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新しい馬主

 グレイラム競馬場の開催も最終日を迎えた。


 恭介はこの日まで三勝をあげ、すでにエレノアから課せられたノルマは達成されていた。

 さらに勝ち星を重ねるため、最終日に臨んだ。


 第二レースの未勝利戦、距離一六〇〇メートル。恭介は依頼のあったペガサスに騎乗した。


 レース前に状態はいいとは聞いていたが、思ったよりも手応えを感じていた。

 緩やかなカーブを曲がり続ける途中、恭介は内(らち)にぴったり寄せて三番手の好位をキープしていた。


 最後の直線に入る一〇〇メートル手前辺り、内埒沿いの馬場は荒れていなかった。


 グレイラム競馬場の平地コースにはもう一つ特徴にあった。

 それはコース図だけではわかりにくく、実際にレースに乗って経験してみないとわからない特徴であった。

 直線に入る直前、急にカーブがきつくなり、未熟な騎手ではスピードを落とさずに内埒に沿ってコーナーを曲がるのは難しく、外に進路を取らざるを得ないのだ。


 恭介は苦にすることなく内埒沿いに進路を取り、スピードをほとんど落とさずに最後の直線に入った。

 予想通りほとんどのペガサスが外に膨れ、直線の半ばあたりに進路を取らざるを得なかった。


 そうなると、もちろん距離のロスが発生する。


 先頭を走っていた二頭も外に膨れ、恭介は内埒と前のペガサスとの間隙を突き、先頭に躍り出た。


 残り五〇〇メートルを過ぎたところで、恭介は鞭を構え、手綱をしごき始めた。

 一瞬右にヨレそうになったので、右鞭を入れて真っ直ぐ走らせるようにすると、さらに加速した。 

 後続が殺到してくる気配はなく、ちらと後ろを振り向いたときは、五馬身ほど突き放していた。


 最後はスタミナを消耗して脚が上がって一馬身差まで詰められたものの、恭介は先頭でゴールした。


「うわあ、またあいつかよ」

「すげえな、おい」

「乗れてるなぁ」


 スタンドから驚嘆の声が聞こえた。

 このレースで恭介はすでに四勝目である。

 怖いほど順調に勝ち星を重ねていて、人気薄のペガサスを何度も二、三着に持って来た。

 しかも、アシタス以外の騎乗馬はみな、中穴から大穴という人気薄である。


 キョースケ・ハタヤマの名前はフレイモア競馬場を訪れたファンから注目されつつあった。

 当初は奇矯に見えたモンキー乗りに何も思わなくなったようだ。


 検量室前で待っていた厩務員が愛馬の首筋を軽く叩いてねぎらうと、下馬した恭介に抱きついてきた。


「ありがとう」


 と言っただけであるが、彼の顔が喜色に溢れていた。

 長い間勝利から遠ざかっていた管理馬に久々の勝利をもたらしてくれた感謝の気持ちを示した。


 その笑顔を見るたび、恭介は嬉しさと安堵を感じる。

 なんとかレースで結果を出したいと四苦八苦して工夫を重ねるスタッフの努力に応えられて良かったと心底思うのだ。


 無事に検量を終え、控室へ戻ろうとしたとき、エレノアが声をかけてきた。


「おつかれさま」


 嬉しそうな声だった。

 腕を認めた騎手が勝つのを間近で見て、自分のことのように思っているらしい。


「ああ、何とか勝てたよ。最後はちょっと差を詰められたからひやひやしたよ」


「そうなの? セーフティーリードだったけど」


「ゴール板を駆け抜けるまで、安心できないからな」


「そうね」


 エレノアは手を差し出した。

 恭介が手に持っている鞍を預かるためである。

 この日もエレノアは付添人(バレット)をやってくれた。


「なあ、エレノア。俺だけにかまってていいのか?」


「なんで?」


「なんでって、調教師って他にやることあるんじゃないのか?」


「あら、やることはやっているわよ。その証拠を見せてあげる。帰りはホテルに寄るわよ」


「む!?」


 喉に力が入って変な呻き声が出た。

 ホテルに誘うとはどういうことなのか。


 ――明らかに俺を誘っているじゃねえか!


 妄想が渦を巻いて頭の中に形を成した。

 そこにはエレノアがホテルの一室で……。


「そこで、馬主さんと会食するから」


「あ、ああ、そう。そういうことね」


 恭介の声が上ずり、妙にほっとした気持ちになる。

 と同時に、残念な気持ちが芽生える。


「どうしたの?」


 幸いなことに、エレノアは恭介が邪心を起こしたのに気づいていないようだ。


「なんでもない。なんでホテルかなって思っただけ。あ、ははは、はぁ」


 乾いた笑い声を無理やり出して、やり過ごそうとする恭介。


「その馬主さんの行きつけのホテルなのよ。わたしも同席するから」


「いつの間にそんな話取り付けたんだ」


「昨日、キョースケがレースに乗っている間、その馬主さんと一緒にレースを見ていたの。興味津々だったわ」


 恭介の見えないところで、エレノアはきちんと仕事をしているようだった。

 馬主との観戦は接待の一環とみて間違いなさそうだ。


 だが、付添人をこなしながら色々なところに顔を出して営業をするのはエレノアにとってもかなりの負担な気がした。


「ちょっと話は変わるんだけどさ」


「なに?」


「付添人を雇えないのか? エレノアも大変だろ」


「キョースケ、お金ある?」


「は?」


「うちの財政は厳しいのよ。キョースケの付添人を雇うお金まではね」


「俺が賞金を稼いで個人的に雇うからさ。いつまでもエレノアがやるんじゃ負担がでかすぎるだろ」


「うーん、まだ厳しいんじゃないかしら。キョースケの賞金じゃ全然足りないわ」


「ま、それもそうか。ついこの間デビューしたばっかだもんな」


「そのことも近いうちに話し合うわ。キョースケがレースに集中できるようにね」


  ◇

 

 結局、恭介はこの日、第二レースのみ勝っただけで、他のレースは見せ場なく敗れた。

 ただ、力の足りないペガサスを人気以上に持って来たので、厩務員や調教師はそれなりに満足したようだった。


 エレノアの運転でグレイラム競馬場から北西に行ったところにあるアルバンスタウンに着いたとき、空に薄闇が覆い始め、町中の街灯が灯っていた。

 エレノアは目的地のホテル、『ジグ』までの道のりを把握しているらしく、一度も地図を見ずに目的地にたどり着いた。

 ホテルの脇にある駐車場には多くの車が停めてあった。

 富裕層が使うホテルらしく、街灯の灯に照らされた数多くの車が光沢を放っていた。

 エレノアの車もそこまで古くはないはずだが、どうしても見劣りしてしまう。


 エレノアの後に続いてホテルの正面まで来た。

 ロータリーがあり、入口からの煌びやかな灯が洩れていた。

 入口の前にはドアマンが常在しており、いかにも高級そうなホテルである。


 中へ入り、カーペットの敷かれたロビーの半ばあたりで恭介は辺りを見回した。

 天井が高く、豪奢な照明が吊るされ、何人もの客がロビーにいた。

 奥にははめ殺しになったガラスの壁があり、その手前が応接スペースのようだった。

 受付のホテルマンたちも如才なく客に対応している感じがあり、前時代的な高級感のあるホテルといった趣だった。


「準備がいいな」


 と恭介が言ったのは、自分の来ているスーツのことである。

 レースが終わると、エレノアが白のシャツ、赤いネクタイ、黒いスーツと革靴を持ってきて着替えるように言ったのだ。

 急ごしらえで作ったらしく少し大きめだった。


「間に合ってよかったわ。こんなこともあると思って、服屋さんに頼んでおいたのよ」


「ちゃんと採寸してくれたらよかったのにな」


 右腕をあげると、肌とシャツが擦れる感覚があった。


「ちゃんとお直ししてもらうから、今日はそれで我慢してね」


 エレノアは微笑すると、応接スペースに目を止めた。

 椅子やテーブルの間を縫って一人の男がこちらにやってくる。

 この人が目的の馬主らしかった。


「ニック・クレモントさま。本日はお忙しい中、ありがとうございます」


 エレノアが笑顔を携えて挨拶をすると、恭介はつられて頭を少し下げた。


「構いませんよ。あのエレノア・スピレッタと会食できる機会なんてそうそうありませんから。それに、キョースケ・ハタヤマですね」


 男は口元に笑みを浮かべて恭介に目を遣った。


「初めまして、キョースケ・ハタヤマです」


 恭介は背筋を伸ばしてニックを見つめる。

 茶色の髪を短く切りそろえ、藍色のスーツを纏い、白いシャツの襟のボタンを外していて、ネクタイを締めていない、カジュアルな服装だった。

 恭介よりも頭一つ背が高く、目が吊り上がっているものの、自然と零れる笑みが柔和な印象を与える。


「固くならなくていい。今日は肩の力を抜いてペガサス競馬の話でもしようじゃないか」


「は、はい」


 どうしても緊張が取れず、声が裏返ってしまう。

 馬主と懇意になるいい機会を逃してはならないプレッシャーが恭介の胸を締め付けてくる。


 ここに向かう途中の車中でエレノアがニックについて教えてくれた。

 ニックは四年前に馬主になったものの、零細馬主に甘んじている。

 だが、騎手としては馬主の格を問うてはならず、ぞんざいに扱ってはならなかった。

 たとえ零細馬主であろうともいつ良い馬に恵まれるかわからないのだ。

 小さなものがやがて巨大なものに生まれ変わっても不思議ではない。


 スピレッタ調教場の現状を鑑みると、預託してくれる馬主は一人でも多い方がいい。


 ペガサス競馬の制度をまだ理解しきっていないが、おそらく馬を調教場に預けるだけで預託金が発生するはずである。

 調教場の維持費やペガサスの管理費用、それに人件費。

 レースの賞金だけでは賄いきれない。

 それらのことがわかっているせいかエレノアの如才ない微笑みの裏にどこか緊張が混じっている気がした。


「では、奥のレストランへ行くか。積もった話はそこですることにしよう」


 と言って、ニックはすぐにホテルの奥の廊下へと足を向けた。

 立ち話で時間を浪費したくなかったようだ。

 恭介とエレノアは慌てて彼の後ろをついていく。

 

 ニックはあらかじめレストランの個室を予約したらしく、奥に通された。

 このホテルのレストランは二階の奥まったところにある。

 なんとなく金持ちとホテルで会食するなら、最上階の豪華なレストランだと思い込んでいたので、恭介は意外に感じた。


 この個室はかなり狭く、四人掛けのテーブルが配置され、人が行き来できる程度のスペースしかない。

 奥に鑑賞用のマントルピースがあり、その上に薄赤色の花がささった花瓶が置かれている。


 ニックが席に着くと、恭介とエレノアは向かいの席に腰かけた。

 テーブルマナーをよく知らないのでどう振舞えばいいかわからず、つい部屋の中をきょろきょろ見回してしまう。


「こういうレストランは初めてかね?」


 恭介のどぎまぎした仕草を見て、ニックは口角を上げて微笑む。

 バカにしているというよりは、慣れない感じを面白がっているようだ。


「はい。勝手が違うんで、どうも落ち着かなくて」


「ははは。ここはちょっと特殊なレストランでね。密談するにはちょうどいいんだ」


 ニックはおおらかに笑ってから、テーブルに置いてあった呼び鈴を手に取って鳴らした。

 すぐに給仕がドアをノックし、ニックは入るよう促す。


「二人とも、酒は飲めるかね」


「はい。僕は少し」


 恭介は一人称を変えた。

 二十一という年齢だと「私」では固すぎるし、「俺」では失礼に当たると教わったことがある。

 一般社会ではどうなのかわからないが騎手としてならそれぐらいでいい、と先輩の佐山順平から聞いた記憶がある。


 なので、へりくだる必要があるときの恭介は「僕」と言うようにしている。 


「わたくしは車の運転があるので、遠慮させていただきます」


 エレノアは申し訳なさそうに断る。


「ここでも飲酒運転はアウト?」


「当たり前でしょ」


 二人が顔を寄せて小声で話す。


「ホテルに泊まらないのかね?」


 と、ニックが訊くと、二人はニックに向き直る。


「明日の調教があるので、泊るわけにはいきませんわ」

「ほう、そうか」


 ニックは納得した素振りを見せてから給仕に蒸留酒を二人分、冷たいお茶を一人分注文した。

 その間にも油断なく二人の様子を窺う目つきをしていた。


 ――もう、品定めは始まっているな。


 と、恭介は直感した。

 何気ない会話をしているふりをして、ニックの目が一瞬、鋭くエレノアを見据えていたからだ。

 もしエレノアがこのホテルに泊まるといえば、責任感のない調教師と見られた可能性がある。

 ビジネスパートナーにふさわしいか油断なく見極めようとしているのだ。


 ――かなり大変だな。


 会談の内容が今後を左右する、とはっきり悟った。


 ニックが注文を終え、給仕を下がらせた。


「さて、早速本題に入ろうか」


 ニックは不意に柔和な目つきになり、恭介を見据えた。

 一見すると優しそうに見えるが、その目の奥から鋭い眼光を放っている気がした。

 成功した商人らしい油断ならない雰囲気が滲み出ている。

 前置きを省いていきなり本題に入るあたり、時間の無駄を省く性質らしかった。


 そして、ニックは恭介、及びスピレッタ調教場の今後を左右する言葉を口にした。


「キョースケ君、ぜひ私の主戦騎手になってくれないか」


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