ペガサス競馬 平地競走デビュー戦 3
日本での初騎乗時、身体中が隈なく強張ったのを覚えている。
なにしろ紆余曲折を経て騎手になれたのだから緊張しすぎていたんだなと、恭介は回想する。
恭介は中学まで、野球に励んでいた。
小学生の頃は持ち前の運動神経の良さを生かして、獅子奮迅の活躍を見せ、全国大会まで出場した。
中学に上がると同時に、名門の硬式野球クラブに入り、一年生のときから試合に出ることができた。
ところが、成長期真っ盛りなのに、恭介の身体が大きくならなかった。
周りの仲間が大きくなるにつれて、パワーや技術が目覚ましく向上していくのに対し、恭介は伸び悩んだ。
それでも守備は上手く、チーム一の俊足を誇っていたので、出場機会はあった。
しかし、小さな身体では限界があり、打撃の方ではパワー負けすることが多くなった。
将来プロ野球選手になりたかった恭介だが、残酷にもチームのコーチから、お前では無理だとはっきり言われた。
だが、代わりに身体の小さい恭介でもアスリートとして生きる道があると教えてくれた。
それが騎手である。
身体が小さく、優れた運動神経のある恭介にはぴったりだからと一度テレビで競馬中継を見て考えてみろ、と言われ、わざわざ競馬学校のパンフレットまで渡してくれた。
それに、騎手はモテるぞと唆したのもこのコーチである。
その言葉に思春期の恭介は刺激され、美人とお近づきになれると勘違いした。
だが、それ以上に競馬中継に映る騎手たちが、恭介並みに身体の小さいのにもかかわらず、華々しく活躍する姿を見て、いずれは自分もと思い描くようになった。
女にモテるのはもちろん、身体の小さな自分でもアスリートになれると感じ、騎手を志すようになった。
そして運よく競馬学校に受かり、騎手としての道を歩み始めたのだ。
――あのときは……。
アスリートとして生きる道を探り、辿り着いた騎手という職業だったが、感慨に耽る暇も与えてくれなかった、とデビューしたときのことを思い返す。
馬上から見る競馬場のスタンドやダートコースの馬場、周りの騎手や馬たち、その一切の風景を頭に留めることができなかった。
今の恭介はほどよい緊張感に身が引き締まり、アシタスの首を優しく撫でる余裕さえあった。
引き綱を引いているロディが振り向いて鞍上の恭介を見上げた。
「頼むぞ、キョースケ。新生スピレッタ調教場の第一歩だ」
「勝つかどうかまでは保証できませんがね」
「なに?」
「相手の力関係もいまいちわからないから何とも言えないんですよ。でもね、ロディさん。エレノアたちがペガサスたちに愛情を注いで接していたのだけは俺も見てきました」
「なにが言いたいんだ?」
「だからこそ、みんなの気持ちに応えてやりたいって思っているだけですよ。勝てるかどうかまではわかりませんが、レースで全力を尽くすことだけは約束しますよ」
「はは、ずいぶんいっぱしの口を聞くじゃないか」
「騎手なら、当たり前です」
「そうだな」
ホームストレッチの半ばまで行くと、他の出走馬たちが続々と返し馬をし始めた。
ロディがアシタスの肩を優しく叩く。
アシタスは顔を正面に向け、今なすべきことに意識が傾いているようだ。
「行ってこい」
とロディが言って、引き綱を頭絡から外し、アシタスと恭介をコースへと解き放った。
日の光を弾いて緑色に輝く芝の上をアシタスがキャンターで駆けてゆく。
外埒に寄せてコースを逆方向に走りながら、恭介はアシタスの状態が万全と感じた。
初めて見る風景に、アシタスは物見をしたり首を振ったりせず、軽やかに芝の上を走っている。
馬上で感じる限り、今日の馬場状態は柔らく、少し力のいる馬場だと感じた。
アシタスの走りに問題はなく、馬場を苦にすることはなさそうだった。
アシタスの状態を確かめている最中、不意にスタンドからざわめきが聞こえた。
「なんだあいつ?」
「立って乗っているぞ」
「ぎゃはは、サーカスと勘違いしてるんじゃねえの」
「ただのパフォーマンスだろ」
「すごいな、あれでペガサスに乗れるんだ」
「ブックメーカーはいねえか。おれはあいつが落ちるほうに賭けるぜ」
初めて見るモンキー乗りに観客たちの反応は様々だったが、その多くは疑いと嘲笑だった。
「ま、しょうがねえか」
タドカスター調教場で記者たちもモンキー乗りに疑義を呈していたので、一般のファンがそう思っても不思議ではない。
むしろ、初めて見たモンキー乗りが有効であると看破したエレノアが鋭すぎるのだ。
記者やファンにモンキー乗りの効果を証明するには、勝ち鞍を収める以外に方法はない。
およそ六〇〇メートル走ったところで、常歩に切り替え、スタート地点へ向かう。
すでに何頭かが輪乗りをしている。恭介はアシタスをその一団に加える。
「よう。キョースケ」
と声をかけてきたのはガウンだ。
恭介の後に到着した彼は十一番の佐目毛のペガサスに騎乗している。
この毛色もサラブレッドにはないので、恭介は一瞬、本当にレースをするのかと疑った。
新聞の情報では彼のペガサス――エアロファングも勝つ可能性を秘めているらしいと思い出した。
「どうも、ガウンさん」
パドックでは見かけなかったが、どうやら行き違ったらしい。
「調子はどうだ?」
「アシタスなりにいいんじゃないですかね。他のペガサスはどうかわかりませんが」
「そうか。そこそこの人気だからな。勝ち目はあるんじゃないか」
「そうっすね。応援してくれているファンが多いってことですし」
とは言ったものの、恭介は馬券の人気を気にしても仕方がないと思っているタイプの騎手である。
人気だとかオッズだとかはあくまでファンの支持を示すためのもので、実力や状態を表すものではないと考えている。
と、ここでガウンはこちらに近寄ってすれ違おうとした。
何をする気だと恭介は一瞬身構えた。
「七番と十四番に気をつけろ。ジュスタンがなにか仕掛けてくるかもしれんぞ」
小声でそう伝えると、ガウンはそのまますれ違って行った。
「なんだってんだ、いったい」
ガウンの忠告をどう受け止めていいかわからなかった。
レースが始まれば周りの馬に気をつけるのは当たり前である。
特に未出走馬が多いレースでは思い通りにいかないケースが頻発する。
スタートに出遅れたり、普段おとなしい馬がレースの道中で騎手の言うことを無視してかかったり、コーナーを上手く曲がれないなど、数えきれないほど予測のつかない事態が起こりやすい。
それはペガサスもサラブレッドも変わらない気がする。
それをあえて、七番と一四番を指定して忠告してきたあたり、ガウンには思い当たることがあるのだろうか。
「そういや、エレノアも言ってたな」
ジュスタンの陣営が妨害を仕掛けてくるかもしれないと忠告を受けていたのを思い出した。
輪乗りしている馬たちを眺めまわすと、七番の騎手がこちらに顔を向けていた。
たしかレオポルドという騎手で、ジュスタンの勝負服を着用している。
恭介と目が合うとすぐに顔を正面に向けて視線をそらした。
「なに考えてるんだ」
小声でつぶやいた。
ガウンの言っていることは真実を捉えている気がした。
透明のゴーグル越しに見えたレオポルドの目に胡乱な光が帯びていて明らかに恭介を警戒している感があった。
――何かやってくるな。
恭介はそう確信した。
馬体を当てに来る、鞭でアシタスの顔を叩く、恭介本人に肘打ちをして落馬させようとするなど、一通りの妨害工作を思い浮かべた。
他馬の動きに注意を払うと同時に妨害をくぐり抜けて勝たねばならない状況に、思いのほか難易度の高いデビュー戦になりそうだと感じた。




