スピレッタ調教場に残った理由
厩舎に入ると、奥の馬房の前に人影が見えた。
間違いなくロディである。
スピレッタ調教場の馬房はかなり広く、ペガサスが余裕で行き交えるほどの通路があり、その両側に二本の棒で渡した馬房が並んでいる。
かつての名門らしく、何十もの馬房をこしらえていた。
明かり取りの窓からわずかに洩れる月明りだけが厩舎の中に入り込み、今や十頭程度のペガサスしかいない厩舎には寂しげな空気が漂っている。
一番奥にあるアシタスの馬房の前に、ランプの灯がともっていた。
アシタスが馬房から顔を出していて、ロディがアシタスの頭を撫でていた。
「ロディさん、なにしてるんすか?」
恭介が近寄って声をかけると、ロディがこちらを振り向き、意外そうな顔つきになった。
「ああ、ちょっとな。アシタスの状態を見ていたんだ」
「脚でも悪いとか?」
「いや、そうじゃない。ただなんとなくな」
もう一度アシタスに顔を向けて、頭を撫でた。
するとアシタスは首を回して恭介の方へ顔を向ける。
「元気そうですね」
恭介はアシタスに近寄り、頭を撫でてやろうとした。
するとロディが蹲り、脇に置いてあったバケツから切り分けたリンゴを手に取って立ちあがった。
「ほら、おまえの手で食べさせてやってくれ」
ロディはリンゴを渡すと、一歩後ろに下がる。
恭介はリンゴを食べさせようとすると、アシタスはリンゴに鼻を近づけて匂いを嗅ぐ素振りを見せる。すると差し出したリンゴを口に入れ、ついでに恭介の掌も舐めてから、すりつぶすようにして口を動かした。
「うまいか」
優しく声をかけ、アシタスの頭を撫でる恭介。
「レースが終わったあと、大変でな。引き運動してから飼葉をやったら、もっと寄こせって桶を揺するんだ」
「へえ、普段は大人しそうなんすけどね」
「こいつは結構大飯食らいなんだ」
と軽く会話を交わしたあと、当初の目的を話し始めた。
「ロディさんって、なんでエレノアに仕えているんですか?」
大げさな言い方かなとも思ったが、貴族の下で働いているので間違った言葉ではない気もする。
ロディはなぜそんなことを聞くんだと言いたげに、眉をひそめる。
怒っているふうではなく、その質問をした恭介を不思議がっているようだ。
「うちは代々、キプロン伯爵、つまりスピレッタ家に仕えているからな」
「それだけっすか?」
「どういうことだ?」
「いや、まあ、ロディさんたちが何で引き抜かれないで、ここにいるのかなって思っただけです」
「引き抜きの話は、俺にもあったさ。いや、俺だけじゃない。ラモン、オリアナ、ミノルさん、みんなマカベウス子爵やジュスタンさま、それにチャップル先生の誰かに声をかけられた」
「なら、ロディさんたちは優秀な厩務員なんすね」
「どうだろうな。あの人たちの思惑はあくまでキプロン伯爵を追い詰めることだからな。優秀かどうかなんて関係ない。キプロン伯爵の力を削ぐためにスタッフのほとんどを引き抜いただけだ」
「でも、かなり給料はいいでしょ。あのジュスタンって人、そう言っていましたよ。少なくとも伯爵よりもいいって。この調教場のスタッフの腕に適う金を払う価値があるってことじゃないっすかね」
「金の問題だけじゃないな。さて、どう話したらいいものか」
と、ロディは恭介に近寄ったかと思うと、アシタスを見つめた。
話す気でいるが、頭の中でまだ整理がついていないらしい。
ロディの横顔が力なく感じた。
「少なくとも、ロディさんがエレノアに仕えているのって生半可な気持ちじゃないってことぐらいはわかりますよ」
と恭介は言った。
「そうか?」
「そうっすよ。何も知らない世界に来て俺を連れてくるぐらいっすからね。ロディさんにとっちゃ日本なんて何もわからない場所じゃないですか。エレノアを助けるために命を懸けたってことぐらいはわかりますよ」
「そうだな。たしかにそうだ」
「ま、俺に撮っちゃ迷惑でしたけどね」
と恭介は軽口を叩いて笑顔を見せる。
ロディはジャケットのポケットに手を突っ込んで、宙を眺めた。
呆けたような表情にどこか意味深長な趣があった。
耳が痛いほどの沈黙が流れたあと、どこかの馬房から寝藁を擦る音が厩舎内に響いた。
木造の厩舎とは思えないほどの反響だった。
音はすぐにやみ、また沈黙があたりを覆う。
「身近で」
ようやくロディが口を開いた。
「輝く人を見ていたかったのかもしれんな」
「エレノアのこと?」
「ああ」
そう頷くとロディは恭介の肩越しから入口に目を遣った。
恭介も気になって後ろを振り向くと、誰もいなかった。
「お嬢さまは幼いころからペガサスに親しまれていてな」
どうやらロディはエレノアがいないのを確認したらしかった。
その声を聞いて恭介はロディに向き直った。
「それはさっき聞きました。たしか七歳か八歳のころから馬に乗っていたって」
「そうか。それなら話は早いな」
「結構昔からの知り合いなんですね」
「ああ。俺が十八のときにキプロン伯爵に仕え始めた頃だから、とっくに十年は過ぎているか」
「ロディさんって意外と若いんすね。四十ぐらいかと思った」
「老け顔だってよく言われるよ」
恭介の失礼な言い方を笑っていなすロディ。
「とにかく、俺たちがお嬢さまにペガサスの接し方を教えたんだ。世話の仕方、飼葉の作り方、ペガサスの接し方、そして騎乗技術」
「じゃあ、ロディさんはエレノアの師匠ってことか」
「俺だけじゃないさ。騎乗技術を直接教えたのはキプロン伯爵だ。あの方も昔はアマチュアの騎手をやっていたからな」
「へえ、貴族が騎手ねえ」
「おまえの世界ではいないのか?」
「そもそも日本に貴族はいないっすから。海外のことはよく知りませんけど」
「まあ、その点はどうでもいい。伯爵の手ほどきもあってお嬢さまに天賦の才能が目覚め始めたんだ。学校からお帰りになったあと、すぐに牧場に行って訓練し、ペガサスの世話をする毎日を過ごされていた」
――この世界にも学校があるんだな。
と思ったが、口にはしなかった。これだけの文明があるのだから当然だと考えた。
「お嬢さまはペガサスを愛していた。どんなに手のかかるペガサスでもお嬢さまはめげずに接していた。時には俺たち厩務員の仕事を奪いかねないぐらいの働きぶりでな。本来お嬢さまほどの令嬢なら厩舎作業なんて厩務員にやらせればいいんだが、普段から世話をしたいって聞かなくてな。一所懸命すぎて困ったぐらいだ。まあ、それは今も変わらないか」
ロディは目を細めて静かに笑った。
共に過ごした日々を回想し感慨に耽ったのかもしれない。
「一所懸命すぎて、ちょっとした騒動を起こしましたけどね」
「あれはやり過ぎだな。真っ直ぐすぎるんだ、お嬢さまは」
ロディは笑みを浮かべて軽口をたたいた。
それにつられて恭介にも笑みが零れる。
「ペガサスに触れる日々を過ごされて、お嬢さまはレースに騎乗したいとお考えになったんだ。俺たちはすぐに賛成した。なにしろ、その頃には既にペガサスの調教を手伝ったりして、伯爵やチャップル先生、ミノルさん、俺たちみんながお嬢さまに才能があると感じていたからな。ああ、そのころにはラモンとオリアナもいたな」
「すごかったんすね。エレノア」
「ああ。そして、お嬢さまは在学中にアマチュア騎手としてデビューするとすぐに頭角を現した。ファンの数も増えて、ペガサス競馬に興味のない人にまで名前が浸透していった」
「それは前に聞きました。でもそこまでとは思わなかったな」
「レースに騎乗しているお嬢さまの姿を見て、目を細めたものだ。まさか幼いころから見てきた人が、誰もが認めるスーパースターになろうとしていたんだからな。それが調教師になるって聞いたときは驚いたなんてもんじゃない。騎手としてまだまだ伸び盛りの時期だったんだからな」
「……」
「当然、俺たちは反対した。騎手と調教師では、やっていることは全く違うからな。お嬢さまは有名人だが、それだけで預託してくれる馬主がいるわけじゃない。調教師としての腕は全くの未知数だ。大金をはたいて購入したペガサスを預けるにはリスクが大きいと考えるのが普通だ」
「でも、ロディさんたちは、エレノアが調教師としても成功するって感じたんじゃないんですか? だから今もここに残っているって考えちゃうんですけど」
「時間はかかるが、お嬢さま、それに俺たちが手を尽くせばなんとかスピレッタ調教場を立て直せると思った。なにしろお嬢さまが調教師になって間もないし、まだ評価を下すには時期じゃない。それに力のあるペガサスがいるんだからな。望みはある」
ロディは滔々に語ったが、その見通しは甘い気がした。
現にスピレッタ調教場には恭介を含めて六人の人員しかおらず、
預託馬も十頭程度、しかも今や馬主業から手を引こうとしているキプロン伯爵の持ち馬だけであり、乗る騎手が恭介しかいないとなると、先の見通しは明るくはない。
そんなことを思っていると、ロディは恭介の肩に手を置いて、じっと恭介の目をのぞき込んだ。
あまりにも真剣な眼差しに恭介は、たじろぎそうになった。
「今はキョースケがいる。お前の手でお嬢さまを輝かせてやってくれないか」
「できるだけのことはしますよ」
としか言いようがなかった。
エレノアの期待に応えたい気持ちは、当然ある。
だが結局のところ、競馬は馬の力がなければ勝てないのだ。
ロディは手を肩から離すと、言葉を続けた。
「手の回らない部分は俺たちが補えばいい。お嬢さまには少しでも表舞台に立って輝いてもらいたいんだ。なにしろ幼いころからお世話した方だからな。平凡な人間になり下がったまま終わってほしくないんだ」
ロディたちがスピレッタ調教場に残ったのは、親心に似た感情があったからなのかもしれない。
幼いころから世話をしている人が華やかな舞台で輝く姿を誇らしいと感じたのだろう。
たとえ調教師に転身しようとも、身近な人が活躍するのを見て嬉しいと感じるのはごく自然な感情である。
彼らにとってエレノアの成功が何よりも勝る報酬なのかもしれない。
ありきたりな答えだが、恭介は妙に納得した。
日本で初勝利を挙げた時も、家族や親戚、それに同期の騎手たちが祝ってくれた。
それとは比べ物にはならないが、身近な人が花を咲かせる瞬間を目の当たりにすると、自分のことのように嬉しく思うのは当然な気がした。
「あと、ちょっと気になったんすけど」
と言って、恭介は口籠った。
単なる思い付きで、直感でしかないのだが、もしかしたらという気持ちがあった。
「エレノア、騎手に復帰したいんじゃないんですか?」
「どうしてそう思った?」
「いや、なんとなくっすけど。俺と一緒に競馬観戦したり、付添人を買って出たり、エージェントみたいに俺の騎乗馬を確保してくれるってのは、調教師の仕事から外れている気がしたもんですから」
恭介の視線が宙を泳ぐとロディは一歩進み出て、またしても真剣な眼差しで恭介の顔をのぞき込んだ。
「キョースケ。頼むから、そのことは口にしないでくれ」
「え?」
異様に真面目な顔つきになるロディを怪訝に思った。
「お嬢さまは、調教師としてやっていく覚悟を決めたんだ。決意を揺るがすようなことはしないでくれ」
じゃあ行くか、と言って、ロディは恭介の横を通り過ぎた。
――ロディさんも……。
エレノアが騎手に復帰してほしいんじゃないか、と彼の後ろ姿を追いかけながら思った。
ただ恭介はロディとの約束は守る気でいる。
仮にエレノアが騎手に未練があったしても、今は調教師としてやっていく覚悟を固めたはずである。
エレノアの気持ちを揺さぶったところで、要らぬ混乱を巻き起こしかねなかった。
――もし、エレノアが騎手に復帰できるとすれば……。
この調教場を成功に導き、ロディたちの誰かが調教師になったときだろう。
その可能性は限りなく低いが、エレノアの気持ちを汲むにはこれしか方法がない気がした。
そして、自分にできることはただ一つ。勝つことだけだ。
恭介は自分でも気づかなかった弱点を指摘してくれたエレノアに感謝の気持ちを表すため、スピレッタ調教場のペガサスで勝利をもたらしてやりたかった。




