波乱万丈Ⅳ
「ただいま。二人とも、ちゃんといる?」
『いるわよ。そんな確認してどうしたの?』
玄関を開けるなりリビングへ向かって声を掛けると、間を置かず氷華の返事が返ってきた。その声を聞いた亮人は、靴を脱ぎながら小さく息を吐く。
「いや、なんとなく気になっただけ」
朝、学校へ向かう前に「俺がいない間は喧嘩しないこと」と二人へ念を押していたものの、正直に言えば授業中も少しだけ心配していた。
何しろ昨日は、氷華とシャーリーが家の前で本気の殺し合い寸前までいったのだ。帰宅してみれば庭が凍りつき、壁には大穴が開いている――そんな光景さえ想像していたのだが、幸いにも家の中は朝出た時と何も変わっていない。
どうやら、本当に仲良く留守番してくれていたらしい。
「それで晩ご飯なんだけど、洋食と和食と中華ならどれがいい?」
『シャーリーは洋食!』
尋ねた瞬間、シャーリーが元気よく手を挙げた。
『私も洋食でいいわ。今日のお昼は和食だったし、夜まで同じ系統じゃなくてもいいでしょう?』
「じゃあ洋食で決まりだね」
『それと――』
氷華はそこで一度言葉を切ると、先ほどまでより少しだけ柔らかい声で続けた。
『お昼、美味しかったわよ。本当に亮人の料理って外れがないわね』
「それはどうも」
『……亮人と会えてよかったって、少し思ったわ』
「少しなんだ」
『そういうところを拾わなくていいのよ』
ぷい、と氷華は顔を逸らしたものの、白い髪の隙間から覗く耳はわずかに赤くなっている。
亮人はそれを見て笑いそうになったが、からかえば余計に機嫌を損ねそうなので、素直に礼だけを返すことにした。
「でも、ありがとう。そう言ってもらえるなら作った甲斐があるよ」
『…………』
今度は氷華から返事がなかった。
ただ、嫌がっているわけではないことくらい、二週間も一緒に暮らしていれば亮人にも分かるようになっていた。
「じゃあ、二人は先にお風呂入ってきたら? 俺はその間にご飯作るから」
『そうね』
「氷華が先の方がいいよね」
『ええ。その方が助かるわ』
一緒に暮らし始めてから、亮人はいくつか雪女である氷華特有の性質を知った。
温かい料理や飲み物は普通に口にできるし、料理の時に火を使うことにも問題はない。しかし、身体そのものを長時間温められることには弱いらしく、人間にとって心地よい湯加減でも氷華には熱すぎる場合がある。
一度だけ亮人が先に風呂へ入った日、まだ十分に温かかった湯船へ氷華が何も確認せず足を入れ、驚いて飛び出してきたことがあった。
幸い大事には至らなかったものの、それ以来、相馬家では氷華が最初に風呂へ入ることが暗黙の決まりになっている。
『じゃあ先に入ってくるわね』
「どうぞ」
氷華はバスタオルと、以前亮人と一緒に買いに行った寝間着を抱え、浴室へ向かって歩き始める。
すると、その後ろを当然のようにシャーリーがついていった。
『氷華お姉ちゃん』
『何?』
『シャーリーも一緒に入りたい』
『私はかなりぬるいお湯しか無理だけど?』
『大丈夫!』
『あなた、絶対途中で寒いって言うでしょ』
『言わないもん』
『言うわよ』
二人が浴室の前で言い合っているのを聞きながら、亮人は少し考えた。
「それなら今度さ、家のプール使おうか」
『プール!?』
シャーリーが勢いよく振り返る。
「地下にあるんだよ」
『家にプールあるの!?』
「あるよ」
『泳ぎたい! お兄ちゃんと一緒に泳ぎたい!』
「いいよ。俺もしばらく泳いでないしね」
『亮人……』
「ん?」
嬉しそうなシャーリーとは対照的に、氷華は少し呆れたような表情を浮かべていた。
『学校もあるし、料理も洗濯もしてるんでしょう? 私たちが居候してるせいで家事も増えてるのに、そこまでしなくていいのよ』
「別に二人のためだけじゃないよ」
『え?』
「俺も久しぶりに誰かと泳ぎたいから。一人でプール入っても大して楽しくないし、どうせなら三人で遊んだ方がいいでしょ?」
亮人が何でもないことのように笑うと、シャーリーは途端に顔を輝かせた。
『お兄ちゃん!』
「うわっ」
そのまま勢いよく抱きついてきたシャーリーを受け止め、亮人は転ばないよう身体を支える。
『絶対一緒に遊ぼうね!』
「分かった、分かった。楽しみにしてるよ」
そう言いながら金色の髪を軽く撫でてやると、シャーリーはますます嬉しそうに目を細めた。
ただ、その光景を横から見ていた氷華だけは、一瞬だけ面白くなさそうに頬を膨らませている。
もっとも、その表情もすぐに消えた。
『私はもう入ってくるから。シャーリーも自分の寝間着くらい準備しておきなさいよ』
『はーい』
氷華が浴室へ入っていくのを見送ったあと、シャーリーはすぐに亮人へ振り返った。
『じゃあ今日は、お兄ちゃんの服を着て寝ようかな』
「なんで俺の?」
『お兄ちゃんのだから』
「全然説明になってないんだけど」
『駄目?』
少しだけ寂しそうな顔を向けられ、亮人は弱ったように頭を掻いた。
「昔着てた寝間着なら、まだ残ってると思うよ」
『本当!? それ着る!』
「じゃああとで出してあげる」
『やった!』
「その代わり、晩ご飯作るの手伝ってくれたら、味見させてあげるよ」
『する! 絶対する!』
『亮人ー』
浴室の方から氷華の声が飛んできた。
『聞こえてるからねー』
「聞こえてた?」
『全部聞こえてたわよ』
「じゃあ氷華にもあとで味見してもらうよ」
『当然』
ガチャ、と浴室の扉が閉まり、ほどなくしてシャワーの音が聞こえ始める。
「じゃあ俺たちは料理を始めようか」
『シャーリーも手伝う!』
「その前に寝間着の準備したら?」
『そうだった!』
思い出したように声を上げると、シャーリーは全速力で階段へ向かった。
「走ると危ないよ!」
『大丈夫!』
元気のいい返事が返ってきた、その数秒後。
ガタン、ゴトン、と二階から妙に大きな音が響いた。
「…………全然大丈夫じゃなさそうだなぁ」
『お兄ちゃーん!』
「はい?」
『昔の寝間着ってどこにあるのー!?』
「教えてなかったね……」
亮人は苦笑しながら包丁をまな板へ置いた。
「あとで俺が出すから、シャーリーは先に降りてきて野菜の皮むきお願い!」
『はーい!』
今度は階段を降りてくる慌ただしい足音が聞こえてくる。
昨日まで傷だらけになりながら自分を探していた少女とは思えないほど元気だったが、亮人にとってはむしろ、その元気さが嬉しかった。
少なくとも今は、この家の中で安心して騒ぐことができている。
それだけで十分だった。
「元気なのはいいことだよね」
誰に聞かせるでもなく呟き、戻ってきたシャーリーと入れ替わるように亮人は二階へ向かった。
自室へ行くには浴室の前を通らなければならない。
中から聞こえてくるシャワーの音に、亮人はほんの少しだけ歩幅を速めた。
もちろん扉の向こうが見えるわけではない。
それでも、中に氷華がいると意識してしまうだけで妙に落ち着かなくなる。
「……駄目駄目。普通に寝間着取りに行くだけだから」
自分へ言い聞かせるように呟き、そのまま足早に自室へ入る。
「うわぁ……やっぱり」
部屋の中は予想通り少し散らかっていた。
シャーリーが自分で寝間着を探そうとして、あちこち開けたのだろう。引き出しの一部が開いたままになり、綺麗に畳んであった服も少し乱れている。
「まあ、この程度ならすぐ戻せるか」
亮人は窓とは反対側にある押し入れを開け、その奥を探していく。
「確かこの辺だったはず……あった」
昔使っていた寝間着が四着ほど見つかった。
今の亮人にはさすがに小さすぎるが、シャーリーならちょうどいいだろう。
四着を抱えて一階へ戻ると、キッチンで皮むきを始めていたシャーリーがすぐにこちらへ駆け寄ってきた。
「シャーリー、持ってきたよ」
『ほんと!?』
「この中から好きなの選んで」
『うーん……』
床へ並べられた寝間着を前に、シャーリーは予想以上に真剣な顔になった。
「そんなに悩む?」
『大事だよ』
「そうなの?」
『だって、お兄ちゃんの服だもん』
「昔のだけどね」
『それでも大事!』
あまりに真剣なので、亮人は少し笑ってしまう。
「じゃあ俺が選ぼうか?」
『選んで!』
「なら……これかな」
亮人が手に取ったのは、赤と白を基調にしたフード付きの寝間着だった。ところどころに金色の刺繍が入っており、今のシャーリーには一番似合いそうに思える。
「金色も入ってるし、シャーリーにはこれが一番似合うと思う」
『…………』
シャーリーが黙り込んだ。
そのあまりに真剣な沈黙に、亮人まで少し不安になる。
「……気に入らなかった?」
『違う』
「じゃあ?」
『嬉しい』
シャーリーは寝間着を見つめたまま、小さく笑った。
『お兄ちゃんが、シャーリーに似合うって考えて選んでくれたから』
「そっか」
その言葉を聞いて、亮人も安心したように笑う。
「ならよかった」
「ニャァ」
そこへ二階からクロが降りてきた。
何やら白い布を口に咥えたままシャーリーの足元へ歩いてくると、その場へぽとりと落とす。
「クロ? 何持ってきたんだ?」
亮人が拾い上げてみると、それは昔使っていた大きめの白いTシャツだった。
「これ、俺の昔のTシャツじゃん」
『これにする!』
「え?」
『今日はこれ着て寝る!』
「俺が選んだ方は?」
『明日着る!』
「……まあいいけど」
『クロありがとう!』
シャーリーは嬉しそうにしゃがみ込み、クロの前脚を両手で握って握手のように軽く振った。
『さすがお兄ちゃんの家族だね。シャーリーが欲しいもの分かってる!』
「ニャァ」
「…………」
亮人は自分が選んだ寝間着と、クロが持ってきたTシャツを交互に見る。
「なんかクロに負けた気分なんだけど」
『お兄ちゃんのも嬉しいよ?』
「本当?」
『明日絶対着る!』
「ならいいか」
そう言って笑い、亮人は寝間着をまとめる。
「じゃあ料理戻ろう」
『はーい!』
キッチンへ戻ったシャーリーは、朝と同じように野菜の皮むきを再開した。
まだ慣れているとは言えないものの、朝よりは明らかに上達していて、亮人も安心して任せられるようになっている。
『できた!』
「ありがとう。じゃあこっちは俺が切るね」
受け取った野菜を手際よく切り分け、そのまま熱したフライパンへ入れると、ジュウッという香ばしい音とともに食欲を誘う匂いがキッチンへ広がった。
「サラダは最後に作るから、シャーリーはもう休んでいいよ」
『まだ手伝えるよ?』
「肩もまだ治ってないし、今日はここまで。無理して悪化したら困るからね」
『……分かった』
「ありがとう。助かったよ」
『うん!』
褒められて満足したのか、シャーリーは素直にリビングへ戻ると、先ほどからソファで寛いでいたクロの隣へ座った。
『クロ、ちょっと眠い』
「ニャ」
そのまま身体を横たえると、数分もしないうちに静かな寝息が聞こえ始める。
「寝るの早いなぁ……」
亮人は料理を続けながら、ちらりとリビングへ視線を向けた。
シャーリーもクロも、何の警戒もなく安心し切った顔で眠っている。
昨日まで、シャーリーは一人で亮人を探しながら傷だらけになっていた。
そんな少女が、今では自分の家のソファで眠っている。
「……よかった」
思わず、そんな言葉が口から漏れた。
事情のすべてを知っているわけではない。
なぜシャーリーがあれほどの傷を負っていたのかも、まだ聞けていない。
それでも今、彼女が安心して眠れていることだけは間違いなかった。
「美味しいもの作らないとな」
亮人は気合いを入れ直し、野菜へ軽く塩を振って味を整えていく。
以前は一人で食べるために作っていた料理が、今は誰かを喜ばせるためのものになっている。
氷華が「美味しい」と言ってくれる顔や、シャーリーが嬉しそうに食べる姿を思い浮かべるだけで、不思議なくらい料理が楽しかった。
『本当に亮人は手際がいいわよね』
「ん?」
背後から聞こえた声に、亮人は手を止めず返事をする。
『いっそのこと、どこかのレストランでバイトでもすればいいのに』
風呂から上がった氷華が、リビングへ繋がる扉のところに立っていた。
「確かに考えたことはあるよ。料理は好きだし、やってみたい気持ちもあるけどね」
『ならやればいいじゃない』
「でも、バイト始めたら夜に家にいない日も増えるでしょ?」
『まあ……そうね』
「それなら、こうやってみんなで一緒にご飯を食べてる方が楽しいかな。せっかく帰ったら誰かがいる生活になったんだし、俺はこっちの方が好きだよ」
そう言いながら、亮人は氷華の方へ顔を向けた。
「…………」
そこで言葉を失った。
『……何よ、その顔』
「いや……その……」
『人の顔を見るなり黙られると、さすがに気になるんだけど』
亮人が固まった理由は単純だった。
風呂から出てきたばかりの氷華は、まだ寝間着へ着替えておらず、大きめのバスタオルを巻いたまま立っていた。
腰まで伸びる白い髪はまだ少し濡れたままで、普段よりしっとりと肩へ流れている。風呂上がりのせいか頬にも僅かに赤みがあり、いつもの氷華とは少し違う雰囲気に見えた。
「……氷華」
『何?』
「寝間着は?」
『持って行ったわよ』
「なら着ようか」
『今はちょっと身体を冷ましたいの』
「……なるほど」
理由は分かる。
雪女である氷華にとって、人間と同じように風呂へ入るだけでも身体にはかなりの熱が籠もるのだろう。
分かるのだが。
「できれば俺の前では早めに着てくれると助かるかな」
『どうして?』
「俺も一応、十七歳の男だからね。普通に困るんだよ」
亮人はそう答え、逃げるように視線をフライパンへ戻した。
適当に誤魔化してしまえばいいのかもしれないが、亮人は昔からこういう場面で器用な嘘をつける性格ではない。
『……ふふ』
「何?」
『亮人らしいと思って』
「どういう意味?」
『そのままよ』
氷華は少し楽しそうに笑うと、扉のところから離れて亮人の隣まで歩いてきた。
『あとどれくらいでできるの?』
「もう少し。野菜が終わったらハンバーグを焼いて、最後にサラダ作ったら完成かな」
『じゃあ味見』
「聞こえてたもんね」
『シャーリーだけなんてずるいもの』
「はいはい」
亮人は小皿へ炒めた野菜を少し取り分ける。
「一応まだ熱いから気をつけて」
『料理の熱くらいなら平気よ』
「そうだったね」
氷華は一口食べると、ゆっくり味わうように目を細めた。
『……美味しい』
「よかった」
『本当に外れないわね』
「褒めすぎだよ」
『本当のことを言ってるだけよ』
そんな何でもない会話を交わしているうちに、亮人は氷華との距離がいつもより近いことに気づいた。
「氷華」
『何?』
「近くない?」
『そう?』
「そうだよ」
『嫌なの?』
「…………」
簡単に答えられない質問だった。
「嫌じゃないけど」
『だったらいいじゃない』
「そういうものなのかな」
『そういうものよ』
氷華は楽しそうに笑ったあと、ふと表情を少し真面目なものへ変えた。
『ねぇ、亮人』
「うん?」
『私のこと、どう思ってる?』
「……急だね」
『いいから』
亮人はフライパンの火を少し弱めながら、すぐには答えず考えた。
氷華は家族だ。
少なくとも、それは間違いない。
けれど最近では、その一言だけですべてを説明するのも少し違うような気がしていた。
「大切な人、かな」
『…………』
「家族っていうのも間違ってないと思う。でも、それだけって言われると最近ちょっと違うような気もするんだよね」
『違う?』
「俺にもまだ分からないよ。ただ、氷華が家にいてくれると安心するし、帰った時に姿が見えなかったら気になると思う。それに、一緒にご飯を食べる時間も好きだから」
『…………』
「だから、大切なのは間違いないよ」
『……そう』
氷華は少しだけ視線を逸らした。
今度は亮人が尋ねる。
「氷華は?」
『え?』
「俺のこと。俺だけ答えるのは不公平でしょ」
『聞き返すのね……』
氷華もしばらく言葉を探すように黙った。
『最初は、亮人が私たち妖魔を見ることのできる人間だから、そばにいた』
「それは聞いたね」
『でも今は違う』
氷華は再び亮人へ視線を戻した。
『妖魔に必要な人間だからじゃなくて……亮人だから一緒にいたい』
「…………」
『亮人が帰ってくるのを待つのも、料理してるところを見るのも、一緒に食卓を囲むのも好き。だから私にとっても、亮人は大切な人よ』
「そっか。ありがとう」
『……それだけ?』
「え?」
『もういい』
「なんで怒るの?」
『怒ってない!』
やはり難しい。
そう思って苦笑した、その直後だった。
氷華が一歩だけ距離を縮める。
今度は亮人も下がらなかった。
初めて出会った日にも、二人は一度だけ唇を重ねている。
あの時は妖魔として必要な理由があると言われた。
けれど今は違う。
何かを確かめる必要があるわけでもない。
『亮人』
「うん」
『……嫌だったら言って』
「分かった」
ほんの僅かに距離が縮まり、二人の唇が短く触れた。
すぐに離れたにもかかわらず、亮人の心臓はさっきまでとは比べものにならないほど速くなっている。
『顔、赤い』
「氷華もね」
『私は風呂上がりだから』
「それ便利だね」
『うるさい』
二人とも思わず小さく笑った。
けれど、一度縮まった距離は完全には戻らなかった。
『……亮人』
「何?」
『もう一回していい?』
亮人はほんの少し迷ったあと、正直に答える。
「……嫌じゃないよ」
『そっか』
もう一度だけ、短く唇が重なる。
初めて出会った日の口づけとは違う。
妖魔だからでも、何かの決まりだからでもない。
ただ、互いにそうしたいと思っただけだった。
氷華は少し離れると、先ほどより穏やかな表情で亮人を見た。
『私ね、今まで妖魔として誰かを必要とすることと、その人と一緒にいたいって思うことは同じだと思ってた』
「違った?」
『たぶんね。亮人と暮らして、少し分かった気がする』
「…………」
『だから、これからもここにいたい』
どこか不安そうな氷華に、亮人は思わず首を傾げた。
「今さら何言ってるの?」
『え?』
「もう氷華の家でもあるでしょ。名前までつけたのに、今さら勝手に出ていかれたら俺が困るよ」
『…………』
氷華はしばらく何も言わず、やがて俯きながら小さく呟いた。
『……本当に、そういうところずるい』
「今日それ何回目?」
『だって……もっと好きになるじゃない』
「…………」
亮人の動きが止まった。
そして氷華も、自分が何を言ったのか少し遅れて理解したらしい。
『…………あ』
「氷華?」
『ち、違っ、今のは――』
ピンポーン。
絶妙なタイミングで家中にインターホンの音が響いた。
ソファを見ると、シャーリーとクロは相変わらず気持ちよさそうに眠っている。
『…………誰よ』
「声怖いよ」
『今じゃなくてもいいでしょ』
「いや、出ないわけにもいかないって」
亮人が時計を見ると、時刻は午後八時半を回っていた。
「こんな時間に誰だろう?」
『放っておけば?』
「二回目鳴ったら出るよ」
その言葉を待っていたように。
ピンポーン。
「ほら」
『…………』
「そんな不満そうな顔しないでよ」
亮人はコンロの火を一度止めた。
「料理もあるし、ちょうどいいから少し落ち着こう」
『亮人は落ち着きたかったの?』
「それは秘密」
『逃げた』
「はいはい」
苦笑しながらキッチンを離れ、玄関へ向かう。
歩いているうちに、先ほどまで速かった鼓動も少しずつ落ち着いてきた。
「はい、今開けます」
鍵を外して扉を開く。
「…………え?」
「亮人……」
そこに立っていた人物を見て、亮人は思わず目を丸くした。
「礼火?」
家の前に立っていたのは、幼馴染の奈星礼火だった。
しかも普段学校へ持っていく鞄ではなく、一泊程度なら十分な荷物が入りそうな大きなバッグを抱えている。
「どうしたの、こんな時間に」
「その……」
礼火は少し言いづらそうに視線を落とした。
「突然なのは分かってるんだけど」
「うん」
「今日……泊めてもらえないかな」
「…………」
今度は別の意味で、亮人の思考が止まった。
「泊まる?」
「うん」
「今日?」
「今日」
「うちに?」
「……他に誰の家があるの?」
「そうだよね」
どうやら聞き間違いではないらしい。
「何かあった?」
「ちょっと……家に帰りづらくて」
「そっか」
礼火の表情を見る限り、今ここで根掘り葉掘り聞くべきではなさそうだった。
「とりあえず入って」
「いいの?」
「こんな時間に一人で帰すわけにもいかないでしょ」
「……ありがとう」
礼火が安心したように笑った。
その笑顔を見て、亮人も自然に頷いた――のだが。
そこで重大な問題に気づいた。
この家には氷華がいる。
シャーリーもいる。
しかし礼火には、その二人の姿も声も認識できない。
しかも、氷華とはほんの数分前まで非常に説明しづらい雰囲気になっていたところだ。
『亮人ー?』
案の定、家の奥から氷華の声が聞こえてきた。
『誰だったの?』
「…………」
当然、礼火には聞こえていない。
「亮人?」
「礼火」
「何?」
「一応、先に言っておくけど」
「うん?」
亮人は玄関から家の奥を見た。
礼火には見えない二人の住人がいる。
そのうち一人は、数分前まで亮人とかなり特別な空気になっていた。
そしてもう一人は、昨日この幼馴染へ本気で牙を向けたばかりである。
「今日の夜さ」
「うん」
「かなり大変なことになるかもしれない」
「何が?」
「それが俺にもまだ分からないんだよね」
「……?」
礼火は意味が分からないというように首を傾げた。
そんな彼女を家へ招き入れながら、亮人は今日という一日がまだ全然終わっていなかったことを、嫌というほど実感し始めていた。




