査問委員会
「エレノアのやつ、相変わらずみたいだな」
控室で恭介の隣に座っているケニーが苦笑いを浮かべる。
騒動の顛末を彼に話すと、訳知り顔で納得した。
その間、ケニーは第四レースに騎乗しており、レースを終えてからエレノアのビンタ事件を恭介に尋ねてきたのだ。
「エレノアってけっこう気が強いんすね」
「気が強いっていうか、うーん、なんていうかな……感情が豊かなんだろうな」
「ケニーさん、そのことを知っていたんすね」
「ああ。何年か前、あいつが騎手だったころ、女騎手にちょっとした、そのぉ……いたずらをかました奴がいたんだ。そしたらエレノアがそいつんとこに乗り込んできて、大立ち回りを演じたんだよ。あのときのエレノアはすごかったな。一歩もひるまないで、詰め寄った挙句、ビンタをかましたんだからよ。おかげで、そいつは騎手をクビになって、エレノアは騎乗停止処分になったって話だ」
外聞をはばかったらしく、ケニーはぼかした言い方をした。
いたずらの内容は相当質の悪いものだったようだ。
「正義感が強いってことっすかね」
「そうともいえるな。で、キョースケさ、おまえも査問に呼ばれたんだっけ?」
「俺は騒動とは関係ないっすけどね。レオポルドに落とされそうになってそのことを聞きたいって言ってました」
「正直に言えよ。査問委員の連中、ほんとよく見てるからな。変な言い訳するとへそ曲げて、処分が重くなることだってあるしな」
「そうっすね」
話もそこそこに、恭介はケニーに断ってから席を立ち、第五レースの準備のとりかかった。
◇
開催初日のレースが終了し、荷物をまとめたあと査問委員のベッリーニが呼び出しに来た。
恭介は上機嫌になって応じた。
というのも、恭介はこの日、アシタスに乗った第三レースしか勝てなかったが、首尾は上々だった。
第五レースでは近走二桁着順の続いたペガサスで単独の逃げに打って出てペースを握ると、上手い具合にスローペースに持ち込み、後方馬群から抜け出す人気馬をあわやというところまで追い詰めた。
ゴール板を過ぎたとき、半馬身差の二着に敗れたが、今後のレースに目処が立ったということで、担当の調教師や厩務員から喜ばれた。
最終レースは平地の条件戦で、このレースに騎乗したペガサスも近走の成績が振るわず、馬券の人気も下から数えた方が早かった。
五十四キロというペガサス競馬にしては軽い斤量だが、さすがに上位に入選するのは難しいと恭介自身も思っていた。
それに加え、跳ね上がったロープにペガサスが驚いたせいでスタートが出遅れ、馬群の最後方からレースを進める羽目になった。
だが、それが結果的に良い方向へと出た。
陣営の話によると、前進気勢が強く、騎手の指示に反してペースを上げるので、かなり乗り難しいペガサスだと言われた。
ところが陣営の話とは違い、この日は終始落ち着いたまま、気分よく馬群の後方に構えることができた。
その理由はいまいち判然としなかったが、おそらく馬群を嫌うタイプのペガサスだと判断した。
なので、直線に入ると恭介はごちゃついた馬群を嫌い、馬群の外に進路を取り、馬場の真中からの追い込みを決めようとした。
追い込み体勢に入り、右鞭を一発入れると、じわじわと進出し、最後は勝ち馬に離されたものの三着に入った。
今日デビューした新人騎手としてはこの上ない成績である。
欣喜雀躍したい気持ちが査問委員会に呼び出された緊張感をどこかへ押しやった。
査問委員会の執務部屋は騎手の控室から離れているらしく、かなり歩かされた。
スタンドの真中あたりの入口に入り、すぐ右にある職員専用通路へと入って行く。
突き当りを右に曲がると、タイルの張られた階段を四階まで登って行く。
レースを終えたあとの充実感と疲労が恭介の身体に満ちている。
早いところ帰ってベッドの上で横になり、初騎乗初勝利の余韻に浸りたかった。
先を行くベッリーニの後ろ姿を見ながらそんなことを考えていた。
廊下の半ばあたりに、艶のある木製のドアがはめられてある。
そこが査問委員会の部屋らしかった。
妙に威厳を備えた感のあるドアの造りが査問委員会の権限の強さを暗に示しているようだった。
ベッリーニがドアを開けて、恭介を中に入れた。
奥に並べられたテーブルに三人の査問委員が列席しており、しかめっ面で目の前に座る人達に鋭い視線を送っているところだった。
ベッリーニはその右端の開いた席に腰を下ろす。
その光景と全身にのしかかってくる重い空気のせいで、恭介は初騎乗初勝利の喜びが塗りつぶされた。
査問委員たちは裁判官のような謹厳な印象があり、規定を忠実に遵守し執行する油断のなさがうかがえる。
機嫌を損ねては、取り返しのつかない事態になりかねないと感じた。
委員たちの背にはガラス張りの壁があり、その端が外への出入り口になっている。
コース全体を見渡し、レースを監視する役目を行う場所のようだった。
エレノア、ジュスタン、デイン、レオポルド、バジルがこちらに背を向けて座っている。
四人は間隔をあけて木製の椅子に腰かけていた。
丁度エレノアの椅子が空いている。
「あ、キョースケ」
エレノアが振り向いて顔を向けた。
「キョースケ・ハタヤマ騎手、お掛けください」
左端の女性委員が、優しい声音で座るように促す。
恭介が緊張していると感じたらしく、あえて作った声で言ったように聞こえた。
「失礼します」
企業の面接を受けるときのようなやり取りをしてエレノアの隣に腰かけた。
他の人の反応が気になり、恭介はジュスタンたちの方へ目を遣った。
ジュスタンは脚を組み、不遜な態度でいる一方、デインとレオポルドは緊張した面持ちで正面に目を向けている。
「では、早速始めましょう。ああ、ハタヤマ騎手は初めてでしたね。私がこの開催の主席査問委員、ディズレーリです」
波がかったごま塩頭の男が嗄れ声で自己紹介する。
一見すると、単なる小男にしか見えないが、貫くような眼光を帯びた目つきに、長年ペガサスレーシングクラブの規定を司ってきた人間の自負が見え隠れしている。
「よろしくお願いします」
迂闊なことは言えねえぞ、と気を引き締める。
重苦しい査問委員会の雰囲気とは裏腹に彼らの仕事は早かった。
すでにエレノアたちから聞き取りをしていたらしく、いきなり恭介に質問が飛んできた。
恭介は訊かれたことを正直に話した。
彼らは、時おり納得した顔つきになり、自分たちの調査と恭介の証言に齟齬がないのを認めた。
結果、恭介、デイン、バジルの三人に処分はなかった。
証人として同席しただけなので当然である。
特にバジルは暴行を受けた被害者なので査問委員たちも大いに同情の意を表した。
ただ、レオポルドの審議についてはかなり難航した。
恭介のつま先を引っかけ落馬させようとしたのは事実だが、それがレオポルド自身の判断でやったのか、ジュスタンの指示で行われたのかという証言の食い違いがあったからだ。
レオポルドはジュスタンの指示でやったと言った。
自分はこんなことをしたくなかったが、恭介を落馬させないとペガサス競馬に乗れなくしてやると脅されたと査問委員会の場で証言したのだ。
一方のジュスタンはそんな指示を出していないと言い張った。
そのとき、レオポルドは憤怒と絶望の眼差しで彼を睨んだ。
明らかにジュスタンの指示で恭介を落馬させようとしたと見えるのだが、査問委員会は起こった事実に対してのみ検証が行われるため、レオポルドが悪質な妨害を行ったことのみを問題視した。
「納得できるか!」
レオポルドは席を立ち、怒りを露わにした。
「やめろ、レオポルド。処分が重くなるぞ」
デインが必死に宥めたので、レオポルドはなんとか怒りの矛を収めた。
結局、証言の食い違いを解消できないまま、レオポルドには一ヶ月の騎乗停止処分が下った。
本来ならもっと厳しく咎められるらしいのだが、エレノアがレオポルドの肩を持ったおかげで軽く済んだのだ。
「騎手が馬主に歯向かうのはよっぽどのことよ」
と、エレノアが恭介に小声で言った。
ジュスタンについては、ペガサスレーシングクラブが運営する競馬場への出入り禁止が言い渡された。
期間は三ヶ月。
チャップルを殴打したことが重大な問題だと判断したようだ。
曰く、ペガサスレーシングクラブの一員としての責任が欠如し、世間に恥をさらした事実は重いとのことである。
ジュスタンは納得がいかない様子だったが、デインがとりなしてこれ以上の不行跡を働くことはなかった。
そして、そのジュスタンを張り倒したエレノアだが、暴行を止めるための止む得ない措置だったとしてもそれはやり過ぎだと判断されたため、罰金が科せられた。
「一ヶ月以内に、千二百オーロを収めてください」
と、女性委員が粛然と告げる。
罰金処分で済んだせいかエレノアは肩の力が抜けて、ほっと溜息を吐いた。
「調教停止じゃなくて良かったわ」
エレノアが恭介を横目で見て、小声で言った。
査問委員の手前、大っぴらに安堵できないようだった。
「少し感情的だったな。調教師の先生は冷静にならなきゃな」
「もう」
軽口をたたく恭介に、頬を膨らますエレノア。
後に聞いたことだが、もしエレノアが調教停止の処分が下されたら、スピレッタ調教場のペガサスたちは別の調教場に転厩しなければならなかったようで、この点日本の制度とあまり変わりなかった。
査問委員会は解散となり、委員たちは部屋を出て行った。
エレノアは心底安堵したようだ。
背もたれに大きく寄りかかり、天を見上げてから目を瞑り、大きく息を吐いた。
「お疲れさん」
と恭介はエレノアをねぎらった。
そして、ジュスタンは処分に納得いっていないようで、不機嫌そうな素振りで組んだ脚を解き、席を立った。
「行くぞ」
ジュスタンはデインに言った。
デインは一瞬こちらに目を向けて戸惑いの様相を見せてから、部屋を出て行こうとするジュスタンの後について行く。
タドカスター調教場で見せた不遜な態度は全く見られなかった。
彼もまた大きな不満を抱えながら、自分勝手な馬主の主戦騎手を務めている、そんな感じが見受けられた。
ジュスタンは自分のしたことを省みず、大勢の前でエレノアに恥をかかされたことを根に持っていたようだ。
部屋を出る寸前、彼は急に恭介とエレノアを振り向いて不穏な言葉を口にした。
「このままで済むと思うな」
満腔の怨嗟をエレノアに向けた。
対するエレノアは受けて立つと言わんばかりに、ゆるりと立つと強い眼差しで彼を見据えた。
ジュスタンが出て行き、ドアが閉まるまでエレノアは黙ったままだった。




