ。一歳馬の子たちだわ」
「評判のペガサスがいるのか?」
「かなりの良血馬よ。すっかり忘れていたわ。このチャンスを逃してはダメよね」
「じゃあ、戻ろうか」
二人は再びレストランに入った。
いつの間にか客が増えており、そこかしこから話し声が聞こえてくる。
ニックの待つ個室に入ると、待たせた非礼を詫びてから席についた。
テーブルにはグラスが置いてある。
二人が席を離れている間に、給仕が注文した酒とお茶を持って来たらしい。
ニックは酒を一口飲んでからグラスを置き、話を聞く姿勢を見せる。
「話はまとまったかね?」
怒るふうでもなく、若く未熟な調教師と騎手がどんな知恵を絞ったのか興味を持ったようだ。
その証拠に、口角を上げて不敵な笑みを浮かべている。
「ええ、お待たせした甲斐があると思います」
エレノアの口調がさらに明瞭になり、腹を括った心情が現れていた。
「では、聞かせてもらおうか」
と言われ、エレノアが話し始めた。
まず、恭介の主戦騎手の件についてはニックの提示した通り、キプロン伯爵を優先しつつ、空いたときにニックのペガサスに乗ってもらうことにする。
ただし、パラダイスブライトをスピレッタ調教場に転厩させるのを条件とした。
無論、これだけではニックは了承しない。
その証拠にニックはしかめっ面になり、エレノアの瞳の奥を探るような目つきで見据えた。
次に、ジュスタンのやり方、及びペガサス競馬の欠点について説明する。
これは恭介が取り入れたレースの後の引き運動の説明が主だった。
このトレーニング方法については他のペガサス競馬関係者には知られておらず、現時点ではスピレッタ調教場独自の方法であると力説した。
アシタスがデビュー戦で圧勝したおかげで説得力が増した。
ニックはエレノアから視線を外し、宙を睨んだ。
アシタス一頭だけではその証明には不足していると感じていると同時に、今までのペガサス競馬になかった調教論で勝たせたことに関心を示しているようでもある。
そして、最後に恭介がエレノアに提案したことを告げた。
それは、パラダイスブライトが転厩してからレースに勝つまでの間、預託料なしで受け入れることであった。
エレノアとニックが口論し、こじれた関係を修復するにはこれしか思いつかなかった。
ニックがタドカスター調教場に不満を持ち、パラダイスブライトの戦績を聞いたとき、勝ち筋が見えた気がしたのである。
むろんこれは博打に等しいやり口である。
だが、スピレッタ調教場の現状を鑑み、次のチャンスを掴むきっかけになるだろうと考えた。
恭介の知る限り、タドカスター調教場はペガサス競馬全般の調教技術が発達していないと考慮しても、ジュスタンが主導権を握っている間は、二流三流の調教場に過ぎないと察した。
現にドリアードという素質馬をオーバーワークの挙句レースに出走させ、故障する事態を引き起こしている。
ペガサスを扱う技術に長けていれば多少人格に難があっても目を瞑るケースもありえるが、ジュスタンが優れた調教方法を確立しているとは到底思えない。
ニックの話しぶりからタドカスター調教場に不満を感じているのは明白である。
でなければ、恭介が話を持ちだしたとき、即座に断っているはずだ。
エレノアが一通り説明を終えると、ニックは黙ったまま首を傾げ、二本指を頬に当てながらエレノアを見つめる。
「薄氷を踏む提案だな」
「ええ、ニックさんには申し訳ありませんが……」
「いや、そうじゃない。君たちがだ。預託料無料なんて正気の沙汰じゃない」
「ですが、わたくしは全く実績のない調教師です。たとえペガサスの扱いに自信がるといっても、結果で示さなければ意味がありません」
「だから、パラダイスブライトで君たちの技術を証明しようというのだな」
「ニックさんにとっては大切な愛馬を実験台にすると捉えられても仕方ありません。でもジュスタンさんのやり方よりはマシです」
恭介はすかさずフォローする。
ニックの表情は全く変わらず二人の価値を見定めるような目つきのままである。
「では、普段の調教もキョースケ君が騎乗するのかね?」
「それはまだ何とも言えません。ペガサスの性格によっては調教で騎手が乗らない方が上手くいくケースもあります。もしパラダイスブライトが調教でも真面目に走り過ぎるようなら、厩務員が担当した方がいいでしょう。騎手が乗ったと感じたらレースと勘違いして本気で走ってしまって、オーバーワークになりかねません。ですからペガサスの性格によって調教の仕方を変える必要があるんです」
「ふむ。なるほどな」
ニックは普段の調教メニューまでは詳しくないようだった。
指を頬から離すと、腕を組み、顎を引いて考える素振りをする。
提供された情報をどう扱うかじっくり考えているらしかった。
若く経験の少ない調教師と騎手の調教論が本当なのかを考えているようだ。
しばらくの間、個室に沈黙が流れる。
ドア越しにくぐもった客たちの声がささやきのように聞こえてくる。
レストランのピーク時間が訪れたらしい。
恭介とエレノアはお互いの不安を共有するかのように時おり顔を見合わせる。
ニックは目を瞑り、足を組んだり解いたりしながら、熟考を重ねているようだ。
――どうなるかな?
息がつまる沈黙が胸の内に圧迫感を加え、呼吸が荒くなりそうだった。
ため息を吐きたい気持ちを抑えてニックの出す結論を待っていた。
「わかった。君たちの条件を受け入れよう」
ニックは目を開いて言った。
すると恭介、エレノアと順に目を遣る。
「本当ですか?」
恭介はたまらず嬉しそうな声を上げ、エレノアに目を向ける。
彼女は嬉しさよりも驚きが勝ったようで、目を見開いた。
「タドカスター調教場に見切りをつけようとしていたところだ。それならダメで元々、預託料がかからないなら君たちに賭けてみても面白いだろう」
「ですが、レースに勝った後、預託料を払っていただかないと困りますわ」
エレノアは念を押した。
「わかっている。勝つまでは、いわばお試し期間と言ったところかな」
なにがおかしかったのか、ニックはくっくと笑う。
奇妙な反応に恭介とエレノアはまた顔を見合わせる。
「ただし、こちらにも一つ条件を付け加えさせてもらう」
ニックの声に二人は彼に顔を向ける。
「どのような条件ですか?」
「パラダイスブライトの鞍上は、キョースケ君で固定だ。もちろんキプロン伯爵のペガサスよりも優先させてもらう」
「わかりましたわ。パラダイスブライトがわたくしたちのペガサスと同じレースで走ることはないでしょうから、問題ありません」
「大丈夫か?」
恭介はあっさり条件を飲んだエレノアに視線を送る。
「パラダイスブライトは平地、それも短距離向きなのよ」
「なら大丈夫か」
ここはエレノアの判断を信じることにした。
「商談成立、だな。あとの詳しい話は食事をしながらにしよう」
ニックはテーブルに置いてあったベルを手に取り、二回鳴らした。
ドアをノックする音が鳴ると、入ってくるよう声をかける。
給仕は万事心得た様子で、個室に入ってくる。
――少し複雑そうになりそうだな。
恭介はこれからの予定をうっすら頭の中で浮かべた。
スピレッタ調教場のペガサスに騎乗、そして飛翔競走の練習とレースでの騎乗、そしてニックとの関係。
すべてうまくこなせるだろうか、と考え続けた。
エレノアとニックが今後について話しているが、その声が朧に聞こえるだけだった。




