居候は雪と狼Ⅴ
「着いたよ」
『…………ここ?』
「うん」
亮人が玄関の扉を開けると、その向こうに広いエントランスが現れた。
「俺の家」
『…………大きい』
「そうかな」
『そうよ!』
雪女はすぐに中へ入ろうとはせず、玄関先から改めて建物を見上げた。山奥の小さな神社からここまで歩いてくる間にも、住宅街の中では明らかに目立つ家だとは思っていたが、いざ自分がこれから暮らすかもしれない場所だと考えると、その大きさが余計に現実離れして見える。
『本当にここに一人で住んでるの?』
「クロもいるよ」
「ニャ」
『そういう意味じゃないんだけど……』
「とりあえず入って」
『……お邪魔します』
雪女はまだどこか遠慮するように一歩ずつ玄関をくぐった。
その先には広いリビングがあり、大きなソファや必要以上に立派な家具が余裕を持って配置されている。どれも一目見れば高価なものだと分かるのに、雪女が最初に気づいたのは、家具の値段でも部屋の広さでもなかった。
『……静かね』
「そう?」
『うん』
雪女は室内を見回す。
広くて、綺麗で、生活に必要なものは何でも揃っている。それなのに、人が暮らしている家なら自然と残るはずの気配があまりにも薄かった。
物が散らかっているわけでも、掃除が行き届いていないわけでもない。むしろ逆で、綺麗に整いすぎているからこそ、ここで何人もの家族が毎日を過ごしている場所には見えなかった。
「いつもこんな感じ」
亮人は雪女が何を感じ取ったのか気づいていないのか、あるいは気づいていても気にしていないのか、いつもと変わらない様子でキッチンへ向かった。
「晩ご飯作るけど、嫌いなものある?」
『え?』
「食べられないものとか」
『……特にはないけど』
「じゃあ適当に作るね」
制服の上からエプロンを身につけ、冷蔵庫を開けて食材を確認する。中身を見ながら頭の中で献立を組み立てたらしく、いくつかの材料を取り出すと、今度は食器棚へ手を伸ばした。
そこで亮人が手に取った二枚の皿を見て、雪女が目を止める。
『…………』
「どうしたの?」
『そのお皿』
「これ?」
『すごく高そう』
「ああ」
亮人は言われて初めて意識したように、手にしている皿を見下ろした。
白を基調とした上品な皿で、縁には控えめな装飾が施されている。何年も食器棚に入ったままだったせいか、傷一つなく、新品と言われても分からないほど綺麗だった。
「一回も使ってないんだ」
『え?』
「買ったのは何年も前らしいけど、使う人いなかったから」
『…………』
雪女が何かを言うより先に、亮人は皿を軽く水で流し、布巾で丁寧に水気を拭き取る。
「でも、今日から使える」
『……?』
雪女が首を傾げると、亮人は本当に何でもないことのように笑った。
「君が来たから」
『…………』
「皿も喜んでると思うよ」
『お皿が?』
「うん。何年も棚の中で眠ってるより、ちゃんと料理を乗せてもらう方がいいでしょ?」
『……変なの』
「よく言われる」
『誰に?』
「主に今日、君に」
『ふふっ』
思わず漏れた小さな笑い声に、雪女自身が少し驚いたように目を瞬く。
亮人はそれを指摘することなく、すぐ料理へ戻った。
包丁が一定の間隔でまな板を叩き、鍋からは白い湯気が立ち上っていく。食材を切り、火加減を確かめ、時折味を確かめながら作業を進める動きには迷いがなく、一人で料理をすることに慣れているのがよく分かった。
しばらくすると、いつの間にか亮人は小さく鼻歌まで歌っていた。
『…………』
雪女はソファへ腰を下ろし、その後ろ姿をじっと眺める。
不思議な人間だった。
自分が雪女だと知っても怖がらなかった。
突然口づけをしても怒らず、一緒に暮らすことになるかもしれないと告げても追い出そうとはしなかった。
それどころか。
『君が来たから』
そんな言葉を、本当に嬉しそうな顔で口にした。
自分がこの家にいることを迷惑だと思っている様子はなく、むしろ誰かが来たことで初めて使えるようになったものがあることを、どこか楽しんでいるようにさえ見える。
『……変な人間』
雪女はソファの上で膝を抱えた。
『本当に変』
なのに、嫌ではなかった。
胸の奥へ、これまであまり感じたことのない柔らかなものが広がっていく。
雪女である自分が「温かい」と感じること自体が妙におかしく思えて、また小さな笑みが零れた。
『……ふふ』
キッチンでは、亮人が楽しそうに二人分の夕食を作っている。
雪女はしばらくその姿を見つめたあと、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
『こんな人が――私の家族になるのかな』
口にしてから、自分でも少し驚いた。
けれど、その言葉は思っていたほど嫌ではない。
むしろほんの少しだけ、それを想像した自分を嬉しいと思えた。
◇
『ごちそうさま』
空になった皿を前に、雪女は満足そうに息を吐いた。
それから、自分があまりにも素直に食べ終えてしまったことへ気づいたのか、ちらりと亮人へ視線を向ける。
『……あんたが作った料理、まぁ、美味しかったわよ』
「それはよかった」
『なによ、その反応』
「いや、嬉しいよ。久しぶりに二人分の料理を作れたから、俺も楽しかったし」
『…………そう』
夕食に亮人が作ったのは、エビをたっぷり使ったトマトパスタと簡単なサラダだった。
雪女はパスタそのものを食べた経験がなかったらしく、最初はフォークを持ったまま皿を見つめていた。
『……これ、どうやって食べるの?』
真剣な表情で聞かれた亮人が、フォークで麺を巻き取る方法を実際に見せると、雪女もそれを真似し始めた。最初こそ麺が上手く絡まず、何度か皿へ落としていたものの、数回繰り返せばすぐに慣れたらしい。
それからは驚くほど静かだった。
くるくると麺を巻き、口へ運び、また巻いて食べる。
話しかける隙もないほど夢中になっていた結果、気づけば亮人より先に一皿を空にしていた。
「気に入ってもらえたみたいだね」
『べ、別にそこまでじゃないわよ』
「おかわりする?」
『…………あるの?』
「あるよ」
『じゃあ……少しだけ』
「気に入ってるじゃん」
『うるさい!』
そんなやり取りをしながら、結局、雪女は二皿目まで綺麗に食べ切った。
『あんたって、いつもこういう料理を作るの?』
「んー、大体はこんな感じかな」
亮人は食後の水を飲みながら答える。
「その日の気分で適当に。ご飯と味噌汁と焼き魚の日もあるし、カレーとかシチューを作る時もあるよ」
『…………』
「どうしたの?」
返事がないので顔を上げると、雪女の瞳が明らかに輝いていた。
つい先ほどまで、パスタを気に入ったことすら素直に認めたくない様子だったのに、今は次にどんな料理が出てくるのか期待している子供のような顔でこちらを見ている。
「……そんなに食べたい?」
『べ、別に』
「じゃあ明日は簡単なものにしようかな」
『待って』
「ん?」
『……焼き魚』
「食べたい?」
『…………うん』
今度は随分と素直だった。
「じゃあ明日は和食にしようか」
『ほんと?』
「うん」
『やったっ』
一瞬だけ、本当に嬉しそうな笑顔が浮かんだ。
その表情を見た亮人は、少しだけ驚く。
出会った時は、もっと大人びた少女だと思っていた。
長い白髪に白い肌、整った顔立ちはどこか近寄りがたく、何を考えているのかも分かりにくかったが、こうして同じ食卓を囲んで話してみれば、思っていた以上に表情がころころと変わる。
「…………」
『なによ』
「いや」
『今、絶対変なこと考えたでしょ』
「そうでもないよ」
『怪しい』
雪女が疑うように亮人を睨む。
そんな彼女を見ていた亮人は、ふと一つ気になった。
「そういえばさ」
『なに?』
「君って、何歳なの?」
『…………』
「あ、女性に年齢聞くのは失礼だった?」
『別に、それくらいで怒らないわよ』
雪女は少し首を傾げたあと、本当に大したことではないと言わんばかりに答えた。
『十七歳だけど』
「…………」
『なによ』
「十七?」
『そうよ』
「俺と同い年?」
『そうなるわね』
「…………」
『だから、なんなのよその顔!』
亮人は思わず黙り込んだ。
妖魔で、雪女で、人間ではない。
そんな情報ばかりが先に入ってきたせいで、勝手に自分よりずっと年上なのだと思い込んでいた。
しかし同い年。
つまり今、この家には十七歳の男子高校生と、見た目も年齢も同じ十七歳の少女が二人きりでいることになる。
「……あれ?」
『今度はなに?』
「俺、結構すごいことしてない?」
『何が?』
「会ったばかりの女の子を家に連れてきて、一緒にご飯食べてる」
『今さら!?』
「今気づいた」
『遅すぎるでしょ!』
雪女は呆れたように額へ手を当てた。
「いや、だって君、人間じゃないって言うから」
『人間じゃなかったら何でもいいの!?』
「そういうわけじゃないけど……」
亮人は改めて目の前の少女を見る。
白い髪に白い肌、整った顔立ち。着ているものこそ普通の女子高校生とは違うが、こうして食卓へ座っている姿だけを見れば、自分と同年代の少女と大きく変わらない。
「確かにこれは……ちょっと考えた方がよかったのかも」
『本当に変なところで鈍いわね、あんた』
「よく言われる」
『誰に?』
「今日だけで君に何回も」
『…………』
雪女が小さくため息を吐く。
けれど、今度はそのまま軽口を返すことなく、少しだけ真剣な表情へ変わった。
『でも、私たちのことについては、まだちゃんと話しておかないといけないから』
「妖魔のこと?」
『そう』
雪女は一度視線を落とし、言葉を選ぶように少し間を置いてから話し始めた。
『私たち妖魔は数が少ない。それに、私たち雪女みたいに、人間の力を借りないと血を繋いでいけない種族もいるの』
「…………」
『だから、私たちを認識できる人間って、それだけで本当に大切なのよ』
顔を上げた雪女の瞳には、食事をしていた時とはまるで違う真剣さがあった。
『あんたみたいな人は、私たちにとって……未来そのものと言ってもいいくらい』
「そんな大げさな」
『大げさじゃないわよ』
そこだけは迷いなく言い切った。
『いつかは、亮人にも選ばなきゃいけない時が来ると思う』
「選ぶ?」
『私たちに関わるのか、それとも関わらないのか』
「…………」
『今すぐ答えを出してなんて言わないわ。ただ、そういう時が来るかもしれないってことだけは忘れないで』
先ほどまで食べ物のことで一喜一憂していた時とは違う。
妖魔という存在に関わることが、亮人のこれからへ少なからず影響するのだと伝えようとしているのだろう。
亮人は少しだけ考えてから頷いた。
「分かった」
『…………ずいぶん簡単に言うのね』
「だって、今答えなくていいんでしょ?」
『そうだけど』
「じゃあ、その時にちゃんと考えるよ」
『…………』
雪女は何も言わなかった。
もう少し深刻に悩んだり、問い返したりする反応を想像していたのかもしれないが、亮人にとっては今すぐ答えの出ないものを、無理にここで考え続けても仕方がないというだけだった。
それよりも、今決めなければならないことがある。
「それよりさ、これからどうする?」
『どうするって?』
「住む場所」
『…………』
「またあの山に戻る?」
雪女が口を閉ざした。
その反応だけで、大体の答えは分かった。
「寒そうだしね」
『私は雪女よ』
「でも、家の方がいいでしょ?」
『…………』
「部屋なら余ってるよ」
雪女が少し驚いたように顔を上げる。
『本当にいいの?』
「うん。俺一人で使うには広すぎる家だからさ」
『…………』
「誰か一人増えたくらいじゃ全然問題ないし、むしろ俺としては、その方が嬉しいかも」
『え?』
「一人って結構静かなんだよ」
亮人は少し笑った。
「クロもいるけど」
「ニャ?」
名前を呼ばれたクロが、床の上から顔を上げる。
「クロは一日中外に遊びに行くし」
「ニャァ」
「否定できないでしょ」
『ふふっ』
雪女が小さく笑った。
『確かにこの家、一人で暮らすには大きすぎるわよね』
「そう?」
『そうよ! 何部屋あるの?』
「数えたことないなぁ」
『数えなさいよ』
「たぶん……七、八人くらいは普通に住めると思う」
『…………』
「庭もあるし」
『見えたわよ。あれも広すぎ』
「地下にはプールもあるよ」
『…………は?』
「プール」
『なんで家の地下にプールがあるのよ!?』
「両親に聞いて」
『あんたの家、どうなってるの……』
雪女は完全に引いていた。
「父さんと母さん、会社経営してるからね」
『社長ってこと?』
「二人ともね」
『…………』
「どうしたの?」
『急にあんたがものすごく遠い人に見えてきた』
「俺は普通だよ」
『普通の家に地下プールはないわよ!』
返す言葉もなく、亮人は苦笑するしかなかった。
しばらく呆れた顔で亮人を見ていた雪女だったが、やがて席を立つと、自分が使った皿を手に取った。
「あ、それ置いてていいよ」
『なんで?』
「俺が洗うから」
『嫌よ』
「え?」
『ご飯を作ってもらったんだから、洗い物くらい私がやる』
「でも君はお客さんだし」
『だからって何もしないなんて嫌。私の常識ではありえないわ』
雪女は皿を持ったまま、きっぱりと言い切った。
「妖魔にもそういう常識あるんだ」
『あるわよ!』
「ちょっと意外」
『失礼ね!』
そのまま台所へ向かっていくため、亮人も手伝おうと席を立つ。
すると雪女がすぐ振り返った。
『座ってなさい』
「いや、一緒に――」
『座る!』
「はい」
強かった。
背中へ冷たい手を当てられ、そのままリビングまで押し戻される。
「冷たっ」
『雪女なんだから仕方ないでしょ』
「それ便利な言葉だね」
『文句ある?』
「ありません」
そのままソファへ座らされると、雪女はリモコンまで手に取ってテレビの電源を入れた。
『ほら』
「ほらって」
『テレビでも見て休んでなさい』
「でも」
『手伝ったら怒るわよ?』
じろりと睨まれ、亮人は大人しく両手を上げる。
「……分かりました」
『よろしい』
雪女は妙に満足そうに頷くと、今度こそ台所へ戻っていった。
亮人はその後ろ姿をしばらく眺める。
「なんかもう、この家に馴染み始めてない?」
『何か言った!?』
「何も!」
離れた台所にいるのに、しっかり聞こえていたらしい。
「耳までいいんだなぁ……」
時刻は午後九時。
テレビでは賑やかなお笑い番組が流れていたものの、亮人はそれほど興味がなく、少し眺めただけでリモコンへ手を伸ばした。
「ニュースやってないかな」
チャンネルを変えると、ちょうど報道番組が映った。
海外情勢、経済、国内で起きた事件。
普段ならそれなりに集中して見ていられる内容だったが、今日に限っては、画面から流れてくる情報がほとんど頭へ入ってこなかった。
朝、いつものように学校へ行った。
放課後は一人で本屋へ寄り、公園で雑誌を読み、そこまでは普段と大して変わらない一日だったはずなのに、今は自宅の台所で雪女が皿を洗っている。
「…………」
亮人はテレビの電源を切ると、そのままソファへ身体を倒した。
「俺の人生……結構、変な方向に進んでる気がするなぁ」
二週間後の亮人が聞けば、きっと「今さら?」とでも言いたくなるような言葉だった。
それでも、この時点では仕方がない。
つい数時間前まで、妖魔という言葉さえ知らなかったのだから。
「…………」
改めて考えてみても、やはり意味が分からない。
けれど、妙に嫌ではなかった。
「ニャッ」
「ん?」
床にいたクロがソファへ飛び乗り、亮人の腹の上へ一度着地した。
「ぐっ……」
そこからすぐ、体重を掛けすぎないよう慎重に身体の上を歩き、顔の横まで移動してくる。
「そういうところだけ妙に優しいよね、クロ」
「ミャァ……」
クロは亮人の顔の横で丸くなった。
「眠い?」
「ミャ」
「俺も」
亮人はクロの背中をゆっくり撫でる。
さらさらとした黒い毛が指の間を抜けていき、手のひらには小さな身体から伝わる温もりと、一定の呼吸が感じられた。時折、夢でも見ているのかクロの身体が僅かに震えるたび、亮人は無意識に撫でる手を少しだけゆっくりにする。
朝から学校へ行き、その後も本屋やデパートを歩き回り、さらにクロを追いかけて知らない山の中まで入り込んだ。
思っていた以上に疲れていたのだろう。
雪女と出会ったという現実離れした出来事による緊張も、家へ帰ってきたことでようやく解け始めていた。
「少しだけ……」
ほんの数分。
目を閉じて休むだけのつもりだった。
けれど、クロの背中を撫でていた手は少しずつ動かなくなり、規則正しく上下していた胸からも、ほどなくして静かな寝息が聞こえ始めた。
◇
『よし……これで全部』
最後の皿を片づけた雪女は、水に濡れた手をタオルで丁寧に拭いた。
使った食器を洗い、どこへ戻すのか分からないものについては食器棚の空いている場所へまとめて置いておく。今日初めて入った家とは思えないほど自然に片づけをしている自分へ少し違和感を覚えたものの、食事を作ってもらった以上、これくらいするのは当然だと思っていた。
それに。
今日出会ったばかりの亮人には、まだ説明しておかなければならないことが山ほど残っている。
妖魔とはどのような存在なのか、人間とはどのように関わってきたのか、自分がどうしてあの神社にいたのか。
そして何より。
亮人自身が、妖魔にとってどれほど珍しい人間なのか。
今はまだ深く考えていないようだが、その意味を理解せずに今後も妖魔と関わっていけば、思いもよらない出来事へ巻き込まれる可能性だってある。
『ちゃんと話しておかないと……』
そう呟きながらリビングへ戻った雪女だったが、入口まで来たところで足を止めた。
『……あ』
ソファには亮人が眠っていた。
その顔のすぐ横ではクロも身体を丸くしており、一人と一匹はすっかり夢の中らしい。
『寝るの早すぎない?』
もちろん返事はなかった。
雪女は足音を立てないよう静かに近づき、亮人の顔を覗き込む。
『……本当に寝てる』
あまりにも無防備だった。
今日出会ったばかりの妖魔が同じ家の中にいて、その妖魔が先ほど自分は人間ではないとはっきり説明したばかりだというのに、警戒している様子がまるでない。
仮に自分が亮人へ危害を加えるつもりだったとしても、今なら簡単にできてしまうだろう。
『普通、もう少しくらい警戒するものでしょ』
雪女は小さく呆れた声を漏らした。
起こそうかとも思った。
まだ話しておかなければならないことはいくらでもあるし、寝るならせめて自分の部屋へ移動した方が身体にもいい。
けれど。
気持ちよさそうに眠る亮人と、そのすぐ横で安心しきって丸くなっているクロを見ていると、わざわざ起こす気にはなれなかった。
『……明日でいいか』
今日すべてを話す必要もない。
これから本当に一緒に暮らすのなら、話す時間はいくらでもある。
そう考えると、急いでいる自分の方がおかしいような気さえしてきた。
雪女は向かい側にあるソファへ腰を下ろし、そのままゆっくりと背もたれへ身体を預ける。
『私も疲れたし……』
妖魔だからといって、疲れないわけではない。
むしろ今日は、自分にとっても色々なことがありすぎた。
今までほとんどの人間には見えなかった自分を、一人の少年が当たり前のように見つけた。
声まで聞こえていて、普通に会話が成立した。
その事実に驚く暇もなく、自分はその少年へ口づけまでしてしまった。
それから事情を話し、気づけばその人間の家まで一緒に来て、初めて食べる料理をご馳走になり、明日の朝食について話し、食器まで洗っている。
そこまで一日を振り返って、雪女は思わず小さく笑った。
『……私も大概ね』
人のことを変だと何度も言ったが、自分だって十分おかしなことをしている。
ソファへ身体を横たえ、そこからもう一度亮人を見る。
広すぎる家。
何年も使われていなかった食器。
ほとんど帰ってこないという両親。
普段は亮人とクロしかいないらしいこの場所。
最初に入った時から感じていた静けさの理由が、少しだけ分かった気がした。
この家には必要なものが何でもある。
家具も、食器も、食材も、広い部屋も、庭も、果てには地下のプールまであるという。
けれど。
それらを一緒に使う誰かだけが、ほとんどいなかった。
『…………』
雪女は眠っている亮人を見る。
そんな少年が、自分を家へ連れてきた時。
『君が来たから』
あの言葉を、本当に嬉しそうな顔で言った。
何年も使われていなかった皿が使える。
二人分の料理を作れる。
一人より、誰かがいた方が嬉しい。
どれも大した言葉ではないように聞こえる。
けれど、雪女には妙に心へ残っていた。
『変な人』
小さく呟く。
けれど、その言葉に最初のような呆れや警戒はほとんどなかった。
むしろ。
『……この人なら』
雪女はゆっくりと目を閉じる。
人間なのに妖魔を見ることができて、自分が雪女だと知っても逃げず、一緒に暮らすことさえ受け入れた少年。
それが単に物事を深刻に考えていないだけなのか、それとも本当にそういう人間なのか、今はまだ分からない。
それでも。
『もしかしたら――私たちの味方になってくれるのかもしれない』
そんな期待を抱くことくらいは、許されてもいいような気がした。
雪女の呼吸が、少しずつ穏やかになっていく。
向かいのソファでは亮人が眠り、その横ではクロが身体を丸めている。
少し前まで静かだった広いリビングに、一人と一匹だけではなかった新しい寝息が加わった。
こうして、相馬亮人と雪女が同じ屋根の下で過ごす最初の夜は、何事もなく静かに更けていった。
そして翌朝から、これまで一人と一匹にはあまりにも広すぎたこの家には、怒った声や笑い声、時には些細な言い合いまで響くようになる。
亮人にとっても。
雪女にとっても。
まだ名前すら知らない相手との奇妙な共同生活は、こうして始まった。




