帰りの車中で
査問委員会の取り調べを終えて外に出ると、日が傾いていた。
西の空が蜜柑のような橙色に染まり、少しずつ闇が忍び寄る時間帯になっていた。
観客はとっくに帰ったあとで、グレイラム競馬場に夜の静けさが訪れつつあった。
ペガサスレーシングクラブの職員たちは残った仕事があるらしく、スタンドの上部から通路の灯が仄かに洩れている。
関係者専用の駐車場にも点々と車が停められていた。
恭介はどこに車を停めたかわからなくなり、ついエレノアの後ろについていく格好となった。
車を見つけると、エレノアはすぐに鍵を開けて運転席に乗り込んだ。
恭介も後部座席に荷物を置いてから助手席に座る。
駐車場を出てすぐに、眠気が兆してきた。
色々あったペガサス競馬の初日、慣れない環境での競馬に自分が思っているよりも疲れが溜まっているらしかった。
ここで寝ては申し訳ないと思い眠気をこらえるものの、つい寝落ちしてしまいそうになる。
「疲れたでしょ」
エレノアが微笑を交えて訊いた。
「ああ、ごめん」
調教師と付添人を兼任してエレノアも疲れている上に、騒動の渦中の人となり査問委員会から処罰を受けた。
自分で蒔いた種であるにせよ、ジュスタンの蛮行からバジルを守るためのやむを得ない措置とも言えた。
そしてジュスタンとの婚約解消は、エレノアに安堵をもたらすと同時に新たな禍根を残したのかもしれない。
見方を変えれば恭介以上に色々なことがエレノアの身に起きたとも捉えられる。
これだけの出来事が起きたのだから、エレノアも心身の疲労があってもおかしくない。
自分だけ寝るのはどうも申し訳ない気もした。
「いいのよ、騎手は身体を休めるのも仕事でしょ。ゆっくり休んで」
「いや、なんかいろいろ世話してくれて申し訳なくてさ」
「キョースケって意外と気遣いの人なのね」
「じゃなきゃ、やっていけなかっただけさ。馬主さんや調教師の先生、それに厩務員や同僚の騎手。関係者に嫌われたら乗る馬なんていなくなっちまうよ」
「そっか。そうよね、嫌いな人に乗ってほしいなんて人、いないわね」
「とんでもなく上手い騎手なら話は別かもな。けど、俺は一流の騎手じゃない。ロディさんから聞いたろ、本当は俺じゃなくて順平さんを連れて来たかったって。で、その人はこっちの世界じゃトップクラスの騎手、しかも各国を飛び回って海外のG1も勝ってさ。俺なんかとじゃレベルが違うよ」
「わたしはそう思わないけどなぁ。ジュンペーさんって人がどんな人が知らないけど、キョースケだってこれからなんじゃないの?」
「どうだかな」
不意に恭介は現実を突きつけられたように感じ、冷静に振り返った。
デビュー四年目でようやく六十勝を超えた程度の成績ではとても一流とは言えない、と恭介は思う。
せめて複数回重賞を勝っていたり、G1で何度も好勝負しているなら勝利数以上の腕があると認められる可能性もあるが、むろん恭介はそのどちらでもない。
若手だから、見習だからという理由が通用しないのが競馬の世界だった。
少なくとも恭介が知る限り、一流騎手のほとんどが見習騎手のころから才能の片鱗を見せ、順調に勝利数を伸ばしていた。
恭介は伸び悩んでいた。
関係者のコネもなく、かと言って優れた技術を持ち合わせていない見習騎手では良い馬に乗せてくれるはずがない。
これから上手くなって行ったとしても、自分以上に上手い後輩が良い馬に乗るに違いなかった。
仮に騎乗技術が向上したとしても、その頃には騎乗機会がなくなる恐れがある。
その先には、若くして引退せざるを得ない残酷な結末が待っている気がしたのだった。
話の接ぎ穂を失い、二人はしばらく口を開かなかった。
恭介は自分から口を開かなかったし、エレノアも恭介が疲れていると感じたらしく、じっと前を見て車をスピレッタ調教場へと車を進めている。
時おり、エレノアが横目で見てくるのに気づいていたが、なにを話していいのかわからないまま時間が過ぎた。
車は町中を過ぎ、郊外へ出たところだった。
遠い山の向こうに沈んだ日の光が山に遮られ、稜線がかすかに白んでいる。
舗装された車道にヘッドライトが当たるだけで、横の窓から見える丈の高い草花が闇の中に朧に映っている。
窓枠に肘を乗せて頬杖をつきながら、あと三十分切ったところかな、と思ったとき、エレノアが口を開いた。
「キョースケ」
「うん?」
恭介はヘッドライトで照らされた道を見ながら言った。
「うれしくないの?」
「いや。うれしいけど、なんで?」
「キョースケの話を聞いていると、なんだか謙虚すぎるんじゃないかなって思って」
いきなり何を言い出すのかと思った。
が、今まで思ったことやエレノアに言ったことを振り返ると恭介自身にも思い当たる節があった。
エレノアを横目で一瞥してから、心持ち視線を下げて進路方向に目を向ける。
「そうかもな。さっき言った順平さんも俺の同期のやつも俺の何倍も上手いよ。ああいう化け物みたいな人がゴロゴロいるんだからな。どうしても比べてしまうんだよなぁ」
「でも、今日のキョースケ、大活躍だったじゃない。アシタスを勝たせてくれたし、他の子も二着と三着だからいい成績じゃない」
「たまたまさ。それに他の騎手がやらないモンキー乗りしてたってだけの話だよ。もし俺の世界にいるトップジョッキーが乗ったら、アシタスももっと楽に勝たせてやれたし、他のレースだって勝てたかもしれないんだ」
「キョースケが乗ってくれたから、あの子たちも頑張れたのよ。それに自分よりもうまい人がいるって認めるのも、立派な長所だと思う。今までのキョースケを見ていると、驕りなんてものとは無縁だって感じるわ。けどね、キョースケにはもっと胸を張ってほしいの」
「……」
「勝手なことを言っているってわかっているわ。でもね、キョースケはわたしたちが思った以上のことをしてくれているのは事実よ。あなたから見れば、わたしたちの技術は拙いのかもしれないし、そんな中で勝っても心の底から喜べないって気持ちもわかるわ。騎手ならレベルの高いところで競いたいって思うのは当然だもの」
「ああ、そうだよ。俺だってダービー、ジャパンカップ、有馬記念みたいに――ああ、これは日本で有名なレースなんだけど、そんな大きいレースを勝ちたいって思っているし、リーディングジョッキーにだってなりたい。だけど、どうしたらいいのかわからなくてさ。俺なりに努力はしているつもりなんだけどな」
「そう……」
エレノアはそれ以上語る言葉を持たないようだった。
前を向いているが、目から力が消えたように見えた。
物のついでに、自分が一番足りないものについてエレノアに訊いてみる気になった。
それは恭介がこの世界に来る前、日本で競馬に乗っていたときから感じていたことである。
「エレノアって、いつから馬に乗っていたんだ?」
恭介はエレノアの横顔に目を遣って言った。
「どうしたの? いきなり」
「ちょっと気になってな。上手い騎手って小さいころから馬に乗ってきたイメージがあるもんだからさ。たしかエレノアって有名な騎手だったんだろ?」
「もう、過去の話よ。そうね、お父さまが初めて牧場に連れて行ってくれたときだから、七歳か八歳ぐらいだったかしら」
エレノアは苦笑いを交えて言った。
「そんなに早く?」
「キョースケは違うの?」
「俺は中学卒業してからだから、十五歳の時だな」
「遅いのね」
「ああ、遅すぎる。人によっては馬に乗る技術を身に着けるには、十二までに馬に乗ってなきゃならないって考える騎手もいるぐらいだしな」
「それがどうしたの?」
「いや、なんとなくな」
「もしかして、そのことを気にしているの?」
とエレノアが訊いてくると、恭介は座りが悪くなり、少し腰を浮かせて姿勢を直した。
「出遅れた、って思っている」
「そうなの……。でもね、キョースケの欠点って違うところにあるんじゃないかしら」
「どういうことだ?」
恭介には心当たりがなかった。
騎乗技術が未熟な点以外にも欠点はあるのだろうか。
関係者のコネクションが弱いのは自覚しているが、そのことをエレノアに言った覚えはなかった。
思い返していると、不意にエレノアが恭介に目を向けた。
彼女の瞳にはどこか強い意思のようなものが感じられる。
そして、エレノアは恭介の思ってもいなかったことを口にした。
「自信が、ないのよ」
エレノアの言葉に、恭介は時が止まったような感覚に陥った。




