居候は雪と狼Ⅷ⭐︎
家に着いた、その瞬間だった。
「ただい――」
『離れなさいッ!!』
「え?」
玄関の向こうから飛んできた鋭い声に、亮人の言葉が途中で止まる。
そこに立っていたのは、家で待っているはずの雪女だった。
けれど、いつもの彼女とは明らかに様子が違う。長い白髪は周囲に渦巻く冷気に揺れ、足元からは薄い霜が庭へ向かって広がっていた。さらに両手を覆うように形成された氷は、それぞれ五本の鋭い鉤爪へと姿を変えている。
「雪ちゃん?」
『亮人から離れろッ!!』
「ちょっ――」
制止する暇もなく、雪女が地面を蹴った。
狙いは亮人ではない。そのすぐ隣にいた金髪の少女だった。
『――っ!』
少女も即座に反応し、その身体を金色の光が包む。人の輪郭が一瞬にして崩れ、次の瞬間には巨大な黄金色の狼へと戻っていた。
振り下ろされた氷の爪を紙一重でかわし、そのまま後方へ大きく跳ぶ。
ガキィンッ!!
雪女の鉤爪が地面を深く抉った。
砕けた地面から白い冷気が一気に広がり、玄関前の草木が音を立てる間もなく凍りついていく。
「ちょっと待って!?」
状況についていけない亮人を完全に置き去りにしたまま、二人の妖魔は互いに一定の距離を取った。
『こいつは私のよ! 絶対に渡さない!』
『違う! お兄ちゃんは私のお兄ちゃんだもん!』
「俺の所有権の話になってる?」
当然のように無視された。
雪女から放たれる凍てつく冷気と、金色の狼から立ち昇る獣そのものの殺気が真正面からぶつかり合い、二人の間にある空気まで軋んでいるように感じる。
「二人とも、本当にどうしたの?」
『どうしたもこうしたもないわよ!』
雪女が苛立ったように声を荒らげる。
『私たち妖魔にとって、私たちを認識できる人間がどれだけ貴重か説明したでしょう!?』
「聞いたけど」
『そういう人間を巡って妖魔同士が出会えば、奪い合いになるの!』
『お兄ちゃんを他の妖魔に渡すわけにはいかないもん!』
「だから俺の意見は?」
『『あとで!』』
「そこだけ息ぴったりだね……」
感心している場合ではなかった。
雪女が右腕を大きく振る。
『凍りなさい!』
轟ッ――!
その動きに合わせて吹雪が生まれ、一直線に金色の狼へ襲いかかった。
ただの雪ではない。吹き荒れる白の中には無数の細かな氷片が混ざっており、その一つ一つが刃のように尖っている。吹雪が掠めただけで周囲の草木へ無数の切り傷が刻まれ、瞬く間に白い霜が張りついていった。
『そんなの遅いっ!』
金色の狼が地面を蹴った。
その姿が、亮人の視界から消える。
「え?」
ドンッ!
離れた場所でコンクリートが砕ける。
続けざまに、もう一度。
ドンッ!
姿は見えない。
ただ破壊音だけが右へ、左へと移動し、雪女の周囲を囲むように響いていく。
そして――。
『もらった!』
声が聞こえた時には、すでに金色の狼は雪女の目の前まで迫っていた。
黄金色の前脚が大きく振り上げられ、鋭い爪が白髪の少女へ落ちていく。
まともに当たれば、人間の身体など簡単に引き裂かれるだろう。
『甘い!』
雪女もまた、迷うことなく氷の鉤爪を振るった。
ギィンッ!!
互いの爪が激突し、硬質な音が庭へ響き渡る。
だが、その直後だった。
『――っ!?』
金色の狼の動きが止まった。
視線を落とすと、四肢が地面ごと分厚い氷に包まれている。
『足元がお留守よ』
『この程度……!』
狼は脚を引き抜こうと全身へ力を込めるが、氷は容易には砕けない。
『終わり!』
雪女の鉤爪が、今度は横薙ぎに走った。
『っ!』
金色の狼は咄嗟に身体を沈める。
頭上を氷の刃が通過し、黄金色の毛を数本だけ切り落としていった。
『このっ!』
狼は前脚の爪を凍りついた地面へ深く突き立てると、そのまま全身の力を使って地面ごと持ち上げる。
バキィッ!!
氷ではなく、その下にある地面そのものが抉られた。
凍りついた足場を丸ごと引き剥がすことで拘束から逃れ、その勢いを利用して大きく後退する。
『……意外とやるじゃない』
雪女が目を細める。
『そっちこそ』
金色の狼も低く唸った。
ほんの一瞬だけ、二人の間へ不気味な静寂が落ちる。
けれど、それは互いに諦めたからではない。
次の一撃へ移るための、僅かな間だった。
『殺す!』
『殺すっ!』
「いや、待ってって!」
先ほどまでとは違う。
亮人にも、それだけは分かった。
次は本気だ。
金色の狼が地面を砕きながら飛び出し、雪女の周囲では冷気が渦を巻き始める。それに合わせて両腕の氷の鉤爪がさらに大きく、鋭く変形していった。
二人が狙っているのは、互いの首。
「――やめろっ!!」
考えるより先に、亮人は二人の間へ飛び込んでいた。
『――っ!?』
『お兄ちゃん!?』
左右から迫っていた爪が、亮人の頬すれすれを通過する。
ピッ――。
「…………」
両頬に、遅れて熱が走った。
薄く裂けた皮膚から細い血の筋が流れ落ちる。
『亮人……』
『お兄ちゃん……』
二人の動きが止まった。
「……二人とも」
亮人は怒鳴らなかった。
責めることもしなかった。
ただ、少し困ったように笑いながら二人を見る。
「俺の前で殺し合うのは、やめて」
『…………』
『…………』
亮人は右手を伸ばして雪女の冷たい手へ触れ、左手では狼の毛に覆われた前脚へそっと手を添える。
「どっちかが傷つくのも嫌だから」
それだけだった。
けれど、その言葉を聞いた二人の身体から、少しずつ力が抜けていく。
雪女の両手を覆っていた氷が砕けるように消え、金色の狼も剥き出していた牙を収めた。
「とりあえずさ」
亮人は家の玄関を指差す。
「中で話そう」
『……分かったわよ』
『……お兄ちゃんが言うなら』
「ありがとう」
こうしてどうにか、家の前で妖魔同士の殺し合いが始まるという、とんでもない事態だけは避けることができた。
◇
『それで?』
リビングへ移動したものの、雪女の機嫌が直ったわけではなかった。
ソファへ腰掛け、腕を組んだまま、亮人を鋭く睨んでいる。
『この状況を説明してもらえるかしら、亮人?』
「色々あって」
『その「色々」を聞いてるの!』
「ですよね」
亮人の反対側には、金髪の少女が座っている。
学校の体操着のまま連れ帰るわけにもいかなかったため、学校を出てから一度狼の姿へ戻ってもらい、帰宅途中に立ち寄ったモールで簡単な服を買っていた。
今はパーカーにスカートという、ごく普通の少女らしい格好をしている。
『お兄ちゃんが、私を家に連れてきてくれたの』
『それが気に入らないって言ってるのよ』
『私もお兄ちゃんの家族になるもん』
『いつ家族になったのよ!』
『今日!』
『今日!?』
「ちょっと二人とも」
放っておけば、すぐに第二ラウンドが始まりそうだった。
亮人は仕方なく二人の間へ座り、右に雪女、左に金髪の少女という形で物理的に距離を作る。
『そういえば』
金髪の少女が、亮人越しに雪女をじろりと睨んだ。
『お兄ちゃんが妖魔のこと知ってたから変だと思ったけど……あんたが教えたんだ』
『そうよ』
『東洋の妖魔風情が……』
『西洋の獣風情が何か言った?』
「はい、喧嘩しない」
『…………』
『…………』
二人とも口を閉ざした。
ただし、その視線だけは亮人を挟んで激しくぶつかり合っている。
「今日は二人に話したいことがあるんだ」
『話?』
『なぁに、お兄ちゃん?』
「その前に確認」
亮人はまず雪女へ顔を向けた。
「雪ちゃん」
『だから、その呼び方やめてって言ってるでしょ』
「妖魔って、人間みたいな名前は持ってないの?」
『ないわよ』
雪女はあっさり答える。
『基本的には、種族の名前がそのまま自分を表す呼び名になるもの』
「やっぱりそうなんだ」
『急にどうしたの?』
「今日、この子にも同じことを聞いたから」
今度は左側を見る。
『私はウェアウルフ!』
「って言われてね」
亮人は改めて二人の顔を見比べた。
「だからさ、二人に名前を考えたんだ」
『……名前?』
雪女が聞き返す。
「うん」
『私たちに?』
「そう」
亮人にとっては、ごく単純な話だった。
「雪女とかウェアウルフって、種族の名前なんでしょ?」
『そうだけど』
「だったら、それとは別に二人だけの名前があってもいいかなって思って」
『…………』
「俺としても呼びやすいし」
『それが一番の理由じゃないでしょうね』
「もちろん、それだけじゃないよ」
亮人は少しだけ笑う。
「これから一緒に暮らすなら、ちゃんと名前で呼びたいんだ」
二人へ順番に視線を向ける。
「その方が、家族らしいでしょ?」
『家族……』
雪女が小さく呟いた。
一方、金髪の少女は迷う様子もなかった。
『私はほしい!』
身を乗り出し、亮人の顔を覗き込む。
『お兄ちゃんがつけてくれるなら、絶対ほしい!』
「よかった」
『可愛い名前ね!』
「一応、頑張って考えたよ」
『じゃあ早く教えて!』
「ちょっと待って。まず雪ちゃん」
亮人は隣に座る雪女へ向き直った。
「どうかな?」
『…………』
「嫌なら無理にはつけないけど」
『…………』
「でも、俺は『雪ちゃん』じゃなくて、ちゃんと君だけの名前で呼べたら嬉しい」
その言葉を聞いて、雪女は黙り込んだ。
家族。
君だけの名前。
自分は雪女で、それ以外の呼び名など必要ないと思っていた。
今まで、それで困ったことは一度もない。
誰かから特別な名を呼ばれる必要もないと思っていた。
それなのに今は、亮人がどんな名前を考えてくれたのか、少しだけ期待している自分がいる。
『……好きにすれば』
「いいの?」
『ただし』
雪女はわざとらしく顔を背けた。
『似合わない名前だったら、やり直しだから』
「厳しいなぁ」
『当然でしょ』
そう言いながら、白い髪の隙間から覗く耳は、ほんの少し赤く染まっていた。
「じゃあ」
亮人は一度息を整え、彼女を見る。
「これからは――氷華」
『…………』
「氷の華って書いて、氷華」
一瞬、リビングから音が消えたように感じた。
『……氷華』
雪女だった少女が、初めて自分だけの名前を口にする。
「うん」
『…………』
「どうかな?」
『……悪くない』
「よかった」
『まあ、七十点くらいね』
「結構厳しい」
『でも……』
氷華は再びそっぽを向く。
『これから、そう呼びたいなら呼べばいい』
「分かった」
亮人は穏やかに笑った。
「これからよろしくね、氷華」
『――っ』
その名前は、雪女という種族を示すためのものではない。
妖魔という括りを示すものでもない。
目の前にいる彼女一人だけを呼ぶための言葉だった。
『……よろしく、亮人』
声は小さかった。
けれど、その声音は今までより少しだけ柔らかい。
『お兄ちゃん!』
「はいはい」
『次は私!』
待ちきれなくなった金髪の少女が、亮人の袖をぐいぐいと引っ張る。
「ちゃんと考えてるよ」
『どんな名前!?』
「君は――シャーリー」
『……シャーリー』
「外国で会ったって聞いたから、日本の名前よりそっちの方が似合うかなと思って」
『シャーリー……』
少女は確かめるように、ゆっくり自分の名前を口にする。
『シャーリー』
「気に入らない?」
『ううん!』
勢いよく首を振った。
『好き!』
「それならよかった」
『お兄ちゃんがくれた名前だから大好き!』
そのまま亮人の腕へ抱きついてくる。
「ちょ、ちょっと近い」
『私は今日からシャーリー!』
「うん」
『お兄ちゃんのシャーリー!』
「その言い方はやめようか」
『なんで?』
「色々と誤解を招くから」
『人間って難しいね』
「俺もそう思う」
亮人は苦笑する。
それでもシャーリーは本当に嬉しそうで、金色の髪を揺らしながら、自分の名前を何度も何度も口にしていた。
『シャーリー……』
その姿を見て、亮人はようやく気づく。
人間にとって名前は、生まれた時から持っていて当たり前のものだ。
誰かに呼ばれ、その名前で自分を認識し、他人と区別する。
けれど彼女たちは違った。
今までは『雪女』。
今までは『ウェアウルフ』。
それぞれの種族名だけが、自分を示す唯一の呼び名だった。
そこへ今日、初めて自分一人だけの名前ができた。
「……つけてよかったな」
『なに? お兄ちゃん』
「なんでもない」
『変なお兄ちゃん』
「それも今日何回目かな」
『いっぱい』
「そうだね」
『それで』
今度は氷華が口を開いた。
『いい雰囲気になってるところ悪いけど、その子、本当にここに住むの?』
『その子じゃない! シャーリー!』
『今日名前をもらったばかりなのに、もうすっかり気に入ってるのね』
『当たり前!』
『ふーん』
『なによ』
また空気が怪しくなる。
「二人とも」
『何よ』
『なぁに?』
「仲良くしてとは言わないから、せめて殺し合わないで」
『…………』
『…………』
「これから同じ家で暮らすんだし」
『私はまだ認めてないけど』
『私はお兄ちゃんと一緒ならいいもん』
『そういうところが気に入らないのよ』
『氷華には関係ないもん』
『今、呼び捨てにしたわね?』
『だって名前で呼ぶんでしょ?』
『それは亮人が――』
「あの」
二人が同時に亮人を見る。
「俺を挟んで喧嘩するの、本当にやめてもらえる?」
『…………』
『…………』
数秒の沈黙が続いたあと、氷華が突然ソファから立ち上がった。
『晩ご飯』
「え?」
『もうそろそろ作る時間でしょ』
「ああ、そうだね」
『今日は私も手伝う』
亮人は少し驚いた。
「いいの?」
『なによ』
「いや、嬉しいなって。一緒に作った方が早いし」
『――っ』
氷華の頬が僅かに赤くなる。
『……そういう意味ね』
「?」
『なんでもない!』
氷華は顔を逸らし、そのままキッチンへ向かっていった。
以前なら、夕食を作るのは亮人一人だった。
広いキッチンに立ち、一人分の料理を作って、一人分の食器だけを食卓へ並べる。
それが当たり前だった。
『お兄ちゃん! 私も手伝う!』
「シャーリーは料理できる?」
『できない!』
「潔いね」
『教えて!』
「じゃあ簡単なところからね」
『うん!』
『……刃物はまだ持たせない方がいいんじゃない?』
『どういう意味!』
『そのままの意味よ』
「はいはい。喧嘩しない」
家の中に、声が増えた。
使う食器も増え、作る料理の量も増える。
以前よりも、この家が少しだけ狭くなったような気がした。
けれど亮人は、キッチンへ向かっていく二人の背中を見つめながら思う。
それが、嫌ではない。
むしろ今まで広すぎたこの家には、このくらいがちょうどいいのかもしれなかった。
「さて」
亮人もソファから立ち上がる。
「今日は三人分だね」
『亮人、何作るの?』
『お兄ちゃん、美味しいのがいい!』
「はいはい」
人間が一人。
雪女――ではなく、氷華が一人。
そして、ウェアウルフ――シャーリーが一人。
どう考えても普通の暮らしとは言えない。
それでも、一緒に夕食を作り、同じ食卓を囲み、互いの名前を呼び合う。
そんな時間なら――。
「……悪くないな」
亮人は、そう思った。
この日、雪女だった少女は氷華になり、ウェアウルフだった少女はシャーリーになった。
種族の名しか持たなかった二人は、相馬亮人の家で、自分だけの名前を手に入れた。
そして三人の暮らしもまた、ここから少しずつ形を変えていくことになる。




