デビューに向けて
レースまであと四日。
恭介は調教を終えてからアシタスを引き運動に連れて行った。
タドカスター調教場を訪れてから毎日、そうやって調教後のケアに務めている。
いくら丈夫とはいえ、ペガサスもれっきとした生き物でアスリートでもある。
エレノアたちの話を聞く限り、ペガサス競馬の世界では引き運動を軽視している傾向にある気がしたが、やはりそうだった。
日本の競馬でも、ジャパンカップ創設あたりまで調教技術は拙いものだったと恭介は聞いたことがある。
その一つに、引き運動をおろそかにしていた点が挙げられる。
調教やレース前の引き運動はウォーミングアップの役割があり、体温を上げ、馬体をほぐしてパフォーマンスを向上させる効果があると同時に故障の予防につながる。
さらにクーリングダウンの際にも引き運動を行うと、調教やレースで溜まった乳酸を取り除き、疲労を早期解消させる効果がある。
ウォーミングアップもクーリングダウンも引き運動やウォーキングマシンで数十分競走馬を歩かせる。
恭介が日本で所属していた小木厩舎では調教やレースの前後に五十分以上行っていた。
ウォーキングマシンはこの世界にはないので引き運動を行っているのである。
恭介はウォーミングアップ、クーリングダウンの効果をエレノアたちに説明し、アシタスのケアに務めていた。馬道を行き来し、時おりアシタスの歩様を確認しながら引き運動を行っている。
恭介の意見に賛同したのはエレノアとロディであり、ラモン、オリアナ、ミノルの三人は効果のほどがわからないのであまり乗り気ではなかった。
結局、責任者であるエレノアが恭介を支持したことでアシタスを引き運動に連れて行くことになった。
反対した三人を責める気はなかった。なにしろ今までペガサス競馬のやり方にはない考えである。
理論を交えて提案したとしても、実際の効果を目の当たりにしないと何ら説得力がない。
なので、恭介が自ら調教後の引き運動を担当し、メリットがあると感じたら取り入れるように説得したのだ。
アシタスは、率先して歩く感がある。
草原の馬道を歩き、時おり林の中に入る道をアシタスは好んでいる気がした。
というよりも馬という生き物自体、自然の中でやすらぎを感じ、心身共にリラックスできるのだ。
人工的な施設では馬をリラックスさせるのには限界がある。
なるべく人の手が入っていない自然の中だからこそ落ち着くのはサラブレッドもペガサスも変わらないらしい。
日の位置が高くなり、まばらに散った雲の隙間を縫うようにして日の光が射し込んできたころ、恭介とアシタスは林の馬道を歩いている最中だった。
恭介はロディから借りた腕時計で時間を確認すると、アシタスの引き運動を始めてからすでに五十分が過ぎていた。そろそろ戻る時間である。
スピレッタ調教場に着くと、洗い場にアシタスを連れて行った。
そこにはラモンとオリアナが恭介とアシタスの帰りを待っていた。
ラモンが駆け寄ってきて、恭介は引き綱を渡した。
すると、ラモンがアシタスの馬体を隅々まで確認し始めた。脚を触って異常がないかを確かめ、次に馬体全体を見るため、少し距離を取って観察する。
そしてアシタスに近寄り、頭を撫でながらアシタスの表情をまじまじと見つめている。
「へえ。いいじゃん」
ラモンは恭介に笑みを向けた。
「たった二週間ちょいっすけどね。でもやらないよりはマシでしょ」
「ああ、少しずつ良くなっているな。馬体の張りもいいし毛ヅヤも前よりは全然いい。なによりもアシタスが元気そうだ」
「見違えるようね」
オリアナもアシタスの出来に満足したようだ。
「そう見えます?」
「キョースケ、あんた見てわからないの?」
「俺は騎手なんで、見た目じゃよくわからないんですよ。でも調教で乗った感じ、前よりは良くなってくなっていますよ」
「そうだな。レースでもいい走りができそうだ。キョースケのやり方が正しいってことだな」
「初めに聞いたときは、正気を疑ったわ。ペガサスを一時間近く歩かせるだなんて。でもこうやって証明されると文句も出てこないわね」
二人は引き運動の効果を認めたようだ。
「これには人間の方にも効果があるんっすよ」
「そうなのか?」
「腹が引っ込んで健康的に痩せるんすよ。こっちの世界じゃ引き運動をよくする厩務員ほど引き締まった身体つきをしているぐらいなもんで」
「なんですって!」
いきなりオリアナが目をむいて驚いた声を上げた。
恭介の両肩を掴んで揺する。
「キョースケ、それは本当?」
「う、わ、わ、ほん、とうっすよ。もちろん、真面目にやればの話っすけど」
首がもげるほどの揺れを頭に感じる。
実際、恭介の頭が前後に激しく揺すられていた。
痩せる、という言葉がオリアナの気持ちを刺激したらしかった。
「ああ、素晴らしき哉、引き運動」
オリアナは恭介から手を離し、胸のあたりで両手を組んで点を見上げると、大げさに感激の科白を吐いた。
「あ、お嬢さま」
とラモンが言うと、恭介とオリアナもエレノアに顔を向けた。
黒鹿毛のウィントンに跨っている。
恭介がアシタスを引き運動に連れている最中、エレノアたちは別の馬に調教をつけていた。
「おつかれさま。アシタスの状態はどう?」
「どうもなにも、効果が出てきましたよ、お嬢さま。いい具合です」
ラモンは弾んだ声で言った。
「じゃあ、他の子たちも引き運動した方がいいわね」
エレノアは右足をウィントンの首の上に回してから軽く飛び、両足を揃えて地面に着地した。
鞍を手早く外し、オリアナがウィントンの頭絡に引き綱をつける。
「エレノアって変わった降り方するんだな」
揺すられた頭を右手で押さえながら恭介は言った。
オリアナに目一杯揺すられたせいで頭の中がぼやけている。
「そう? 貴族はこうやって馬から降りるの」
「ふーん、そんなもんか」
文化の違いだと割り切る恭介。
「お嬢さま、行ってまいります!」
オリアナは目を輝かせてエレノアに顔を向ける。
「どうしたの、オリアナ。すごいやる気出しているけど」
「あたしは感動しているんです、お嬢さま。キョースケがもたらした引き運動が大変すばらしい効果があるのを。ああ、素晴らしいですわ。まるで神様が天啓を授けてくださったかのよう」
オリアナは未来の自分の姿を描いているように、うっとりした表情でまた天を見上げた。
「どうしたの?」
とエレノアが恭介に訊く。
「たぶん、引き運動をしたら人間も痩せるって言ったからじゃないか?」
「ああ、そういうことね」
「あそこまで感激するとは思わなかった。オリアナさん、別に太っていないのに」
「結構気にするものよ」
「そういうもんか」
「そういうもの」
お互いに顔を寄せて中身のない話をしていると、
「では、行ってきます」
引き綱を持ったオリアナがウィントンを引き運動に連れて行こうとしている。
「あ、オリアナさん。時計を」
恭介は腕時計を外し、オリアナに渡す。
「五十分以上やってください」
「了解」
オリアナは腕時計を嵌めてウィントンを引き運動に連れて行く。
ウィントンは尻っぱねをした。
オリアナは怖がることなく、むしろ寄り添うようにして引き綱を右手に持ちながら、ウィントンの首を軽く叩く。
すぐにウィントンは落ち着いた。
「早く休ませろって言っているみたい」
「こればかりは仕方ないさ。そのうち慣れてくるよ」
「あ、ところでアシタスは?」
エレノアは鞍を腕にかけたまま、洗い場のアシタスに近寄る。
この世界にもシャワーがある。
ラモンがシャワーヘッドを手に持ち、アシタスの右前脚に水をかけているところだった。
濡れた赤い馬体が日の光を浴びてきらめいているように見えた。
洗い場につながれたアシタスはいつも通りと言わんばかりに、平然とシャワーを浴びている。
「ラモン、アシタスの状態はどう?」
「ええ、何の問題もありません」
「そうみたいね。あっちのドリアードとは全然違うみたい」
「たぶん、だけど」
と、恭介は口を開いた。
「ドリアードってトレーニングし過ぎなんじゃないか」
「そうなの?」
「引き運動していないにしてもあの元気のなさはちょっと考えられないからな」
「その点、うちのアシタスは心配ないわね」
「ああ、あとはレースまでちゃんとケアをしていれば大丈夫だ」
恭介は自信をもって言い切った。
「ラモン、あとはお願いね」
「わかりました」
ラモンは弾んだ声で返事をする。
「それと、キョースケ。ちょっと話があるから、大仲に来て」
「なんかあったのか?」
と恭介が訊く。
「ううん。騎乗依頼取ってきたから資料に目を通してもらうと思って」
「マジで?」
「うちのペガサスだけじゃ、キョースケに十勝してもらうのは無理があるからね。とにかく後片付けをしてから詳しいことを話すから」
参考文献:『サラブレッドに「心」はあるか』 楠瀬良 中公新書ラクレ
『競走馬の科学』 JRA競走馬総合研究所編 講談社




