合同調教 1
朝まだき、恭介とエレノアはアシタスを連れて、タドカスター調教場へ向かっていた。
スピレッタ調教場の周辺には競走用ペガサスの施設――生産、育成、調教場、といった施設が数多くあるらしかった。
畦道のように土がむき出しになっている道は馬道も兼ねており、土が柔らかく、石ころ一つ落ちておらず、脚元に優しそうだった。
東の空が薄紫色に染まり、西の空に行くにしたがってまだ夜の余韻を残した闇が広がっている。
点々と散らばった星々の輝きが失いつつあり、薄れた三日月が西の彼方に沈んで行く。
引き綱を引いているエレノアは時おり、アシタスに目を向けて笑みを投げかけていた。
アシタスはそれに応えるかのように、堂々と澱みなく歩いている。
引き運動の歩行速度は人間が普段歩くスピードよりも若干早く、ちょっとした運動にもなる。
恭介が日本にいたときも、担当の厩務員が入念に引き運動をしているのを毎日見ていたし、恭介も手伝ったことがある。
あまり人の手の入っていない道を歩いているおかげか、アシタスはうるさいところを見せずに大人しくエレノアに引かれながら気持ちよさそうにしていた。
「こんな馬道があるんだな」
と恭介はまだ闇の残る風景に目を向けながら感心した。
膝のあたりまで伸びた草が両側に広がり、葉のついた木々が所々に立っている。
風が凪ぎ、恭介たちが土を踏みしめる音だけがわずかに聞こえるだけである。
「いいでしょ。静かだからときどきうちの子たちを連れて行くのよ」
「馬もリラックスするだろうな」
実際に落ち着いた雰囲気を醸し出しているアシタスに目を遣って言った。
「ここだけじゃないわ。近くに海もあるのよ」
「へえ、ここって海辺の町なんだ」
恭介はスピレッタ調教場に来て以来、草原と山々、それに競馬場しか見ていないので、近くに海があるとは思いもしなかった。
「でも、ちょっと遠いから、ペガサスを連れて行くには馬運車を使わないといけないの。海上を飛ぶコースに慣れさせるために連れて行くこともあるのよ」
「馬運車があるんだな。それに海のコースねえ」
「有名な競馬場よ。シーイーグル競馬場っていうところなんだけどね。ちょっと特殊なコースなの」
「どんなふうに?」
「近くに群島があって、そこに着地してまた飛んでの繰り返し。スタートとゴールは本土のスタンドなんだけどね」
「……競馬の話とは思えねえな」
「キョースケの世界じゃ平地だけなのよね」
「いや、障害もある。生垣や水濠を飛び越えてレースをするんだよ。俺は競馬学校でちょっとやっただけでレースには乗ったことがないけどな」
お互いの世界のことを話しながら、タドカスター調教場へ足を進める。
早歩きしながら話していると、エレノアの顔に汗が滲んでいた。
引き運動の際、どうしても早歩きになり、思ったよりも体力を使うので人間にとってもちょっとした運動になる。
ましてやこの道は地面が柔らかく馬の脚には優しいが、人間には負荷がかかり過ぎるのかもしれない。
「大丈夫か?」
「大丈夫よ。ちょっとおしゃべりしすぎたかしら。やっぱりダメね。これぐらいで疲れていちゃ、レースになんて乗れないわね」
エレノアは寂しそうな微笑を洩らした。
ふう、と息を吐いて呼吸を整える姿を見て、恭介は彼女の気持ちを推し量った。
本来なら恭介をこの世界に連れてくることなく、エレノア自身がレースに乗って勝ちたいんじゃないか、と思った。
だが、今はそのことを口にする気はなかった。
もし口にしてしまえば、調教師となってスピレッタ調教場を再興する願いを妨げてしまう気がした。
「アシタスは疲れないかしらね」
不意にエレノアがそう言うと、アシタスに顔を向けた。
――え?
と、エレノアの言葉に違和感を覚えたが、口には出さなかった。
ペガサスとサラブレッドは違うかもしれない考え、ひとまず疑問を挟まないようにした。
◇
タドカスター調教場に着いたとき、まだ空に薄闇がかかっていたが、見渡す風景は色付いていて、人や馬の姿がはっきりと目に映る。
牧場や調教場の風景はどこも似たような感じだが、スピレッタ調教場とは違い、数多くのスタッフや馬たちが朝の調教で施設中を行き交っている。
部外者の二人と一頭が敷地内に入ってきても注意を払う人はおらず、黙々と自分たちの作業に没頭しているようだった。
エレノアは厩舎の近くにアシタスを連れて行ってから、立ち止まらせて恭介に引き綱を渡した。
「じゃあ、ちょっと挨拶をしてくるね。あ、あとキョースケに紹介したい人がいるから」
と言って、エレノアはどこかへ行ってしまった。
時間を持て余す格好となった恭介は、一応持ち物を確認する。鞍はすでに装鞍済みで、鞭とヘルメット、ゴーグルは背負ったリュックの中にある。
ゴーグルは透明で日光を遮るには不十分な気がしたが、性能はかなり良いらしく光で目が眩むことはないという。
道具に気を取られていると、アシタスが鼻を鳴らした。
「よしよし。大丈夫だ、怖くないぞ」
恭介はアシタスの首を優しく撫でた。
馬は見慣れない場所に行くと不安になることがある。
とりあえず優しい口調で語りかけることで、ここが怖い場所ではないと教えたかった。
「ちょっと、そこの人」
誰かが声をかけてきた。
恭介は声のした方を振り向くと、目尻に皺が刻まれ、日に焼けた顔をした壮年の男が近寄ってきた。
かなりのベテランに見える。
「あ、すいません。スピレッタ調教場のキョースケ・ハタヤマです。本日はよろしくお願いします」
とりあえず挨拶をした。
ベテランの厩務員や調教師の中には礼儀に厳しい人がいるイメージがあったので、失礼のないように心掛けた。
「ああ、そうか。じゃあ、このペガサスが」
と言って男はアシタスに目を向ける。
アシタスは首を動かして男に顔を向けると、すぐに首を立てた。
「おじょ、いや、スピレッタ調教師はどこに?」
言い淀んだ彼を見て、恭介は男の正体に察しがついた。
「バジル・チャップルさんですか?」
「え、ああ。そうだが」
バジルは少し戸惑ったようだ。
エレノアたちの話では数々の大レースを制してきた名トレーナーだと聞いていたが、話し方や素振りを見てもそうは思えなかった。
スピレッタ調教場を辞めた後ろめたさが彼の胸の内を浸しているのかもしれない。
「エレノアーーあ、いやうちの先生はどこかへ挨拶に行きました。もうすぐ戻ってくると思いますが」
「いや、いいんだ。元気なら何よりだ」
バジルはくるっと背を向けてその場を去った。
わずかに背を曲げた後姿には威厳も力強さもなかった。
「なんだったんだろ?」
恭介はつぶやいた。
まさか今になって謝罪をしに来たわけであるまいし、とも思う。
少し時間が空き、暇を持て余してアシタスの首を撫でていたところ、エレノアが口髭の生えそろった中年の男を連れてきた。
「お待たせ」
「そちらは?」
「ガウン・ボウズさん。騎手よ。ガウンさん、こっちはキョースケ・ハタヤマ、新人の騎手です」
「ガウンだ。よろしくな、キョースケ」
「キョースケ・ハタヤマです。よろしくお願いします」
形式通りの挨拶を交わすと、ガウンは手を差し伸べて、握手を求めた。
恭介はそれに応えて彼の手を握った。
「よろしくな、新人くん」
ガウンの振る舞いにはかなりの余裕が感じられた。
低い声ながらも快活にあふれた声音である。
一流のベテランジョッキー特有のおおらかさが彼にはあった。
「キョースケ、ガウンさんはペガサス競馬のトップジョッキーよ。とりあえずキョースケを紹介しておこうと思って」
「へえ、すごい人なんだな」
「おいおい、仮にも騎手の端くれだろ。俺の名前ぐらい知っていてもいいもんだがな」
「すみません、勉強不足なものでして」
「ま、いいさ。おまえはついこの間マルスク王国に来たばかりなんだろ。知らなくても無理はないかもな。ははは」
ガウンは恭介の無知を嘲る様子はなかった。
むしろ笑い飛ばすほどの余裕を見せつけるあたりかなり度量のある人物らしかった。
と同時に、エレノアはどうやって自分を紹介したんだろうと気になった。
まさか異世界の日本という国から来たと言ったわけではないだろう。
「今日はよろしく。お手並み拝見といこうか。なんでも風変りな乗り方をするみたいだな」
「ええ、まあ。見てのお楽しみです」
少々挑発じみた言葉になってしまったが、口で説明しても信じてくれそうもないのでそう言うしかなかった。
「ん?」
「どうしたの? キョースケ」
「ドリアードに乗るのってガウンさんなんですか? ジュスタンさんはデインって人が乗るって言ってたんですけど」
「違う違う。俺はたまたま別の馬の調教をつけに来ただけだ。ドリアードとアシタス、それに俺の乗る馬との併せ馬をするって言うもんだからな」
「ああ、三頭の併せ馬ってことっすか」
調教の内容まで聞いていなかったので、驚いた恭介は地金の出た口調になる。
「急に決まったのよ、あの人がそうしてくれって言うものだから」
エレノアは不満げな口調で言った。
どうやら彼女の思い描いたプランとは違うらしい。
「じゃあ、またあとでな」
と言ってガウンはこの場を去る。
そのとき遠くに見える入口の門から夥しい数の車がタドカスター調教場に入ってくるのが目に入った。
黒塗りの車ばかりで、大きな虫が這い寄ってくるように見えた。
「なんだあれ?」
「記者さんね。調教を見に来たみたい」
「うちには来なかったよな」
「レースが近いのはアシタスぐらいだし、まだ記者がコメントを取りに来る時期じゃないのよ。それに普通はあんなに大勢押し掛けることなんてないわよ」
エレノアも不思議そうに車を見つめていた。
「じゃあ、ここの誰かが呼んだってことか?」
「たぶん、ジュスタンよ。あいつ、記者を呼んでドリアードを取り上げてもらう気でいるんだわ」
「あいつねえ」
貴族令嬢が使う言葉ではない気がする。
よほどジュスタンを嫌っているらしい。
おまけに知り合って間もない恭介のいる前で婚約者をあいつ呼ばわりするあたり相当不満があるらしく、胸の内に押し留めるのも限界なのかもしれない。
「アシタスが驚くといけないから、早いところコースに行きましょう。キョースケ、乗って」
と言われて、恭介はバッグの中から道具一式を出して身につけ、バッグをエレノアに預けた。
エレノアの補助でアシタスに跨ると手綱を手に取った。
「じゃあ、行きましょう」
エレノアに引かれて調教コースへと向かった。




