居候は雪と狼Ⅳ
『でも……』
白髪の少女はクロを抱いたまま、改めて亮人の顔を覗き込んだ。
つい先ほどまでは、道に迷ってここまでやって来た亮人をどこか面白がるような余裕さえ見せていたというのに、今はその表情から軽さが消えている。月明かりを映した瞳が亮人の目をまっすぐ捉え、まるで見落としてはいけない何かを確かめるように、じっと顔を覗き込んでいた。
『さっきから私と普通に目が合ってるのよね』
「うん」
『声も聞こえてる』
「聞こえてるね」
『…………』
「どうしたの?」
少女は答えず、クロを抱く腕へ少しだけ力を込めた。
そして、何か重大な事実を一つずつ確認するように亮人の顔を見つめたあと、空いている手の人差し指をまっすぐこちらへ向ける。
『あんた――本当に私が見えてるの?』
「だから、見えてるって」
亮人としては、先ほどから同じことを何度も尋ねられているだけだった。
白い髪に白い装束、月明かりの下でも分かるほど透き通るような肌を持った少女が、確かに目の前に立っている。声も聞こえているし、表情が変わる様子も分かるのだから、この状況で「見えていない」と答える方が無理があった。
「普通に女の子が立ってるようにしか見えないけど」
『……そう』
少女はそれだけ答えると、何かを考え込むように視線を落とした。
クロの背中を撫でていた指先まで止まり、しばらくの間、森には葉が擦れる音だけが残る。
『やっぱり、あんたは普通じゃないのね』
「初対面の人に頭悪そうって言われた次は、普通じゃないって言われた」
『そういう意味じゃないわよ!』
「違うの?」
『違う!』
少女は勢いよく顔を上げると、クロを片腕で抱いたまま、ずいっと亮人との距離を詰めてきた。
『いい? 私は人間じゃないの』
「さっきもそんな感じのこと言ってたね」
『だから、もっと驚きなさいよ!』
「驚いてるよ?」
『全然そう見えない!』
「じゃあ……うわぁ、人間じゃなかったんだ」
『棒読みやめなさい!』
「難しいなぁ……」
怒られた。
亮人としては、要求された通りに驚いてみせたつもりだったのだが、どうやら求められていたものとは大きく違っていたらしい。
少女は額へ手を当て、深く息を吐く。
『とにかく!』
気を取り直すように咳払いをすると、今度は亮人の胸元へ指先を突きつけた。
『普通の人間に、私たちの姿は見えないの』
「そうなの?」
『そうよ。声だって聞こえないし、たとえすぐ隣にいたとしても気づかない。それなのに、あんたは私を見て、普通に目を合わせて、こんなふうに会話までしてる』
「…………」
『それがどれだけ珍しいことか、分かる?』
「今のところ、全然」
『でしょうね!』
少女はとうとう頭を抱えた。
どうやら本当に珍しいことらしい。
亮人はそんな彼女を見ながら、改めて目の前の状況を整理してみる。
真っ白な髪に、同じく白一色の装束。人の気配すらない夜の山奥に立っていて、近くへ来るだけで十一月とは思えないほど周囲の気温を下げる少女。
こうして一つずつ並べてみれば、普通の人間ではないと言われる方がむしろ納得できる材料は十分に揃っていた。
「それで、君は結局なんなの?」
『…………』
少女は数秒黙った。
これを言えば亮人がようやく驚くだろうと考えたのか、少しだけ胸を張るようにして口を開く。
『雪女よ』
「…………」
『雪女』
「うん。聞こえてる」
『もっと反応ないの!?』
「いや……」
亮人は少女を上から下まで眺めた。
真っ白な髪。
真っ白な装束。
そして、近くにいるだけではっきり分かるほどの冷気。
「確かに、それっぽいなぁって」
『なに、その感想!』
「でも本当に雪女なら、もっとこう……雪を降らせたりできるの?」
『できるわよ』
少女はむっとした顔で片手を持ち上げる。
『今ここで降らせてあげましょうか?』
「いや、それはいい」
『なんでよ』
「もう十分寒いから。これ以上冷えたら風邪引きそう」
『雪女に会って最初に心配するのが風邪なの?』
「風邪は辛いからね」
『ほんっと調子狂うわね、あんた……』
少女が呆れたようにため息を吐いた、その直後だった。
「……ん?」
気づけば、少女の顔がすぐ目の前まで近づいていた。
「近くない?」
『じっとして』
「なんで?」
『いいから』
少女は何かを決心したような表情をしていた。
強気な雰囲気そのものは崩していないが、よく見れば頬は僅かに強張り、クロを抱えていた腕にも余計な力が入っている。
「ちょっと――」
何をするつもりなのか。
亮人が尋ねようとした、その瞬間。
『…………っ』
「――!?」
唇に、ひやりと冷たい感触が触れた。
本当に一瞬だけだった。
何が起きたのか頭が理解するより早く、少女は弾かれたように亮人から離れていく。
「…………」
『…………』
夜の森へ、奇妙な沈黙が落ちた。
亮人は自分の唇へ指先を触れ、少女はそんな亮人から露骨に視線を逸らしている。
「今、何したの?」
『分かるでしょ!?』
少女の顔が一気に赤くなった。
『キ、キスよ!』
「だよね」
『なんでそんな冷静なのよ!』
「いや、冷静じゃないよ。びっくりしてる」
ただ、あまりにも突然すぎて感情が追いついていないだけだった。
そして、ようやく状況を理解し始めた亮人の頭へ最初に浮かんだ感想は、少し違うところにあった。
「……冷たかった」
『そこ!?』
「だって、本当に冷たいんだね」
『私は雪女なんだから当たり前でしょ!』
少女は耳まで赤くしながら叫ぶ。
『勘違いしないでよね! 私だって、好きでこんなことしたわけじゃないんだから!』
「じゃあ、なんで?」
『それは――』
さっきまであれほど強気だった少女が、急に言葉を詰まらせた。
唇を僅かに噛み、視線を逸らしたまま何度か言葉を探してから、ようやく小さな声を落とす。
『……決まりみたいなものなのよ』
「決まり?」
『私たちが生き残るための』
その声音には、先ほどまでの勢いがなかった。
冗談を言っているわけでも、亮人をからかっているわけでもないのだと、理由を知らない亮人にも雰囲気だけで伝わってくる。
『私たちみたいな存在を認識できる人間は、本当に少なくなったの。昔ならもう少しいたらしいけど、今は私たちの姿を見て、声まで聞ける人間なんてほとんどいない』
「…………」
『だから見つけたら確かめないといけないの。この人間が、本当に私たちと関われる人なのか』
少女はそう言いながら、腕の中にいるクロの背中をゆっくり撫でていた。
亮人は自分の唇へ触れていた手を下ろす。
「それを確認するのが、さっきの?」
『……そう』
「ずいぶん変わった確認方法だね」
『私だってそう思ってるわよ!』
すぐにいつもの調子へ戻ったものの、少女の頬から赤みはまだ消えていない。
『そもそも、あんたみたいな弱そうな男が相手なんて聞いてないし!』
「酷いなぁ」
『もっと強そうで、こう……頼りになりそうな男がよかったのよ!』
「それは申し訳ない」
『なんで謝るのよ!?』
「期待に応えられなくて」
『そういうところが腹立つ!』
怒鳴る少女を見て、亮人は少しだけ笑った。
どうやら雪女という存在は、昔話や伝承から勝手に想像していたものよりも、ずっと表情豊かで、感情も人間とそれほど変わらないらしい。
「それで、その『生き残る』って、どういう意味?」
『…………』
少女は少し考えるように黙ったあと、クロを抱いたまま先に歩き始めた。
『ここで立ち話するのも嫌だし、歩きながら説明するわ』
「ちょうどよかった」
『なにが?』
「俺もそろそろ帰らないと。晩ご飯作らないといけないから」
『今この状況で晩ご飯!?』
「大事でしょ?」
『大事だけど!』
「クロもお腹空いてるよな?」
「ニャッ」
「ほら」
『猫を味方につけないでよ!』
少女からクロを受け取ると、亮人は来た道を戻り始めた。
『ちょっと! 待ちなさいよ!』
「話なら歩きながら聞くよ」
『普通、もう少し余韻とかないの!?』
「お腹空いてるから」
『…………』
雪女はしばらくその場で呆然としていたものの、亮人が本当にどんどん先へ行ってしまうのを見ると、諦めたように小さく息を吐いた。
『……分かったわよ』
そう言って、亮人の隣へ並ぶ。
すると、そこで不思議なことが起きた。
「……あれ?」
亮人は歩きながら首を傾げる。
来る時には木々が複雑に入り組み、少し進んだだけで方向感覚を失い、振り返れば石段さえ見失っていたはずなのに、今は森の中を一本の道が真っ直ぐ伸びている。
月明かりも枝葉の隙間から自然に道を照らし、先ほどまでの薄気味悪さが嘘だったかのように歩きやすかった。
まるで、目的を果たしたならもう帰っていいと、森そのものが道を開けたようにさえ見える。
「変なの」
『なにが?』
「いや、来る時こんなに歩きやすくなかったから。完全に迷ったんだよ」
『……クロちゃん、随分強引に連れてきたのね』
「ニャ?」
クロは腕の中で首を傾げ、何も知らないと言いたげな顔をする。
「絶対分かってる顔だよね、それ」
「ニャァ」
「誤魔化された」
亮人は苦笑しながら歩き続ける。
「ところでさ」
『なに?』
「雪女っていうことは、妖怪ってことでいいの?」
『近いけど、少し違うわ』
少女は森の先を見ながら答えた。
『私たちは自分たちのことを『妖魔』って呼んでる』
「妖魔」
『そう。妖怪と人間、その両方の血を持つ者たち』
「つまり……ハーフ?」
『簡単に言えばね』
「へぇ」
『…………』
「なに?」
『いや、もっと驚くかと思ったから』
「目の前に雪女がいる時点で、大体のことは受け入れられそう」
『順応するの早すぎない?』
「そうかな」
『そうよ』
少女は少しだけ不満そうに唇を尖らせた。
もっとも、亮人だって全てを疑いなく信じ込んだわけではない。
今まで幽霊や妖怪といった存在を積極的に信じて生きてきたわけでもなく、突然「妖魔」と呼ばれる存在について説明されたところで、すぐに世界の常識を塗り替えられるほど単純でもない。
ただ、隣を見れば少女が歩いている。
声を掛ければ返事があり、笑えば表情が変わり、近くへ寄れば肌へ刺さるほど空気が冷える。
何より、つい先ほどその冷たさを自分の唇で直接感じてしまった。
ならば少なくとも、彼女が今ここに存在しているという事実だけは否定しようがなかった。
「でも、一つ分からない」
『なに?』
「君はそこにいるのに、どうして普通の人には見えないの?」
『それを説明するのは難しいのよね……』
雪女は少し考えるように顎へ指を当てた。
『私たちは確かにここにいる。でも、人間とまったく同じ形で世界に存在しているわけじゃないの』
「……?」
『ほら、昔話とか伝説ってあるでしょう? 誰かが見たとか、山で遭ったとか、それなのに普通に探してもどこにもいないとか』
「あるね」
『私たちは、そういう存在なの』
「分かるような、分からないような」
『私も説明しててそんな気がする』
「君も分からないんだ」
『うるさいわね』
少女が少しだけ笑った。
先ほどまでのきつい雰囲気が消えただけで、その印象は随分と変わる。
「…………」
『なに?』
「いや」
『さっきから人の顔じろじろ見て』
「笑うと普通の女の子みたいだなと思って」
『なっ……』
雪女の足が僅かに止まりかけた。
『なによ、それ』
「そのままの意味」
『…………』
月明かりのせいではないと分かるほど、少女の頬がまた赤く染まっていく。
亮人は特に深い意味もなく口にしただけだったため、それ以上何も言わず歩き続けた。
しばらくすると、雪女の方が何かを思い出したように口を開く。
『……そういえば』
「ん?」
『さっきの』
「さっき?」
『キス』
「ああ」
『…………』
「どうしたの?」
言い出したのは自分なのに、雪女は急に言葉を詰まらせた。
それでもこのまま黙る方が恥ずかしいと思ったのか、意を決したように口を開く。
『あれ、私も初めてだったから』
「…………」
『その反応なによ!』
「いや、意外だなって」
『何が意外なのよ!』
「なんとなく慣れてるのかと思ってた」
『慣れてるわけないでしょ!』
雪女は勢いよく亮人へ振り返る。
『私のファーストキスだったのよ!?』
「あ、俺も」
『……え?』
「俺も……ちゃんと意識してキスしたのは初めてかな」
『…………』
「だから同じだね」
『あんたも……初めてだったの?』
「うん」
亮人が当たり前のように頷くと、それまで勢いよく怒鳴っていた雪女の表情から、目に見えて力が抜けていった。
『……ごめん』
「なんで謝るの?」
『だって、いきなりだったし……こっちの事情で勝手にしただけだから』
「びっくりはしたけど、別に怒ってないよ」
『でも……』
「初めてが綺麗な女の子だったなら、そこまで悪い思い出でもないし」
『――っ』
雪女がその場で固まった。
亮人だけが数歩先へ進み、ついてこないことに気づいて振り返る。
「どうしたの?」
『あんた……そういうこと普通に言うの?』
「何が?」
『もういい!』
ぷいっと顔を背けられる。
しかし髪の隙間から見える耳まで真っ赤になっているため、怒っているというより恥ずかしがっているようにしか見えなかった。
「変なの」
『あんたに言われたくない!』
再び歩き始め、しばらくすると、森の中に最初に上ってきた石段が見えてきた。
来る時には完全に見失っていた場所があっさり見つかったことへ違和感は残ったものの、ようやく帰れることに安堵した亮人は、そのまま石段へ向かう。
「でも、さっきの話」
『ん?』
「見える人間を見つけたら、確認しないといけないって言ってたよね」
『……うん』
「それだけじゃないんでしょ?」
『…………』
雪女の歩く速度が、少しだけ落ちる。
先ほどまでのような軽口では済ませられない話なのだろうと、亮人にもその変化だけで分かった。
『私たち妖魔は、人間よりずっと数が少ないの』
「うん」
『それに、私たち雪女みたいに、人間の力を借りなければ次の世代を残せない種族もいる。だから生き残っていくためには、どうしても人間の力が必要になるの』
「…………」
『でも、誰でもいいわけじゃない。私たちの姿を認識して、声を聞いて、本当に存在を受け入れられる人間じゃなきゃ駄目なの』
「だから、俺みたいなのが珍しい」
『そういうこと』
「なるほど」
亮人は完全に理解したわけではなかったが、少なくとも彼女たちにとって、自分のような人間が珍しい理由は少し分かった気がした。
ところが、説明を終えたはずの雪女はそこで口を閉ざさず、今度は妙に落ち着かない様子で何度も亮人の方を見てくる。
『それでね……』
「ん?」
『その……』
「まだ何かあるの?」
『……ある』
「聞くよ」
雪女は何度か口を開いては閉じ、視線を地面へ落とした。
先ほど自分からキスをした時以上に言いづらそうにしているため、亮人もさすがに何を言われるのかと少し身構える。
やがて雪女は観念したように息を吐いた。
『私、これからあんたと一緒に暮らすことになると思う』
「…………」
『…………』
二人の足が同時に止まった。
風が木々の間を抜け、葉の擦れる音だけがしばらく続く。
雪女は亮人の反応を待っている。
亮人は何かを考えている。
そして十秒ほど経ったところで。
『なんか言いなさいよ!』
「ちょっと考えてた」
『何を!?』
「部屋どこ使ってもらおうかなって」
『そこ!?』
「うち、余ってる部屋多いから」
『いやいやいや! もっとあるでしょう!?』
「例えば?」
『例えばって……!』
雪女は混乱したように両手をばたばたと動かす。
『突然会った女が一緒に暮らすって言ってるのよ!?』
「うん」
『しかも人間じゃないのよ!?』
「雪女だね」
『それで将来的には、その……私たちの一族のことも考えないといけなくて……!』
「ああ」
『なんでそんな冷静なの!?』
「まあ、それは今すぐ決めなくてもいいんでしょ?」
『……それは、そうだけど』
「なら、一個ずつ考えればいいよ」
『…………』
亮人にとっては、それほど複雑な話でもなかった。
今すぐ何かを決めなければならないわけではないのなら、とりあえず今日困っていることから考えればいい。
それがいつもの亮人の考え方だった。
「とりあえず今日のところは」
亮人は少しだけ笑う。
「晩ご飯どうする?」
『…………』
「食べる?」
『……食べる』
「じゃあ、一緒に帰ろう」
『…………』
雪女はすぐには返事をしなかった。
けれど、その瞳には先ほどまでとは少し違った色が浮かんでいる。
「ニャッ」
二人の間を歩いていたクロが、不意に雪女の足元へ寄っていった。
『クロちゃん?』
「ニャァ」
黒い身体が、真っ白な装束へすり寄る。
クロは警戒する様子もなく、むしろ最初から知っていた相手へ甘えるように何度も身体を擦りつけていた。
『…………』
「クロ、気に入ったみたいだね」
『私を?』
「たぶん」
「ニャッ」
『……そっか』
雪女はゆっくりしゃがみ込むと、クロの頭へ手を伸ばした。
冷たいはずの指先で、それでも壊れ物へ触れるように優しく頭を撫でる。
『ありがとう』
「ニャァ」
『こんな私でも、いいのね』
その声が妙に寂しく聞こえ、亮人は思わず少女の横顔を見る。
月明かりが白い肌を照らしていた。
その頬の上を、小さな雫が一筋だけ流れていく。
「泣いてる?」
『泣いてない』
「でも」
『泣いてないって言ってるでしょ』
「そっか」
それ以上、亮人は何も言わなかった。
理由を無理に聞いたところで、今会ったばかりの自分へ素直に話せるとは思えない。
雪女が立ち上がるまで少しだけ待ち、再び石段へ向かって歩き出す。
数歩進んだところで、今度は亮人の方から口を開いた。
「ねぇ」
『なに?』
「俺の家、誰もいないんだ」
『…………』
「両親は仕事ばかりで、ほとんど帰ってこない。家だけは広いけど、普段は俺とクロしかいないんだ」
『そうなの?』
「うん。だから、君が一緒に住むことになっても、俺は困らないよ」
雪女が足を止めた。
『……本当に?』
「うん」
『私、人間じゃないのよ?』
「知ってる」
『近くにいたら寒いわよ?』
「それはちょっと困る」
『そこは困るんだ!?』
「冬は暖房代が浮くどころか増えそう」
『私を何だと思ってるのよ!』
「雪女」
『そうだけど!』
雪女は勢いよく言い返した。
けれど、その表情は完全に怒っているようには見えず、口元には自分でも気づいていないような小さな笑みが浮かんでいる。
二人はそのまま石段を下り始めた。
しばらくして、雪女がもう一度、不安を捨てきれないような声で問いかける。
『でも……本当にいいの?』
「ん?」
『私が一緒に暮らしても』
「いいよ」
『…………』
「むしろ、一人よりいいかもしれない」
『え?』
その言葉に気を取られたのだろう。
雪女が亮人へ顔を向けたまま足を踏み出し。
『あ――』
足先が石段の縁を外れた。
「危ない!」
亮人は反射的に腕を伸ばした。
傾いた少女の身体を抱き留め、そのまま自分の胸元へ引き寄せる。
『…………』
「…………」
白い髪が亮人の胸元へ広がった。
ふわりとした髪が制服へ触れ、それと同時に雪女の身体から放たれる冷気が一気に近づいてくる。
転げ落ちることは防げた。
けれど、抱き留めた体温は人間の少女とは明らかに違った。
「……やっぱり冷たい」
『今それ言う!?』
「いや、本当に冷たいから」
『雰囲気ってものがあるでしょう!』
「落ちた方がよかった?」
『それは嫌!』
「じゃあよかった」
『…………』
言い返せなくなったのか、雪女は亮人の胸元へ顔を隠したまま動かない。
亮人は数秒そのまま待っていたものの、距離が近いせいで身体の芯まで冷えてきた。
「そろそろ離れてもらえる?」
『…………』
「寒くなってきた」
『もう!』
雪女は勢いよく亮人の胸元から離れた。
顔は真っ赤だった。
『分かったわよ!』
「怒った?」
『怒ってない!』
「怒ってるように見えるけど」
『うるさい!』
その後、雪女は家へ着くまでほとんど口を利いてくれなかった。
それでも亮人が少し先へ行けば一定の距離を保ったまま後ろをついてきて、道が分かれればこちらが進む方へ同じように曲がる。
クロだけはそんな二人の間を行ったり来たりしながら、いつもと何も変わらない様子で歩いていた。
数時間前まで、亮人は雪女という存在が本当にいることさえ知らなかった。
それが今では、その雪女を自分の家へ連れて帰ろうとしている。
普通に考えれば、どうかしているのかもしれない。
けれど亮人には、不思議と嫌な感じがしなかった。
誰も帰ってこない広い家。
食卓へ並べる一人分の食事。
静まり返ったリビングで、一人で見るニュース番組。
そこへ誰か一人増えることを想像すると、むしろこれまでより少しだけ家らしくなるような気さえしていた。
そして雪女の方も、亮人から数歩離れたところを歩きながら、何度かその背中へ視線を向けていた。
人間なのに自分を見つけた少年。
突然口づけをしても怒らず、自分が人ならざる存在だと知っても逃げなかった少年。
それどころか、一緒に暮らすことになると告げても最初に考えたのは空いている部屋のことで、最後には何の迷いもなく「一緒に帰ろう」と口にした。
どうしてこんな人間がいるのか、雪女にもまだ分からない。
けれど。
『…………』
少し先を歩く亮人の背中を見つめる。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
『……変な人』
その声に込められていたものは、最初に亮人へ向けた呆れとは、もう少しだけ違っていた。




