悪魔に魂を売った男
「第零部」
斬り落とされた左腕からの流血と、潰された右目の激痛で声もあげられずに倒れていた。そこから見える風景は、まさしく地獄だった。純血の悪魔でありながら魔王の侵略を赦せないと仲間に加わったエルメラ・グリーディが、紫色の翼を生やして、仲間の騎士たちを惨殺していく。魔王にとどめを刺したメネスも心臓を貫かれ、屍となり転がっている。
憎い。心の底から、魂の根源から、エルメラへの怒りが湧きあがってくる。俺たちを騙し、仲間を殺して、魔王の持つ黒水晶という魔力の塊まで手にした。利用された恨みと、親友と仲間たちを殺された恨みは激痛が走る体に意思を繋ぎ止めてくれた。
やがてエルメラは崩れ始めた魔王城から飛び立つと、待てと声をあげようとしたが、代わりに血が口から吐き出される。
俺は、死ぬのか? こんな薄暗いところで、こんな屍の中で……。
「生きて、やる……生きて、絶対に殺してやる!」
吐血し、這いながらエルメラの去っていった先へ叫ぶが、意識を保つのが難しくなってきた。そんな時に、俺を見据える深紅の瞳の持ち主が不敵に笑った。
「サタナキア……お前たちがエルメラと呼ぶ悪魔に、復讐をしたいのだろう?」
話しかけてきたのは腹に風穴があいた魔王だった。今も血が止まらない魔王は、俺に手を伸ばせと口にした。
「てめぇ……生きていやがったのか」
魔王は鼻で笑うと、エルメラが去るまで死んだふりをしていたと口にした。しかし、その命はもうすぐ終わりを迎えるそうだ。だが、魔王は笑みを浮かべて、倒れたまま俺を見る。
「瀕死の重傷を負っているとはいえ、我は魔王だ。この死を待つだけの体を捨て、まだ生きていられる貴様の体と精神に我が入り込めば、我と貴様は生き残る。サタナキア――エルメラに身の程を知らしめてやることも倒す力も手にできるのだ。失った体の部位も我の力で蘇る。さあ、手を伸ばせ」
「そんな与太話、信じるかよ……」
「どうせ待っていても、互いに死ぬだけなのだ。可能性にすがるのが人間だと記憶しているが、貴様は復讐の可能性を捨てるのか?」
数百の悪魔を従え、アルムストを侵略しに来た魔王の言葉には耳も貸さないつもりだったが、エルメラへの復讐心が魔王を受け入れた。
俺は残された右腕を魔王へ伸ばすと、魔王も片腕を伸ばしてくる。それが合わさった時、俺の体の中に魔王から感じた魔力とやらが流れ込んでくる。血が再び体を巡り、流血は止まった。しかし、右目は焼けるように熱くなり、例えようのない痛みを伴って左腕の肘から先には紫色の鱗が並ぶ魔王の腕が、断面を貫いて生え伸びた。
あまりの痛みに震えていると、魔王城は本格的に倒壊を始めた。魔王の力で形が保たれていたのかは知らないが、とにかく崩れていく魔王城から逃げようとすると、頭上から瓦礫が落ちてきた。まだフラフラで避けることができなかったが、咄嗟に伸ばした両手で瓦礫に手のひらを向けると、軽々と持つことができた。
「これが、我の力だ」
心の中で魔王が呟くと、大きな欠伸が聞こえた。
「我も傷を負った。しばらくは貴様の中で休ませてもらうが――いつかはその体を乗っ取り、サタナキアすらも従えて、再び世界を我が手にしてやろう」
「それが目的かよ……クソ野郎」
そんなことはさせない。俺は強い意思で魔王の言葉を封じ込めると、今までとは段違いな身体能力で魔王城を駆け下り、完全に倒壊するまでに脱出することができた。
かくして、俺の体に魔王が宿った。しかし、重傷を負っていたのには変わりなく、ボロボロの体で倒壊した魔王城から歩いていくと、悪魔に襲われたのであろう無人の家屋を見つけた。悪魔どもはどうやら魔界へと返ったようで、俺は魔王城があった辺境の地にポツリと建っていた家屋のベッドに横になると、目を閉じて傷が癒えるのを待った。片腕が斬りおとされた傷と右目が潰された痛み、それから腹に風穴があいた魔王の傷のすべてが俺を苛むので、ただじっとしていた。動かなければ腹が減らないこともわかり、病気にも寒さにも困らないと、その家屋で休んでいる内に気が付いた。そんな様子で深い眠りについていると、春に魔王城へ攻め込んだというのに、起きたのは夏の日差しが照りつける真夏だった。
どこへ行けばいいのか。なにをすればいいのか。どうすればエルメラに出会えるのか。そんなことを考えながら、捨てられていた、黄ばんでいる包帯で左腕を巻いて隠すと、世捨て人のように各地を転々とした。金がないので野宿生活を強いられ、剣もないので傭兵の仕事にも就けない。このままでは復讐どころではないと思っていた矢先、満月が照らす木々に囲まれた細い道で、なにやら揉めている。今は他人の心配などしている暇はないので無視しようとしたが、女の悲鳴が聞こえてきた。同時に、それを黙らせるために怒鳴る男の声も。
「……憂さ晴らしにはちょうどいいか」
深くため息を付いて森の中から出て行くと、黒い服に身を包んだ連中が、鉄で造られた大きな馬車に三十名はいるエルフたちを縄で縛って押し込んでいる。そして黒服の連中の前には、傷ついたエルフたちが肩で息をしている。
これは話に聞いたことがある、エルフやドワーフの奴隷商だろうか。禁止されている奴隷化を破って、エルフとドワーフを捕まえて金持ちに売り飛ばす。なんとも度し難い連中だ。
「なんだ、てめぇは!」
俺に気付いたのか、一人の若い男が声を荒げて俺を睨みつける。それへつづくように、他の奴隷商たち十名ほどは俺へと視線を送った。
「なんだ? エルフでもないのに助けにきたってのか? そこのエルフたちみてぇに」
指を指されたエルフたちは、五名ほどで奴隷商に挑んだのか、傷だらけだ。
「これでも一応、サンストの騎士だからな。違法行為を見逃すわけにはいかねぇし、イラついているから、ちょっと相手になってもらおうか」
丸腰と片腕でなにが出来ると奴隷商たちは剣を手に迫ってくるが、止まって見えた。的確に一人ずつ急所を殴って気絶させていくと、力加減が上手くいかなかったのか、骨を砕いてしまった相手もいた。
「化け物かよ……ちくしょう、囲め!」
周りに男たちが円を描くように並ぶが、そんなことは無意味だ。今の俺なら、どんな相手でも勝つことができると確信が持てた。
どこで習ったわけでもない剣の使い方で斬りつけようとする男たちをいなして、一人一人丁寧に絶させていく。俺は悪魔に魂を売ったようなものだが、人としての矜持は手放したくなかった。だから殺さない。殺しては心まで悪魔になってしまうから。
あらかた片付けると、片で息をしていたエルフたちは俺に最低限の礼を言うと、拘束されているエルフを解き放ちにいった。助けたからといって、俺もエルフを攫おうとした人間。ここにいるエルフから見れば奴隷商と変わりないのだ。
どうやらエルフたちは奴隷商が乗っていた馬車をそのままいただいて逃げるようだ。
役目は終わったとその場を去ろうとしたが、一人のエルフが声をかけてくる。中性的な声の主は、助けようと駆けつけていた一人だった。
「本当に助かったよ。いくらお礼しても足りないくらいにね」
他のエルフと違って、こいつは人間である俺に恨みを抱かないどころか、素直に感謝している。純粋な想いにどう対応したらいいかと首を傾げるが、適当にあしらっておくことにした。
「ちょっと気に入らなかっただけだ」
ぶっきらぼうに言ってやると、そのエルフは被っていたフードを取って、長い耳を露わにした。こいつは純血のハイエルフだったのか。
「名乗り遅れたけど、ボクの名前はニオ・フィクナー。呼ぶときはニオでいいよ」
「……リージル・シティブソンだ」
名乗ると、腹の虫が鳴った。ある程度は食わなくても生きていられるのだが、まだ不自由な片腕の生活に慣れていなく、野宿の際に作る飯は不味くて食えたものではない。そんな様子を察してか、ニオは手を差し伸べてきた。
「君へのお礼のために、ボクたちエルフの隠れ里、アインヘルムに来ないかい? 食べ物も飲み物もたくさんあるよ」
背に腹は代えられないので了承すると、奪った馬車に乗ってアインヘルムとやらに向かった。
濃霧が包む見上げるほどの山の中枢に、アインヘルムと呼ばれるエルフの里はあった。緑豊かで、様々な野菜や果物を栽培している。吹き抜ける風も心地よく、馬車を下りてからしばらく、ボンヤリと眺めていた。
周りでは、奴隷として捕まったエルフとその家族が感動の再会を果たしている。そんな中からニオがやってくると、特別に料理を用意するという。濃霧の下に広がる地面に置かれた机と椅子に腰かけて待っていると、肉の類は少ないが、健康にはよさそうな食べ物がズラリと並んだ。俺は食えるときに食っておこうと心に決めてがっつくと、あっという間に食べ終わってしまった。
「早食いは太るよ?」
ニオがそう言うが、もともと食い物を食べる機会が少なかったのでトントンだろう。食べ終わって一息ついていると、そこへ一羽のカラスのような鳥が飛んできた。
「あんたかい? エルフを助けた英雄ってのは」
言葉を発した鳥は、ニオが悪魔の一種であるシムルグだと説明してくれた。なんでも、魔界の食い物よりこちらの世界の食い物の方が美味いから居ついているらしい。
「まあ、英雄ってのは言い過ぎだが、助けたのは事実だ」
謙遜するなよとパイクと名乗ったシムルグは言うが、あれは本当に気まぐれだ。
「それで、お腹もいっぱいになったようだし、ついてきてくれるかい」
周りのエルフたちから憎しみの視線が向けられているが、気にせずにニオへついていくと、他の木造で作られた家屋とは違う煉瓦造りの仰々しい家へと通された。
「何をする気だ?」
ニオに問いかけると、お礼にその片腕を治してあげられるかもしれないと返ってきた。正直魔王が心の中に居るというのは不快なので、治せるのなら治したい。そんな思いで煉瓦造りの家の扉を開けると、中には落ち着いた雰囲気のエルフが縫物をしていた。
「族長様、この人が攫われた仲間たちを助けてくれた人間のリージルです」
族長と呼ばれた緑色の髪を腰のあたりまで伸ばしたエルフは、ニオと同じくハイエルフのようだった。しかし、弱っているようにも見える。
「あなた、二つの意思があるのね」
静かにそう言った族長は、織物を止めて俺を見据えた。
「この世界にエルフが生まれて三千年……私はその最初から生きてきた最後の生き残り。だからわかるのよ。あなたの中には輝く善意と、それと同等の暗い復讐心があると――もう一つ、別の人格が魂の中に潜んでいることも」
それを聞いて、心の中で魔王は目を覚ました。早くここから離れろと、俺の体を操ろうとしてくるが、族長が俺を睨むと魔王は心の奥底へ沈んでいった。
一種の超能力かとも思ったが、人間ではたどり着けない年月を生きているのだ。奇跡の一つも起こせるだろう。
「それで、用はなにかしら」
族長がニオに問いかけると、俺の左腕を指差して、治せないかと口にした。族長はユラリと腰かけていた椅子から立ち上がり俺の黄ばんだ包帯を見やると、眉がピクリと反応した。
「包帯を取ってもいいかしら」
構わないと返すと、黄ばんだ包帯は取られ、魔王の左腕が露わになる。ニオもそれには驚いていた。
「あなたは本当にしぶといのですね……魔王様」
なぜ様をつけるのだと聞こうとしたら、族長は目を細めると、左腕に両手をかざした。微弱な緑色の光が発し、魔王の左手を包むと、心の奥底で魔王がふざけるなと叫んだ。しかし、その声も次第に聞こえなくなる。
「あなたが、あなたの意思で左腕に宿る力を使おうと決めない限りは、魔王は心の牢獄から出て来られないでしょう。しかし一度解放すれば、どうなるかは私にもわかりません」
「理屈はわからないが、魔王を気にしなくていいのか?」
「それには左腕を代償としなければなりません。この先一生、左腕で物を掴んだりしてはなりません。左腕を使う度に、魔王様は心の牢獄を壊していくでしょう。そして体を乗っ取られます」
「それじゃ、この先ずっと片腕か……」
それでも魔王を封じることができた。本当なら死ぬところだったのが片腕を失うだけで生き延びることができたのだ。今はそれに感謝しよう。
「人間の世界では、その腕を見せるべきではないでしょう。ですので、いくつか新しい包帯を用意しておきます」
そうして他の旅道具と華奢なエルフでは使えずに埃をかぶっていた剣も用意してもらうと、アインヘルムを去る時が来た。一部の助けたエルフたちから称賛の声を浴びていると、隣にニオがヒョコッと現れた。
「なんのようだ」
聞くと、ニオははにかんだ。
「外の世界をじっくり見たくてね。ボクなら人間に捕まらない自信があるから、しばらく同行してもいいかな?」
好きにしろと返すと、冒険の始まりだと騒いでいた。




