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責任の所在

 検量室の前で、ジュスタンがスタッフたちを叱責していた。

 周りの目を憚ることなく、容赦ない罵声を浴びせている。

 デインとレオポルドの騎手二人、調教師のバジル・チャップルが黙ってジュスタンの怒りを受け止めている。


 騒ぎを聞きつけた記者たちが周りを取り囲んでいた。

 彼らは止めるでもなく、むしろこの醜聞の一部始終を見届ける気でいる。


「お前たちが下手だから負けたんだ!」


 ジュスタンの怒声があたりに響く。

 デイン、レオポルドは顔を俯けているが、バジルはジュスタンを見据えていた。


「デイン、あのまくりはなんだ。仕掛けが早すぎる」


「はあ」


 デインは悄然とした声を出す。

 以前タドカスター調教場で恭介に不遜な口を叩いたときの姿はなかった。

 無理もない。圧倒的一番人気を飛ばしたばかりではなく、馬を故障させた責任を感じているのだ。

 そこへ馬主から叱責を受けているのだから相当堪えているに違いなった。


「ドリアードを怪我させただけではあきたりず、俺に恥をかかせて何が楽しいんだ。それにレオポルド、お前にはあの間抜けをマークしろと口酸っぱく言ったはずだ。なぜそうしない?」


「お言葉ですが、ジュスタンさま。アシタスって馬、相当強いです。俺の馬じゃ追いつくことすらできません」


「そんなことは訊いていない。スタートと同時に仕掛けろと指示しただろう。わざわざ使えない騎手を起用してやった恩に報いようとは思わなかったのか」


 となると、ジュスタンが恭介を落とすように指示したのは間違いなかった。

 通常、競馬の世界では「仕掛ける」というのは、スパートをかける意味で使われる。

 この世界でもそういう意味らしく、周りの人たちも恭介を落馬させようとしたことを意味しているとは思っていないようだ。


 人が大勢いる中で我を忘れて激昂するジュスタンがひどく幼稚に見えた。

 衆目の集まる場所でやることではない。


 日本の競馬でも馬主から叱られることは多々ある。

 だがそれは、騎手が明らかなミスをした場合に限り、しかもわざわざ人の目につくところではやらない。


 デインの仕掛けたタイミングは少し早かったのかもしれないが、恭介の感覚ではレースはややスローペースで流れていた。

 後方に構えていたドリアードを勝たせるのなら、デインは間違った選択をしていない気がする。

 通常、競馬ではスローペースなら前方、ハイペースなら後方が有利である。

 今回はスローペースだったため、デインは早目に仕掛けてまくって来たのだ。

 その点に関していえば、デインは重大なミスを犯していない。

 ドリアード本来の力を考えれば、まくりも悪い戦法とは言い難かった。

 もっとも、ドリアードを故障させたことについては擁護の余地はないが……。


「まったく、どいつもこいつも使えない奴らばかりだ。高い金を払ってこのザマとはな。騎手、スタッフの総入れ替えも検討せねばならない」


「ジュスタンさま。よろしいですか」


 バジルが言った。

 彼の目に毅然とした光が宿り、長年ペガサス競馬に携わってきた者の自負が現れているようだった。


「私はドリアードの状態が良くないので、デビューを延期するよう言いました。あれでは誰が乗っても勝ち目はありませんでしたよ」


「なんだって」


 驚きの声を上げたのは取り囲んでいる記者の一人だった。

 それに呼応して、ざわつき始める。

 記者たちはドリアードの状態を見抜けなかったようだ。


「バジル、俺の判断が間違っていたとでもいうのか?」


「お言葉ですが、その通りです。ドリアードは明らかにオーバーワークでした。調教でペガサスを強くするという考えには私も賛同しますが、ジュスタンさまはやり過ぎです。私ども任せてくだされば、ジュスタンさまやマカベウス子爵にも更なる栄誉を……」


「黙れ!」


 ジュスタンは一喝すると、拳を放った。


 あっ、という声が周りから発せられる。


 ジュスタンの拳がチャップルの頬に当たった。

 渾身の力を込めた一撃を食らい、チャップルはよろめき、片膝をついた。


 さらにジュスタンが殴りつけようとする。


「なにしてるの!」


 エレノアが強引に人ごみに入って行く。


「くそ。すみません、どいてください」


 恭介も人ごみをかき分けて行く。

 いくら馬主といえども、これ以上の横暴を見過ごすわけにはいかなかった。


 彼らに罪はない。


 あるとすれば自分の名誉しか考えられず、騎手や厩務員、そしてペガサスを振り回したジュスタンである。

 実力行使に訴えてでも止める気だった。


 騒ぎの中心まであと少しというところで、恭介は足を止めた。


「やめなさい!」


 そう声を張り上げたのは、エレノアだった。

 一足先に騒ぎの中心へたどり着いた彼女はジュスタンとスタッフたちの間に割って入る。


 ジュスタンは不意に現れたエレノアを見、一瞬驚いた顔つきになると、すぐに微笑を浮かべた。

 まずいところを婚約者に目撃され、にわかに取り繕ったらしかった。


「やあ、エレノアさま。今日はとんだ恥をかいてしまいました。婚約の約束は果たせませんでしたが、いずれあなたを迎えに行きますから、そのつもりで」


 ジュスタンの言葉を無視して、エレノアは彼の前に一歩進み出た。


 すると、彼女は信じがたい行動に出た。


 きっと睨みつけたかと思うと、ジュスタンの頬をひっぱたいた。

 それもただのビンタではない。

 ジュスタンの膝が崩れ、片手をついて蹲る。

 首が曲がり、脳を揺らすほどの強烈な一撃であった。


 ――強えぇ……。


 恭介は顔が引きつった。

 あの細身の身体からどうやって大の男をダウンさせるビンタを打てるのか不思議に感じ、同時に怖さも覚えた。


「この人たちは悪くありません。悪いのはバジルの進言を無視して、レースに出走させたあなたです。それにキョースケを落馬させようとしたわね」


「え?」


 記者の誰かが声を発した。周りがまたざわめく。

 彼らはレオポルドが恭介を落馬させようとしたのに気づかなかったようだ。


「不正を指示しただけではなく、あまつさえ自らの責任を他人になすり付けるとは言語道断です。あなたはペガサス競馬に携わる資格はありません。恥を知りなさい」


 エレノアは冷たい視線でジュスタンを見下ろしている。


「く、エレノア、こんなことをしてただで済むと思っているのか」


「お互い様です。処分を受けるなら一緒に受けましょう」


「なに?」


「バジルに理不尽な暴力を加えて、ただで済むとお思いですか? ペガサスレーシングクラブは、たとえ貴族であっても毅然とした処分を下すでしょう」


 エレノアはジュスタンに背を向けると、今度は蹲っているチャップルに寄り添うようにして、手を差し伸べた。


「大丈夫? バジル」


「お嬢さま……私はあなたに助けてもらう資格など」


「いいのよ。あなたには大切なことを教えてもらったわ。離れていても無下に扱うなんて、できないわ」


「お嬢さま」


 エレノアの優しさに、バジルは目が潤んだ。

 それを恥じたのか、バジルは慌てて涙をぬぐった。


「あなたたちも、自分を責めることはないわ。馬主や調教師の指示に従うのは当たり前だもの。私からも査問委員会にかけ合ってみるわ」


「……ありがとうございます」


 レオポルドが素っ気なく礼を言う。

 デインはバツが悪そうに顔をそむけた。


 自然と周りから拍手が起きた。

 弱き者に手を差し伸べるシーンに思わぬ感動を覚えたようだった。

 毅然と振舞う貴族令嬢が悪者を懲らしめる劇を見たかのような趣がある。


 ――騙されねえぞ……。


 恭介の脳裏にはエレノアが強烈なビンタを放った場面が焼き付いている。

 自らの正義を実行する清い強さがあるものの、怒らせると恐ろしい目に遭うとも思った。


 エレノアは恭介に近づくと、にっこり笑った。

 影のない笑みが美しくもあり、可愛くもあり、そして恐ろしくもある。


「キョースケ、今日はありがとう。おかげでこんな人と結婚しなくて済むわ」


 とエレノアは言うと、恭介の肩を掴んで、記者たちの方へ振り向かせた。


「え? ちょい」


「いいから」


 エレノアの予期せぬ行動に、恭介は戸惑いを隠せない。

 記者たちは目を瞠ってその様子を窺っている。

 エレノアが恭介の横に立ち記者たちにアピールを始めた。


「皆さま、本日のレースを見ていただけたでしょうか? わたくしどもの騎手、キョースケ・ハタヤマは素晴らしい騎乗を見せてくれました。皆さま方には彼の騎乗が奇妙に見えるかもしれませんが、これからは彼のスタイルが主流になっていくものと思われます。これからも彼の活躍にご期待ください」


 エレノアは明瞭に言い切ると、恭介に微笑みを向けた。


 恭介はどう反応していいかわからなくなった。


「エレノア、やり過ぎだろ」


「いいのよ、これで」


 エレノアの微笑みには一切の屈託が感じられない、晴れやかな色を湛えている。

 以前、競馬場を沸かせた令嬢騎手としての振る舞いを垣間見た気がした。


 記者たちはお互いに顔を見合わせる。

 突然主戦騎手を讃えたエレノアの言葉を額面通りに受け取るわけにはいかないようだった。

 彼らから困惑気な声が上がる。


「エレノア・スピレッタ調教師」


 騒ぎの中、声を掛けてきた者がいる。

 恭介とエレノアはその方へ振り向くと、灰色に薄いストライプの入ったスーツを着た男がいた。

 茶色の髪を後ろに撫でつけ、眼鏡をかけた謹厳そうな男である。


「誰?」


 と恭介はエレノアに訊く。


「査問委員会のベッリーニさんよ」


 そう言われて、恭介は背筋を伸ばした。

 査問はレースの審議を司るとレース前に聞いたので、好印象を与えた方が良いと咄嗟に感じたからである。


「キョースケ・ハタヤマ騎手、デビュー戦での勝利おめでとう」


 ベッリーニは祝ってくれたが、表情に一切の動きはなく、事務的な社交辞令といった感じが見受けられた。


「ありがとうございます」


 ひとまず礼を言う。思わず力が入ってしまい、心持ち背中が反った。


「スピレッタ調教師、査問委員会から出頭要請がありました。言われなくとも、お分かりですね」


「ええ、お手数おかけして申し訳ありません」


「それと、ジュスタン・タドカスターさまも一緒に来ていただきましょう。あとそこの二人も。ああそうそう、ハタヤマ騎手にもスタート時のことについてお聞きしましょう。皆さん全レース終了後に査問室に来ていただくようお願いします」


 騒ぎの中心となった全員から聴取するようだった。

 それに、査問委員会はレオポルドの妨害を見抜いたらしかった。


「く、なぜ私が行かなくてはならない」


 この期に及んで、ジュスタンは自分の所業を理解していならしい。

 よろめく脚で必死に立ち上がろうとしていた。


「ジュスタンさま、ここは大人しく査問委員会に従った方がいいですよ」


 デインはジュスタンに肩を貸して言う。


「なに?」


「査問委員会の権限は極めて強いですから。さっきエレノアも言ってましたが、ペガサスレーシングクラブは貴族でも、一切の忖度は通用しませんよ。ペガサス競馬のこととなれば、王室でさえ容赦ない態度で臨むのはあなたも知っているはず」


「くっ。なら仕方ない」


 ジュスタンはそう言ったが、納得している様子はない。

 なにしろその顔には忌々しげな影がさしている。


「エレノア」


「ジュスタンさま、お約束の方、お忘れなく」


 エレノアの口調は冷たかった。

 情けなくデインに寄りかかるジュスタンの姿が惨めに見え、却ってエレノアの立ち振る舞いを際立たせている。


「なに? なんのことだ」


「婚約はなかったことにしていただきます。そういう約束でしょう。あなたの醜悪な振る舞いを知れば、父上も考えを改めると思いますわ。わたくしはスピレッタ調教場の再興を目指します」


 エレノアは強い眼差しで婚約者を見つめる。

 その目つきは相手を射竦めるような威厳が宿り、唾棄すべき者を刺すような鋭さがあった。


「ふん。落ちぶれた連中になにができる。あとで後悔することになるぞ」


「わたくしたちのスタッフは優秀です。すぐにスピレッタ調教場を立て直して見せます」


 エレノアはそう言い捨てて、立つと恭介の袖を握った。


「さ、行きましょう」


「え、ああ」


 恭介はどぎまぎしてしまった。歩き方もぎごちなく感じる。


 ――エレノアを……。


 怒らせないようにしよう、と胸の内で誓った。

 下手なことをすると、あのぞっとするような冷たい視線が自分に向けられ、手痛い一発を食らうかもしれない。


 怖いものは怖い、と恭介は落馬よりも恐ろしいものを見た気がした。


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