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それぞれの想い

 自信がないと言ったエレノアの言葉に、恭介は胸を衝かれた。

 

 そしてその言葉は、畠山恭介という騎手の本質をついている気がした。


 優れた騎手にあって自分にないものは騎乗技術だけではない。

 騎手としての矜持が自分に足りなかったのだと思い始めた。

 勝利数という事実に捉われすぎたせいで、恭介は自信を失いつつあったのかもしれない。


 いや、自信なんか初めからなかった。

 同期の田口大也やその他の優れた騎手たちの技術を目の当たりにして自分との違いを見せつけられ、その原因を小さなころから馬に触れて来ていないせいだと思い込んでしまい、埋めることのできない差だと感じていた。

 

 それは違うと否定したのは先輩の佐山順平である。


 ひょっとすると飲み会のとき、順平が褒めてくれたのは真実だったのではないか。

 あのとき、順平は経験を積めばいい騎手になれると言った。

 将来的に、恭介の騎乗技術が向上する保証を与えてくれたのだ。


 ――もしかしたら……。


 順平は恭介の弱点にうっすら気づいていたのかもしれない。

 技術は後からついて来ると言って、自信を持たせてくれる意図があったのだろうかと、今になって思う。



 恭介は動けなかった。

 エレノアにどう言っていいかわからなくなって、ただ彼女の横顔を見つめたままになってしまう。


「キョースケ、一つだけお願いをさせて」


 エレノアが恭介を見据える。

 その目には、一人の調教師として不甲斐ない騎手を(たしな)める趣がある。

 恭介は思わず肘を窓枠から離し、じっと聞く姿勢を取った。


「たしかに、あなたはあっちの世界では大したことないかもしれないわ。でも、いまペガサス競馬でキョースケがやっていることって、途轍もないことなのよ。だから、キョースケには自信をもって、レースに臨んでほしいの」


 口調は優しく、心底から溢れる願いが込められていると感じた。


 「約束、するよ」


 恭介は真剣なまなざしで願うエレノアの想いに応えたかった。


 と、そのとき恭介の横目に影が見えた。

 気になってフロントガラスに目を遣ると、心臓を思いきり殴られた感覚を味わった。


「エレノア! まえ! 鹿! 偶蹄目!」


 影の正体は勇壮な角が生えた一頭の雄鹿だった。

 車線の片側を塞ぐようにして佇立し、襲ってくる車を見つめている。

 この世界にも鹿がいるのかと感心している暇はない。


「きゃああああ!」


 エレノアは慌ててハンドルを切った。

 車体が揺すられ、タイヤが音を立てて滑る。

 恭介の身体も左右に大きく振れて、脳みそが頭蓋骨の中で暴れまわった。


 なんとか鹿をかわし、車体を進路方向へと立て直した。

 危機が去ったあとも、恭介の心臓が脈を打ち、シートからずりおちそうな体勢となっている。


「ご、ごめん」


 エレノアもまだ動揺しているらしく、背中を丸めて異様に注意深く前を見つめて言った。


「よ、よそ見は馬に乗っているときだけでいいって、あ、あはは」


 恭介はシートからずり落ちそうになり、にわかに襲った恐怖が過ぎ去って妙な笑い声をあげた。


「おかしいなぁ。いつもならよそ見なんてしないのに」


 事故を起こしかけた当人が不思議そうにつぶやいた。


「と、とにかく、今度から気をつけてくれよ」


「う、うん、わかりました」


 エレノアは引きつったような声で言った。



 二人を乗せた車はスピレッタ調教場の門に入って行った。

 入り口近くにペガサスの銅像があり、通路の脇には木々が植えられている。

 すっかりあたりが暗くなり、木々の間から見えるはずの芝生は闇に覆われて、ずっと遠くにそびえる山々の影が見えるだけである。


 二人は車を降りて、大仲の近くまで行くと、スピレッタ調教場のスタッフたちが出迎えてくれた。

 中の灯が洩れているおかげで、彼らの表情の判別がつく。

 ラモンは両手をあげて恭介を迎え、オリアナは腰に手を当てて微笑む。

 壮年のミノルは黙って二人を見据えるも、どこか感慨深げに目を潤ませていた。


「ありがとうな」


 ラモンは恭介に駆け寄り、力一杯抱きしめた。


「ちょ、ラモンさん。そんな大げさな」


「大げさなもんか。俺たちの苦労がようやく実ったんだ。レース見てたぞ、圧勝だったろ。これなら次もいただきだ」


 どうかな、と恭介は冷静に思ったが、せっかくの喜びに水を差したくなかったので、


「次も頑張ってくれると思いますよ、アシタスなら」


 と、無難な答え方をした。


「ああ、次もよろしくな」


 ラモンは抱きついた腕を離すと、今度は右腕で恭介の首に回す。

 よほどうれしいようで、恭介の顔はラモンの脇に寄せられ、締め付けられる格好となった。

 あまりのラモンの喜びように、恭介は苦笑いを浮かべる。


「お嬢さま、夕飯の支度は済んでいます。ささやかながらアシタスとキョースケの祝勝会も兼ねてみんなで乾杯しませんか?」


 オリアナが嬉しそうな声で誘った。


「姐さんの料理は絶品だからな。どこの店に出してもおかしくないぞ」 


 ラモンの締め付けが強くなり、恭介は思わず呻き声を上げる。


「そうね。ありがとう。でも、ほどほどにね。キョースケは明日もレースがあるのよ」


「お嬢さまは明日どうなさるのですか?」


 珍しくミノルが声を出した。

 他のスタッフと絡むことが少ない上に、口数が少なく、黙々と仕事をこなす職人肌の男だと思っていたので、エレノアの予定を訊いてきたのが意外だった。


「明日もキョースケの送り迎えをするわ。それに馬主さんたちにも挨拶しなきゃならないしね」


「いいのか? ここの馬の面倒を見なくて」


 恭介はラモンの右腕を取り、軽く捩じ上げる。

 ラモンは恭介の力が意外に強いと感じたらしく、おおうっと声を洩らし、芝居っけたっぷりに地面に片膝をつき、わざと苦しんだふりをする。


「預託してくれる人を探さなきゃならないしね。お父様のペガサスだけじゃ、これから先とてもやっていけないもの」


「そうか、それも調教師の仕事だもんな」


 調教師の仕事は何も競走馬を預かり、レースに出走させるだけでは務まらない仕事だと恭介は理解している。


 恭介が日本にいたころ、師匠の小木調教師が馬主と電話で話しながら、頭を下げているのを見たことがある。

 恭介や厩舎スタッフに対して威厳を持って接している小木調教師が、馬主にはめっぽう弱い。

 情けない人だと思った。しかし電話を切ったあと、やるせない表情で溜息を吐いた光景が妙に焼き付いた。

 恭介と目が合うと、いつもは厳しい小木調教師が力のない苦笑いを浮かべ、言い訳もせずにその場を去った。

 やがてその電話の内容が、良血馬が入厩するかどうかの瀬戸際だったことを知ると、調教師の苦労が理解できた。

 小木調教師は好きで媚びを売っていたのではない。

 勝てる馬を一頭でも多く入厩させるため、プライドを押し殺して馬主に頼んでいたのだ。

 良い馬を入厩させて適切な調教をし、レースで賞金を得るのが調教師の仕事である。

 時には下げたくない頭も下げて、馬主にお願いをしなければならない場面もある。

 馬を扱う腕だけ一流でも務まらないのだ。


 そう言ったことを鑑みると、調教師は会社の経営者及び営業マンとしての資質も問われる仕事なのかもしれない。

 エレノアもそういった苦労をしてペガサスを集めている最中なのだろうと思い、彼女が少しでも報われてほしいと胸の内で願った。


「とりあえず、中に入りましょう。アシタスとキョースケの初勝利だもの。こんなうれしい日はないわ」


 と、エレノアがみんなを促したとき、恭介はロディがいないことに気づいた。


「ロディさんは?」


「ああ、馬房にいるよ。アシタスの状態を見てるんだ」


「脚でも痛めたんすか?」


「いや、レースで頑張ってくれたから、労ってやってんだよ」


「よかった。じゃあ、呼んできます」


 と言って、恭介は駆け足で馬房へと向かった。


「キョースケ、身体を休めないと」


 エレノアの声が聞こえたが、あえて無視した。

 ロディとサシで話せるいい機会だと思う気持ちがある。


 ――エレノアのこと、どう思っているんだろ?


 それは下心や嫉妬ではなかった。

 有力馬が去り、優秀な調教師や厩務員が引き抜かれた後も、スピレッタ調教場に従事しているロディたちのことが、前から気になっていた。


 些細な問題かもしれない。

 しかし、わずかな疑念を残したまま調教やレースをこなしたくない思いもある。


 恭介はこの機会にロディの本音を知っておきたかった。


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