ペガサス競馬 平地競走デビュー戦 1
グレイラム競馬場に着き、エレノアは関係者専用の駐車場に車を停めた。
まだ第一レースの始まる二時間半前で、すでに多くの車が停められている。
そのほとんどが黒光りする車でどれも日の光を弾く光沢を帯びている。
ペガサスレーシングクラブの規定では、当日騎乗する騎手は第一レースの二時間前には職員のチェックを受け、控室に入らなければならないらしい。
このルールは恭介にとって違和感があった。
日本の中央競馬では、公正競馬の観点から騎手はレース前日に調整ルームに入らなければならないが、ここではそこまで厳しくない。
どちらかと言うと、海外競馬のルールに近かった。
エレノアが先導する形で、恭介は騎手の控室に向かった。
初めて訪れる競馬場、それに異世界の競馬場とあっては、一人で行くのは心細かった。
エレノアもその点を察してくれたらしく、アシタスの管理がてら恭介の付添人の役割も買って出てくれた。
調教師が騎手の付添人を務めるという話は聞いたことがないが、ここでは問題ないという。
控室の前室には受付があり、そこで職員が入室する騎手と付添人の確認をする。
眉が太く鋭い眼光の厳めしい面構えをした職員の前まで行くと、その男は手元にあった紙を繰り始めた。
あるページで手を止めると、恭介の顔をじっと眺め、また紙に目を落とした。
その動作に澱みはなく、手慣れた手順をこなしている感があった。
もう一度恭介に目を遣ると、不意に微笑を洩らした。
「キョースケ・ハタヤマ、今日がデビューですね。推薦人はエレノア・スピレッタ調教師、何の問題もありません。ご健闘をお祈りします」
男は静かながらも太い声で言った。
外見とは違い、居丈高な印象は全くない。
「ありがとうございます」
恭介は頭を下げて礼を言うと、エレノアが横に来る。
「おや、エレノア・スピレッタ調教師。今日はハタヤマ騎手の付き添いもするんでしたね」
「ええ」
「大変ですな」
「そうでもありません。わたしも控室に入っていいですね」
「ええ、もちろん」
職員の許可を得てエレノアも正式に付き添うことになった。
控室の壁際にドアのないロッカーが並べられ、部屋の真中にテーブルと椅子が置かれている。
反対側の壁は大きな窓がいくつかはめられていて、その奥に見える楕円形のスペースはパドックのようだ。
すでに何人かの騎手が準備を終えて、付添人たちと一緒にモニターで映像を見ていた。
そのモニターは宙に浮かび、映像を流している。
この世界ではおなじみの魔力を使ったモニターらしかった。
集まっている人々の中に先日タドカスター調教場で会ったガウン・ボウズがいた。
「おはようございます」
と恭介はガウンに近寄って挨拶をする。
その声に反応して、騎手たちが一斉にこちらに顔を向け、鋭く見つめる。
初めて見る顔に警戒しているようだ。
「おお、キョースケ。元気にしていたか」
ガウンは椅子に座りながら恭介を見上げる。
「今日はよろしくお願いします」
「おう、よろしくな。みんな、キョースケ・ハタヤマだ」
ガウンは気を遣ってくれたらしく、騎手仲間に恭介を紹介した。
「よろしく」
「初めまして」
「今日がデビューか」
「頑張んなよ」
「まずは一勝だな」
と口々に恭介を励ましてくれる。
ガウンは仲間からの信頼が篤いようだ。
恭介への警戒心が一気になくなり、次々と自己紹介をしてくれた。
中には握手を求めてくる騎手もいた。
「お、エレノアじゃん」
ケニーという若い騎手がエレノアに気づいて声をかけた。
目が細く、顎が丸みを帯び、騎手らしい痩躯の持ち主で恭介よりも少し背が高い。
「みなさん、キョースケをよろしくお願いしますね」
エレノアは微笑を浮かべる。
「しっかし、どこから連れてきたんだ。いきなりプロデビューだなんてな」
と誰かが言った。
「ええ、わたしが推薦状を書いて、キョースケをデビューさせました。わたしは彼の騎乗技術にほれ込んだのです。今はわたしたちの調教場に住み込みで働きながらペガサス競馬のことについて学んでもらっています」
とエレノアが言うと、騎手たちはお互いに顔を見合わせてどよめいた。
「なんだ?」
彼らの反応が少し大げさな気がした。
ペガサスレーシングクラブでは推薦人制度で、関係者の推薦があれば誰でも騎手になれるはずだから、そこまで驚かれるのは意外だと感じた。
恭介は彼らの顔を眺めていると、ケニーが恭介の横に並び、肩を組んできた。
おっ、と恭介は声を洩らした。
「このやろう。うらやましいことしやがって」
「は?」
「は、じゃなく。あんなかわいい子と一緒に働く機会なんてそうそうないぞ」
「まあ、そりゃそうですけど」
「で、お前はスピレッタ調教場に住んでいるってことだな」
「ええ、まあ」
話の要領が掴めず、曖昧な返事を返すしかなかった。
ケニーは妙に真面目な顔つきで恭介を見つめている。
「一つ忠告してやる。あまりエレノアと一緒にいるって言わない方がいいぞ。なにしろ、あの子は騎手のときからすげえ人気があったからな。男に言い寄られたことも一度や二度じゃない」
「あれだけ可愛けりゃ、そうでしょうね。まあ、今は婚約者がいますし。俺がいるっていっても調教師と騎手の関係でしかないっすからね。ゴシップの種にもならないっすよ」
とは言ったものの、恭介も隙あらばエレノアといい関係になれるのではないかと淡い期待を抱いている。
それにアシタスのデビュー戦はジュスタンとエレノアの婚約をかけたレースでもある。
アシタスがドリアードに先着し、是が非でも婚約を阻止したいのは恭介も一緒で、空いた席を狙うチャンスでもある。
「それともう一つ忠告してやる。なにしろエレノアは――」
「ケニーさん。聞こえていますよ」
後ろからエレノアの声がした。
振り向くと彼女は腕を組んでケニーをじっと見つめている。
「ああ、いや。その、新人に心構えを説いていただけだよ。ほら、エレノアと一緒に住んでいるとなると変な噂が出てくるだろ。だから気をつけろって話で――」
「キョースケはうちのスタッフです。変な噂になんてなりません」
エレノアは不機嫌そうに言い切った。
――スタッフねぇ……。
エレノアの口から断言されると少しばかりのショックを受ける。
喜びに満ちた笑顔で恭介と話していると、もしかしたら、という感情が芽生えてくるのだが、所詮勘違いに過ぎないと理解しているつもりだ。
とはいえ、エレノアにその気がないとはっきり言われるとつい落ち込みたくなるのだった。
「変な噂っつうかなんつうか。おまえは――」
「ケニーさん、それ以上余計なことは言わないでください。キョースケ、すぐに着替えて。挨拶回りするから」
エレノアの顔に陰の射した微笑が浮かんでいる。
怒りとも照れ隠しともとれる複雑な感情が綯い交ぜになって、ケニーの言葉を制したようだ。
「ああ、わかったよ。ケニーさん、またあとで」
肩に回されたケニーの腕からするりと抜け出た。
エレノアから着替えの入ったバッグを受け取ると、控室の隅に男性騎手用の更衣室があると聞き、そこへ入って行く。
――エレノアのやつ……。
何か隠しているな、と少し冷静になって考えてみた。
ケニーの言葉を遮るあたり、聞かれたくないことを慌てて制したのかもしれない。
――別にいいか。
と、恭介は整理をつける。
なにしろ今日はペガサス競馬のデビュー戦、大変な日々が始まるのだ。
自分が今まで培った技術がこの世界でも通用するかどうか、レースに乗ってみないとわからない。
余計なことを考えている暇はない、と胸の内に言い聞かせる。
バッグの中からレース用のズボンと、シャツを取り出す。
ブーツはすでに履いていて、ヘルメットや鞭は付添人のエレノアが持っている。
ズボンとブーツには今まで使っていたものとあまり差はない。
ズボンは足腰に張り付くようにぴったりと身体に合い、ブーツも非常に軽く競馬に適したものだ。
身につけるものすべてに緩衝魔法がかかっている。
着替えを終えてまた控室に行くと、エレノアは女性騎手たちとなにか談笑をしていた。
彼女の顔には年相応の明るさがあり、同性の騎手たちとの話を楽しんでいるようだ。
女同士の会話に花を咲かせているときに、割って入るのは気が引けて、エレノアに声をかけにくくなった。
気持ちを持て余しながらエレノアに近づくと、彼女は恭介に気づいてくれた。
「あ、着替えた?」
「ああ。なんか落ち着かないな。あっちの、いや、調教のとは違う感じがして」
恭介は一瞬、日本のことを言いかけたが、周りの騎手たちの視線に気づいて言い方を変えた。
「じゃあ、行きましょう。調教師の先生方、装鞍所にいるはずだから」
またね、と女性騎手たちに挨拶をして、エレノアは控室を出て行こうとする。
恭介も後に続くと、後ろから、やだぁエレノアったら、と言う甲高い声が聞こえる。
「勘違いしてるなぁ」
何気ない口調で恭介はエレノアの後ろから声をかけた、
「そんなんじゃないのにね」
振り向いたエレノアが苦笑いをする。
――やっぱり脈なしかぁ……。
再び無用に落ち込む恭介であった。




