居候は雪と狼Ⅸ
その頃。
亮人が二人の妖魔へ『氷華』と『シャーリー』という名前を贈り、少しずつ家族らしい形を作り始めていたのと同じ夜。
東京の遥か上空では、別の妖魔を巡る二人が夜の街を見下ろしていた。
地上から仰げば、夜空そのものへ突き刺さっているようにも見える東京スカイツリー。その展望台よりもさらに外側、本来なら人間が立つことなど想定されていない場所に、一人の少年が立っている。
「……この街のどこかにいる」
少年は眼下へ広がる無数の光を睨みながら、小さく呟いた。
「ウェアウルフは、この辺りで誰かを探している。それだけは間違いない」
夜の東京は明るい。
道路を絶え間なく流れていく車の灯り、建物の窓から漏れる光、看板や街灯が作り出す色彩。人間が暮らしている証とも言える数え切れないほどの輝きが地平の先まで広がっている。
だが、それだけ多くの人間が存在しているということは、その中からたった一匹の妖魔を探し出すには最悪の環境でもあった。
「……ちっ」
少年の口から、苛立ちを隠そうともしない舌打ちが漏れる。
その全身は黒い布で覆われていた。腕も、脚も、顔までも夜の闇へ紛れるように隠されており、素顔を窺うことはできない。
ただし、声までは隠し切れなかった。
どれほど意識して低く、冷たく話しても、そこにはまだ完全には消えていない幼さが残っている。
大人ではない。
少なくとも、少年と呼ばれる年齢であることだけは、その声を聞けば分かるだろう。
『そんなに焦らなくてもいいじゃない』
背後から、女性の声がした。
少年は振り返らない。
『ウェアウルフがこの辺りにいることは分かっているんでしょう? だったら、もう少し時間をかけて探しても――』
「うるさい」
『…………』
最後まで言わせることなく、少年が切り捨てた。
その背後には、一匹の巨大な狐がいた。
身体の後ろで揺れている尾は九本。それぞれが独立した生き物のように夜風の中をゆったりと漂い、その巨体と相まって、地上の人間が目にすれば伝承の中の怪物そのものに見えただろう。
昨夜、金色の狼――ウェアウルフを追っていた九尾だった。
『……久しぶりの日本なのよ?』
「だから何だ」
『少しくらい、ゆっくりしたって――』
「俺は観光に来たんじゃない」
少年がようやく振り返る。
顔は布に覆われたままで、その表情を読み取ることはできない。
それでも九尾には、その下で少年がどんな目をしているのか分かっていた。
「お前が逃がした」
『…………』
「違うか?」
『……違わないわ』
「なら探せ」
少年の声は大きくない。
怒鳴っているわけでもないのに、その一言を受けた九尾の九本の尾が、僅かに下がった。
「俺はまだ、お前を許したわけじゃない」
『……分かってる』
「分かってるなら働け」
『……ごめんなさい』
「謝るな」
少年は再び眼下の東京へ顔を向けた。
「謝る暇があるなら、ウェアウルフを見つけろ」
『…………』
九尾はそれ以上、何も言えなかった。
言い返そうと思えば、いくらでも言い返すことはできる。
少年より遥かに大きな身体を持ち、人間程度なら簡単に焼き尽くせる炎も持っている。その気になれば、この高さから少年を振り落とすことだってできるだろう。
けれど九尾は何もしなかった。
ただ静かに、少年の背中だけを見つめている。
「……絶対に見つける」
しばらくして、少年が口を開いた。
「ウェアウルフは、俺が確保する。今度こそ逃がさない」
『…………』
九尾が僅かに目を細める。
『そこまでして、あの子を?』
「当然だ」
『でも、ウェアウルフは――』
「妖魔だ」
九尾の言葉を遮るように、少年が告げる。
「それ以上でも、それ以下でもない」
『…………』
「妖魔は俺の近くに置く。俺の目が届くところに」
少年が拳を握る。
まだ成長しきっていない、小さな手だった。
それでも、そこに込められた力だけは年齢不相応なほど強い。
『……どうして』
「分かってるだろ」
『…………』
「放っておけば、また同じことが起きる」
その言葉の最後だけ、少年の声が僅かに揺れた。
本当に僅かな変化だった。
長く彼を見てきた九尾でなければ、気づかなかったかもしれない。
「また――」
そこで言葉が途切れる。
少年は何かを思い出したように黙り込み、そのまま数秒間、夜の東京を睨み続けた。
『…………』
「……なんでもない」
『あなた』
「聞くな」
『…………』
「俺みたいなのを、これ以上増やしたくない」
その一言を聞いて、九尾は何も返せなくなった。
少年の中には憎しみがある。
怒りもある。
妖魔という存在へ向けた、強い執着もある。
けれど、そのさらに奥には、それだけでは説明できない何かがあることを九尾だけは知っていた。
『私も探すわ』
しばらくして、九尾が静かに口を開く。
『ウェアウルフも、他の妖魔も。最後まで、あなたと一緒に』
「…………」
少年はすぐには答えなかった。
高所特有の強い風が吹き抜け、全身を覆う黒い布が激しく揺れる。
「……当然だ」
『え?』
「お前は俺と一緒にいる。それは絶対だ」
『…………』
九尾が目を見開く。
「お前だけは、勝手にどこかへ行くな」
命令のような言葉だった。
実際、少年自身も命令として口にしたつもりなのだろう。
けれど九尾は、その言葉を受けると僅かに目元を緩めた。
『……分かってるわ』
「ならいい」
『これからも一緒に妖魔を探す』
「ああ」
『あなたが望むなら』
「望むとかじゃない」
『じゃあ、何?』
「必要なんだ」
『…………』
少年は少しだけ間を置く。
「お前は俺のそばに必要なんだよ」
それ以上、少年は何も言わなかった。
九尾も聞き返そうとはしない。
ただ、夜風の中を漂っていた九本の尾が、ほんの少しだけ少年へ近づいていた。
「もう行くぞ」
『ええ』
少年の言葉を受け、九尾はその場で身体を低くする。
大きな背中は少年一人なら余裕で乗せられるほど広く、大人が数人乗ったとしても問題なさそうなほどだった。
九本ある尾のうち数本が少年へ伸び、腰や背中の周囲へ回り込む。まるで高所から落ちないよう支えるかのように、柔らかく身体を包み込んだ。
「……自分で乗れる」
『知ってるわ』
「ならやるな」
『落ちたら困るもの』
「俺が落ちると思ってるのか?」
『思ってない』
「じゃあ」
『それでもやるの』
「…………」
少年は何も言わず、九尾の背中へ腰を下ろした。
『しっかり掴まって』
「必要ない」
『そう』
「お前が落とさないだろ」
『…………』
九尾は少しだけ笑う。
『もちろん』
そして、前脚を一歩踏み出した。
その先に地面はない。
あるのは、数百メートル下まで続く夜の空だけだった。
それでも九尾は一切躊躇せず、そのまま展望台の外へ飛び出す。
ヒュオオオオオオッ――!!
猛烈な風が少年の身体へ叩きつけられた。
普通の人間なら恐怖で目を開けていることすらできない高さを落下しているというのに、少年は九尾の尾で作られた背もたれへ身体を預けたまま、平然と眼下の街を見つめている。
そのまま地上へ落ちていくかと思われた次の瞬間、九尾は空中で大きく身体を捻った。
ドンッ!
近くの高層ビルの屋上へ着地する。
勢いは殺さない。
すぐさま次の建物へ跳び、さらにその先へと飛び移っていく。
夜の東京を縫うように、巨大な九尾が飛ぶような速度で駆け抜けていった。
「ウェアウルフ……」
吹き抜ける風の中で、少年が再びその名を口にする。
「絶対に俺が見つける。そして俺が貰う」
『もし』
九尾がビルの屋上を駆けながら尋ねる。
『もう誰かに見つかっていたら?』
「…………」
ほんの一瞬だけ、少年は黙った。
『もし、あの子が自分から誰かのところへ行っていたら?』
「奪う」
答えは早かった。
『人間からでも?』
「ああ」
『その人間が、ウェアウルフを大切にしていても?』
「関係ない」
『…………』
「妖魔を手元に置く意味を理解してない人間なら、なおさらだ」
『もし、その人が拒んだら?』
「倒す」
『…………』
「邪魔をするなら、誰だろうと倒す」
少年には、迷いがなかった。
子供が意地を張って口にしているのではない。
本気でそうするつもりなのだと、長く彼を見てきた九尾には分かってしまう。
『……やっぱり』
九尾が小さく呟く。
「何だ」
『私のせいよね』
「…………」
『あなたが、こんな考え方をするようになったの』
「違う」
『私の育て方が――』
「違うって言ってる」
『でも』
「九尾」
少年の声が低くなる。
九尾は口を閉ざした。
「それ以上言うな」
『…………』
「俺は自分で決めてる。誰かに決められたんじゃない」
『…………』
「お前にも……」
そこで一瞬だけ言葉が止まる。
「……誰にも」
九尾はしばらく黙っていたが、やがて小さく答えた。
『分かったわ』
その声は、どこか寂しそうだった。
九尾が大きく跳躍する。
二人の身体が高層ビルの間を飛び、夜空と街の光、そして冷たい風を切り裂くように進んでいく。
その時だった。
「――っ」
横から強い風が吹き抜け、少年の顔を覆っていた黒い布が僅かに捲れ上がる。
その隙間から、一瞬だけ素顔が覗いた。
まだ幼さの残る頬。
少年らしい顔立ち。
その姿だけを見れば、とても先ほどまで『邪魔をするなら誰でも倒す』などと口にしていた人間には見えない。
「…………」
少年は東京のどこかにいるウェアウルフの姿を思い浮かべる。
そして、どこか無邪気にすら見える笑みを浮かべた。
「待ってろよ、ウェアウルフ」
小さな声だった。
けれど、その言葉には迷いがない。
その頃。
少年が執念深く探しているウェアウルフには、すでに『シャーリー』という一人の少女としての名前が与えられていた。
帰る家もできた。
そして、自分を家族として迎えようとしてくれる人間もいる。
けれど少年も、彼と共にいる九尾も、そのことをまだ知らない。
「すぐに迎えに行ってやる」
少年はどこか嬉しそうに、それでいて危うさを孕んだ笑みを浮かべながら、九尾の背中から夜の東京を見下ろしていた。




