波乱万丈
シャーリーが相馬家の一員となった、その翌朝。
昨日まで二人と一匹だった家に新しい住人が加わったことで、亮人の身の回りでは早くも「三人で暮らす」ということの大変さが、思いもよらない形で表面化し始めていた。
『……んぅ』
「…………」
午前五時。
まだ朝日は完全に昇りきっておらず、薄暗い部屋にはカーテンの隙間から青白い光が僅かに差し込んでいる。普段なら目覚ましが鳴る少し前に自然と目を覚ます亮人だったが、この日は自分のすぐ隣から聞こえてきた小さな寝息によって、いつもよりほんの少し早く意識を浮上させていた。
最初はクロだと思った。
クロは普段から勝手に亮人の布団へ潜り込み、寒い夜には枕の半分近くを占領して眠っていることも珍しくない。そのため今回も同じだろうと考え、まだ重たい瞼をゆっくりと開きながら顔を横へ向けた亮人だったが、そこにあった光景を見た瞬間、眠気が少しだけ薄れた。
「…………」
そこにいたのはクロではなく、黄金色の髪を枕いっぱいに広げた少女だった。
シャーリーは気持ちよさそうに目を閉じ、亮人の布団へしっかりと潜り込んでいる。人の姿になっても消えることのない黄金色の狼の尾は布団の端から少しだけ覗き、眠りに合わせるように、ときおり小さく揺れていた。
「……シャーリー?」
『んぅ……』
返事はない。
完全に眠っている。
昨日、亮人から初めて『シャーリー』という自分だけの名前をもらったウェアウルフの少女は、いつの間に亮人の部屋へ入り込んだのか、まるでここが最初から自分の寝床だったかのような安心しきった表情で丸くなっていた。
『お兄ちゃん……』
「…………」
『だいすき……』
寝言だった。
少し開いた口元から、人間より僅かに長い犬歯が覗いている。見た目だけなら年下の普通の少女と大きく変わらないが、頭の髪の間から僅かに覗く狼の耳も、布団の外へ出ている尾も、彼女が人間ではないことをはっきり示していた。
「……それはいいんだけど」
亮人は困ったように眉を下げる。
「どうして俺の部屋で寝てるのかなぁ」
昨夜、シャーリーにはきちんと部屋を用意した。
ベッドも布団もあり、生活に必要そうなものも一通り揃えている。亮人の家には使われていない部屋がいくつもあるため、新しい住人が一人増えたところで寝る場所に困るようなことはない。
それなのに朝になってみれば、なぜか本人は亮人の隣で気持ちよさそうに眠っている。
しかもシャーリーはあまり寝相が良くないらしく、広いはずのベッドの大半を使い、布団もほとんど自分の方へ引き寄せていた。亮人に残されているのは、申し訳程度の端だけである。
「……寒かった原因、これか」
どうりで夜中から妙に冷えると思った。
亮人がシャーリーを起こさないよう、できるだけゆっくりと布団から抜け出そうと身体を動かすと、その僅かな振動に反応したのか、黄金色の髪の間から覗く狼の耳がぴくりと動いた。
『ん……?』
「起こした?」
『……お兄ちゃん?』
シャーリーがゆっくりと目を開く。
眠気の残った琥珀色の瞳が何度か瞬き、獣を思わせる縦長の瞳孔が少しずつ亮人へ焦点を合わせていくと、ようやくそこにいるのが誰なのか理解したらしく、安心したように表情を緩めた。
『おはよう……』
「おはよう」
『もう起きるの?』
「いつもこの時間だからね」
『まだ五時だよ……』
「シャーリー、時計読めるんだ」
『そのくらい読めるもん』
「それは失礼しました」
シャーリーは眠そうに目を擦りながら身体を起こす。
その時、亮人は何かに気づいたように一度だけ目を瞬かせると、すぐに窓の方へ顔を向けた。
「シャーリー」
『なぁに?』
「ひとつお願いがあるんだけど」
『いいよ?』
「寝る時も、ちゃんと寝る時用の服を着ようか」
『……?』
シャーリーは本気で意味が分からないらしく、小さく首を傾げる。
昨夜買った服は、ベッドの下へ綺麗に落ちていた。どうやら人の姿のまま眠ることにまだ慣れておらず、寝る前に窮屈になって自分で脱いでしまったらしい。
『狼の時は服なんて着ないよ?』
「今は人の姿だからね」
『でも、お兄ちゃんしかいないし』
「それでも」
『どうして?』
「人間には色々あるんだよ」
『人間って難しいね』
「最近よく言われるなぁ、それ」
亮人は窓の方を向いたまま、ベッドの上に置かれていた毛布を後ろ手に差し出した。
「ほら。とりあえずこれ掛けて」
『はぁい』
「あと今日から、寝る時用の服も用意しよう」
『お兄ちゃんが買ってくれるの?』
「そのつもり」
『じゃあ可愛いのがいい!』
「分かったよ」
『お兄ちゃんとお揃いでもいいよ?』
「それは考えておく」
『やったぁ』
「まだ決定じゃないよ?」
『楽しみ!』
「聞いてないなぁ……」
どうやらシャーリーの中では、すでに亮人とお揃いの寝間着を買うことまで決定事項になりつつあるらしい。
亮人は苦笑しながら扉へ向かった。
「それじゃあ、まだ眠いならもう少し寝てていいよ」
『お兄ちゃんは?』
「朝ごはん作ってくる」
『朝ごはん!』
その一言を聞いた途端、さっきまで半分眠っていたシャーリーの瞳が少しだけ輝いた。
「でも、ちゃんと服を着てから降りてきてね」
『分かった!』
「約束だよ?」
『うん!』
「じゃあ、もうちょっとおやすみ」
『おやすみ、お兄ちゃん』
シャーリーは再び布団へ潜り込み、枕へ頬を押しつける。
それから数秒も経たないうちに。
『すぅ……』
「早いなぁ……」
本当に寝た。
亮人はしばらく、その安心しきった寝顔を見つめていた。
昨日まで――いや、つい数日前まで、シャーリーは亮人を探すために一人で逃げ続け、身体中に傷を負っていた。
どれだけの時間を逃げ続けていたのか。
どれだけ長い間、何かに怯え、まともに身体を休ませることさえできなかったのか。
亮人にはまだ分からない。
けれど少なくとも今、この家の中で自分の隣に潜り込み、何の警戒もなく眠れているのなら、その安心だけは壊したくなかった。
「……今くらい、ゆっくり寝かせてあげよう」
小さく呟き、亮人は足音を立てないよう静かに部屋を出た。
◇
一階へ降りると、階段を下りきったところで聞き慣れた声がした。
「ニャァ」
「おはよう、クロ」
珍しくクロが先に起きていた。
亮人の足元へ擦り寄り、柔らかな黒い身体を脚へ押しつけてくる。いつもなら亮人が朝食を作っている途中まで二階で眠っていることも多いのだが、今日は随分早い。
「今日は早いね」
「ニャ」
「お腹空いた?」
「ニャッ!」
「やっぱり」
クロはそのまま自分用の食器へ向かうと、前脚を使って空の器を叩き始めた。
カン、カン、と乾いた音が、まだ誰も起きていない静かなリビングへ規則的に響く。
「そんなに叩かなくても分かってるよ」
「ニャァァ」
「でも、あと少し待てる?」
「…………」
クロの動きがぴたりと止まった。
「できれば、みんな一緒に食べたいんだ」
「ニャァ……」
明らかに不満そうな声だった。
「ごめんって」
「ニャ」
「怒った?」
「ニャ」
「それ、どっち?」
クロは亮人の質問に答えることなく、ぷいっと顔を逸らした。
そのまま階段の方へ向かって歩き始める姿を見て、亮人は首を傾げる。
「……そっち行くんだ」
おそらく向かう先は亮人の部屋だろう。
そこにはシャーリーもいる。
「クロも一緒に二度寝する気か」
亮人は苦笑しながらリビングへ入った。
テレビをつけると、いつもの朝のニュース番組と天気予報が流れ始める。
『本日の関東地方は――』
「今日もいい天気か」
いつもの朝。
いつものニュース。
けれど、昨日までとは一つだけ大きく違うことがある。
「今日は三人分かぁ」
冷蔵庫を開ける。
卵、野菜、食パン、魚、牛乳。
いつもなら自分と氷華の分だけを考えればよかったが、今日からはそこへシャーリーが加わる。
亮人は冷蔵庫の中を眺めながら、少し楽しそうに今日の献立を考え始めた。
「シャーリーも来たし……今日は洋食にしてみようかな」
まず卵を手に取る。
「スクランブルエッグ」
続いて食パンを見る。
「トースト」
さらに野菜室を覗き込む。
「シーザーサラダも作れる」
そこで、亮人の手が止まった。
「……ベーコンがない」
本気で残念そうに肩を落とす。
「スクランブルエッグならベーコン欲しかったな」
もちろん、誰も聞いていない。
それでも亮人はかなり真剣だった。
「まあ、仕方ないか」
代わりに魚を取り出す。
「洋食なのに焼き魚っていうのも変かな」
数秒だけ悩んだあと。
「……美味しければいいか」
結論は早かった。
制服へ着替える前に黒いエプロンを身につけ、包丁を手に取る。
野菜を切り、卵をボウルへ割り入れて溶き、温めたフライパンへ流し込む。菜箸で軽くかき混ぜながら火を通せば、じゅう、と心地よい音が朝の静かな家へ広がり、それに続いて卵とバターの匂いがキッチンからリビングへ流れていった。
「…………」
亮人は、この時間が好きだった。
昔から料理そのものはしていた。
誰かに食べてもらうためではなく、自分が生きていくために必要だったから覚えたものだ。
けれど、二週間前からその意味が少しずつ変わり始めている。
雪女――今は氷華がいる。
そして昨日からは、シャーリーもいる。
自分が作ったものを誰かが食べ、それを美味しいと言ってくれる。
たったそれだけのことなのに、以前一人で作っていた料理とは、まるで別の意味を持つようになっていた。
「……ちょっと多いかな」
気づけば、スクランブルエッグにトースト、サラダ、焼き魚、それに余った野菜で簡単なソテーまで作っていた。
「朝から作りすぎた気がする」
そう言いながらも、亮人の表情はどこか楽しそうだった。
料理をしていると時間が経つのは早い。
時計を確認すると、そろそろ二人を起こしておいた方がよさそうな時間になっていた。
「そろそろ起こさないとな」
亮人は黒いエプロン姿のまま二階へ向かう。
まず氷華の部屋の前で足を止め、軽く扉を叩いた。
コンコン。
「氷華?」
返事がない。
「入るよ?」
扉を少しだけ開け、中を覗く。
「……いない」
ベッドはすでに空だった。
布団も大きく乱れていない。
「どこ行ったんだろ」
それなら先にシャーリーとクロを起こそう。
そう考えて自分の部屋まで戻ったところで、亮人は何となく扉の前で立ち止まった。
「一応……ノックした方がいいよな」
自分の部屋なのに。
コン、コン。
「入るよ」
扉を開けると、そこには探していた氷華がいた。
『シャーリー、起きなさい』
『んぅ……』
腰まで伸びる白い髪を今日は後ろでまとめ、氷華はベッドの脇に立ちながら、眠り続けるシャーリーの肩を優しく揺らしている。
『もうそろそろ起きないと、亮人の朝ごはん食べられないわよ』
『んぅ……』
『ほら』
『……氷華お姉ちゃん』
「…………お姉ちゃん?」
亮人が思わず小さく反応した。
『お兄ちゃんのご飯……できた?』
『たぶん、もうできてるわよ。亮人ならいつもこのくらいの時間には作り終わってるもの』
『食べる……』
『だったら起きる』
『はぁい……』
シャーリーがもぞもぞと身体を起こす。
「なんか……」
亮人は扉のところから二人を眺めた。
昨日、家の前で殺し合い寸前まで喧嘩していた二人とは、とても思えない。
氷華はまるで手のかかる妹を起こす姉のようで、シャーリーもそれを当然のように受け入れ、自然に『氷華お姉ちゃん』と呼んでいる。
「仲良くなるの早くない?」
『誰が仲良くなったって?』
「聞こえてたんだ」
氷華が振り返る。
『別に仲良くなんてなってないわよ』
『氷華お姉ちゃん』
『何よ』
『服着せて』
『はいはい。左から通すわよ』
「…………」
どう見ても仲良くなっている。
「それなら、ちょうどよかった」
『何が?』
亮人は少しだけ声を潜めた。
「シャーリー、左肩がまだ痛いみたいなんだ」
『左肩?』
「何かに襲われた時に怪我したらしくて、あまり上がらないんだって」
『……襲われた?』
氷華の目が僅かに細くなる。
「俺も詳しくは知らないよ」
その言葉を聞いた瞬間だけ、氷華の表情が険しくなった。
「氷華?」
『……あとで本人に聞くわ』
短く答えると、すぐにいつもの表情へ戻り、シャーリーの袖へ腕を通すのを手伝い始める。
『ほら、シャーリー。腕通して』
『はーい』
「じゃあ任せるよ」
『亮人は?』
「下で待ってる」
『分かった』
「着替え終わったら二人とも来て。朝ごはん冷めちゃうから」
『うん』
『分かった!』
「クロもね」
「ニャァ……」
いつの間にかベッドの端で丸くなっていたクロが、眠そうな声で返事をする。
『クロも起きるわよ』
「ニャァァ……」
氷華に抱き上げられたクロは、非常に迷惑そうな顔をしていた。
◇
一階へ戻った亮人は、先にクロの食事を用意していた。
「はい。クロの分」
ペットフードを器へ入れる。
「ニャッ!」
待ってましたと言わんばかりにクロが食器へ近づく。
だが、目の前まで来たところで、なぜかぴたりと足を止めた。
「食べないの?」
「ニャ」
クロは階段の方を見る。
「もしかして、二人を待ってる?」
「ニャ」
「…………」
亮人は思わず笑った。
「本当に頭いいな、クロ」
そこらの犬より――いや、下手な人間より賢いのではないだろうか。
そんなことを考えていると、二階から二人分の足音が聞こえてきた。
『お待たせ』
『お兄ちゃん、おはよう!』
「おはよう」
氷華とシャーリーが階段を降りてくる。
シャーリーは昨日買った服へ着替えており、黄金色の尻尾もいつも通り背後で揺れていた。左肩はまだ動かしづらそうだったが、表情そのものは明るく、眠気も朝食の匂いですっかり飛んでしまったらしい。
「じゃあ食べようか」
『うん!』
『いただきましょう』
「クロもどうぞ」
「ニャッ!」
ようやく全員が揃ったと判断したのか、クロも勢いよく食べ始めた。
『今日は洋食なのね』
テーブルに並んだ料理を見ながら、氷華が興味深そうに目を細める。
『スクランブルエッグにパン……サラダもある』
「シャーリーが来たからね」
『私?』
「アメリカにいたんでしょ?」
『うん』
「なら、洋食の方が馴染みあるかなと思って」
『…………』
シャーリーが数秒固まった。
「どうしたの?」
『お兄ちゃん……』
「ん?」
『私のために考えてくれたの?』
「まあ、少しだけね」
その言葉を聞いた瞬間、シャーリーの表情が一気に明るくなった。
『お兄ちゃん大好き!』
「わっ」
そのまま抱きつこうとしてくるシャーリーを、亮人は慌てて両手で制する。
「食事中は危ないよ」
『はーい』
言われれば素直に席へ戻る。
「でも、お昼は和食にしようと思ってる」
そこで氷華がシャーリーへ視線を向けた。
『シャーリー、和食は食べられるの?』
『食べられるものなら何でも!』
「随分広いね」
『それに』
シャーリーは期待に満ちた表情でフォークを握り締めた。
『お兄ちゃんが作ったご飯なら、絶対美味しいもん』
「まだそんなに食べたことないでしょ」
『分かるの』
「何が?」
『お兄ちゃんだから』
「根拠になってないなぁ」
そう言いながらも、亮人は笑っていた。
『いただきます!』
シャーリーがスクランブルエッグを口へ運ぶ。
『……!』
「どう?」
『美味しい!』
「よかった」
『これも!』
今度はサラダへ手を伸ばす。
『美味しい!』
「そう?」
『パンも!』
「それは焼いただけだけど」
『美味しい!』
「そこまで褒められると、ちょっと恥ずかしいな」
けれど、悪い気はしない。
むしろ、自分が作った料理を誰かがこれほど嬉しそうに食べてくれる光景が、亮人にはたまらなく嬉しかった。
昔から料理はしていた。
けれど、一人で作って一人で食べていた頃には、自分の料理を見て誰かの表情が明るくなることなどなかった。
美味しいと言われることもない。
おかわりを求められることもない。
次は何を作ってほしいか聞く相手もいなかった。
それが今は、ほんの少し味付けを変えただけで喜ぶ相手がいて、作った料理を一口食べるたびに嬉しそうな声が返ってくる。
気づけば、亮人の表情も自然と緩んでいた。
『…………』
そんな亮人の様子を、氷華がじっと見ている。
「ん?」
『……年下に甘すぎ』
「え?」
『何でもないけど?』
「今、絶対何か言ったよね」
『気のせいじゃない?』
「はっきり聞こえたんだけど」
『私はただ、自分より年下の女の子がご飯を食べてるだけで、随分嬉しそうな顔するのねって思っただけ』
「だって、美味しそうに食べてくれてるからね」
『そういうところよ』
「何が?」
『もういいわ』
氷華は涼しい顔でスクランブルエッグを口へ運ぶ。
少し咀嚼したあと、視線を逸らしながらぼそりと呟いた。
『……美味しい』
「ありがとう」
『そこで普通に返すのね』
「料理褒めてもらったから」
『……やっぱり変』
「それも何回目かなぁ」
『お兄ちゃんは変じゃないよ!』
シャーリーが横から勢いよく割り込んでくる。
「ありがとう、シャーリー」
『ただ、ちょっと変わってるだけ!』
「フォローになってないね」
『そうなの?』
「そうなの」
『人間って難しいね』
「それ、今日二回目だよ」
氷華が小さく笑う。
シャーリーもつられて笑い、足元ではクロが周囲の騒がしさなど気にする様子もなく食事を続けている。
「…………」
その光景を見ているうちに、亮人もいつの間にか一緒に笑っていた。
以前、この家の朝は静かだった。
テレビからニュースの声だけが流れ、亮人は一人で朝食を食べる。
クロは気が向けば近くにいるものの、言葉を返してくれるわけではない。
食卓の向こう側には誰も座っておらず、作った料理も、片づける皿も、一人分だけだった。
それが今は違う。
『亮人、サラダ取って』
「はい」
『お兄ちゃん、これ何?』
「魚のソテー」
『美味しい?』
「食べてみれば分かるよ」
『いただきます!』
『シャーリー、口に入れすぎ』
『大丈夫!』
『こぼすわよ』
『こぼさないもん』
「ニャァ」
「あ、クロ、水欲しい?」
「ニャ」
「ちょっと待ってね」
誰かの声がある。
会話が途切れない。
時には小さく言い合いながら、それでも同じテーブルで同じ時間を過ごしている。
誰かのために料理を作り、その誰かが自分の作ったものを食べ、食べ終えれば次は何を作るのかと聞いてくる。
それだけのことなのに、亮人にはずっと欲しかった何かが、この広すぎる家へ少しずつ集まり始めているように感じられた。
「……家族、か」
『亮人?』
「ん?」
『今、何か言った?』
「いや、なんでもないよ」
亮人は首を振り、もう一度目の前の光景を見る。
白い髪の氷華。
黄金色の髪と尾を持つシャーリー。
足元にはクロ。
少し前まで、この食卓には自分しかいなかった。
それが今は三人と一匹で囲んでいる。
まだ互いに知らないことも多い。
氷華がなぜあの神社にいたのかも、シャーリーが何から逃げてここまで来たのかも、亮人はすべてを聞いたわけではない。
それでも、こうして一緒に朝を迎え、同じ食事を囲んで笑えていることだけは確かだった。
「…………」
気づかないうちに、亮人の口元へまた小さな笑みが浮かぶ。
『……また笑ってる』
「今度は変なこと言わないでね」
『さあ?』
「氷華」
『ふふ』
からかうように笑う氷華の横から、シャーリーが空になった皿を元気よく差し出した。
『お兄ちゃん、おかわり!』
「はいはい」
亮人は皿を受け取りながら、思わず苦笑する。
「朝からよく食べるね」
『いっぱい食べたら、もっと強くなれるから!』
「ほどほどにね」
『うん!』
少し騒がしくて、少し変わった朝だった。
普通の高校生と、雪女と、ウェアウルフと、一匹の黒猫。
世間一般から見れば、決して普通とは呼べない組み合わせなのだろう。
それでも亮人にとっては、一人で食卓についていた頃よりもずっと温かく、ずっと家らしい時間だった。
食器の触れ合う音に誰かの笑い声が重なり、昨日までは存在しなかった会話が広いリビングを満たしていく。
そんな朝が、相馬家では少しずつ当たり前になろうとしていた。




