波乱万丈Ⅵ
風呂を上がった亮人がリビングへ戻ると、ソファに座っていた礼火がすぐに顔を上げた。
「お風呂、長かったね。あんまり戻ってこないから、途中で寝てるのかと思った」
「さすがに風呂では寝ないよ」
そう答えながら亮人は濡れた髪をタオルで拭き、そのまま礼火の向かい側にあるソファへ腰を下ろした。
温かい湯に浸かったはずなのに、身体に残っているのは心地よい疲労というより、一日の出来事がまとめて押し寄せてきたような重さだった。
朝から学校へ行き、帰宅してからは氷華とのことがあり、突然礼火が泊まりに来ることになり、さらにシャーリーからは、亮人を探すまでの間に何があったのかを聞いた。
そして最後には、シャーリーとの間で起きたばかりの不可解な感覚。
ほんの一瞬とはいえ、普段なら聞こえるはずのない遠くの音まで鮮明に聞き取れたことが、まだ頭の片隅に引っかかっている。
「……疲れた」
「え?」
「いや、本当に今日は色々ありすぎたなって」
亮人は背もたれへ身体を預け、深く息を吐いた。
礼火はそんな亮人をじっと見つめたあと、少し心配そうに眉を下げる。
「顔、結構疲れてるよ?」
「そうかな」
「そうだよ。朝よりずっと疲れて見える」
「お風呂入ったら多少は回復するかと思ったんだけどなぁ」
「長く入りすぎたんじゃないの?」
「それもあるかもね」
実際には、長風呂になった理由を礼火へ説明することはできない。
シャーリーと話していた。
シャーリーと一緒に風呂へ入った。
そのうえ、突然キスまでされ、直後には自分の身体に妙な変化まで起きた。
どこから説明しても、さらに話が複雑になるだけだった。
「まあ、それより礼火」
「なに?」
亮人は少しだけ身体を起こし、改めて礼火を見る。
「今日、うちに泊まるんだよね」
「うん」
「なら、一つだけお願いしておきたいことがあるんだけど」
「お願い?」
「この家で変なことがあったら、すぐ俺を呼んでほしい」
「…………変なこと?」
礼火の表情が僅かに強張った。
「例えば?」
「誰もいないはずのところから音がするとか、物が勝手に動いたように見えるとか……そういうの」
「ちょっと待って」
「うん」
「それ、普通に怖い話だよね?」
「まあ……そう聞こえるよね」
「聞こえるんじゃなくて怖い話だよ!」
礼火は思わず周囲を見回した。
明るいリビング。
綺麗に整えられた家具。
足元ではクロが身体を丸めている。
少なくとも今見えている範囲には、何かおかしなものがあるようには思えない。
けれど亮人は、今までほとんど冗談めかしていた表情を少しだけ引き締めていた。
「最近、俺の家……ちょっと変なんだよ」
「ちょっとって?」
「説明するの難しいんだけどさ」
まさか、普通の人間には見えない雪女とウェアウルフが二階にいるとは言えない。
けれど、礼火からすれば見えない存在がこの家の中を歩いていることには変わりなく、もし氷華やシャーリーが何気なく物へ触れたり、階段を歩いたりすれば、その一部だけが礼火には怪奇現象のように見えてしまう。
それなら最初から、ある程度は心構えをしてもらった方がいい。
「だから、何かおかしいと思ったら一人で確認しに行かないでね。俺を呼んでくれればいいから」
「……亮人は怖くないの?」
「慣れた」
「何に慣れたの!?」
「色々?」
「そこを教えてよ!」
「それはまた今度」
「絶対誤魔化してる……」
礼火は不満そうに頬を膨らませたものの、亮人が今すぐ話すつもりがないことは分かったらしく、それ以上強く追及することはなかった。
ただ。
「でもさ」
「ん?」
「亮人を呼べば大丈夫なの?」
「たぶん」
「たぶんなんだ……」
「少なくとも、俺がいれば話はできると思う」
「話?」
「…………」
「あ」
礼火の目が細くなる。
「今、変なこと言った」
「言った?」
「言ったよ。『話はできる』って」
「気のせいじゃないかな」
「また目逸らした」
「礼火、本当にそういうところ鋭いよね」
「誤魔化さない」
「今日はもう勘弁してよ……」
亮人が本気で疲れたように肩を落とすと、礼火もさすがに追及する気が失せたらしい。
「……分かった」
「ありがとう」
「でも、一人で寝てる時にそんな変なことが起きたら、私たぶん亮人のところ行くからね」
「それは全然いいよ」
「本当に?」
「怖いなら無理して一人でいる必要ないでしょ」
「じゃあ最初から亮人の近くで寝た方が安全なんじゃない?」
「…………」
亮人は一度だけ目を瞬かせた。
「俺の近く?」
「うん。亮人なら、その……家で起きる変なことにも慣れてるんでしょう?」
「まあ」
「だったら、亮人と同じ部屋なら安心できるし」
「確かに、その方が俺も何かあった時すぐ気づけるか」
「でしょ?」
礼火は当然のように頷いた。
亮人も最初は単純に安全面だけを考えていた。
礼火には氷華もシャーリーも見えない。
何かあった場合、すぐそばに自分がいた方が対応しやすい。
そこまで考えたところで。
「…………あ」
「どうしたの?」
亮人の脳裏に、二階にいる二人の姿が浮かんだ。
氷華。
シャーリー。
特にシャーリーは、礼火が自分にとって大切な幼馴染だと説明して、ようやく襲わないと約束してくれたばかりである。
そんな二人が、亮人と礼火が同じ部屋で眠ることを知ったらどう思うのか。
「……ちょっと待って。やっぱり別の部屋でも――」
「駄目」
「即答?」
「今さっき亮人が、怖かったら無理して一人でいなくていいって言った」
「言ったけど」
「それに、何かあったら亮人を呼べって言ったでしょう?」
「そうだね」
「だったら近くにいた方がいいじゃん」
「理屈は通ってるんだよなぁ……」
「じゃあ決まり」
「まだ決定とは――」
「約束ね」
礼火はそう言うと、にこりと笑った。
亮人はしばらく何か言おうとしていたものの、結局うまい反論が思いつかず、天井を見上げながら小さく息を吐く。
「……分かったよ」
「よし」
「ただし本当に寝るだけだからね」
「当たり前でしょ?」
「だよね」
礼火は何を当然のことを言っているのかという顔をしている。
それを見て、亮人も少しだけ安心した。
しかし。
その会話を聞いていたのは、二人だけではなかった。
◇
二階。
氷華の部屋では、白い髪の少女と金色の髪の少女が、揃って扉の向こうへ耳を澄ませていた。
『……聞いた?』
『聞いた』
シャーリーの狼の耳が、分かりやすく下がっている。
『礼火、お兄ちゃんと一緒の部屋で寝るって』
『そうみたいね』
氷華は腕を組みながら、小さく息を吐いた。
以前のように礼火へ敵意を向けているわけではない。
亮人が礼火を大切な幼馴染だと思っていることは、すでに二人とも理解している。
まして礼火には自分たちの姿が見えず、この家で起きることの理由も分からないのだから、亮人の近くにいた方が安心だという判断そのものは間違っていなかった。
それでも。
『……お兄ちゃん、今日ずっと疲れてるよ』
『ええ』
氷華もそこだけは同じことを考えていた。
亮人は朝から学校へ行き、帰宅してからも休む暇がほとんどなかった。
料理を作り、家のことをして、自分たちの相手をし、礼火のことまで気に掛けている。
本人は何でもないような顔をしているが、先ほど浴室から戻ってきた時の表情を見れば、かなり疲れていることくらい二人にも分かった。
『私たちがここに来てから、亮人ってずっと何かしてるわよね』
『ご飯作ってくれる』
『掃除も洗濯もね』
『シャーリーの怪我も気にしてくれる』
『それに学校へも行ってる』
『…………』
シャーリーが少しだけ俯く。
『お兄ちゃん、大丈夫かな』
『だから今日は、私たちの方が少し考えないと駄目ね』
『どうするの?』
氷華は少し考えてから、扉の向こうへ視線を向けた。
『礼火って子が泊まっている間は、なるべく目立つことをしないようにしましょう』
『目立つこと?』
『急に物を動かしたり、近くで大きな音を出したりしない。あの子には私たちが見えないんだから、何も知らないままそんなことが起きたら怖いでしょう?』
『……うん』
『それに、亮人がずっと間に入って私たちのことまで気にしていたら、ちゃんと休めないわ』
氷華の言葉に、シャーリーはしばらく黙っていた。
礼火が亮人の近くにいることを、まったく気にしないわけではない。
けれど、それ以上に。
疲れた顔をしていた亮人の方が気になった。
『分かった』
シャーリーは小さく頷く。
『シャーリーも静かにする』
『ええ。それがいいわ』
『でも……』
『何?』
『お兄ちゃんと一緒にいたい』
『それは私だって同じよ』
『じゃあどうするの?』
氷華は苦笑した。
『今日は我慢するの』
『…………』
『亮人だって人間なんだから、ずっと私たちに付き合っていたら疲れるでしょう? 私たちが一緒に暮らせるのも、亮人が受け入れてくれているからなんだし』
シャーリーは少しだけ考え、それからゆっくり頷いた。
『……お兄ちゃんに、いっぱい助けてもらってるもんね』
『そういうこと』
『なら、シャーリーもお兄ちゃんの役に立ちたい』
『それならまず、ちゃんと休ませてあげることからね』
『うん!』
話がまとまったところで、氷華は立ち上がった。
『一応、亮人にも伝えておきましょう』
『シャーリーも行く』
『静かにね』
『分かってる』
二人は部屋を出る。
礼火には姿が見えない。
そのため氷華は足音を立てないよう床へ足を下ろし、シャーリーにも同じようにするよう目で合図した。
階段を一段ずつ静かに下りていくと、リビングでは亮人と礼火がまだ話している。
氷華はソファの後ろまで近づき、亮人の耳元へ小さく声を掛けた。
『亮人』
「――っ」
突然すぐそばから声を掛けられ、亮人の肩が僅かに跳ねる。
「どうしたの?」
「亮人?」
「あ、いや」
礼火へ不審に思われる前に、亮人は立ち上がった。
「ちょっとトイレ行ってくる」
「うん?」
明らかに不自然な言い訳だったが、亮人はそれ以上説明せずリビングを出る。
氷華とシャーリーもそのあとを追い、礼火から十分離れた廊下まで来たところで亮人が足を止めた。
「それで、どうしたの?」
『さっきの話、聞こえたから』
「…………どこから?」
『一緒の部屋で寝るってところ』
「ああ……」
亮人は思わず頭を掻く。
「やっぱり聞こえてたか」
『別に責めに来たわけじゃないわよ』
「え?」
予想していた反応とは違い、亮人は目を瞬かせた。
氷華はそんな亮人を見て少し不満そうに眉を寄せる。
『何よ。その顔』
「いや、もっと怒られるかと思って」
『私を何だと思ってるのよ』
「氷華」
『そういう意味じゃない!』
「ごめんごめん」
いつものやり取りをしながらも、氷華の表情はすぐ真剣なものへ戻った。
『礼火が怖いなら、亮人の近くにいた方が安心なのは分かるわ。それに私たちの姿が見えない以上、急に音だけ聞こえたりしたら怖いでしょうし』
『だからシャーリーも静かにするよ』
「シャーリーも?」
『うん』
シャーリーは亮人の服の裾を軽く掴んだ。
『お兄ちゃん、今日すごく疲れてるから』
「…………」
『シャーリーたちのことまでずっと気にしてたら、お兄ちゃん休めないでしょ?』
予想していなかった言葉だった。
亮人は二人の顔を交互に見る。
「そんなに疲れて見える?」
『見えるわよ』
『見える』
「二人とも即答なんだ」
『だから今日は、私たちのことは気にしなくていいわ』
「氷華……」
『礼火って子がいる間も、なるべく静かにする。亮人がいちいち間に入らなくてもいいように、私たちなりに気をつけるから』
『シャーリーも頑張る』
「……そっか」
亮人の表情が少しだけ柔らかくなる。
「ありがとう」
『それだけ?』
「じゃあ、ものすごくありがとう」
『なんか軽い』
「本当に嬉しいよ」
亮人が笑うと、氷華も小さく笑った。
シャーリーはそんな二人を見たあと、亮人の服を掴んでいた手へ少しだけ力を入れる。
『でも、お兄ちゃん』
「ん?」
『明日はシャーリーともいっぱい一緒にいてね』
「もちろん」
『約束?』
「約束」
『うん!』
それだけ聞けば満足したのか、シャーリーの尻尾が嬉しそうに揺れ始めた。
『じゃあ戻りましょう、シャーリー』
『はーい』
「本当にありがとうね」
『亮人も今日はちゃんと休むのよ』
「氷華、お母さんみたいだね」
『誰がお母さんよ!』
反射的に声を上げかけた氷華だったが、リビングに礼火がいることを思い出したらしく、途中で慌てて声を落とす。
『もう……』
そのまま二階へ戻ろうとした氷華は、階段へ足を掛けたところでふと動きを止めた。
『…………』
「氷華?」
『何でもないわ』
ほんの少しだけ、悪戯を思いついたように口元を緩める。
先ほどまで礼火を怖がらせないよう静かにしようと話していたはずなのに、最後の最後で少しくらいなら構わないと思ったらしい。
氷華は階段を上り始めると、今度はわざと床板が僅かに軋む程度の足音を立てた。
コツ。
コツ。
静かな家の中だからこそ、その小さな音は一階まで十分に届く。
『氷華お姉ちゃん?』
『これくらいならいいでしょ』
『……いいの?』
『少しくらいよ』
「氷華、さっきと言ってること違わない?」
『知らないわ』
「絶対わざとだよね?」
亮人の呆れた声を背中で聞きながら、氷華はそのまま階段を上っていく。
シャーリーも最初は静かについていこうとしていたが、途中で氷華の真似をするように一度だけ床を踏んだ。
ギシッ。
「シャーリーまで……」
『えへへ』
「礼火、怖がると思うけどなぁ」
亮人は困ったように息を吐きながら、二人の姿が二階へ消えていくのを見送った。
それからリビングへ戻ろうと振り返った、その直後だった。
「亮人……?」
ソファの方から、明らかに怯えた礼火の声が聞こえてきた。




