居候は雪と狼Ⅶ
保健室へ着くまでの間、亮人は何度も隣を歩く少女へ視線を向けていた。
肩ほどまで伸びた金色の髪に、黄金色を帯びた琥珀色の瞳。その中心には獣を思わせる縦長の瞳孔が浮かんでいるものの、つい先ほどまで巨大な狼の姿をしていたとは、とても思えない。
見た目だけなら、本当に普通の女の子だった。
「普通……ではないか」
『なに? お兄ちゃん』
「なんでもないよ」
少なくとも、学校の廊下を亮人のブレザー一枚だけ羽織って歩いている時点で、普通とは言い難い。
幸いと言っていいのかは分からないが、廊下ですれ違う生徒たちは誰一人として少女へ視線を向けなかった。すぐ隣を歩いていても避ける素振りすらないところを見ると、やはりこの少女も雪女と同じで、普通の人間には認識できないらしい。
やがて保健室へ辿り着き、亮人が扉を開ける。
「誰もいないね」
室内に養護教諭の姿はなく、机の上には『職員室へ行っています』と書かれた小さな札だけが置かれていた。
「まあ、ちょうどいいか」
『なにが?』
「君のこと説明しなくて済むから」
『私、見えないよ?』
「そうだった」
『お兄ちゃん、ちょっと抜けてるね』
「初対面みたいな相手に言われると複雑だなぁ」
『初対面じゃないもん』
「…………」
『私にとっては』
少女はそう付け加えると、ほんの少し寂しそうに目を伏せた。
「……ごめん」
『謝らなくていいよ』
けれど次の瞬間には、何でもないことのように笑う。
『また会えたから、それでいいの』
「…………」
その笑顔を見るたび、亮人の胸の奥へ小さな棘が刺さるような感覚が残った。
彼女は覚えている。
自分は忘れている。
どれだけ仕方のない事情があったとしても、その事実がどうにも申し訳なかった。
ただ、今ここで謝り続けても彼女を余計に困らせるだけだろう。亮人はひとまず話題を変えるように、少女へ掛けていた自分のブレザーを見る。
「とりあえず、その格好どうにかしようか」
保健室の棚を開けると、忘れ物や緊急時の着替えとして用意されているらしい体操着が何着か入っていた。
「これなら大丈夫そうかな」
『服?』
「学校で使うやつ」
『へぇ……』
少女は珍しいものを見るように体操着を眺める。
「着られる?」
『…………』
「どうしたの?」
問いかけると、少女は左肩を動かそうとして――すぐに顔を歪めた。
『いたっ……』
「肩?」
『うん』
そこで亮人は改めて彼女の身体を見る。
狼の姿だった時にも見えていた傷は、人の姿へ変わった今も消えていなかった。腕や肩には痛々しい痕がいくつも残っており、中にはまだ完全に塞がっていないものまである。
『前に襲われた時に怪我したの。まだちゃんと治ってなくて……』
「…………」
『だから』
少女は申し訳なさそうに体操着を持ち上げる。
『お兄ちゃん、手伝ってくれる?』
「いいよ」
『即答なんだ』
「怪我してるんでしょ?」
『うん』
「なら仕方ないよ。無理に動かしたら余計に悪くなるし」
亮人は傷ついた肩へできるだけ負担が掛からないよう注意しながら、着替えを手伝った。
袖を通すだけでも時折少女の顔が歪む。
「痛かったら言ってね」
『大丈夫』
「我慢しなくていいから」
『……うん』
焦らずゆっくりと腕を通し、傷のある部分を引っ掛けないよう服を整える。
しばらくして、ようやく着替えが終わった。
「よし」
体操着姿になった少女を見て、亮人は少し安心したように息を吐く。
「これなら学校歩いてても……まあ、俺には自然に見える」
『他の人には見えてないけどね』
「そうなんだけどさ」
『変なお兄ちゃん』
「最近よく言われるよ」
『誰に?』
「同居人」
『……同居人?』
少女の耳がぴくりと動いたように、亮人には見えた。
『女?』
「女の子だよ」
『…………』
「雪女だけど」
『雪女!?』
突然大きな声が響き、亮人は思わず目を瞬かせた。
「知ってる?」
『知ってるも何も……妖魔じゃん!』
「やっぱりそうなんだ」
『なんでお兄ちゃんが雪女と一緒に住んでるの!?』
「色々あって」
『色々ってなに!?』
「説明すると長いから、あとでね」
『むぅ……』
少女は明らかに不満そうな顔をしたが、亮人はひとまず救急箱を取り出し、自分の右腕へ視線を落とした。
先ほど噛まれた場所は、思っていた以上に深い。
「これは……結構やられたなぁ」
『…………』
それを聞いた瞬間、少女の表情が一気に曇った。
『ごめんなさい』
「大丈夫だよ」
『でも、私が噛んだ』
「そうだね」
『うぅ……』
「そんな顔しないでよ」
亮人は消毒液を染み込ませたガーゼを傷口へ当てる。
「っ……!」
さすがに染みた。
『お兄ちゃん!』
「消毒だから大丈夫」
『痛そう……』
「実際、ちょっと痛い」
『やっぱりごめんなさい!』
「だから大丈夫だって」
苦笑しながら止血を確認し、消毒した傷へ新しいガーゼを当て、その上から包帯を巻いていく。
手つきに迷いはなかった。
大げさなことではない。これまでにも一人で簡単な怪我の手当てをすることはあったし、誰かを呼ぶほどでもない傷なら、自分で何とかするのが当たり前になっていただけだ。
けれど少女には、それが少し違って見えたらしい。
『お兄ちゃんって……何でも一人でできるんだね』
「そうでもないよ」
『でも、怪我したのに誰にも手伝ってもらってない』
「慣れてるだけ」
『…………』
その答えを聞いた少女は、少しだけ悲しそうな顔をした。
亮人は気づかなかったふりをして、包帯の端を留める。
『ねぇ、お兄ちゃん』
「ん?」
『さっきの話なんだけど』
「雪ちゃん?」
『違う!』
即答だった。
『私たち妖魔のこと』
「ああ」
少女は保健室のベッドへ腰を下ろす。
『雪女から聞いてるんでしょ?』
「少しだけね」
『私たちが、お兄ちゃんみたいな人間を必要としてることも?』
「聞いたよ」
『……そっか』
少女は膝の上で両手を握る。
『だったら……私も同じ』
「同じ?」
『お兄ちゃんは、私たちにとってすごく大切な人なの』
雪女から聞いたことと、ほとんど同じ意味の言葉だった。
けれど、少女の声にはそれだけでは片づけられない何かがあった。
『でも私は……妖魔だから必要なんじゃない』
「…………」
『私は、お兄ちゃんだから会いたかったの』
俯いていた顔を上げ、琥珀色の瞳が真っ直ぐ亮人を見る。
『十年前に遊んでくれた、お兄ちゃんに』
「…………」
それだけで十分だった。
この子にとって自分は、妖魔を見ることのできる珍しい人間だから特別なのではない。
もっと前から。
亮人自身が忘れてしまった頃から、彼女の中ではずっと『お兄ちゃん』だったのだ。
「そっか」
『うん』
「だったらさ」
亮人は少女の隣へ腰を下ろした。
「妖魔とか人間とか、その話は今すぐ決めなくてもいいんじゃないかな」
『え?』
「俺、まだ君のこと何も知らないし」
『…………』
「君も、今の俺のことは知らないでしょ?」
『……うん』
「だったら、まずはそこからでいいよ」
十年前、確かに二人の間には何かがあったらしい。
けれど今の亮人には、その記憶がない。
それなら。
「もう一回、知っていけばいい」
『…………』
「俺が君を思い出せないなら、これからまた思い出を作ればいいんじゃない?」
『お兄ちゃん……』
「それなら、俺にもできるから」
少女の瞳が揺れる。
亮人は少しだけ視線を遠くへ向けた。
「俺にはさ、いつか大切な人と一緒に静かに暮らしたいっていう夢があるんだ」
『大切な人?』
「うん」
『好きな人いるの?』
「…………」
そこで亮人は少し困った。
一瞬、礼火の顔が浮かぶ。
けれど、それは恋愛感情とは少し違う。長い時間を一緒に過ごしてきた、大切な幼馴染という方がしっくりくる。
雪女だって、まだ一緒に暮らし始めて二週間ほどしか経っていないが、もう完全な他人とは思えなくなっていた。
「今はいないかな」
『そうなんだ』
「いつかできればいいと思ってる」
亮人は穏やかに笑った。
「その人と一緒にご飯を食べて、『ただいま』とか『おかえり』とか言って。それくらいでいいんだ」
『…………』
「普通の家庭っていうのかな」
それが、亮人の望んでいるものだった。
会社を継ぐことでも。
金を増やすことでも。
高い地位を得ることでもない。
誰かが自分の帰りを待っている家があって、自分もその誰かが帰ってくるのを待つ。食卓を囲んで、何でもない話をして、眠って、また朝を迎える。
そんな当たり前の生活が欲しかった。
『じゃあ……』
少女は少し躊躇したあと、恐る恐る尋ねる。
『妖魔でも、その大切な人になれる?』
「え?」
『人間じゃなくても』
亮人は少し考えた。
けれど、答えが出るまでにそれほど時間は掛からなかった。
「なれるんじゃない?」
『…………』
「雪ちゃんと暮らし始めて分かったけど、妖魔だからって全部が人間と違うわけじゃないし」
『…………』
「ご飯食べて喜んだり、怒ったり、笑ったりするしね」
今朝など、焼き魚の話をしただけで雪女は目を輝かせていた。
そういう姿を見ていると、人間か妖魔かという違いより、その人がどんな人なのかの方がずっと大切に思える。
「だから、相手が人間か妖魔かっていうのは、俺にはそこまで重要じゃないかな」
『……そっか』
少女は今度こそ安心したように笑った。
『よかった』
「何が?」
『なんでもない』
そう言うと、少女はそっと亮人の袖を掴む。
ほんの少しだけ。
まるで、離れていかないことを確かめるように。
「それより、聞きたいことがあるんだ」
『なに? 何でも聞いて!』
「俺たち、どこで会ったの?」
その問いかけに、少女の表情が変わった。
「十年前って言ってたよね」
『うん』
「俺、その頃の記憶が結構曖昧なんだ」
『…………』
「交通事故に遭ったことがあってね」
事故そのものを、亮人はほとんど覚えていない。
気がついた時には病院にいて、幼い頃の記憶には、まるでところどころ切り取られたような穴が残っていた。
「だから君のことを忘れてるのも……多分、その影響だと思う」
『事故……』
「うん」
少女は少し考えるように俯いたあと、ゆっくりと口を開いた。
『私がいたのは、アメリカだよ』
「アメリカ?」
『田舎の方』
「…………」
『お兄ちゃんは、男の人と一緒に来てた』
「男の人?」
『うん。お兄ちゃんのお世話をしてる人だって言ってた』
「……執事?」
『たぶん、それ』
亮人は眉を寄せた。
「でも、俺に執事なんていないよ」
『いたよ?』
「…………」
両親の仕事の都合で、幼い頃にアメリカへ行ったことがある。
それ自体は覚えている。
けれど、執事と呼べるような男が側にいた記憶も、金色の狼と出会った記憶も、一週間一緒に遊んだという少女の記憶も残っていなかった。
「……やっぱり、何か忘れてるんだな」
『お兄ちゃん?』
「大丈夫」
事故。
失われた記憶。
今になって現れた妖魔。
それらが本当に繋がっているのか、今の時点ではまだ分からない。
ただ一つ確かなのは、十年前の自分には、今の自分が知らない何かがあったということだけだった。
「そういえば」
『ん?』
「一番大事なこと聞いてなかった」
『なに?』
「君の名前」
『……名前?』
「うん」
亮人は少し苦笑した。
「ずっと『君』だと呼びにくいから」
『私に名前なんてないよ?』
「……え?」
どこかで聞いた覚えのある話だった。
『私たち妖魔は、基本的に種族の名前で呼ばれるから』
「種族?」
『私はウェアウルフ』
「ウェアウルフ……」
『それが、私が何者かを表す名前』
「…………」
亮人は顎へ手を当てる。
「そういえば……雪ちゃんも、自分の名前を言ったことないな」
ずっと雪女。
だから亮人も『雪ちゃん』と呼んでいる。
これまでは単に本人が名前を教えてくれないのだと思っていたが、もしかすると事情は同じなのかもしれない。
「もしかして、雪ちゃんも……」
『たぶん名前ないと思う』
「そうなんだ」
亮人には、それが妙に引っかかった。
「……名前がないって、不便じゃない?」
『そう?』
「俺は不便」
『お兄ちゃんが?』
「だって、ウェアウルフって呼ぶの長いし」
『そこ!?』
「雪女も、毎回呼ぶにはちょっと固いしね」
亮人は少女の顔を見る。
「名前、つけようか」
『……え?』
「君の」
琥珀色の瞳が丸くなる。
『私に?』
「うん」
『お兄ちゃんが?』
「嫌ならやめるけど」
『嫌じゃない!』
少女が勢いよく亮人へ身を乗り出した。
『ほしい!』
「お、おお……」
『お兄ちゃんがつけてくれるなら、ほしい!』
想像していた以上の食いつきだった。
「じゃあ、ちゃんと考えないとな」
『今じゃないの?』
「すぐには思いつかないよ」
『そっか……』
露骨に残念そうな顔をする少女に、亮人は少し笑う。
「適当につけたくないんだよ」
『適当じゃなくて?』
「名前って、意味とか願いを込めるものでしょ?」
『…………』
「せっかくなら、君に似合う名前をつけたいから」
その言葉を聞いた途端、少女は何も言わなくなった。
「どうしたの?」
『……嬉しい』
「え?」
『なんか……すっごく嬉しい』
少女は自分の胸元へ手を当てる。
種族を表す呼び名しか持たない彼女にとって、自分だけを指す名前がどれほど特別なものなのか。
亮人には、まだ完全には分からない。
それでも。
「家に帰るまでに考えるよ」
『うん!』
「雪ちゃんのも一緒に考えないとなぁ」
『…………』
「どうしたの?」
『お兄ちゃん』
「ん?」
『雪女のより、私の方を可愛い名前にしてね』
「そこ張り合うの?」
『絶対だからね!』
「はいはい」
雪ちゃんと会わせたら大変そうだ。
亮人は早くも、そんな予感がしていた。
◇
「よし。これで大丈夫」
最後に包帯を確認してから、亮人は救急箱を閉じた。
『本当に?』
「たぶん」
『たぶんじゃダメだよ』
「心配性だなぁ」
『誰のせいだと思ってるの!』
「君だね」
『うぅ……』
「冗談だよ」
亮人は小さく笑いながら立ち上がった。
「教室戻ろうか」
『私も?』
「もちろん」
『でも、授業って人間が勉強するところなんでしょ?』
「興味ない?」
『ある!』
「なら一緒に来ればいいよ」
『……いいの?』
「他の人には見えないんでしょ?」
『うん』
「じゃあ問題ないよ」
『…………』
まただ。
少女は時折、亮人が何気なく口にした言葉に驚いたような顔をする。
「今度は何?」
『なんでもない』
「そう?」
『うん』
そう答えながら、少女はそっと亮人の手を握った。
小さな手が離れないように指へ絡む。
『一緒に行く』
「分かった」
亮人も、その手を振り払わなかった。
二人で保健室を出る。
廊下を行き交う生徒たちには、亮人が一人で歩いているようにしか見えないのだろう。
けれど実際には、誰にも見えない金髪の少女が隣にいて、その手をしっかりと握っている。
『ねぇ、お兄ちゃん』
「ん?」
『名前』
「まだ考えてるよ」
『絶対可愛いのね』
「分かったって」
『約束だよ?』
「約束」
『えへへ……』
嬉しそうな笑い声が、少女の存在を知らない者たちが行き交う廊下へ響く。
十年前。
二人の間に何があったのか、亮人にはまだ分からない。
なぜ自分だけが妖魔を見ることができるのかも。
事故で失った記憶の中に何があるのかも。
どうして彼女が傷だらけになるまで自分を探していたのかも、今は何一つ答えが出ていない。
それでも。
隣から握られている小さな手を、離そうとは思わなかった。
忘れてしまったのなら、もう一度始めればいい。
失った十年前を無理に取り戻せなくても、これから先に新しい時間を積み重ねることならできる。
今度は――忘れないくらいの思い出を、作っていけばいいのだから。




