飛翔の練習 1
帰りの車中、恭介はぼんやりとしながら流れる景色を眺めていた。
すでに夜が更けており、いつもならベッドに入っている時間である。
酒が入っているせいもあって眠気が兆してくる。
暗闇の草原は全き闇に包まれていて何も見えなかった。
「疲れた?」
そう声をかけてくるエレノアも、疲れがあるはずだ。
日中は恭介の付添人をしながら、馬主相手に営業をし、しかも夜は馬主のニック・クレモントと一悶着起こしながらも一頭のペガサスを預かるところまでこぎ着けた。
色々な仕事をこなしたので、想像するよりも心労が溜まっていてもおかしくはない。
「エレノアも疲れたろ?」
「わたしは大丈夫よ」
と言いながらも、エレノアは欠伸が出かけてかみ殺す。
それが照れ臭かったようで、苦笑い混じりの微笑をもらした。
「事故起こすなよ」
「うん。気をつける。で、話は変わるけど」
「なんだ?」
「キョースケ、明日からお休みでしょ」
グレイラム競馬場の開催終了後もほかの競馬場でレースが行われるが、現時点で恭介に騎乗依頼はなく、スピレッタ調教場からの出走馬もいなかった。
次に恭介がレースに乗るのは七日後である。
それからぽつぽつと依頼が来ていて、明日から調教をこなし、自分のトレーニングをしつつ、ペガサスの資料を読み漁ったり、各競馬場の特徴を把握しておきたかった。
「そうだけど」
「なら、そろそろ空を飛ぶ練習しないとね」
「へ?」
恭介は一気に眠気が覚めた。
「このペースで行けばすぐに飛翔競走に乗らないといけないもの。しかもキョースケはモンキー乗りでレースに臨むんだから、練習しなきゃね」
「……すっかり忘れてた」
当面は平地競走だけに乗っていればいいと思っていた。
恭介にとっても七日間で四つの勝ち星を得たのは予想外のことで、小躍りしたくなるほど嬉しかったが、思ったよりも早い段階で空を飛ばねばならない、と今気づいた。
好成績をあげた余韻が一気に冷めた。
初めてこの世界に来て、飛翔競走を見たときの恐怖がにわかに忍び寄ってくる。
生垣を超えて空高く飛翔し、安全器具もないままレースを進め、時には空からの落馬がある。
どう考えても正気のレースではない。
「でね、明日騎乗練習場に行くから」
「練習場? 調教場でやるんじゃないのか?」
「うちじゃとてもできないわよ。初心者を現役のペガサスで練習させるわけにもいかないし」
「それもそうか」
と返事をするも、いまいち乗り気になれない。
ペガサス競馬に挑戦すると腹を括ったはずだが、いざあの光景を想像するとどうしても気後れしてしまうのだ。
「で、その練習場ってなんだ?」
「引退したりデビューできなかったペガサス使って騎手が練習できる施設なの。調教だけじゃ騎手のトレーニングにはならないからいろんな騎手が練習しているのよ」
「便利なもんだな」
おざなりな返事をする恭介。
エレノアの熱の入った説明が耳の奥まで届かなかった。
「初心者向けのペガサスもいるから安心していいわ。まずは飛翔のコツを掴んでもらって、あとは着陸。それにキョースケはモンキー乗りだから、時間がかかるかもしれないわね」
「俺が十勝したらすぐに飛翔競走に乗らなきゃならないのか?」
「そうなるわね。でも、いきなり実力馬に乗せるのも不安だし、初めは人気のない子に乗ってレース感覚を養ってもらうから」
「まあ、それなら少しは安心か」
「不安なの?」
不意に心配そうな声音で訊いた。
気の入らない恭介の気持ちを見抜いた感がある。
「そりゃあ不安だよ。馬に乗って空を飛ぶなんてどんなもんか想像もつかないし」
「やってみたらわかるわよ。不安なんて一気に吹き飛ぶんだから。あとね――」
エレノアの声音はどこか生き生きとしていた。
彼女にとってペガサスに跨って空を翔ぶのはこの上ない娯楽でもあるようだ。
――なら、自分が乗ればいいのに。
と、口にしそうになったが、ロディとの約束を思い出し、開きかけた口を結んだ。
今のエレノアは騎手ではない。
たとえ未練があろうとも調教師としての彼女を支えるのが肝要なのだ。
――エレノアの……。
気持ちを乱しちゃいけないな、と思ったとき、また眠気が襲ってきた。
エレノアの楽しげな声を子守歌がわりに、いつの間にか恭介は眠りに落ちた。
◇
翌日、調教を終えたあと、恭介はエレノアと一緒にサイモン騎乗練習場にいた。
ここは現役のプロ騎手のみならず、騎手志望の若者やアマチュアの騎手たちが練習するための施設である。
それに加え、別の敷地ではレジャー用の施設もあるらしい。
ここに来るまでの間、恭介は車中でエレノアからペガサスの特性について話を聞いていた。
ペガサスは空を飛ぶとき、体内の魔力を消費して浮力を得るという。
戦乱の時代のペガサスは野生時代の名残が色濃く、長時間飛行が可能だった。
海を越えて外国を攻めるためにはうってつけの存在で、軍用馬として飼育、交配をし、やがて遠い海の向こうの外国まで侵攻出来たのだという。
そして戦乱が終わり、平和の時代が訪れてから、ペガサスを競走用として繋養し、交配を重ねて行く中でスピードを重視するようになった。
そのため、代を重ねるごとにペガサスは飛翔時に多大な魔力を燃やすことができるようになり、飛翔スピードが上昇した代わりにスタミナが減ったという。
戦乱の時代は何十時間でも空を飛べたが、今では数時間程度が限界だという。
それでも規格外のスタミナを備えていると恭介は感じる。
もう一つ。ペガサスは飛翔時に翼を広げるが、これは幻で、人や物に触れても身体をすり抜ける。
人間が鞍を乗せてペガサスに乗れるのを可能にした一因であるという。
ペガサスの翼は飾りに近い性質があるらしく、実際は四本の脚に魔力を込めて宙を蹴って飛翔する。
ならなぜ翼があるのかが疑問であるが、この世界の学者でも翼がある原因が未だに解明できておらず、長年の研究テーマであるらしかった。
それらの話を聞いても恭介はいまいちピンとこなかった。
魔力だの幻の翼だと聞いても、ひとまず乗って空を飛んでみないことには何もわからない。
レースや訓練をこなしながら知識を補っていけばいいと思い、話半分に聞いていた。
サイモン騎乗練習場の駐車場に車を停め、恭介は鞭とヘルメットだけを手に取り、車から降りた。
エレノアも今日は自分のヘルメットを用意している。
彼女の手ほどきでペガサスの飛ばし方を習うので、エレノアも自分の道具を用意したのだ。
受付に行くと、係の女性が笑顔を携えていた。
乗馬服風の制服を着、両手には白手袋をはめている。
幾分小柄で、顔つきがどことなく幼げに見えた。
「エレノア、久しぶり。あ、キョースケ・ハタヤマ騎手ですか?」
彼女はエレノアの知り合いらしい。
親し気に声をかけるあたり、旧知の仲のようだ。
それに彼女もすでにキョースケの存在を知っていた。
グレイラム競馬場での騎乗ぶりが話題になったのかもしれない。
「久しぶりね、ウルスラ。今日はキョースケの練習に付き添いに来たの」
「そっか。ハタヤマ騎手はもうすぐフライングレースに乗るんだよね」
「うん。時間のあるうちに練習させないといけないと思って」
「次はいつ乗るの?」
「六日後、リンウェルダウンズ競馬場の開催。キョースケならそこで十勝目に到達できるわ」
「ふーん、ずいぶんイレ込んでいるねえ」
ウルスラは意味ありげに半目になり、横顔をエレノアに近づける。
「もちろんよ。キョースケはあの乗り方で飛翔に挑戦するんだもの。わたしだって楽しみだわ」
「え、あの立ち乗りで?」
「そうよ。飛翔でもあれができたらペガサス競馬の歴史が変わるわ」
「どうだろうねぇ」
ウルスラは疑わしげな目つきでエレノアを見つめる。
恭介の乗り方に疑問を持っているふうでもあるが、別の意味も含んでいるような感もある。
「それよりも、予約したわよね。すぐに乗れるかしら」
「ええ、大丈夫よ。もう係の人がペガサスを連れてきているはずだから」
「ありがとう。キョースケ、行きましょう」
「あ、ハタヤマ騎手。ちょっといいですか」
「ん? 俺?」
呼び止められるとは思わず、自分を指さす恭介。
受付に近づくと、ウルスラが台越しにペンと手帳を差し出した。
「あの、サインお願いできますか」
ウルスラは上目づかいで恭介を見つめる。
「俺のサイン?」
恭介が驚いたのも無理はない。
日本にいたころは無名の見習騎手だったので、ファンにサインを書く機会がほとんどなかった。
ましてや女性からサインを求められると、どう反応していいのかわからず、まごまごしてしまうのだ。
「ま、まあ、別にいいすけど」
ペンと手帳を受け取り、空白のページにサインを書いた。
慣れていないせいで上手くペンが流れなかったが、何とか書けた。
「畠」と「介」の文字を崩し、一筆書きで認めたサインである。
手帳を閉じて、ペンと一緒にウルスラに返した。
すると彼女は、早速ページを開き恭介のサインを眺めはじめたかと思うと、顔をあげて恭介に視線を送る。
「ありがとうございます」
「いや、これぐらい、いいっすよ」
恭介は後ろ頭を掻きながら言った。
ウルスラは目が大きく見えたかと思うと、今度は手帳を抱くようにして胸に寄せた。
熱心なファンのような素振りに恭介はどう対応していいかわからなくなった。
「キョースケ、行くわよ」
後ろからエレノアの声がした。
「あ、いま行く」
じゃあまた、とウルスラに声をかけてからエレノアの後を追った。
エレノアの足運びはなぜか速く、駆け足で追いかける羽目になった。




