波乱万丈Ⅴ★
「それで礼火は、どうしてそんな大きな鞄を持って俺のところに来たの?」
突然の来訪から少し経ち、亮人は礼火をリビングのソファへ座らせていた。
つい先ほどまでクロの隣で眠っていたシャーリーは、礼火の姿を見るなり露骨に機嫌を悪くし、氷華もまた笑顔こそ崩さなかったものの、どこか警戒するような視線を向けていたため、今は二人とも二階へ行ってもらっている。
もちろん素直に納得したわけではないらしく、階段を上がる直前まで何度もこちらを振り返っていたので、今夜は少し注意した方がよさそうだった。
一方のクロは、そんな二人とは正反対だった。
「ニャァ」
「ふふっ、クロは相変わらずだね」
礼火の足元まで歩いていくと、甘えるように頬を擦りつけている。
礼火も慣れた様子で頭を撫でており、少なくともクロだけは彼女の宿泊を歓迎しているらしい。
「それで?」
「あのね……」
礼火は膝の上に置いた大きな鞄へ視線を落とし、少し言いづらそうに指先を絡めた。
「お母さんと喧嘩しちゃって」
「おばさんと?」
「うん。それで私も腹が立って、『もう知らない! 亮人の家に泊まってくる!』って言って、そのまま家を出てきちゃったの」
「勢いだったんだ」
「……完全に勢い」
礼火は小さく肩を落とす。
「巻き込んじゃってごめんね」
「別にいいよ。礼火とおばさんの喧嘩なら、どうせそんなに長引かないでしょ」
「どうしてそう言い切れるの?」
「十年以上見てるからね」
亮人は苦笑する。
「長くても一週間くらいじゃない? 落ち着くまでなら、うちにいていいよ」
「本当に?」
「部屋なら余ってるし、一人増えたところで困らないから」
「ありがとう、亮人!」
先ほどまで不安そうだった礼火の表情がぱっと明るくなる。
その笑顔を見れば、断る理由など最初からなかった。
問題は――礼火ではない。
「……なぁ、クロ」
「ニャ?」
「大丈夫だと思う?」
「ニャァ……」
「やっぱりそう思う?」
「ねぇ、何の話?」
「こっちの話」
「さっきから怪しいんだけど」
礼火を泊めること自体は何の問題もない。
しかし、この家には礼火には見えない二人の妖魔が暮らしている。
しかもシャーリーは昨日、礼火へ本気で牙を向けたばかりだ。
さらに今夜は、礼火が来る直前まで氷華と少しばかり気まずい――いや、気まずいというより、互いを意識してしまうような雰囲気になっていた。
そこへ突然、幼馴染が泊まりに来た。
氷華の機嫌が良いはずもない。
「亮人?」
「ん?」
「さっきからすごく心配そうな顔してるけど……やっぱり泊まっちゃ駄目だった?」
礼火の声が少し弱くなる。
断られると思ったのか、その顔は今にも泣きそうだった。
「いや、礼火が悪いわけじゃないよ」
「じゃあ何?」
「それが説明しづらいんだよね」
家に雪女とウェアウルフが住んでいて、その二人が君に嫉妬している。
そんなことを言えるはずがないし、仮に説明したところで信じてもらえるとも思えない。
亮人は少し考えたあと、礼火へ顔を近づけて声を落とした。
「今日はあんまり俺の近くにいない方がいいかもしれない」
「……なんで?」
「命の安全のため?」
「なんで疑問形なの!?」
「しーっ!」
思わず声を上げかけた礼火の口を、亮人は慌てて手で塞ぐ。
「むぐっ!?」
「本当に今日は刺激しない方がいいから」
「…………?」
「この家、最近ちょっと色々あるんだよ」
「色々って?」
「何かに憑かれてる……みたいな」
完全な嘘ではない。
正確には、亮人自身が二人の妖魔からかなり気に入られているだけなのだが。
「…………」
礼火は恐る恐るリビングを見回した。
もちろん、彼女には何も見えない。
けれど。
『お兄ちゃん』
「――っ!」
聞き慣れた声が背後から響いた。
亮人がゆっくり振り返ると、ソファの後ろにはいつの間にかシャーリーが立っており、その隣には氷華までいる。
『さっきから、その人とずいぶん仲良さそうだね?』
『亮人。私もちょっと聞きたいことがあるんだけど』
二人とも表情だけなら笑っている。
ただし、目はまったく笑っていなかった。
「ひっ……」
「亮人?」
「何でもない!」
礼火には二人が見えていないため、突然亮人が青ざめただけに見えたのだろう。
『お兄ちゃん、その人ってやっぱり大切なの?』
『昨日も言ってたわよね。大切な幼馴染だって』
非常にまずい。
このままでは何を言っても火に油を注ぐ気がする。
「礼火!」
「な、なに?」
「そういえば晩ご飯は?」
「もう食べてきたけど」
「じゃあお風呂入る?」
「いいの?」
「もちろん! すぐ準備するから!」
「なんでそんなに必死なの……?」
「気にしないで!」
少なくとも浴室へ入ってもらえば、その間だけは安全だろう。
たぶん。
きっと。
そう信じたい。
『…………』
『…………』
二階へ戻っていく氷華とシャーリーを恐る恐る見送ってから、亮人は大きく息を吐いた。
「……怖い」
「だから、さっきから何が怖いの?」
「礼火」
「何?」
「今夜は本当に頑張ろうね」
「何を頑張るの!?」
事情を知らない礼火からしてみれば、恐怖心だけを一方的に煽られているようなものだった。
礼火を浴室へ案内したあと、亮人は深いため息をつきながらキッチンへ戻った。
「……疲れた」
まだ夜は始まったばかりだというのに、すでに一日分の精神力を使い切ったような気分だった。
とはいえ、料理を途中で放り出すわけにもいかない。
フライパンを温め直し、準備していたハンバーグを焼きながら野菜を盛りつけ、最後にスープを温める。
「よし、できた」
完成した料理を食卓へ並べ、二階へ声を掛ける。
「二人とも、ご飯できたよ」
『…………』
『…………』
降りてきた氷華とシャーリーは、どちらも無言だった。
三人で「いただきます」と言って食事を始めたものの、いつもなら賑やかなはずの食卓には、食器の触れ合う音と浴室から微かに響くシャワーの音しかない。
普段なら氷華は料理について何かしら感想を口にし、シャーリーは一口食べるたびに嬉しそうな顔をする。
今日は、そのどちらもなかった。
「……ハンバーグ、どう?」
『美味しいわよ』
「よかった」
『…………』
「シャーリーは?」
『美味しい』
「そ、そっか」
会話が続かない。
亮人は何度か話題を探そうとしたものの、二人から漂ってくる「今は話しかけるな」という空気に押され、そのまま黙々と食事を続けるしかなかった。
やがて。
『ごちそうさま』
氷華が淡々と席を立つ。
『……ごちそうさま』
シャーリーも続いた。
二人とも自分たちが使った食器だけはきちんと台所へ運んでいくものの、その表情は明らかに不機嫌だった。
「二人とも、その……」
『ふん』
氷華は顔を背ける。
『お兄ちゃんなんて知らない』
シャーリーまで頬を膨らませた。
「…………」
二人はそのまま二階へ上がっていった。
静かになったリビングで、亮人だけが取り残される。
「俺、何したんだろ……」
理由は分かっている。
けれど。
ほんの少し前まで、この家には自分しかいなかった。
誰かに嫌われることもなければ、誰かの機嫌を気にする必要もなかったし、食卓で気まずい思いをすることだってなかった。
それなのに今は、自分の帰りを待ってくれる相手がいて、料理を食べてくれる人がいて、名前を呼べば返事をしてくれる。
だからこそ、二人から距離を置かれるだけで、思っていた以上に胸が痛んだ。
「……嫌われたくないな」
自然と、そんな言葉が口から漏れた。
「亮人?」
「ん?」
振り返ると、風呂から上がった礼火が寝間着姿でリビングへ戻ってきていた。
「どうしたの? なんか元気ないけど」
「……何でもないよ」
「本当に?」
「うん」
礼火は心配そうに亮人の顔を覗き込む。
「相談できることなら、いつでも言ってね」
「礼火に?」
「何、その言い方」
「冗談だよ」
「もう……」
礼火は濡れた髪をタオルで拭きながらソファへ腰を下ろした。
「私はいつでも亮人の味方だから」
「…………」
「昔からそうでしょう?」
「そうだね」
「だから、一人で何でも抱え込まないでよ」
礼火はそう言って、少しだけ笑った。
いつもと同じ幼馴染。
そう思っていたはずなのに、今日は何となく違って見える。
朝、亮人が少し近づいただけで顔を真っ赤にしていた礼火と、今こうして本気で自分を心配している礼火。
十年以上一緒にいるのに、自分が知らない表情がまだあった。
「礼火」
「何?」
「ありがとう」
「急にどうしたの?」
「言いたくなっただけ」
「変なの」
「よく言われるよ」
礼火がテレビをつけると、画面にはニュース番組が映った。
「やっぱりニュース見るんだ」
「亮人だってそうじゃん」
「まあね」
「あとで少し話そうよ」
「うん」
「秘密を無理に聞いたりしないから」
「それなら安心」
「そこは信用してよ」
礼火が頬を膨らませる。
その様子に、亮人も自然と笑った。
「じゃあ俺も風呂入ってくる」
「いってらっしゃい」
「風呂に行くだけだけどね」
そう言い残して、亮人は浴室へ向かった。
温かいシャワーを頭から浴びながら、亮人はようやく一人になれたことに安堵した。
「はぁ……」
目を閉じると、先ほどの礼火の表情が浮かぶ。
「いつでも味方、か」
礼火とは十年以上の付き合いになる。
小さい頃から一緒に遊び、喧嘩もして、笑ったり怒ったりしながら育ってきた。
だからこそ、礼火のことなら自分はある程度分かっているつもりだった。
けれど最近になって、その認識が少しだけ揺らいでいる。
「礼火も……変わったのかな」
昔なら、妹のような存在。
あるいは家族に近い幼馴染。
それだけだった。
ところが最近は、ほんの一瞬ではあるものの、一人の女の子として礼火を意識することが増えてきたように思う。
「変わってないの、俺だけだったりして」
『そんなことないよ』
「――っ!?」
突然聞こえた声に、亮人は反射的に振り返った。
「シャーリー!?」
声は浴室の外、脱衣所から聞こえている。
『お兄ちゃんは、そのままでいいよ』
「びっくりした……」
亮人はシャワーを止めた。
「どうしたの?」
『ちょっと話したくなったの』
「話?」
『うん』
少し間を置いて。
『昔も今も、お兄ちゃんはお兄ちゃんだから』
「…………」
『シャーリーは、変わらないお兄ちゃんが好きだよ』
「ありがとう」
先ほどまで怒っていた時とは違う、いつもの柔らかい声だった。
「シャーリー」
『なぁに?』
「さっきはごめんね」
『…………』
「礼火が急に来たから、二人のこと後回しにしちゃった」
『……ちょっと寂しかった』
「うん」
『お兄ちゃん取られるのかと思った』
「取られないよ」
『本当?』
「礼火は礼火だし、シャーリーはシャーリーだから」
亮人は少し考えてから続ける。
「誰かが増えたからって、シャーリーを大切にしなくなるわけじゃないよ。氷華だって同じ」
『…………』
「だから安心して」
『……そっか』
シャーリーの声が少し明るくなる。
『じゃあ許してあげる』
「ありがとう」
『でも』
「ん?」
『シャーリーの方がいっぱい構ってね』
「そこは公平にします」
『むぅ』
「それは譲れない」
少しだけ、いつものシャーリーに戻った。
それで亮人も安心した。
けれど次に聞こえた声は、先ほどよりずっと静かだった。
『ねぇ、お兄ちゃん』
「何?」
『どうして、そんなにシャーリーたちに優しいの?』
「……急だね」
『ずっと気になってた』
声が少し沈む。
『シャーリーたちは、人間じゃないのに』
「…………」
『普通の人間なら、もっと怖がると思う』
亮人はすぐには答えなかった。
浴室には、蛇口から落ちる水の音だけが小さく響いている。
その言葉を聞いて、亮人はふとシャーリーの身体に残る傷を思い出した。
「シャーリー」
『うん』
「俺と会う前に、妖魔が見える人間と会ったことある?」
『…………』
返事はなかった。
けれど、その沈黙だけで十分だった。
「その人に、何かされた?」
『……うん』
シャーリーの声が僅かに震えた。
『アメリカにいた時、お兄ちゃんを探して空港へ向かってたの』
少しずつ、シャーリーは過去を話し始める。
『その途中で一人だけ会った。シャーリーのことが見える人間に』
「…………」
『最初は、ちょっと嬉しかったんだ』
亮人と同じように、妖魔を認識できる人間。
だから、もしかしたら優しい人なのかもしれない。
シャーリーはそう思ったのだろう。
『でも違った』
声が低くなる。
『その人、シャーリーを捕まえようとした』
「捕まえる?」
『うん。逃げたら、妖魔を追わせてきたの』
「妖魔を……?」
『すごく強いやつ』
亮人の眉がわずかに動く。
「どんな妖魔だった?」
『狐』
「狐?」
『大きな狐で、尻尾がいっぱいあった』
亮人には心当たりがない。
けれど、それがシャーリーをここまで追ってきた九尾であることを、彼はまだ知らなかった。
『ずっと追いかけられた。どれだけ逃げても、諦めてくれなかった』
シャーリーの声が次第に苦しそうになる。
『それで、逃げ切れなくなって戦ったの』
「…………」
『でも勝てなかった』
一度、息を呑む音がした。
『左肩をやられたのも、その時』
亮人は昨日見たシャーリーの傷を思い出した。
服を着るのも難しく、今も満足に腕を上げられない。
「それで今も左腕が……」
『うん』
シャーリーは小さく答えた。
『戦っても勝てなかったから、近くにあった川へ飛び込んだの。そのまま流されながら逃げて、なんとかあいつを撒いた』
「…………」
『それから空港まで行った』
傷だらけの身体で。
それでも。
亮人に会うために。
『飛行機に乗れた時は、すごく安心したよ』
そこだけは、少し声が明るくなる。
『日本に行けるって思ったから』
「シャーリー……」
『お兄ちゃんに会えるって思ったら、やっと少し安心できたの』
普通の人間にはシャーリーの姿が見えない。
航空券を買ったわけでも、正規の手続きをしたわけでもなく、人の流れに紛れながらそのまま機内へ入り込んだのだろう。
『それにね』
「ん?」
『飛行機の中に、すっごくいい匂いのご飯があったの!』
「……ご飯?」
『うん!』
突然、声が弾む。
『みんなの前に置いてあったから、一つくらいいいかなって思って食べた!』
「…………」
亮人は数秒黙った。
「それ、機内食じゃない?」
『きないしょく?』
「飛行機の中で、お客さんに出されるご飯」
『そうなんだ! すっごく美味しかったよ!』
「いや、シャーリー」
嫌な予感がした。
「それ、自分の分として貰ったわけじゃないよね?」
『うん! 誰もシャーリーのこと見えてなかったから、余ってそうなの食べた!』
「それ、完全に盗み食いじゃん」
『盗んでないよ? その場で食べたもん』
「そういう意味じゃないんだよなぁ……」
思わずため息が漏れる。
とはいえ、本気で叱る気にはなれなかった。
人間社会の常識をほとんど知らないうえ、傷を負った状態で長い距離を逃げ続けていたのだ。
空腹のまま機内へ乗り込み、目の前に食べ物があれば手を伸ばしてしまうのも無理はない。
「今度から、人のご飯を勝手に食べるのは禁止ね」
『はーい』
「返事軽いなぁ」
『でも、お兄ちゃんのご飯の方がずっと美味しいよ』
「そういうこと言われると怒れないんだけど」
『えへへ』
少しだけ、シャーリーの声に笑いが戻った。
けれど亮人は、そのまま笑うことができなかった。
「…………」
胸の奥に、ゆっくりと熱いものが広がっていく。
怒りだった。
シャーリーはただ、自分に会おうとしていただけだ。
それなのに捕まえられそうになり、逃げれば妖魔を差し向けられ、最後には今も残るほど深い傷まで負わされた。
「……ふざけるなよ」
『お兄ちゃん?』
気づけば、声に出ていた。
「そいつ、なんでそこまで……」
『…………』
「シャーリーは俺に会いに来ようとしてただけなんだろ。それなのに、なんでそこまで傷つける必要があるんだよ」
自分でも驚くほど低い声が出た。
これまで両親以外の人間へ、ここまで強い怒りを抱いたことはほとんどない。
けれど今は。
シャーリーを傷つけた。
その事実だけで、知らない誰かに対して腹の底から怒りが湧いてくる。
「許せない」
『お兄ちゃん』
「もしそいつが俺の前に来たら――」
『駄目』
「…………」
『そんな怖い声出さないで』
シャーリーの声が、今にも泣きそうに揺れた。
『シャーリーは大丈夫だから』
「でも」
『もう大丈夫なの』
一度言葉を切り。
『お兄ちゃんに会えたから』
「…………」
『だから、お兄ちゃんまで怖くならないで』
小さく息を吸う音がした。
『優しいお兄ちゃんのままでいて』
「…………」
『シャーリーも、氷華お姉ちゃんも……そんなお兄ちゃんが好きだから』
亮人はしばらく何も言えなかった。
怒りが消えたわけではない。
けれど今、この怒りをぶつけるべき相手は目の前にはいない。
それよりも、シャーリーを安心させる方がずっと大事だった。
「……分かった」
『本当?』
「うん」
『よかった』
「シャーリー」
『なぁに?』
「もう一人で逃げなくていいからね」
『…………』
「何があったのか全部知らなくても、今はここにいていい。俺もいるし、氷華もいる。クロもいる」
亮人は少しだけ笑った。
「ここは、シャーリーの家でもあるんだから」
『…………っ』
しばらく返事はなかった。
代わりに、脱衣所の向こうから小さな嗚咽が聞こえる。
『……うん』
「泣いてる?」
『泣いてない』
「声で分かるよ」
『泣いてないもん……』
「分かった。そういうことにしておく」
『……うん』
亮人はその場から動かず、シャーリーが落ち着くまで扉越しに話を続けた。
ほんの少し前まで、この家に自分以外の誰かがいる生活など想像したこともなかった。
今は違う。
氷華がいて。
シャーリーがいて。
クロがいる。
そして、誰かが傷ついたと聞けば、自分のことのように腹が立つ。
誰かが泣けば、どうにかして安心させてやりたいと思う。
もしかすると、家族というものは、ただ一緒に暮らすことではないのかもしれない。
大切な誰かが傷ついた時に、その痛みを自分のことのように感じ、その相手を守りたいと思えること。
少なくとも亮人にとっては、それが今まで知らなかった「家族」というものに一番近い気がした。
「シャーリー」
『なぁに?』
「絶対に守るから」
『…………』
「もう同じような目には遭わせない。何があっても、今度は一人で逃げなくていいから」
その言葉を聞いたあと、脱衣所の向こうはしばらく静かだった。
返事がないことを不思議に思いながらも、亮人は急かさなかった。シャーリーがどんな気持ちで日本まで来たのか、そのすべてを理解できるとは思っていないし、傷ついた時間をたった数日の優しさだけで消せるとも考えていない。
それでも、少なくともこれから先は一人ではないのだと、それだけは何度でも伝えようと思っていた。
『……うん』
ようやく返ってきた声はまだ少し震えていたものの、先ほどまでより穏やかだった。
「じゃあ、今日はもうゆっくり休もう。俺もそろそろ上がるから」
『…………』
「シャーリー?」
返事の代わりに、脱衣所側から小さな物音がした。
少しして浴室の扉がほんの僅かに開き、その隙間から黄金色の髪と狼の耳がひょこりと覗く。
「どうしたの?」
『その……お兄ちゃん』
「うん?」
いつもの勢いがない。
シャーリーは扉の向こうに半分隠れたまま、少し恥ずかしそうに視線を泳がせていた。
『シャーリーも、一緒に入っていい?』
「え?」
亮人の動きが止まる。
「いやいや、待って。さすがにそれは……」
『駄目?』
「駄目っていうか……」
どう答えるのが正しいのか分からず、亮人は困ったように眉を下げた。
シャーリーは自分よりずっと幼く見え、普段から『お兄ちゃん』と呼んで無邪気に慕ってくる。亮人にとっても、すでに彼女は異性として意識する相手というより、放っておけば何をしでかすか分からない手のかかる妹のような存在になりつつあった。
とはいえ、一緒に風呂へ入るとなれば話は別である。
「一緒に入るのは、さすがにどうなんだろうなぁ……」
『シャーリー、変なことしないよ?』
「そういう問題じゃないんだよ」
『でも……』
シャーリーの声が少しだけ弱くなる。
『お兄ちゃんと一緒なら、安心するの』
「…………」
その一言を聞いた瞬間、亮人は続けようとしていた言葉を飲み込んだ。
つい先ほど聞いたばかりだった。
妖魔を見ることのできる人間に捕まりかけたこと。
逃げれば九尾に追われ、左肩へ今も残るほど深い傷を負わされたこと。
それでも亮人を探すことだけは諦めず、傷だらけのまま日本まで来たこと。
そんな少女が、自分のそばなら安心できると言っている。
単純に人間の常識だけを理由に突き放す気にはなれなかった。
「……分かったよ」
『ほんと!?』
シャーリーの表情が一気に明るくなる。
「ただし、本当に普通に入るだけだからね。それと長風呂はなし」
『うん!』
「あと滑らないように気をつけること。左肩もまだ治ってないんだから」
『分かった!』
「本当に?」
『ほんと!』
「じゃあおいで」
『はーい!』
嬉しそうな返事とともに扉が開く。
湯気の立ち込める浴室へ入ってきたシャーリーは、先ほどまで泣いていたことなど忘れたような顔で亮人のそばまで来た。
亮人はできるだけいつも通りに振る舞いながら、浴槽の端へ少しだけ場所を空ける。
「ほら。足元滑るからゆっくりね」
『うん』
シャーリーは言われた通り慎重に入り、温かい湯へ身体を沈めると、ほっとしたように息を吐いた。
『……あったかい』
「狼だからお風呂苦手なのかと思ってた」
『嫌いじゃないよ』
「そうなんだ」
『それに、お兄ちゃんと一緒だし』
「それは関係ある?」
『あるよ』
シャーリーは当然だと言わんばかりに頷いた。
『お兄ちゃんの近く、安心するもん』
「…………」
また同じ言葉だった。
ただ甘えているだけではないことが分かってしまったからこそ、亮人も軽く返すことができなかった。
しばらく二人は、湯気の中で何も言わず過ごした。
先ほどまで重たい話をしていたせいか、その沈黙は気まずいものではなく、むしろ張り詰めていたものを少しずつ解いていくような穏やかさがあった。
やがてシャーリーが、湯面を眺めたまま小さく口を開く。
『お兄ちゃん』
「なに?」
『さっき言ったこと、本当?』
「さっき?」
『絶対に守るって』
「ああ」
『シャーリーが妖魔でも?』
「今さら何言ってるんだよ」
亮人は少し笑った。
「妖魔かどうかなんて関係ないだろ。シャーリーはシャーリーなんだから」
『…………』
「それに、俺のことをお兄ちゃんって呼ぶんだったら、勝手にどこかへいなくなったりするなよ」
『お兄ちゃんも?』
「俺も?」
『お兄ちゃんも、シャーリーを置いていかない?』
シャーリーがまっすぐ亮人を見る。
先ほどまで笑っていた琥珀色の瞳には、またほんの少しだけ不安が滲んでいた。
亮人には、彼女がどうしてそこまで「置いていかれること」を恐れているのか、まだすべては分からない。
けれど、それなら何度でも答えればいい。
「ああ」
亮人はシャーリーの頭へ手を置き、黄金色の髪を優しく撫でた。
「置いていかないよ」
『……約束?』
「約束」
『…………』
狼の耳がぴくりと動く。
そのままシャーリーは数秒間、何も言わず亮人を見つめていた。
「どうした?」
『お兄ちゃん』
「うん?」
『ちょっと、目つぶって』
「なんで?」
『いいから』
「また何か企んでない?」
『企んでないもん』
頬を膨らませるシャーリーを見て、亮人は小さく笑った。
「分かった、分かった」
言われるままに目を閉じる。
「これでいい?」
『うん』
すぐ近くで小さく湯が揺れる音がした。
シャーリーが近づいてくる気配。
「シャーリー?」
返事はなかった。
代わりに、唇へほんの一瞬だけ柔らかな感触が触れた。
「――っ!?」
亮人は反射的に目を開いた。
目の前にシャーリーの顔がある。
その距離が近すぎると理解した時には、すでにシャーリーは少しだけ離れており、頬を僅かに赤くしながら嬉しそうに笑っていた。
「え……」
理解が追いつかない。
「い、今……」
『えへへ』
「えへへじゃなくて! なんでキスしたの!?」
『したかったから』
「理由になってないよ!」
『駄目だった?』
「駄目っていうか……」
勢いよく言い返そうとして、亮人は言葉に詰まった。
シャーリーは恋愛的な意味など分かっていないのかもしれない。ただ、自分を大切に思っているから、その気持ちを伝えるためにした。
少なくとも、その瞳を見る限りではそうとしか思えなかった。
『お兄ちゃん、嫌だった?』
「…………」
そんな顔をされると、強く言うこともできない。
「嫌だったわけじゃないけど、こういうことは簡単にするものじゃないんだよ」
『どうして?』
「どうしてって……」
説明しようとしたところで、亮人は頭を抱えたくなった。
人間の恋愛観を、シャーリーがどこまで同じ意味で理解しているのか分からない以上、何から説明すればいいのかも分からない。
『シャーリー、お兄ちゃん好きだよ?』
「っ……」
『だからした』
「……まったく」
あまりにも真っ直ぐな言葉だった。
亮人は困ったように頭を掻く。
「心臓に悪いよ」
『お兄ちゃん、ドキドキしてる?』
「してない」
『してるよ』
「してないって」
『顔赤い』
「風呂だからだよ!」
『さっきまでそんなに赤くなかったよ?』
「うるさいなぁ!」
『えへへ』
楽しそうに笑うシャーリーを見ているうちに、亮人もそれ以上怒る気を失くしてしまった。
「ほんと、手のかかる妹だよ……」
『妹じゃないもん』
「さっき妹でも嬉しいって言ってたじゃん」
『それはそれ。これはこれ』
「どこでそんな言葉覚えたんだよ……」
亮人が呆れたように息を吐いた、その直後だった。
「……?」
胸の奥へ、ごく小さな熱が灯った。
心臓が速くなったという感覚とは明らかに違う。
もっと深いところ。
身体の内側へ何かが流れ込み、自分の中へ溶けていくような、今まで経験したことのない感覚だった。
「……なんだ?」
『お兄ちゃん?』
亮人は胸元へ手を当てる。
ほんの一瞬。
耳の奥で、低い獣の唸り声が響いたような気がした。
次いで、周囲の音が一気に鮮明になる。
すぐ隣にいるシャーリーの呼吸。
湯が浴槽の縁へ小さく触れる音。
脱衣所の向こうにある時計。
家の外を走る車。
遠くを吹き抜けていく風。
普段なら意識しても聞き取れないような音までが、それぞれ別のものとして一斉に亮人の耳へ飛び込んできた。
「……っ」
情報量の多さに思わず顔をしかめる。
しかし、その異常は長く続かなかった。
一度瞬きをした次の瞬間には、先ほどまであれほど近く感じていた音が遠ざかり、いつもの静かな浴室へ戻っている。
『どうしたの?』
「……なんでもない」
『ほんと?』
「うん」
今のは何だったのだろう。
シャーリーとの口づけ。
その直後に起きた感覚の変化。
偶然にしては妙なタイミングだったものの、亮人にはそれ以上を考えるだけの知識がなかった。
「疲れてるのかもね」
『じゃあ、もう出る?』
「そうしようか」
『うん!』
シャーリーは素直に頷き、浴槽から出ようとして一度だけ振り返る。
そして自分の唇へ指先を触れた。
『……えへへ』
「なに笑ってんの?」
『秘密』
「なんだよ、それ」
亮人は呆れながらも、どこか安心したように笑った。
つい先ほどまで泣いていたシャーリーが、今はこうして笑えている。
それだけで十分だった。
この時の亮人は、まだ知らない。
妖魔を認識することのできる人間と、その妖魔との間で交わされた口づけが、ただ気持ちを伝えるだけの行為ではなかったことを。
シャーリーと亮人の間に、新しい繋がりが生まれたことも。
そして一瞬だけ異様なほど鋭くなった聴覚が、偶然でも疲労による錯覚でもなく――ウェアウルフであるシャーリーの力の一端が、亮人の身体へ宿り始めた兆候だったことも。
今はまだ、それを知る者はいなかった。
ただ亮人の胸の奥には、先ほど生まれた小さな熱だけが、消えきらずに僅かに残り続けていた。
そして浴室から上がったあと、亮人にはまだ一つ、今日中に片づけなければならない問題が残っている。
礼火には見えない二人の妖魔と。
その存在を知らないまま、この家へ泊まることになった幼馴染。
今夜がこのまま静かに終わるとは、到底思えなかった。




