居候は雪と狼Ⅵ
雪女と暮らし始めて、二週間が経った。
たったそれだけの時間なのに、不思議なものである。亮人は学校から家へ帰るたび、いつの間にか自然と「ただいま」と口にするようになっていた。
以前は、そんなことを言ったことなど一度もない。誰も帰りを待っていない家で「ただいま」と言ったところで返事が返ってくるわけではなく、わざわざ声に出す理由もなかったからだ。
けれど、今は違う。
『おかえり、亮人』
そう返してくれる少女がいる。
ただそれだけのことなのに、以前は広すぎるだけだった家が少しずつ本当の意味で「家」らしくなり、玄関を開けた先に誰かがいるという当たり前の光景を、亮人自身も思っていた以上に心地よく感じるようになっていた。
「雪ちゃん、今頃寝てるかなぁ……」
化学実験室では授業の真っ最中だというのに、亮人の視線は教師ではなく窓の外へ向いていた。
澄み切った青空の下を白い雲がゆっくりと流れていく。そのさらに向こうにある自宅のことを思い浮かべながら、亮人は昨日の夜の雪女を思い出す。
「昨日、遅くまでテレビ見てたし……たぶん寝てるよな」
雪女と出会って二週間。最初の頃は名前が分からなかったこともあり『君』としか呼んでいなかったのだが、それではいつまでも他人行儀な気がして、今朝からなんとなく『雪ちゃん』と呼び始めてみた。
『雪ちゃんって何よ!』
もちろん、案の定怒られた。
ちなみに雪女の方はというと、同居を始めて二日目になってようやく亮人の名前を聞いてきた。
『そういえば、あんたの名前って何?』
あの時ばかりは、さすがの亮人も少しだけ悲しい気持ちになったものだ。
「一緒に暮らしてるのに、名前知らなかったんだもんなぁ……」
「ねぇ」
「でも、雪ちゃんって結構呼びやす――」
「ねぇ、亮人」
「ん?」
すぐ横から聞こえた声に、ようやく亮人は窓の外から視線を戻した。
そこには礼火が立っていた。それも普段の柔らかな表情ではなく、何かを確かめるような妙に真剣な顔でこちらを見ている。
「雪ちゃんって、誰?」
「…………」
しまった、と亮人は心の中で呟いた。
どうやら、さっきから頭の中だけで考えていたつもりのことを、かなりの部分声に出していたらしい。
「さっきからずっと雪ちゃん、雪ちゃんって言ってるけど」
「言ってた?」
「言ってた」
「そっかぁ」
「そっかぁ、じゃないよ」
礼火は少し眉を寄せ、逃げ道を塞ぐように一歩近づいてくる。
「誰なの?」
「…………」
「亮人?」
「いやぁ……」
「教えて」
これは面倒なことになった。
亮人は礼火から逃げるように再び窓の外へ視線を向けたものの、当然それだけで話が終わるはずもない。
家に住み着いた雪女です。
妖魔です。
普通の人には見えません。
そんな説明を正直にしたところで、礼火が素直に信じてくれるとは思えず、十中八九、自分の体調か精神状態を心配されることになるだろう。
下手をすれば――。
「教えてくれないなら、お父さんたちに連絡するよ?」
「それだけはやめようか」
そこだけは考えるより早く即答した。
「じゃあ教えて」
「…………」
両親へ話が行くのだけは避けたい。
だからといって雪女の存在をそのまま説明するわけにもいかず、どう誤魔化したものかと頭を悩ませていた。
その時だった。
「……ん?」
遠くから、聞き覚えのある声が響いた。
『ウォォォォォォォォン――』
「まただ」
「なにが?」
「遠吠え」
「え?」
礼火が首を傾げる。
「やっぱり聞こえてない?」
「何も聞こえないけど」
「…………」
やはり、亮人にしか聞こえていないらしい。
「亮人、今度は話を逸らそうとしてない?」
「いや、今回は本当に聞こえて――」
そこまで言いかけたところで、亮人の言葉が止まった。
窓の向こう。
青空を背景に、小さな影が見えた。
「……え?」
最初は遠くにあったはずの影が、見る間に大きくなっていく。
上から落ちてきているのかと思った。
けれど違う。
あれは、自分の意思でこちらへ向かって飛んできている。
「なんだ、あれ……」
最初は犬かと思った。
しかし、距離が縮まるにつれて、その身体が大型犬などとは比べものにならないほど大きいことが分かってくる。
そして。
『お兄ちゃんを困らせるなぁぁぁぁッ!!』
「――っ!?」
少女の声が響いた直後。
ガシャァァァンッ!!
実験室の窓が派手に砕け散った。
「きゃあっ!?」
「なんだ!?」
「窓が!」
教室中が一瞬で騒然となり、砕けたガラス片が床へ降り注ぐ。
その中を、一匹の獣が飛び込んできた。
「…………」
朝日を受けて輝く黄金色の毛並み。
大型犬を遥かに上回る巨体に、鋭い牙の覗く口元、無駄のない筋肉に覆われた四肢。
犬ではない。
これは――。
「狼……?」
亮人の呟きに、答える者はいなかった。
正確には、誰も狼そのものへ反応していなかった。
クラスメイトたちは突然割れた窓に驚き、教師も何が起きたのか分からないまま声を上げている。それなのに、教室の中央へ堂々と立っている黄金色の狼へ視線を向ける者は一人もいない。
「……やっぱり妖魔か」
亮人の声に反応するように、狼の耳がぴくりと動く。
次の瞬間には、それまでの荒々しさが嘘だったかのように表情を明るくし、待ちきれなかったと言わんばかりの勢いで亮人のもとへ駆け寄ってきた。
『お兄ちゃん!』
「……え?」
巨大な狼が嬉しそうに身体を擦りつけてくる。
「お兄ちゃん?」
誰が、と亮人が聞き返すより先に、狼の視線が礼火へ向いた。
そこで空気が一変する。
先ほどまで亮人へ甘えるように寄り添っていた狼の喉から低い唸り声が漏れ、琥珀色の瞳が鋭く細められた。
『この人間……』
「ん?」
『お兄ちゃんを困らせた』
「いや――」
『許さない』
狼が低く身体を沈めた。
その瞬間、亮人の背中を冷たい感覚が走る。
「待って」
『死ねっ!!』
床が砕けた。
巨大な身体からは想像できないほど鋭い加速で狼が踏み込み、コンクリートを抉りながら一直線に礼火へ飛びかかる。
「っ!」
礼火には、その姿が見えていない。
「亮人?」
むしろ、割れたガラスで亮人が怪我をしていないか確かめようと、何も知らずこちらへ歩いてきていた。
まずい。
そう思った時には、亮人の身体はもう動いていた。
「やめろ!」
礼火と狼の間へ飛び込み、右腕を突き出す。
次の瞬間。
ガブッ。
「――っ!!」
激痛が走った。
狼の牙が亮人の右腕へ深く食い込み、皮膚を突き破った感触と同時に熱い痛みが腕全体へ広がっていく。
『――――っ!?』
狼の瞳が大きく見開かれた。
『お兄ちゃん!?』
傷口から鮮血が一気に溢れ、腕を伝った赤い雫が一滴、二滴と床へ落ちていく。
「亮人!?」
礼火が悲鳴を上げた。
当然だった。
礼火には狼の姿が見えていないのだから、彼女の目には亮人が突然腕を突き出し、その直後に何もない場所で深い傷を負ったようにしか見えていない。
「だ、大丈夫……」
「大丈夫じゃないよ! 血が!」
「そうだね……思ったより出てるね」
『お兄ちゃん、ごめんなさい!』
狼は慌てて牙を抜いた。
『ごめんなさい、ごめんなさい……! 私、お兄ちゃんを噛むつもりじゃ……!』
「いや……とりあえず、止めてくれて助かったよ」
『私、お兄ちゃんを傷つけるつもりなんてなかったの! 本当に、本当に違うの……!』
「うん、分かってるから」
『でも……!』
「大丈夫」
狼はその場へ伏せるように身体を低くした。
先ほどまで礼火へ向けていた殺気が嘘のように消え、大きな琥珀色の瞳には涙さえ浮かんでいる。
つい数秒前まで人を殺そうとしていた狼とは思えないほど落ち込んでいる姿を見ていると、亮人も強く怒る気にはなれなかった。
「亮人! 保健室行こう!」
礼火が青ざめた顔で傷口を見る。
「かなり深いよ!」
「たぶん大丈夫」
「大丈夫じゃないって!」
「でも、その前にちょっと片づけないといけないことが増えたから」
「なに言ってるの!?」
亮人は困ったように笑いながら、混乱している教師へ視線を向けた。
「先生、保健室行ってきてもいいですか?」
「は、早く行け! というかそれ、かなり出血してるぞ!」
「ですよね」
「いいから早く行け!」
「じゃあ、行ってきます」
「私も行く!」
礼火が即座に言う。
「亮人一人じゃ危ないよ!」
「いや……今回は一人で行かせて」
「でも!」
「お願い」
「…………」
声そのものは普段とそれほど変わらなかったが、出血の影響なのか亮人の顔色は少しずつ青白くなっていた。
礼火はしばらく迷ったあと、納得してはいないことを表情いっぱいに示しながらも、渋々頷く。
「……絶対、ちゃんと保健室行ってね」
「うん」
「寄り道しないで」
「善処する」
「ちゃんと行って!」
「分かったって」
どうにか礼火を納得させ、亮人が教室を出ようとした、その時だった。
『…………』
狼が再び礼火へ視線を向ける。
先ほどほどではないものの、その目にはまだ明らかな警戒が残っていた。
『この女……』
「やめて」
『でも』
「礼火は俺の幼馴染だから」
『幼馴染……?』
「うん」
狼は礼火をじっと見つめる。
「俺にとって、大切な人だよ」
『――っ』
その言葉を聞いた瞬間、狼の耳が僅かに伏せられた。
『お兄ちゃんの……大切な人』
「そう」
狼はしばらく礼火を見つめたあと、不満を完全には隠せないまま、それでもゆっくり牙を収める。
『なら……今回は許してあげる』
「今回だけじゃなくて、これからもね」
『…………』
「殺したら駄目だから」
『でも、お兄ちゃんを傷つけたら――』
「それでも」
『…………』
「お願い」
亮人の声には怒りも命令もなかった。
ただ真っ直ぐに頼まれたことで、狼も強く拒むことができなかったのか、しばらく黙ったあと小さく頷いた。
『……分かった』
「ありがとう」
『でも、本当に酷いことしたら、その時は怒るから』
「怒るだけにしてね」
『努力する』
「そこは約束してほしかったなぁ」
ずいぶん物騒な狼だった。
◇
実験室を出て廊下へ出た途端、それまで張り詰めていた狼の雰囲気が嘘のように消えた。
『お兄ちゃーん!』
「うわっ」
巨大な身体を嬉しそうに擦りつけてくる。
「ちょ、痛い痛い。右腕怪我してるから」
『久しぶりのお兄ちゃんの匂い……!』
「…………」
『やっと会えたぁ……』
猛々しい見た目とは裏腹に、その声は幼く、感情を隠すことを知らない子供のようだった。
大きな頭を亮人の身体へ押しつけ、何度も何度も確かめるように匂いを嗅ぐ。
『やっぱりお兄ちゃんの匂いだぁ……』
「…………」
嬉しそうな狼とは対照的に、亮人はどう反応すればいいのか分からなかった。
さっきからずっと気になっている。
「ねぇ」
『なぁに?』
狼がすぐに顔を上げる。
「君は……俺のこと知ってるの?」
『え?』
「ずっと『お兄ちゃん』って呼んでるけど」
『…………』
「申し訳ないんだけど、俺は君のこと覚えてないんだ」
『……え』
狼の足が止まった。
ほんの数秒前まで嬉しそうに揺れていた尾も、ぴたりと動きを止める。
「昔、会ったことある?」
『…………』
「ごめん」
狼は少しずつ亮人から距離を取るように身体を離した。
先ほどまで亮人しか見えていなかった琥珀色の瞳が、不安そうに揺れる。
『覚えて……ないの?』
「うん」
『本当に?』
「……うん」
『…………』
声が、急に小さくなった。
『そっか……お兄ちゃん、忘れちゃったんだ……』
「…………」
『一週間しか一緒にいなかったから……仕方ないのかな』
「一週間?」
『うん』
狼は寂しさを隠すように一度俯いてから、ゆっくりと顔を上げた。
『私が四歳の時、お兄ちゃんと一緒に遊んだの』
「四歳……」
『私は覚えてたよ』
その言葉は寂しそうで、それでもほんの少しだけ亮人を責めているようにも聞こえた。
『ずっと覚えてた』
「…………」
『だって、お兄ちゃんは私にとって大切な人だったから』
亮人は何も答えられなかった。
頭の奥へ手を伸ばすように記憶を探ってみても、何も出てこない。
金色の狼も。
妖魔も。
幼い少女も。
何一つ知らない。
少なくとも、今の亮人が持っている記憶の中には存在していなかった。
無理に思い出そうとした瞬間、幼い頃の記憶へ触れた時と同じように、頭の奥へ薄い霧が掛かるような感覚が広がる。
「…………」
それ以上追おうとすることを諦め、目の前の狼へ意識を戻した時、亮人は初めて別のことに気づいた。
「君……その傷」
『ん?』
黄金色の毛並みに紛れて分かりにくかったが、その身体にはいくつもの傷が刻まれている。
すでに塞がりかけた古いものもあれば、まだ新しいものもあり、何かの爪で裂かれたような傷や強く打ちつけられた痕まで残っていた。
「どうしたの?」
『これは……』
狼は少しだけ視線を逸らした。
『色々あったの』
「…………」
『でも、大丈夫』
そう言って顔を上げる。
狼の姿ではあるものの、亮人にはその表情が笑っているように見えた。
『お兄ちゃんに会えたから』
「…………」
その一言を聞いた瞬間、亮人の胸の奥が少しだけ痛んだ。
自分は、この子を知らない。
何も覚えていない。
けれど、この子は亮人を覚えていた。
一週間しか一緒にいなかったはずなのに、それでも忘れずに、ずっと探して、身体中を傷だらけにしながらここまで来た。
そして、自分が忘れていると知っても責めるより先に「仕方ない」と笑おうとしている。
「……ごめん」
亮人は無意識に左手を伸ばした。
右腕はまだ血が流れているため、傷ついていない方の手で狼の頭へ触れ、黄金色の毛並みをゆっくり撫でる。
『…………』
「思い出せなくて、ごめん」
『お兄ちゃん……』
「でも、君が俺を知ってるなら、教えてくれる?」
『……なにを?』
「君のこと。それと、昔の俺のことも」
『…………』
狼の琥珀色の瞳に溜まっていた涙が、一粒だけ零れ落ちた。
『うん。教える』
「ありがとう」
『いっぱい教えるから』
「うん」
狼は嬉しさを確かめるように、もう一度亮人へ身体を寄せた。
『だから……もう、いなくならないでね』
「…………」
その言葉だけが、なぜか亮人の胸の奥へ深く引っかかった。
理由は分からない。
けれど、どこかで同じ言葉を聞いたことがあるような気がする。
遠い昔。
今の自分には届かない記憶のどこかで。
誰かが泣きながら、同じようなことを言っていたような――。
「…………っ」
その曖昧な感覚を追いかけようとした時だった。
金色の狼の身体から、淡い光が溢れ始める。
「え?」
亮人が反射的に一歩下がる。
狼の巨体を包み込んだ光は次第に強さを増し、その中で輪郭がゆっくりと変わっていった。
大きかった身体が縮んでいく。
四肢が細くなり、人の腕や脚へ形を変え、全身を覆っていた黄金色の毛並みが細かな光の粒となって空気へ溶けていく。
数秒後、眩しさが収まる。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
肩ほどまで伸びた黄金色の髪。
黄金色を帯びた琥珀色の瞳には、獣を思わせる縦長の瞳孔が残っている。
頭には狼の耳。
そして、人の姿へ変わったあとも、腰の後ろには黄金色の狼の尾が一本残っていた。
見た目の年齢は亮人より少し幼く、中学生くらいに見える。
「…………」
『お兄ちゃん?』
「いや……」
亮人は一瞬だけ固まったあと、すぐに我に返ると、自分のブレザーを脱いだ。
「とりあえず、これ着て」
『え?』
「そのままだと、色々困るから」
『そうなの?』
「そうなの」
変化したばかりで人間の服装に慣れていないらしい少女へ余計な説明はせず、亮人は自分のブレザーを肩から掛ける。
小柄な少女にはかなり大きかったため、裾は身体をすっぽり覆うように垂れた。
「寒くない?」
『平気だよ』
「そっか」
『でも……』
少女は自分を包むブレザーを見下ろしたあと、襟元を両手で掴んで鼻先へ寄せる。
そして嬉しそうに笑った。
『お兄ちゃんの匂いがする』
「…………」
やっぱり、どうにも調子が狂う。
「とりあえず、まず保健室に行こうか」
『…………』
少女の表情が曇る。
視線の先には、今も血の滲んでいる亮人の右腕があった。
『ごめんなさい』
「もういいよ」
『でも、私が噛んだから……』
「じゃあ、その代わり」
『なに?』
少女が恐る恐る顔を上げる。
「歩きながら、君の名前を教えてよ」
『…………』
一瞬、きょとんとした表情を浮かべたあと。
少女の顔が、花が咲くように明るくなった。
『うん!』
黄金色の髪と尾が、廊下へ差し込む陽射しを受けて柔らかく輝く。
『いっぱいお話しするね、お兄ちゃん!』
少女は嬉しさを隠そうともせず、亮人の隣へ並んだ。
その姿を見ながら、亮人は右腕の痛みに顔を僅かに歪めつつも、自然と小さく笑っていた。
彼女が誰なのか。
どうして幼い頃の自分を知っているのか。
なぜ、その記憶が亮人の中から抜け落ちているのか。
分からないことばかりだった。
けれど少なくとも、この少女は亮人の知らない過去を知っている。
自分が忘れてしまった時間を、今も大切に抱えたまま、ここまで会いに来てくれた。
なら、急ぐ必要はない。
名前から聞けばいい。
昔のことも、彼女がここまで来た理由も、その身体へ刻まれた傷のことも、一つずつ聞いていけばいい。
こうして。
相馬亮人の失われた記憶へ繋がる少女との再会が、ようやく始まった。




