波乱万丈Ⅱ
シャーリーが相馬家に加わってから初めて迎えた朝は、これまで亮人が過ごしてきたものとは比べものにならないほど騒がしく、それでいて不思議なくらい心地のいい時間になっていた。
「ごちそうさまでした」
『ごちそうさまでした』
『ごちそうさまでした!』
「ニャァ」
三人と一匹の声がほとんど同時に重なり、亮人はテーブルの上へ並んだ空の皿を眺めながら、自然と小さな笑みを浮かべた。
少し前までなら、朝食の時間にこの広いリビングで聞こえていたのは、テレビから流れるニュース番組の声と、箸や食器が触れ合う小さな音くらいだった。気が向けばクロが足元へやって来ることもあったが、基本的には亮人一人だけの時間だった。
料理を作り、それを食べ、最後に食器を片づける。そのすべてが、自分一人の中で完結していた。
けれど、今は違う。
正面には氷華が座り、隣にはシャーリーがいて、足元では満足したらしいクロが前脚を丁寧に舐めながら毛繕いをしている。氷華と出会ってからまだ二週間ほどしか経っておらず、シャーリーに至っては昨日この家へ来たばかりだというのに、誰もいなかった頃の静かな朝の方が、もうずっと昔の出来事のように感じられた。
「さて……まだ少し時間あるな」
壁の時計へ目を向けた亮人は、学校へ向かうまでに残された時間を頭の中で計算しながら、空になった食器を重ねて立ち上がった。
『学校に行くんじゃないの?』
「もちろん行くよ。ただ、その前に二人のお昼くらい作っておこうかなと思って」
『お昼!?』
真っ先に反応したのはシャーリーだった。
つい先ほどまで朝食を食べていたとは思えない勢いで身を乗り出し、琥珀色の瞳をきらきらと輝かせながら亮人を見る。
「そんなに喜ぶこと?」
『だって、お兄ちゃんのご飯だよ?』
「今食べ終わったところなんだけど」
『朝ごはんとお昼ごはんは別だもん』
『それはたぶん、別腹って言いたいのかしら』
氷華は呆れたように言いながら自分の皿を持って立ち上がり、そのまま亮人より先にキッチンへ向かうと、シンクの前へ立って袖を軽くまくった。
『食器は私が洗っておくから、亮人はお昼を作りなさいよ』
「お願いしていい?」
『そのつもりで言ってるの』
「ありがとう、氷華」
『…………』
名前を呼ばれた瞬間、氷華の手がほんの僅かに止まった。
昨日まで彼女は亮人にとって名前のない雪女で、今朝に至っては半ば勝手に『雪ちゃん』と呼ばれていた。それが今では『氷華』という、自分だけの名前を持っている。
まだその響きに慣れていないのか、氷華は振り返らないまま、少しだけ間を空けて答えた。
『……別に、それくらい普通よ』
言葉そのものは素っ気ないのに、その声音にはどこか照れを隠しているような柔らかさが混じっていた。
亮人はそんな氷華の変化へ気づいているのかいないのか、それ以上追及することなく黒いエプロンを身につけ、冷蔵庫の扉を開ける。
「朝が洋食だったから、お昼は和食かな」
『私もそれでいいと思うわ』
「じゃあ魚を焼いて、煮物でも作ろうかな。昨日買った野菜も残ってるし」
『いいじゃない。でも、朝より味が落ちてたら文句言うわよ』
「朝からずいぶん厳しいね」
『当然でしょ。私を誰だと思ってるの?』
「氷華」
『…………そういう意味じゃないわよ!』
名前をそのまま返されるとは思っていなかったのか、氷華が頬を僅かに膨らませる。
「はいはい。ちゃんと美味しく作りますよ」
『最初からそう言えばいいの』
「注文の多い家族だなぁ」
『――っ』
何気なく口にした言葉だった。
亮人本人に深い意図はなく、同じ家で暮らし、同じ食卓を囲み、出かければ帰ってくる場所も同じなのだから、それを家族と呼んでもそれほど不自然ではないだろうという程度の感覚だった。
けれど、氷華にとっては簡単に聞き流せる言葉ではなかったらしい。
水を流していた手が止まり、ほんの一瞬だけ亮人の横顔へ視線が向けられる。
家族。
昨日、自分に名前を贈られた時にも耳にした言葉だった。
亮人が何でもないことのように口にするたび、その響きは少しずつ氷華の中へ残り、これまで自分とは縁の遠かったものに、僅かずつ形を与えているような気がした。
「氷華?」
『……何でもないわよ』
声を掛けられ、氷華は慌てたように視線を戻すと、再び食器を洗い始めた。
そんな二人のやり取りを、少し離れたところからじっと見つめている少女がいる。
『……むぅ』
「シャーリー?」
『なに?』
「いや、なんか不満そうだから」
『別に何でもないよ』
どう見ても、何でもない顔ではなかった。
亮人と氷華が並んでキッチンへ立ち、まるで以前からずっとそうしてきたかのように自然な会話をしているのが面白くないらしく、シャーリーは椅子に座ったまま分かりやすく頬を膨らませている。
亮人は少しだけ考えたあと、冷蔵庫から取り出した野菜の籠を持ち上げた。
「それじゃあシャーリー、手伝ってくれる?」
『手伝う!』
先ほどまでの不機嫌そうな表情が嘘のように消え、金色の尾まで嬉しそうに大きく揺れる。
「この野菜の皮を剥いてほしいんだけど、左肩は大丈夫?」
『大丈夫だよ!』
「無理はしないでね。痛くなったらすぐやめること」
『分かった!』
シャーリーはすぐ亮人の隣へやって来ると、渡されたピーラーを珍しそうに両手で眺めた。
『これで剥くの?』
「そう。指まで剥かないように気をつけて」
『シャーリー、そんなに不器用じゃないもん』
『昨日まで爪で戦ってた子が刃物を持つって考えると、少し不安だけどね』
『氷華お姉ちゃんだって氷の爪使ってたじゃん!』
『私は慣れてるの』
「二人とも、昨日殺し合おうとしてたこと反省してる?」
『…………』
『…………』
見事なほど同時に黙った。
亮人は二人を交互に見て、肩を落とす。
「してないね、その顔」
『亮人だって、いきなり間に入ってきたじゃない』
「あれは二人を止めるためだよ」
『お兄ちゃんが怪我したから、もうしないよ』
「それならいいけど」
『私はそもそも、シャーリーが変なことしなければ――』
『氷華お姉ちゃんが先に攻撃したんじゃん!』
「はい、そこまで。喧嘩するなら二人ともお手伝い禁止」
『『それは嫌!』』
「……本当に息ぴったりだなぁ」
『『合ってない!』』
今度は否定する言葉まで完全に重なったため、亮人はとうとう堪えきれず笑ってしまった。
昨日まで本気で互いを敵として認識し、少し間違えば命を奪い合っていたとは思えないやり取りだった。もちろん、二人の間にある警戒や対抗心が完全になくなったわけではないのだろうが、少なくとも今すぐ再び殺し合いへ発展するような雰囲気ではなく、それだけでも亮人にとっては十分だった。
それからしばらく、三人は並んで昼食の準備を進めていった。
亮人が魚の下ごしらえをし、氷華は朝食で使った食器を洗いながら必要な調理器具を手渡し、シャーリーは慣れないピーラーを使って野菜の皮を剥いていく。
最初の一本は力加減が分からず、ずいぶん歪な形になってしまったが、二本目、三本目と続けるうちに少しずつ扱い方を覚えたらしい。最後の一本を剥き終えた頃には、得意げな顔で亮人へ野菜を差し出していた。
『お兄ちゃん、見て!』
「どれどれ」
『今度は綺麗にできた!』
「本当だ。最初よりかなり上手くなったね」
『えへへ……』
褒められたシャーリーは目を細め、背後の尻尾を勢いよく振りながら嬉しそうに笑う。
「ありがとう。かなり助かったよ」
『……もう一回言って』
「え?」
『もう一回』
「ありがとう?」
『うん!』
たった一言をもう一度聞いただけなのに、シャーリーは先ほど以上に嬉しそうな笑顔を見せた。
「そんなに嬉しい?」
『だって、お兄ちゃんの役に立ったんだよ?』
シャーリーにとっては、それだけで十分なことらしい。
亮人は一瞬だけ目を丸くしたあと、柔らかく笑った。
「じゃあ、これからも色々お願いしようかな」
『いっぱいお願いして!』
「頼りにしてるよ」
『うん!』
そんなシャーリーを見ていると、昨日まで一人で亮人を探し続けていた少女だということを忘れそうになる。
身体にはまだいくつもの傷が残り、左肩も満足に上がらない。それでも、今こうして慣れない料理を手伝い、ほんの少し褒められただけで嬉しそうに笑っている姿を見ると、少なくともこの家にいる間くらいは、もう何かに追われるような思いをしなくてもいい場所であってほしいと亮人は思った。
ふと、包丁を動かしていた手が止まる。
右側には氷華。
左側にはシャーリー。
そして自分は、その真ん中で料理をしている。
以前なら、この場所に立っているのは亮人一人だけだった。自分で食材を切り、自分で火にかけ、自分で皿を並べ、それを不便だとも寂しいとも思わず、そういうものだと受け入れてきた。
けれど、一度こうして誰かと並んでしまうと、以前の静かなキッチンが、ひどく寂しい場所だったようにも思えてくる。
「……本当の家族って、こんな感じなのかな」
気づけば、その言葉が自然と口から零れていた。
氷華が亮人を見る。
シャーリーも野菜を持ったまま手を止めた。
「俺、あんまり分からないんだよね。こういうの」
『亮人……』
「ん?」
『……なんでもない』
「そう?」
氷華はそれ以上何も言わなかった。
亮人の両親について、氷華はこの二週間の中で少しだけ聞いている。
立派すぎるほど大きな家がありながら、仕事ばかりでほとんど帰ってこない両親。幼い頃に亮人が大きな事故へ遭った時ですら、二人は見舞いへ来なかったということも。
亮人には、家族がいないわけではない。
けれど、家族と一緒に食卓を囲み、誰かに送り出され、帰れば誰かに迎えられるという、世間では当たり前とされる時間をほとんど知らずに育ってきた。
だからこそ、料理をしている時にあれほど楽しそうな顔をする理由も、二週間前から玄関を開けるたび自然と「ただいま」と言うようになった理由も、氷華には少しずつ分かり始めていた。
『お兄ちゃん』
「ん?」
亮人が振り向いた瞬間、背中へ小さな衝撃があった。
「シャーリー?」
背後から抱きつかれたらしい。
シャーリーは何も言わないまま亮人の背中へ頬を寄せ、腕を回している。
「どうしたの?」
『なんでもない』
「さっき氷華にも同じこと言われたんだけど」
『じゃあシャーリーも、なんでもない』
「変なの」
『変でいいもん』
シャーリーは亮人の背中へ頬を寄せたまま、聞こえるか聞こえないかという小さな声で呟いた。
『もう、お兄ちゃんを一人にしないから』
「え?」
『なんでもない!』
「今何か言った?」
『言ってないよ』
どうやら亮人には聞き取れなかったらしい。
けれど、すぐ近くにいた氷華には、その言葉がはっきりと届いていた。
昨日までは亮人を巡り、本気で殺してやるとまで思った相手だった。
今だって完全に受け入れたわけではないし、亮人へ必要以上に身体を寄せているのを見れば腹も立つ。
それでも、シャーリーが亮人を大切に思っていることだけは、もう疑う余地がなかった。
『シャーリー』
『なぁに?』
『いつまで亮人に抱きついてるの。まだ野菜残ってるわよ』
『えぇー』
『仕事途中でしょう』
『今いいところだったのに』
『知らないわよ』
氷華はそう言いながらシャーリーの頭へ手を置き、軽く撫でるようにして亮人から引き離した。
『……氷華お姉ちゃん、今シャーリーの頭撫でた』
『撫でてない』
『撫でたよ』
『気のせいよ』
『じゃあ、もっと気のせいして』
『意味分からないわよ、それ!』
「仲良いなぁ」
『『良くない!』』
「はいはい」
亮人は笑いながらフライパンを軽く振る。
食材が油の上で跳ね、香ばしい匂いがキッチンいっぱいに広がっていく。そんな中、氷華とシャーリーは一度だけ顔を見合わせ、どちらからともなく小さく笑った。
亮人もまた、その様子を横目に見ながら自然と口元を緩める。
もしかすると。
こういう、何でもない時間こそ。
自分がずっと欲しかったものなのかもしれなかった。
◇
「よし、これで完成」
作った昼食を保存容器へ詰め終えた亮人は、それぞれを冷蔵庫へ並べながら二人へ振り返った。
「お昼になったら温めて食べてね」
『分かったわ』
『今食べてもいい?』
「シャーリー」
『なに?』
「朝ごはん食べ終わってから、まだそんなに時間経ってないよ」
『でも、いい匂いするよ?』
「お昼まで我慢」
『はぁーい……』
シャーリーは分かりやすく肩を落とし、尻尾までしょんぼりと下げる。
「学校から帰ったら晩ご飯も作るから」
『ほんと!?』
「本当」
途端に顔が上がった。
『じゃあ我慢する!』
「切り替え早いなぁ」
『何か言った?』
「なんでもないよ」
亮人はエプロンを外すと、一度二階へ戻って制服へ着替え、学校へ持っていく鞄を手に玄関へ向かった。
靴を履き、扉へ手を伸ばしたところで、何かを思い出したように振り返る。
「あ、そうだ」
『何?』
後ろからついてきていた氷華が首を傾げる。
亮人はポケットから小さな紙を一枚取り出し、それを氷華へ差し出した。
「これ持ってて」
『何これ?』
「俺の携帯番号」
『携帯……』
「何かあった時に電話できるようにね。家で困ったことがあったり、シャーリーの肩の具合が急に悪くなったりしたら連絡して」
『学校にいてもいいの?』
「もちろん」
『分かったわ』
「シャーリーも、何かあったら氷華に言ってね」
『うん!』
「あと」
『まだあるの?』
亮人は少しだけ真剣な顔で二人を見比べた。
「俺がいない間、喧嘩しないこと」
『…………』
『…………』
返事がない。
「その沈黙やめてくれない?」
『私はしないわよ』
『氷華お姉ちゃんが攻撃してこなかったら、シャーリーもしない』
『どうして私が先にやる前提なのよ』
『昨日そうだったもん』
『あれはあなたが亮人に――』
「もう不安なんだけど」
学校へ行く前から頭が痛くなりそうだった。
亮人は小さくため息を吐きながら、もう一度念を押す。
「とにかく、殺し合いは禁止。家も壊さない。いい?」
『分かってるわよ』
『分かった!』
「……本当に頼むよ」
まだ心配は残ったものの、これ以上言っていても学校へ遅れてしまう。
亮人は苦笑しながら玄関の扉を開いた。
「それじゃ、行ってきます」
『行ってらっしゃい、亮人』
『行ってらっしゃい、お兄ちゃん!』
「ニャァ」
「…………」
一歩外へ踏み出そうとしていた亮人の足が、そこで止まった。
『亮人?』
「いや……」
亮人は振り返る。
玄関には氷華がいて、その隣にはシャーリーが立ち、少し後ろからクロまでこちらを見ている。
三人とも、自分が出ていくところを見送っている。
ただそれだけの光景だった。
けれど、亮人はしばらくその場から動けなかった。
「なんでもない」
もう一度、少しだけ笑う。
「行ってきます」
『ええ。行ってらっしゃい』
『早く帰ってきてね、お兄ちゃん!』
「分かったよ」
今度こそ玄関を出て、扉を閉める。
亮人はいつもと同じ道を、いつもと同じ学校へ向かって歩き始めた。
見慣れた住宅街も。
朝の冷たい空気も。
通学路を行き交う人々も。
昨日までと何一つ変わっていないはずだった。
それなのに今日は、不思議なくらい足取りが軽い。
――行ってらっしゃい。
世の中の多くの人にとっては、毎朝当たり前のように交わされる言葉なのだろう。
学校へ向かう子供へ、仕事へ出ていく家族へ、またこの家へ帰ってくることを疑うこともなく、何気なく送り出すための挨拶。
けれど亮人にとって、それは当たり前ではなかった。
以前までの家なら、朝に玄関の扉を閉めればそれで終わりだった。見送ってくれる人はいないし、何時に戻ってくるのかを気にする人もいない。学校から帰り、玄関を開けたところで、誰かが「おかえり」と返してくれることもなかった。
だからこそ今になって、亮人は初めて気づき始める。
「……そっか」
帰る場所というのは、ただ自分の荷物が置いてあり、眠るための建物があるというだけではないのかもしれない。
帰れば「おかえり」と声を掛けてくれる人がいて、外へ出る時には「行ってらっしゃい」と送り出してくれる誰かがいる。
今日もきっと戻ってくるのだと、それを疑いもせず待っていてくれる人がいる。
そして自分自身もまた、そこへ帰りたいと思える。
「家族って……こういうことなのかな」
まだ、はっきりとは分からない。
氷華もシャーリーも人間ではなく、血が繋がっているわけでもない。出会ってからの時間だって短く、互いについて知らないことの方が圧倒的に多い。
それでも、さっき閉めた玄関の向こうに二人と一匹がいると思うだけで、胸の奥にはこれまで知らなかった柔らかな感覚が残っている。
学校が終われば帰ろう。
帰ったら晩ご飯を作って。
今日あったことを話して。
きっとシャーリーは何かを食べたいと言い、氷華はそれを呆れながら止め、クロは好き勝手に二人の間を歩き回るのだろう。
そんな光景が、ごく自然に頭へ浮かんできた。
「……悪くないな」
亮人は小さく笑った。
いつもならただ学校へ向かうだけだった道の先に、今はもう一つ、帰ってくる場所がある。
そのことを確かめるように、亮人はほんの少しだけ歩く速度を上げた。




