波乱万丈Ⅶ
「亮人……さっき、階段から足音が聞こえたんだけど……」
天井を見上げたまま青ざめている礼火を前に、亮人は何とも言えない表情を浮かべた。
どうやら氷華たちは、本当にわざと足音を立てて二階へ戻ったらしい。礼火には二人の姿が見えない以上、誰もいないはずの階段が軋み、そこを何かが歩いていったような音だけが聞こえれば怖がるのも当然だった。
――氷華、さすがにちょっと意地悪しすぎじゃないかなぁ。
「だから言ったでしょ。この家、最近ちょっと変なんだって」
「変っていうレベルじゃないよ! クロはそこにいるんでしょう!? じゃあ今の足音、誰なの!?」
「まあまあ、とりあえず落ち着いて」
「これで落ち着ける亮人がおかしいの!」
礼火はソファの上で身体を小さくしながら、何度も階段の方へ視線を向けている。
さすがに可哀想になってきた亮人は、これ以上不安を煽らないよう声を少し柔らかくした。
「大丈夫だよ。少なくとも礼火に危害を加えるつもりはない……と思うから」
「……待って」
「何?」
「どうして危害を加えないって分かるの?」
「…………」
言ってから失敗したことに気づいた。
「亮人」
「はい」
「まさか……さっき、その何かと話してきたの?」
「まあ……そんな感じ?」
「そんな感じって何!?」
完全な嘘ではない。
幽霊ではないものの、普通の人間には見えない氷華とシャーリーと話していたこと自体は間違っていない。
ただ、その事実を今ここで礼火へ説明するわけにもいかなかった。
「まあ、その話はまた今度ということで」
「絶対逃げたよね?」
「今日は色々ありすぎて疲れたんだよ。もう寝よう」
「誤魔化した!」
礼火から追及の声が飛んできたが、亮人は聞こえないふりをしてソファから立ち上がった。
時計を確認すると、時刻は午後十時半を少し回っている。普段の亮人ならまだ寝るには早い時間だが、今日は学校から帰って以降、氷華とのこと、礼火の突然の来訪、そしてシャーリーから聞いた過去まで、短い時間の中で色々なことが起こりすぎた。
肉体的な疲労よりも、精神的な疲れの方が圧倒的に大きい。
「歯磨いてくるけど、礼火も寝る準備する?」
「うん……」
亮人が洗面所へ向かおうとしたところで、後ろから手を掴まれた。
「ん?」
振り返ると、礼火の小さな手が亮人の右手をしっかり握っていた。
「……一人にしないで」
「礼火?」
「だって、さっき誰もいないはずの階段から足音したんだよ? 亮人は平気でも私は怖いの」
先ほどまで強がっていた礼火だったが、握っている手は僅かに震えている。
幼い頃から長く一緒にいるため忘れそうになるものの、礼火は昔から怪談や幽霊の類がそれほど得意ではなかった。
「ごめん。怖がらせるつもりはなかったんだけど」
「亮人がやったわけじゃないでしょう?」
「まあ、そうなんだけどね」
原因を知っている以上、完全に無関係とも言い切れない。
「じゃあ、まだ少し早いけど一緒に部屋行こうか。さっきそういう話にしたし」
「うん……」
そこで礼火が小さな欠伸をした。
「眠い?」
「私、普段このくらいにはもう眠くなるから……」
「相変わらず早寝だね」
「健康的って言ってよ」
「はいはい」
そう答えた直後、礼火は急にその場へしゃがみ込んだ。
「……亮人」
「今度は何?」
「なんか安心したら、急に身体に力入らなくなってきた」
「え?」
礼火は眠そうに目を細めながら、亮人へ向かって両腕を伸ばす。
「運んで」
「急に子供みたいになったね」
「眠いんだから仕方ないでしょ……」
「背負えばいい?」
「なんでもいい……」
どうやら本当に限界らしい。
亮人は苦笑しながら礼火の身体を抱き上げた。
「わっ……」
「嫌なら下ろすけど?」
「……このままでいい」
「了解」
礼火は見た目どおり小柄で、亮人が想像していた以上に軽かった。
そのまま階段を上り始めると、二階へ着く頃には腕の中から規則正しい寝息が聞こえていた。
「もう寝たの?」
「んぅ……」
「早すぎない?」
返事はない。
完全に眠っているらしい。
自室へ入り、ベッドへそっと礼火を寝かせる。
「まったく……昔からこういうところ変わらないなぁ」
亮人が掛け布団を整えようとした、その時だった。
「亮人は……私が守る……から……」
「…………」
寝言だった。
何から守るつもりなのかは分からない。
けれど、昼間にも似たようなことを言われた。
――私はいつでも亮人の味方だから。
幼い頃から礼火は、当たり前のように自分のそばにいた。
あまりにも長く一緒にいたせいで、今まで深く考えたことなどなかったが、思い返してみれば両親との関係で辛かった時も、事故の後に記憶が曖昧になった時も、礼火だけはいつも変わらず接してくれていた。
「俺が守ってもらってたのかもしれないね」
眠っている礼火の頭を軽く撫でる。
当然返事はないものの、寝顔は穏やかで、どこか安心したようにも見えた。
氷華、シャーリー、礼火、そしてクロ。
いつの間にか、自分にとって大切な存在が随分と増えていた。
以前の亮人なら、大切なものが増えることそのものを怖いと思ったかもしれない。
失えば傷つく。
守れなければ後悔する。
それなら、最初から何も持たない方が楽だと、心のどこかで考えていた時期もあった。
けれど今は。
「ちゃんと大切にしないとな」
そう思えるようになった。
それが少しだけ嬉しかった。
『亮人』
「ん?」
聞こえた声に振り返ると、開いた扉のところに氷華とシャーリーが立っていた。
「どうしたの?」
『さっきの話なんだけど』
氷華は部屋へ入りながら、少し申し訳なさそうな表情を浮かべる。
『礼火って子がいる間は、私たちもなるべく静かにすることにしたわ』
「本当?」
『何よ、その驚いた顔』
「いや、ありがたいなと思って」
『それとね。少しでも亮人の負担を減らしたいから、これから亮人が学校へ行ってる間に洗濯とか、私にもできそうな家事をやることにする』
「氷華……」
『何?』
「無理しなくてもいいよ?」
『その言葉、そのまま返すわよ』
「え?」
氷華は少し呆れたように笑った。
『亮人だって無理してるでしょう。学校へ行って、帰ってきたら私たちの料理を作って、掃除や洗濯までやってるじゃない』
『シャーリーも手伝うよ!』
隣にいたシャーリーも元気よく手を挙げた。
『これからもお兄ちゃんのそばにいるのに、ずっとお世話してもらうだけじゃ駄目だもん。シャーリーにもできること教えて?』
「…………」
思ってもいなかった言葉だった。
数日前まで、この家の家事を誰かと分担する未来など想像したこともない。
全部自分でやる。
それが亮人にとって当たり前だった。
「ありがとう」
『それだけ?』
「じゃあ、ものすごくありがとう」
『なんか軽いわね』
「本当に嬉しいよ」
亮人が笑うと、氷華も小さく笑った。
そのまま二人の視線がベッドへ移る。
『…………』
『…………』
「どうしたの?」
ベッドでは礼火が完全に熟睡している。
氷華はしばらくその寝顔を観察したあと、少し不思議そうに首を傾げた。
『寝てるとさらに幼く見えるわね。本当に私たちと同い年なの?』
「ちゃんと十七歳だよ」
『私より年上には見えない……』
シャーリーも礼火のそばへ近づき、眠っている顔を覗き込んだ。
『シャーリーがお姉ちゃんでもいいくらいだよ』
「礼火が起きてる時に言ったら怒られると思うよ」
『言わないもん』
シャーリーは恐る恐る指先を伸ばし、礼火の頬を軽くつついた。
『……ぷにぷに』
「何してるの」
『お兄ちゃんもやってみる?』
「いや、人が寝てる時に何してるのさ」
そう言いながら。
少しだけ気になった。
「…………」
亮人も指先で軽く礼火の頬を押してみる。
「本当だ」
『でしょ?』
『何やってるのよ、二人とも』
呆れていた氷華だったが、礼火の寝顔を見ているうちに自分も気になったのか、そっと頬へ指を伸ばした。
「氷華もやるんじゃん」
『うるさいわね』
柔らかい頬を軽く押され、礼火は眠ったまま僅かに笑った。
『……可愛い』
氷華がぽつりと漏らす。
『こんな子に本気で嫉妬してたなんて、ちょっと馬鹿みたいね』
『でも、お兄ちゃんと一緒に寝るって言ったよ』
『それはまだ気に入らないわ』
「聞こえてるよ」
『聞こえるように言ってるの』
「そうですか」
それでも、少し前まで礼火へ向けていた敵意は、もう氷華の表情から消えていた。
シャーリーも同じらしく、今度は礼火の頭を優しく撫でている。
『この人も、お兄ちゃんの大切な人なんだよね』
「うん」
『…………』
「シャーリー?」
少し考えるように黙ったあと、シャーリーは礼火を見ながら小さく息を吐いた。
『なら……シャーリーも、なるべく仲良くする』
「なるべく?」
『いきなり全部は無理だもん』
「それで十分だよ」
亮人が笑うと、シャーリーも少し照れくさそうに笑った。
『亮人』
「何?」
『今日はその子とゆっくり休みなさい』
「え?」
氷華は部屋を出ようとしながら振り返る。
『あとで私たちの部屋に来る必要もないわよ』
「でも」
『今日くらい、何も考えずに寝たら?』
『お兄ちゃん、すごく疲れた顔してるもん』
「そんなに?」
『してる』
『してるわね』
二人から同時に言われてしまった。
「…………分かったよ」
『よろしい』
「なんか氷華がお母さんみたいになってきたね」
『誰がお母さんよ!』
「お姉ちゃんはお姉ちゃんだよ?」
『シャーリーまでややこしくしない!』
氷華は少し頬を膨らませながら部屋を出ていく。
シャーリーもその後をついていき、扉のところで亮人へ振り返った。
『おやすみ、お兄ちゃん』
「おやすみ、シャーリー」
『明日もご飯楽しみにしてるね』
「任せて」
『えへへ』
シャーリーは手を振り、そのまま扉を閉めた。
部屋が静かになると、ベッドでは礼火が変わらず穏やかな寝息を立てている。
それを見ているうちに、亮人も急に身体が重くなったような感覚を覚えた。
「本当に疲れてたみたいだな」
本来なら礼火をベッドへ寝かせ、自分は同じ部屋に簡易布団でも敷くつもりだった。
けれど、布団を用意しようと立ち上がった瞬間、大きな欠伸が出る。
「……もう駄目だ」
少しだけ休もう。
そう思ってベッドの端へ腰掛け、そのまま壁へ背中を預ける。
「絶対に……みんなを守るから」
何から守るのか。
今の亮人にはまだ分からない。
シャーリーを追っている誰か。
氷華やシャーリーを狙う妖魔。
あるいは、これから先に起きる何か。
それでも、自分自身が忘れないために言葉にしておきたかった。
「絶対に……」
最後まで言い切る前に。
亮人の意識は、静かに眠りへ落ちていった。
◇
『寝た?』
『寝たわね』
夜も深くなった頃。
氷華とシャーリーは、そっと亮人の部屋を覗き込んでいた。
亮人はベッドの端へ身体を預けるようにして眠っており、そのすぐそばでは礼火も変わらず穏やかな寝息を立てている。
そんな二人を見つめながら、氷華はしばらく何も言わなかった。
『お姉ちゃん?』
『……何でもないわ』
恋人同士のようには見えない。
けれど、氷華やシャーリーにはまだない何かが、二人の間には確かに存在していた。
長い年月を一緒に過ごした者同士だけが持つ、言葉にしなくても相手を信じられるような空気。
それを見ていると。
少しだけ羨ましいと思う。
同時に、礼火という少女が亮人にとってどれほど大切な存在なのかも、ようやく少し理解できた気がした。
『行きましょう、シャーリー』
『うん』
二人は亮人たちを起こさないよう、静かに扉を閉める。
今夜くらいは。
何も心配せず。
亮人をゆっくり眠らせてあげよう。
そんな同じ気持ちを抱きながら、氷華とシャーリーも自分たちの部屋へ戻っていった。
ほんの少し前まで、一人で過ごすことが当たり前だった相馬家には、今では誰かを気遣う声があり、眠っている相手を起こさないよう静かに歩く足音がある。
まだ誰も、この関係をどう呼べばいいのか分かっていない。
血の繋がりがあるわけでもなく、種族すら同じではない。
それでも、一緒に食卓を囲み、誰かの帰りを待ち、疲れていれば休ませようと思い、傷つけば守りたいと願う。
そうした小さな積み重ねによって。
大きすぎるだけだったこの家は、少しずつ。
亮人がずっと求めていた『家族のいる家』へと変わり始めていた。




