恋敵(ライバル)
「おはよう……亮人。今日の朝ごはん、なに作ったの?」
「おはよう。っていうか礼火、今日も起きるの遅いよ」
眠たそうに目を擦りながらリビングへ入ってきた礼火へ、亮人は呆れ半分の笑みを向けた。
礼火が母親と喧嘩し、相馬家へ転がり込んできてから、今日でちょうど一週間になる。
家出といっても学校を休んでいるわけではなく、平日は亮人と一緒にここから登校し、授業が終わればまた二人で帰ってくる。傍から見れば同棲と言われても仕方のない状況なのかもしれないが、当の二人にはそんな意識などまったくなく、昔から何度もやってきた泊まり会が少し長引いている程度の感覚しかなかった。
そして、一週間前には礼火を強く警戒していた氷華とシャーリーにも、少しずつ変化が現れている。
初日の夜にはすでに敵意を抑えようとしていた二人だったが、その後も礼火が亮人へ何か危害を加えるわけでもなく、むしろ昔から彼を支えてきた大切な幼馴染なのだと知るにつれ、以前のような刺々しい視線を向けることはなくなっていた。
亮人としては、もう少し長く気まずい空気が続くかもしれないと覚悟していただけに、これは嬉しい誤算だった。
「七時は普通だからね?」
椅子へ座った礼火が、まだ眠そうな顔のまま反論する。
「亮人が早すぎるんだよ。五時台に起きてる高校生なんて、そんなにいないと思う」
「余所は余所、うちはうち。この家にいる間くらい、あと三十分早く起きる習慣つけた方がいいんじゃない?」
「家出してきた幼馴染にまで生活指導する?」
「クロだって礼火より早く起きてるよ」
「ミャァァ……」
床に座っていたクロが、まるで亮人へ同意するようにゆっくり頭を上下させた。
「クロまで亮人の味方するの?」
「ニャ」
「ほら」
「絶対今、私のこと馬鹿にしたでしょ」
礼火は頬を膨らませるが、クロは何事もなかったように顔を洗い始める。
そんなやり取りを、リビングのソファから氷華とシャーリーが静かに眺めていた。
二人は礼火が起きてくるより前に朝食を済ませている。
礼火には二人の姿が見えないとはいえ、何もない場所で食器や料理だけが勝手に動いていれば、さすがに怪しまれる。そのため、この一週間ですっかり「礼火が寝ている間に食事を済ませる」という生活リズムが出来上がっていた。
『本当にあの子、子供みたいよね』
ソファへ腰掛けた氷華が小声で呟く。
『シャーリーもそう思えてきた』
隣に座るシャーリーも何度も頷いた。
『シャーリーより起きるの遅いし、ご飯もあんまり食べないし……本当に十七歳なの?』
「聞こえてるよ、二人とも」
亮人が小声で注意すると、氷華は肩を竦めた。
『礼火には聞こえてないんだからいいじゃない』
「俺には聞こえてるんだって」
「亮人、誰と喋ってるの?」
「独り言」
「最近独り言増えたよね」
「……そうかも」
苦笑しながら、亮人は礼火の前へ朝食を並べる。
今日の朝食はトーストに目玉焼き、ソーセージと簡単なサラダ。それに温かいスープを添えた、忙しい朝でも食べやすい洋食にしていた。
「あと二十分くらいで家出るから、早く食べてね。まだ朝ごはん終わってないの礼火だけだから」
「分かってるよぉ……」
「その返事がもう眠そうなんだよなぁ」
礼火がようやく食べ始めたのを確認すると、亮人は流しに残っていた食器へ手を伸ばした。
そこには、先ほど氷華とシャーリーが使った皿も混ざっている。
手早く洗い物を済ませ、二階へ上がって制服へ着替え、そのついでに礼火の制服も持ってくる。さらに二人分の弁当を確認し、ゴミの日であることを思い出せば、玄関脇にまとめていた袋まで持って外へ出る。
やることは多い。
けれど、その動きに迷いはない。
長年一人暮らし同然の生活を続けてきたことで、亮人にとって家事は呼吸に近いものになっていた。
ただ、以前と違うことが一つだけある。
今は、その表情がどこか楽しそうだった。
自分だけのために朝食を作っていた頃とは違い、誰かが食べる時間を考え、弁当を用意し、家を出る前に忘れ物がないかを気にする。
面倒なはずなのに、不思議と嫌ではない。
『亮人って、本当にこういう生活好きなのね』
その様子を眺めていた氷華がぽつりと言う。
『前より楽しそう』
『うん。お兄ちゃん、ご飯作ってる時も嬉しそうだよ』
二人には、何となく分かり始めていた。
亮人が欲しかったのは、便利な暮らしでも大きな家でもない。
こうして誰かの世話を焼き、誰かと一緒に一日を始める生活なのだろう。
「礼火、着替え終わった?」
「終わったぁ」
「じゃあ行くよ。弁当持った?」
「ちゃんと持ったよ」
「財布とスマホは?」
「入ってる」
「学生証」
「ある」
「よし」
「亮人、お母さんみたい」
「誰のせいだと思ってるの」
亮人は苦笑しながら玄関の扉を開けた。
「じゃあ行ってきます」
『行ってらっしゃい、亮人』
『行ってらっしゃーい、お兄ちゃん!』
「ニャァ」
「行ってきまーす」
礼火には氷華たちの声は聞こえていない。
それでも亮人は振り返って小さく手を振ると、まだ少し眠そうな礼火と一緒に家を出た。
しばらく歩いたところで、礼火が小さく欠伸をする。
「ちゃんと前見て歩いてよ」
「見てるよ……」
「本当に?」
「見て――わっ」
言ったそばから礼火の足が段差に引っ掛かった。
「危ない!」
亮人が咄嗟に腕を伸ばし、倒れかけた礼火の身体を支える。
「ほら、やっぱり見てないじゃん」
「……段差が悪い」
「段差に責任押しつけない」
亮人は呆れながら、そのまま礼火の手を取った。
「学校着くまでこれね」
「子供扱いしてない?」
「転ばれるよりいいでしょ」
「むぅ……」
不満そうな顔をしながらも、礼火は手を振りほどこうとはしなかった。
玄関先からその様子を見送っていた氷華は、二人の後ろ姿が角を曲がって見えなくなるまで眺めていた。
『……本当に同級生なのよね?』
『たぶん』
『たぶんって』
氷華は思わず苦笑する。
どう見ても、登校する高校生同士というより、寝ぼけた妹を学校へ連れていく兄の姿にしか見えなかった。
『でも』
氷華は小さく笑う。
『あの子には亮人くらい世話焼きな人が必要なのかもしれないわね』
『お兄ちゃん大変そう』
『本人は楽しそうだけど』
『ならいいのかな』
『いいんじゃない?』
二人は顔を見合わせたあと、家の中へ戻った。
亮人たちが帰ってくるまでに、やることがある。
『じゃあ私たちも始めましょうか』
『今日は掃除からでいいよね、お姉ちゃん』
『ええ。昨日は洗濯を多めにやったから、今日は一階から順番に掃除しましょう』
この一週間で、氷華とシャーリーも少しずつ家事を覚え始めていた。
最初は亮人に任せきりだったものの、「自分たちにもできることを増やす」と決めてから、洗濯物を畳んだり、掃除をしたりと、簡単な仕事から覚えている。
もちろん、まだ亮人ほど手際がいいわけではない。
シャーリーなどは掃除より途中でクロと遊び始めることの方が多いくらいだった。
『最初は掃除機ね。そのあと拭き掃除にしましょう』
『掃除機もう一個あったよね?』
『確か押し入れに入ってたはずよ』
『お兄ちゃんがこの前買ってきたやつ!』
『そうそう』
亮人は意外にも家電が好きだった。
生活を一人で切り盛りする時間が長かったせいか、調理器具や掃除用品には妙なこだわりがある。
少し前にも最新型の掃除機が発売されたらしく、一台で十分なはずなのに、
『二人で掃除するなら二台あった方が早いよね』
などと言いながら、同じ機種を二台買って帰ってきた。
氷華には、いまだにその金銭感覚がよく分からない。
『亮人って、お金の使い方だけ時々おかしいわよね』
『お兄ちゃんのお家、お金いっぱいあるから?』
『本人はあんまり気にしてなさそうだけどね』
大企業を経営する両親を持つ亮人にとっては、それほど大きな買い物ではないのかもしれない。
けれど、豪華なものを集めることには興味がないくせに、家事を便利にする物だけは躊躇なく買う。
いかにも亮人らしい気もした。
『まあいいわ。せっかく二台あるんだから使わせてもらいましょう』
『うん!』
シャーリーは元気よく掃除機を取り出す。
『お兄ちゃんのために、シャーリー頑張る!』
『張り切りすぎて壊さないでよ?』
『壊さないもん!』
朝の相馬家には、二人の楽しそうな声と掃除機の音が響き始めた。
少し前までなら、誰もいないはずの家で物だけが勝手に動いているように見える奇妙な光景だっただろう。
しかし相馬家は周囲の住宅から少し離れており、敷地も広い。外から家の中を覗かれる可能性は低く、礼火さえいなければ二人も必要以上に周囲を気にする必要はなかった。
氷華とシャーリーは知らない。
そんな穏やかな朝を。
遠くから見つめている者がいることを。
◇
「あそこか……」
相馬家から少し離れた住宅の屋根。
そこに、小柄な少年の姿があった。
顔も身体も布で覆われており、その背後には巨大な九本の尾がゆらりと揺れている。
少年は、先ほど家を出ていった亮人と礼火の姿をじっと見送っていた。
「やっと見つけた」
『随分時間が掛かったわね』
九尾が少年を背へ乗せたまま、静かに答える。
「仕方ないだろ。まさかウェアウルフが、俺と同じように妖魔を見られる人間の家に転がり込んでるなんて思わない」
少年は相馬家へ視線を戻した。
その家へ入っていく、金色の髪の少女。
ウェアウルフ。
少年はまだ、その少女に「シャーリー」という名前が与えられたことを知らない。
「見つからないわけだよ。人間には姿が見えないし、その上、妖魔を認識できる奴が匿ってたんだからな」
『なら、あの人間もこちら側を知っているということね』
「少なくとも見えてるのは間違いない」
少年は少しだけ苛立ったように舌打ちする。
「面倒なことになったな」
『大丈夫よ』
九尾の声には迷いがなかった。
『今度は私が確実に捕まえる』
「前もそれ言って逃げられたけどな」
『…………』
九尾の尾がぴくりと揺れる。
「まだ許してないから」
『分かってるわよ』
低く答えながら、九尾は屋根から屋根へ飛び移った。
九本の尾の先には、それぞれ小さな炎が揺れている。
赤。
そして青。
異なる二色の炎が、朝の空気の中で静かに燃えていた。
『今度こそ逃がさない』
九尾の目が細くなる。
『上位種である私から二度も逃げられるなんて、さすがに許せないもの』
「変な意地で失敗するなよ」
『分かってる』
「目的は捕まえることだからな」
『ええ』
そう返したものの、九尾の瞳には明らかな苛立ちが残っていた。
アメリカで一度。
そして東京で一度。
あのウェアウルフは自分から逃げ切った。
それは九尾にとって、簡単に受け入れられることではなかった。
『必ず連れて帰る』
屋根を蹴り、次の建物へと飛ぶ。
その途中、九尾は眼下に小さな公園を見つけた。
まだ朝が早いため、人影はない。
『…………』
九尾が何気なく尾を一振りする。
「おい」
青い炎が一つ、公園の隅にある枯れかけた枝へ飛んだ。
炎は枝へ触れた瞬間、音もなく広がる。
けれど、普通の火のように周囲へ燃え移ることはなかった。
青い炎だけが枝を包み込み、一瞬で黒く焼き切る。
直後には炎そのものも跡形なく消えていた。
残ったのは、焦げた枝だけ。
「遊ぶなって言ってるだろ」
『別に遊んでないわよ』
「じゃあ何だよ」
『少し気分を落ち着かせただけ』
「それを遊んでるって言うんだよ」
『細かい男ね』
「お前が雑なんだ」
少年が呆れたように吐き捨てる。
九尾は気にする様子もなく、再び相馬家へ視線を向けた。
『でも』
「何?」
『あの家にいるのね』
「ああ」
九尾の口元が、僅かに吊り上がる。
『なら、もう逃げられない』
少年は返事をしなかった。
ただ、相馬家を見つめる瞳だけが鋭くなる。
「問題はウェアウルフだけじゃない」
『あの人間?』
「あいつが邪魔するなら、そうなる」
『人間を相手にするつもり?』
「最初から言ってるだろ」
少年の声は淡々としていた。
「ウェアウルフのそばに誰がいようが関係ない。邪魔するなら退かす」
『…………』
「俺はもう、俺みたいな奴を増やしたくないだけだ」
その言葉を聞いた九尾は、何も返さなかった。
少年が何を思ってそう言っているのか。
その理由を。
九尾だけは知っている。
「行くぞ」
『今すぐ乗り込むの?』
「いや」
少年は首を横へ振った。
「まずは見る」
『珍しく慎重なのね』
「ウェアウルフを匿ってる奴が、どんな人間なのか確認してからだ」
先ほど家を出ていった少年。
妖魔を見ることのできる人間。
そして。
自分が追い続けてきたウェアウルフが、その家へ戻っていった。
「相手が何も知らないただの馬鹿なら、それでいい」
『違ったら?』
「その時考える」
九尾は少しだけ振り返り、背中に乗る少年を見た。
『……あまり無茶はしないでね』
「お前に言われたくない」
『そう』
九尾はそれ以上何も言わなかった。
再び屋根を蹴り。
二人の姿は、朝の住宅街から遠ざかっていく。
一方。
相馬家の中では。
『シャーリー、そこまだ掃除機かけてないわよ!』
『今やるー!』
何も知らない二人の妖魔が。
亮人の帰りを待ちながら、いつも通りの朝を過ごしていた。
少しずつ家族らしくなっていく相馬家。
その穏やかな日常のすぐそばまで。
シャーリーを追う者たちは、すでに辿り着いていた。




