波乱万丈Ⅲ
「おはよう、礼火」
「おはよう、亮人」
昨日のように始業時間ぎりぎりで教室へ駆け込むこともなく、今日は珍しく余裕を持って登校できた亮人は、自分の席へ鞄を置くより先に、すでに席についていた幼馴染へ声を掛けた。
礼火もいつもの調子で挨拶を返したものの、その視線はすぐ亮人の顔から右腕へと落ちていく。
「それより、腕の傷は大丈夫なの?」
「ああ、これ?」
亮人は何でもないことのように右腕を少し持ち上げた。
制服の袖の下には、昨日シャーリーに噛まれた傷がまだはっきりと残っている。思っていた以上に牙が深く食い込んでいたらしく、昨夜シャワーを浴びた時には傷へ湯が触れるたびにかなり痛んだものの、幸い出血そのものはすでに止まっており、今では腕を動かした時に鈍い痛みが走る程度には落ち着いていた。
「大丈夫だよ。まだ少し痛いけどね」
「本当に?」
「本当、本当」
「……昨日、すごい血だったんだからね」
礼火はそう言いながらも、まだ完全には安心できていないらしく、右腕から視線を外そうとしない。
無理もなかった。
普通の人間である礼火にはシャーリーの姿が見えていないのだから、昨日の出来事は彼女からすれば理解不能なものだったはずだ。突然実験室の窓が砕け散り、その直後、亮人が何もない空間へ向かって腕を突き出したと思ったら、まるで巨大な獣にでも噛まれたような傷が突然現れ、大量の血が流れ始めたのである。
どう考えても不自然だった。
「でも、変だよね」
「何が?」
「窓」
礼火は昨日シャーリーが飛び込んできた窓の方へ視線を向けた。
割れた部分にはすでに応急処置がされているものの、まだ新しいガラスへ交換されてはいない。
「石が飛んできたわけでもないのに、いきなり割れたでしょう? それに亮人の傷も、ガラスで切った感じじゃなかったし」
「…………」
しまった、と亮人は内心で思った。
腕の傷について聞かれた程度なら適当に誤魔化せたかもしれないのに、礼火はすでに昨日の出来事そのものへ疑問を持ち始めている。
「……そうだね。不思議だよね」
「今、間があった」
「気のせいじゃない?」
「気のせいじゃない」
即答だった。
亮人は何となく居心地が悪くなり、礼火から視線を逸らす。
昔からそうだったが、礼火は妙なところで亮人の変化に敏感だった。
小学生の頃、一度だけ礼火に隠し事をしたことがある。大した内容ではなかったはずなのに、その時も最初は適当に誤魔化せると思っていたものの、毎日のように「何隠してるの?」と聞かれ続け、結局最後には全部白状させられた。
そして今、亮人にはあの頃とは比較にならないほど大きな秘密がある。
自宅には雪女とウェアウルフが暮らしている。
しかも昨日、そのウェアウルフが学校の窓を破壊して飛び込んできたうえ、礼火へ襲いかかろうとしている。
そんなことを説明したところで、まともに信じてもらえるとは思えなかった。
「ねぇ、亮人」
「はい」
「また私に何か隠してるでしょ?」
「…………」
怖いくらい鋭かった。
礼火は亮人の机へ両手をつくと、逃げ道を塞ぐように身体を寄せ、じっと亮人の目を覗き込んでくる。
「隠してないよ」
「嘘」
「即答なんだ」
「だって亮人、嘘つく時ちょっとだけ目逸らすもん」
「そんな癖あった?」
「あるよ。昔から」
「知らなかった……」
自分自身でさえ気づいていなかった癖を、礼火は昔から知っていたらしい。
「ほら。何隠してるの?」
「何も隠してないって」
「本当に?」
「本当」
「じゃあ――」
礼火は制服のポケットからスマートフォンを取り出した。
「お父さんたちに電話しようかな」
「なんでそうなるの!?」
そこだけは、亮人も反射的に声を上げた。
画面には見覚えのある名前が表示されている。
亮人の母親――相馬由維。
「ちょっと待って。本当にそれだけはやめよう」
「じゃあ教えて」
「交渉材料が強すぎない?」
「亮人が素直に教えてくれたら使わないよ?」
礼火はにこにこと笑っている。
けれど、親指は通話ボタンのすぐ上に置かれており、押そうと思えばいつでも押せる位置だった。
「相変わらず強引だなぁ……」
「幼馴染ですから」
「その肩書き便利に使いすぎじゃない?」
「早く白状する」
礼火がさらに顔を近づけてくる。
「…………」
近い。
随分と近い。
小学生の頃から見慣れている顔のはずなのに、こうして真正面から迫られると、どういうわけかいつもとは少し違って見えた。
昔なら、これほど距離が近くても気にならなかったはずなのに。
しかも。
今朝。
『お兄ちゃん、おはよう!』
そう言って無邪気に抱きついてきたシャーリーの姿が、なぜか頭の中をよぎった。
「…………」
「亮人?」
「なんでもない」
「顔赤くなってない?」
「なってないよ」
「なってる」
また即答された。
「ますます怪しいんだけど」
「…………」
このままでは完全に礼火のペースだ。
昨日の窓のこと。
傷のこと。
雪ちゃんのこと。
このまま質問され続ければ、いずれどこかで余計なことを口にしてしまう気がする。
なら、少しくらい反撃してもいいだろう。
亮人は小さく息を吐くと、礼火の頭へ片手を置いた。
「え?」
突然のことに、礼火の目が僅かに見開かれる。
亮人はそのまま少しだけ顔を近づけた。
「そんなに知りたいなら――」
礼火の耳元へ顔を寄せる。
「教えてあげようか?」
「――――っ!?」
普段よりほんの少し声を低くし、耳元で囁いただけだった。
亮人としては、それ以上の意味など何もない。
ただ、いつも自分ばかり追い詰められているため、少しくらい礼火を困らせてみようと思っただけだった。
ところが。
「…………」
礼火の動きが完全に止まった。
数秒前まで亮人を問い詰めていた勢いは綺麗に消え、顔がみるみる赤くなっていく。
頬だけではない。
耳まで真っ赤だった。
「……礼火?」
「…………」
「どうしたの?」
返事がない。
礼火は俯いたまま、ゆっくりと亮人から一歩離れた。
「何か変なことした?」
「…………少し」
「え?」
「少しだけ、離れてて……」
「…………」
今度は亮人が固まった。
つい先ほどまで自分から顔を近づけてきていた礼火に、突然距離を取られてしまったのである。
何がそこまでまずかったのか分からず、亮人は困惑したまま周囲を見回す。
すると、二人のやり取りを何気なく見ていたらしいクラスメイトたちまで、妙に気まずそうな顔をして視線を逸らしていた。
「……ごめん」
何が悪かったのか、正直なところ亮人にはよく分からない。
けれど、礼火が本気で嫌がっているのなら、これ以上近づく理由もなかった。
「俺、向こう行ってるよ」
「…………うん」
亮人はそのまま自分の席へ戻った。
朝から何をやっているんだろう。
そんなことを考えながら授業を受けたものの、一時間目が始まっても、二時間目になっても、どうにも礼火のことが気になってしまう。
普段なら教師の話を聞きながら別のことを考える程度で済むのだが、今日は時折礼火の方へ目を向けてしまい、そのたびに彼女がこちらを見ていないことを確認しては、また黒板へ視線を戻していた。
そんなことを何度も繰り返しているうちに、午前中の授業はいつも以上に頭へ入らなくなっていた。
そして、四時間目が終わった頃。
「亮人」
「ん?」
聞き慣れた声に振り返る。
そこには礼火が立っていた。
朝のような顔の赤みはもう消えているものの、どこか不安そうな表情を浮かべ、いつもの彼女らしくないほど遠慮がちにこちらを見ている。
「さっきは……ごめんね」
「さっき?」
「いきなり、あっちに行ってって言ったこと」
「ああ」
亮人はようやく何のことか理解した。
「……怒った?」
「怒ってないよ」
「本当に?」
「そんなことで怒らないって」
亮人が笑って答えると、礼火はようやく少し安心したらしく、肩の力を抜きながら小さく息を吐いた。
「よかった……」
「でも」
「え?」
「礼火も、あんまり無理に秘密を聞こうとするのはなしね」
「うっ」
「俺にだって話したくないことくらいあるんだから」
「でも幼馴染なのに」
「幼馴染でも」
「…………」
礼火は少し不満そうに唇を尖らせた。
「礼火にだって、俺に言ってないことくらいあるでしょ?」
「…………あるけど」
「ほら」
「でも、それとこれとは――」
「同じ」
「むぅ……」
礼火が頬を膨らませる。
亮人はそんな彼女を見ながら、少しだけ声を柔らかくした。
「だから、お互い何でも全部知ってないといけないわけじゃないと思うよ。話したくないこともあるだろうし、今は言えないことだってあると思うし」
「…………」
「話したくなった時に話せばいいんじゃないかな。その方が、たぶんお互い楽でしょ?」
礼火はすぐには答えなかった。
昔から亮人のことをよく知っているからこそ、何かを隠されていること自体が寂しいのかもしれない。
それでも亮人の言葉を否定することはできなかったらしく、しばらく考えた末に小さく頷いた。
「……分かった」
「ありがとう」
「でも」
「まだあるの?」
礼火は今度こそ、冗談でも追及するような口調でもなく、まっすぐ亮人を見る。
「亮人が困ってる時は教えてね」
「…………」
「秘密にしててもいいし、私に全部話さなくてもいい。でも、一人で何でも抱え込むのは駄目だから」
その声音には、朝のような好奇心ではなく、純粋な心配が滲んでいた。
「昔からそういうところあるでしょう?」
「……そうかな」
「あるよ。困ってても大丈夫って言うし、怪我しても大丈夫って言うし、自分で何とかしようとする」
「…………」
亮人は少しだけ言葉に詰まった。
自分ではそれほど意識したことがない。
一人でやれるなら一人でやる。
頼る必要がなければ頼らない。
ただそれだけのつもりだったが、幼い頃からずっとそばにいる礼火には、別のものに見えているらしい。
「……善処します」
「そこは『分かった』って言うところだよ」
「分かったよ」
「よろしい」
満足したのか、礼火の顔にようやくいつもの笑顔が戻った。
「それじゃあ、お昼食べに行こう」
「もうそんな時間か」
「早く行かないと食堂混んじゃうよ」
「はいはい」
礼火が先に歩き始める。
亮人もその後を追おうと席を立ったところで、礼火がふいに振り返った。
「ほら」
「ん?」
差し出された手を見て、亮人は首を傾げる。
「…………何?」
「行くよ」
「いや、歩けばいいんじゃない?」
「いいから」
礼火は亮人が理解するのを待たず、その手を取った。
「礼火」
「何?」
「なんで手繋ぐの?」
「幼馴染だから?」
「疑問形なんだ」
「いいでしょ、別に」
「まあ、いいけど」
「なら行こう」
半ば礼火に引っ張られるようにして、亮人は教室を出た。
昼休みに入った校舎の廊下には多くの生徒が行き交っている。
その中を並んで歩きながら、亮人はふと握られている手へ視線を落とした。
昔から礼火とは一緒にいることが多かった。
朝の登校も。
学校から帰る時も。
小学生の頃には花火大会へ一緒に行ったこともあるし、互いの家を行き来したことだって一度や二度ではない。
幼い頃なら手を繋ぐことだって、何度もあったはずだ。
だから、こうして近くにいること自体は何も珍しくない。
それなのに。
「…………」
今日はなぜか、少しだけ違って感じた。
手のひらから伝わってくる温かさも。
すぐ隣を歩く礼火の横顔も。
昔と何も変わっていないはずなのに、自分の方が何かを意識し始めてしまったような、妙な感覚が残っている。
「亮人?」
「何?」
「また考え事?」
「ちょっとだけ」
「変なこと?」
「どうだろうね」
「また隠し事?」
「さっき約束したばっかりだよね?」
「冗談だよ」
礼火が笑う。
その表情を見れば、亮人も自然と笑ってしまう。
「今日、何食べる?」
「日替わりかな」
「また?」
「安いから」
「亮人、お金持ちなのにそういうところだけ庶民的だよね」
「俺がお金持ってるわけじゃないよ。親が持ってるだけ」
「そういうもの?」
「そういうもの」
二人はそのまま食堂へ向かって歩いていく。
昼休みの賑やかな廊下の中でも、会話が途切れることはなかった。
昔一緒に行った花火大会のこと。
小学校の頃、二人揃って先生に怒られたこと。
帰り道で寄り道をして、暗くなってから慌てて帰った日のこと。
今さら思い出して何になるのか分からないような、どうでもいい話ばかりだった。
けれど、そんな何気ない思い出を二人で話している時間が、亮人には不思議と心地よかった。
昨日までと同じ学校。
昔から変わらない幼馴染。
いつもの昼休み。
それなのに、ほんの少しずつ何かが変わり始めている。
家へ帰れば、氷華とシャーリーがいる。
きっとシャーリーは亮人が作っておいた昼食を嬉しそうに食べ、氷華はそんな彼女へ何かと文句を言いながらも面倒を見ているのだろう。
そして学校には、昔から変わらず礼火がいる。
朝には少し気まずくなり、それでも昼になればこうして同じように隣を歩いている。
ほんの少し前まで、何も変わらないと思っていた日常だった。
けれど実際には、亮人が気づかないところで少しずつ人との距離が変わり、家の中も、学校で過ごす時間も、以前とは違う形へ動き始めている。
その変化がこの先どこへ繋がっていくのか。
今の亮人には、まだ分からない。
ただ。
家へ帰れば待っている者がいて、学校では昔から変わらず隣を歩いてくれる人がいる。
そのこと自体は、決して悪いものではないと思えた。
亮人はもう一度隣へ視線を向ける。
「礼火」
「何?」
「いや……なんでもない」
「今度は本当?」
「本当だよ」
「怪しい」
「もうその話やめようよ」
「ふふっ」
楽しそうに笑う礼火につられ、亮人も笑う。
二人は昼休みの食堂へ向かって歩いていった。




