ニック・クレモントの狙い
唐突に主戦騎手の契約を言い渡され、恭介はどう反応していいかわからなくなった。
元々は四年目の見習騎手、そしてペガサス競馬ではデビューして七日しか経っていない新人騎手に主戦契約の依頼が舞い込むとは思いもよらなかった。
「いきなり言われて、君も戸惑っているだろう」
恭介の気持ちを先回りするニック。
彼にとって恭介の反応は織り込み済みらしかった。
「ゆっくり考えてもらってもかまわない。君の今後を占う話だ。すぐに決めろとは言わないさ」
「待ってください」
と、エレノアが話に割って入る。
「キョースケは、わたくしたちの主戦騎手です。クレモントさまが横取りする権利はありませんわ」
「もちろん。私もそんな無粋な真似はしない。だが、キプロン伯爵の持ち馬はそれほど多くないはずだ。現に今回の開催、キョースケ君がキプロン伯爵のペガサスの乗ったのは一回だけだろう」
「ですが――」
「まあ、聞きなさい」
ニックは両手の掌をこちらに向けて、ヒートアップしかけたエレノアをなだめる。
「出来れば、キョースケ君を強奪し独占したい気持ちはある。だが、そんな横紙破りをしたところで、こちらの評判も悪くなるからな。あくまでここは筋を通しに来たんだ」
「どっちにしろ、あなたの馬に優先的に乗ることになるんですか?」
ようやく恭介が口を開く。
話の流れに振り落とされそうになりながらも何とか理解しようと努めた。
「いや、そうじゃない。キプロン伯爵のペガサスを優先してもらってもかまわない」
「すごい譲歩してきますね。なぜそこまで撲にこだわるんですか?」
「有望株には早くから手を付けておくに限る。私だって本業では成功しているが、馬主になってから日が浅い。なるべくいい馬を早くに目をつけ、同じように腕のいい騎手には早いうちに懇意にしておくのが先決だと思ってね」
「僕の乗り方は変だって言う人もいますけど、あなたはどうお考えですか?」
「全然気にしないさ。結果が物語っているじゃないか。十二戦四勝、二着二回、あと三着も三回だったな。運が良いともいえるが、それだけで好成績を叩きだすほど甘い世界ではないだろう。こんな簡単な数字を読み解けない連中の言うことに耳を傾ける必要はない」
ニックは平然と言ってのけ、さらに言葉を続ける。
「馬主の間でも、君の評価は割れている。新境地を開く騎手、もしくはただの目立ちたがり、色々話は聞く。だが、私が求めているのはあくまでも結果でね。それにエレノア・スピレッタ、あなたが最大限の評価をキョースケ君に下したのが決め手になった」
「わたくしが、ですか」
エレノアは意外そうな顔つきで恭介を一瞥した。
「私も最初は懐疑的だった。初めて勝ったばかりの騎手になにを期待しているのだろうと。だが、この短い間に四勝したのは、あなたの見る目が正しかったことの証左だろう。だからこそキョースケ君には早くから手を付けておかないといけない。他の馬主に出し抜かれてしまうからな」
「でも、僕はまだ飛翔競走に乗れない騎手です。評価してくれるのは嬉しんですけど……」
「その点については賭けだな。もし君があの乗り方を飛翔でも出来たら、かなりの武器になるだろう。私もいずれはもっと多くのペガサスを所有し、多くの大レースに勝ちたい。そのためには腕のいい騎手が必要だと感じたのだ。現に大馬主の多くは、若く才能の溢れる騎手と早いうちに主戦騎手の契約を結んでいる」
「そういえば、デイン・レギュラスも主戦契約を交わしてたっけ」
「ジュスタン・タドカスターの主戦か。なるほど彼もいい騎手だが、契約した相手が悪い。人前であんな恥さらしな真似をする人間だとは思わなかっただろうな。おお、そうだすっかり忘れていた」
ニックは大げさに両手を大きく広げてから手を叩いた。
そのわざとらしい動作から察するに、これから話すことが真の本題だと告げたようなものだ。
「二人とも、私の持ち馬がどれだけいるか把握しているかね?」
「ええと」
「たしか五頭ですわ。四頭がルテリエ調教師の管理馬、残りの一頭がタドカスター調教場に預けているかと。あと一歳馬のペガサスを二頭購入したと伺っています」
エレノアは指を頬に当てて、少し考える素振りを見せて言った。
この点に関して、恭介は全くの無知なので、会話の流れをエレノアに預けることにした。
「ほう。私のような弱小馬主の持ち馬も把握しているとはな」
「調教師として当然ですわ。他馬と比較するうえで、重要なファクターですもの」
「ふふ、なるほど。では私がルテリエではなく、タドカスターに預けた経緯まではわかるかね」
「さすがにそこまでは。でも、想像はつきますわ。タドカスター調教場が最新鋭の設備を整え、その……バジル・チャップル調教師、並びに彼が認めたスタッフが管理する触れ込みでしたから、マカベウス子爵以外の馬主さまからも預けたいという希望が殺到したと聞いております」
複雑な心情が滲み出ていた。
かつてキプロン伯爵の下で名声を得、裏切る形でタドカスター調教場へ移籍した経緯を思い出したらしい。
エレノアの口調にわずかな澱みがあった。
「私もその評判を聞いて、一頭預けてみる気になった。前評判が高かったから抽選になってしまったがね。運よく預かってもらえたが、これがとんだ失敗だった。そこで、預けているペガサスの転厩先を探していたのだが、キョースケ君が乗ってくれるならスピレッタ調教場に預けてもいいと思ったのだ」
「マジっすか?」
恭介は丁寧な言葉遣いを忘れた。
預託馬が増える機会が不意に訪れるという思いがけない幸運に恵まれた。
ところが、エレノアはどこか浮かない顔をしてニックを見つめている。
「タドカスター調教場のどこが不満なのでしょうか?」
とエレノアは重い口調で訊いた。
その声にはどこか不満げな声音が潜んでいる気がした。
――なんでそんなことを訊くんだ?
エレノアにもタドカスター調教場、というよりはジュスタンの腕が拙いものだとわかっているはずだ。
せっかく転厩先にスピレッタ調教場を選んでくれたのだから、引き受けてもいいはずだ。
選り好みしている余裕など、今のスピレッタ調教場にはないのだから。
「ジュスタンがタドカスター調教場の運営に携わってから、スタッフやペガサスたちの覇気がなくなった。チャップル調教師も昔の栄光がすっかり色あせて、この前のザマだからな。とても名調教師と謳われた人間とは思えん。晩節を汚すとはこのことだ。だから――」
「バジルを悪く言わないでください!」
いきなりエレノアがテーブルを叩いて大声を張り上げた。
両手をテーブルについて席を立ち、目に怒りの色を湛えていた。
「エレノア、落ちつけ。馬主さんの前だぞ」
恭介が忠告する。
だが、エレノアの表情は怒りに固まったまま、ニックを見据えている。
「私は事実を言ったまでだ。たしかにチャップル調教師はかつて優秀な調教師だったが、あの若造にいいように使われているようでは、自ら得た栄光を捨てたようなものだ」
「その口を閉じて!」
「エレノア! 落ちつけ!」
あまりの怒りに、どう宥めていいか見当もつかなかった。
彼女はペガサスの扱いに関しては、恭介も感心ほどであるが、感情のコントロールが効かなくなる時がある。
衆目の前でジュスタンを張り倒したときもそうだった。
もしかしたら、他人には説明のつかない絆がエレノアとバジルの間に存在するのかもしれない。
そう仮定すると、彼を悪く言われて怒るのも、なんとなくわかる気がした。
「いや、すまない。私も大人げなかった。まさかこんなに怒るとは思わなかった」
ニックは素直に詫びた。
自分に非があるとあっさり認めるあたり、商人としての如才なさが窺えた。
「エレノア、ニックさんもああ言っているんだ。ここは怒りを収めろ」
「いやよ。キョースケ帰りましょう。この人のペガサスを預かるぐらいなら――」
「ロディさんたちはどうなるんだ」
この言葉に、エレノアははっとなり恭介に顔を見つめる。
にわかに怒りが去り、正気に戻ったようだ。
「エレノア、ここはこらえてくれ。今の俺たちには一頭でも預けてくれる馬主さんが必要だ。おまえだけの問題じゃないぞ。スピレッタ調教場は崖っぷちにいるんだそ」
「キョースケ……」
エレノアは恭介に目を遣ると、顔を背けて俯いた。
すると大きく息を吸って、ゆっくり吐いた。
「ニック・クレモントさま、こちらこそ申し訳ありませんでした」
一転して恭しく謝罪をするエレノア。
対するニックの表情に変化はなく、ただエレノアの姿をじっと見つめているだけである。
「たしかにこちらが言い過ぎた。だが、一つわかったことがある」
「なにがですか?」
と訊いたのは恭介である。
ニックは酒を一口飲んでから言い始めた。
「ペガサスを預かる件、なかったことにしてもらおう」
「……」
「たしかに私は失礼な発言をした。だが、この程度のこと、経験を積んだ調教師なら軽くかわしてそれで終わりにする。ましてや今のスピレッタ調教場は一頭でも多くの預託馬を増やしたいのではないかね? キョースケ君が言った通り、エレノアさん、あなたはぐっとこらえてしかるべきだろう」
ニックの口調は厳しかった。
エレノアを大切な愛馬を託すビジネスパートナーとして失格と見たらしい。
――この人……。
エレノアを試したな、と恭介は察した。
調教師として資質を見破ろうとしたのだ。
仕事柄、調教師はどうしても馬主との付き合いを避けては通れない。
馬主という人種は、本業で多大な成功を収めた人間である。
その自負があるからこそ、時にはプライドが高く、傲慢に見えてしまう人もいる。
自分の考えが競馬の世界でも通用すると思っている節がある。
そのような一癖もある馬主とうまく付き合い、少しでも素質のある預託馬を増やす営業努力が調教師には欠かせない。
おそらくニックはそのことを理解したうえで、エレノアが愛馬を預けるにふさわしい人物かを見極めようとしたのだ。
それはエレノアだってわかっていたはずだ。
だからこそ、この場を設けようと努力したはずだった。
なんとか関係を修復し、ニックのペガサスを預けてもらえないかと思ったとき、恭介は一種の賭けを思いついた。
それは絶対的なものが存在しない競馬の世界ではありえないことだった。
「ニックさん。僕の話も聞いていただけないですか?」
恭介はつとめて柔和な言い方をした。
変にへりくだることなく、かといって傲慢にならないように気をつける。
「ほう。なんだね。主戦騎手の契約はしないというわけか」
「いえ、そうじゃありません。ただ、気になることがありまして」
「ふむ。聞こうじゃないか」
どうやらニックは恭介の主戦騎手の契約を破棄する気はないらしい。
テーブルに両肘をつき、手を組んだ。
「その前に、エレノア、ニックさんが預けているタドカスター調教場のペガサスの戦績を教えてくれないか」
「え? なんで?」
「ちょっと気になったことがあってさ」
「パラダイスブライト、三歳牡馬、十戦一勝二着三回、どちらかと言うと平地巧者ね。あと一歩のところで勝てないレースが多いのよ」
「そうだ。だから、他の調教場に転厩すれば、もっと良績をあげられるはずだ」
ニックが注釈をくわえる。
「なるほど。なら、望みはありますね」
「なに?」
「ニックさん、あなたの主戦騎手になります。ただし一つ条件があります」
「なんだ。言ってみなさい」
「パラダイスブライトをスピレッタ調教場に転厩させてください。俺たちなら勝てます」
「キョースケ?」
エレノアがこちらに顔を向けたのに気づいたが、恭介はそのまま話を続ける。
「いきなり言っても、ニックさんには信じてもらえないでしょうけど」
「当然だ。そんな交換条件、とても受け入れられないな。勝てる保証などどこにある?」
「だからこちらも大幅に譲歩します。っとその前にちょっとエレノアと相談させていただけませんか? すぐに終わるので」
「ふむ。いいだろう。ここで待っていればいいかね?」
「はい。お時間は取らせませんので。エレノア、ちょっと外へ」
席を立ち、エレノアを促す。
ニックに一礼してから部屋を出てフロアへと出た。
閑散期であるらしく、あまり客がいないものの、窓際の席はすべて埋まっている。
景色を眺めながらディナーを楽しんでいて、ささやくような談笑が耳に入る。
レストランを出て、入口近くで交換条件について話し合った。




