恋敵Ⅱ
「そういえば亮人、前に言ってたよね。亮人の家には何かが憑いてるって」
学校へ続く道を少し急ぎ足で歩いていると、隣をついてきていた礼火が、ふと思い出したように話しかけてきた。
「言ったね。それがどうかしたの?」
「うーん……」
礼火は少し考えるように視線を前へ向けたまま歩き、やがて不思議そうに首を傾げる。
「一週間住んでみたけど、亮人が最初に言ってたほど危なくないよね」
「……そう?」
「だって、今のところ階段から誰かが歩いてるみたいな音が聞こえたり、誰もいないのに扉が開いたりするくらいでしょ?」
「礼火、それを普通の家で言ったら十分怖い現象だと思うよ?」
「でも、何もしてこないじゃん」
礼火は当たり前のことを言うように答えた。
一週間前なら、二階から足音が聞こえただけで亮人のそばを離れようとしなかったはずなのに、今ではすっかり慣れてしまったらしい。
もちろん、それには氷華とシャーリーが礼火へ気を遣っていることも大きい。
二人は初日の夜に、礼火へ危害を加えないと決めてから本当にその約束を守っていた。礼火がいる時にはなるべく物へ触れず、同じ部屋を通る時も不用意に足音を立てないようにしている。
もっとも、完全に存在感まで消せるわけではない。
氷華が近くを通れば空気が少し冷たくなり、シャーリーが慌てて移動すれば床が軋むこともある。それでも礼火は、そうした出来事を怖がるより先に「この家には、自分には見えない誰かが普通に暮らしている」と受け止めるようになっていた。
その変化は、亮人にとって嬉しいものだった。
「ねぇ、亮人」
「ん?」
「亮人には、その子たちが見えてるんでしょ?」
「……まあね」
今さら誤魔化しても仕方がない。
礼火は一週間も同じ家で暮らしているうえ、亮人が誰もいない場所へ話しかけているところだって何度も見ている。
「だったら今度、紹介してほしいな」
「紹介?」
「うん」
礼火は楽しそうに笑った。
「だって、見えない相手と友達になれるなんて、ちょっと凄くない?」
「まだ幽霊だと思ってる?」
「違うの?」
「違うよ」
「じゃあ何?」
礼火が興味津々といった様子で顔を覗き込んでくる。
自分には見えない存在が家の中を歩いているというのに、怖がるより先に知りたいと思えるあたり、案外礼火は肝が据わっているのかもしれない。
「そんなに紹介してほしいの?」
「してほしい」
「姿は見えないよ?」
「それでもいいの。そこにいるって分かるだけでも面白そうだし」
礼火はそこで少しだけ笑い、
「それに、その子たちと会えたら……私も明日には家に帰ろうかなって思ってるから」
「明日?」
「うん。さすがに一週間も家出したら、お母さんも少しは反省したと思うし」
「礼火も反省しなよ」
「私は悪くないもん」
「そこはまだ譲らないんだ」
亮人は苦笑した。
とはいえ、礼火が自分から帰る気になったのなら、それは良いことなのだろう。
「分かった。帰ったら紹介するよ」
「本当?」
「うん。でも先に一つだけ訂正しておくね」
「何?」
「幽霊じゃないから」
礼火がきょとんとする。
「じゃあ、本当に何なの?」
「簡単に言えば……妖怪に近いのかな」
「妖怪?」
「正確には妖魔って言うらしいけどね」
礼火の表情がさらに不思議そうなものへ変わる。
以前、氷華から聞いた話を思い出しながら、亮人はなるべく分かりやすく説明することにした。
「妖怪とは少し違って、人間と妖怪、両方の血を引いてる存在なんだって。だから本人たちは、自分たちのことを妖魔って呼んでる」
「ちょっと待って」
「うん?」
「本人たちってことは、一人じゃないの?」
「あ」
そういえば、そこまでは言っていなかった。
「……二人いるよ」
「二人も!?」
「うん」
「一週間も同じ家にいたのに?」
「いたね」
「私、全然気づかなかったんだけど」
「見えないからね」
「それはそうだけど……」
礼火は驚いたように何度も瞬きをした。
自分がこの一週間、二人の妖魔と同じ家で暮らしていたと知り、ようやく色々な出来事が繋がり始めたのだろう。
「それで、その二人ってどんな子なの?」
「一人は氷華」
「ひょうか?」
「氷に華って書いて氷華。前に化学の授業で、俺が『雪ちゃん』って言ってた子だよ」
「……あの雪ちゃん?」
「そう」
礼火の歩みが少しだけ遅くなった。
あの日、誰もいない場所へ向かって話しかけていた亮人。
礼火には何も見えていなかったが、あそこには本当に誰かがいたのだ。
「じゃあ、亮人があの時ずっと隠してたことって……」
「家に妖魔が住み始めたこと」
「…………」
「言っても信じてもらえないと思ったからね。俺だって、妖魔の存在を知ったのは一か月くらい前なんだから」
「それは……まあ」
礼火は困ったように笑った。
「今でも全部信じたって言われたら難しいけど、亮人の家に私には見えない何かがいるってことだけなら、もう信じられるよ」
「一週間もいたらね」
「それに」
「ん?」
「時々、私の横をすごく冷たい空気が通ることあるでしょ?」
「ああ」
「あれも?」
「氷華だよ」
「やっぱり!」
礼火は納得したように手を叩いた。
「氷華は雪女だからね。本人は普通にしてても、近くにいると少し空気が冷たくなるんだ」
「雪女……」
「でも怖くないよ」
「それはもう分かってる」
礼火は迷うことなく答えた。
「だって、その氷華ちゃんって子、一週間ずっと同じ家にいたんでしょ?」
「いたよ」
「だったら、本当に危ない子ならとっくに何かされてると思う。それに最近、私が部屋にいる時は、わざわざ遠回りしてるみたいな足音がする時もあるし」
「……そこまで分かってたんだ」
「何となくだけどね」
氷華たちが礼火へ向けていた気遣いは、思っていた以上に伝わっていたらしい。
亮人はそれが少し嬉しくて、自然と笑みを浮かべた。
「今頃、その氷華ともう一人が家の掃除してくれてると思うよ」
「掃除までしてくれるの?」
「最近覚え始めたんだ。俺が学校に行ってる間に、少しでも家事をやっておきたいって」
「…………」
「昨日は洗濯もしてくれてたしね。まだ慣れてないから失敗することもあるけど、かなり助かってるよ」
「……それって」
礼火は少し考えるように視線を落とした。
「もう、家族みたいだね」
「…………」
亮人はすぐには答えなかった。
家族みたい。
少し前の自分なら、その言葉を聞いても簡単には頷けなかったかもしれない。
けれど今は違う。
朝になれば一緒に食卓を囲み、家を出る時には「行ってらっしゃい」と送り出してくれる。帰れば誰かが待っていて、料理を作れば喜んで食べてくれるようになり、最近では家事まで少しずつ分担するようになった。
血が繋がっていなくても。
同じ人間ですらなくても。
亮人にとっては、それで十分だった。
「……そうだね」
礼火には聞こえないくらいの声で。
「家族だよ」
そう呟いた。
「何か言った?」
「何でもない」
「最近それ多くない?」
「気のせいだよ」
「絶対何か言ったのに……」
不満そうな礼火を横目に歩いているうち、学校の校舎が見えてきた。
朝は少し慌ただしかったものの、今日は余裕を持って家を出ているため、予鈴まではまだ十分ほどある。
「ほら、もう学校着くよ」
「亮人が朝から急かすから、今日は結構余裕あるね」
「毎日このくらい余裕持って来たいんだけど」
「それは亮人がもう少し遅く起きれば解決するよ」
「なんで俺が礼火に合わせる前提なの」
「幼馴染だから?」
「便利な言葉として使わないでよ」
二人はそんな他愛のない会話を交わしながら正門を通り、昇降口で上履きへ履き替えた。
教室へ向かう途中でも、礼火は氷華について何度か質問してきた。
どんな姿なのか。
何を食べるのか。
亮人とはどうやって出会ったのか。
もう一人はどんな妖魔なのか。
亮人も答えられる範囲で一つずつ説明した。
「もう一人はシャーリーっていうんだ」
「シャーリー?」
「うん。金色の髪で、氷華より少し幼く見えるかな。ウェアウルフっていう妖魔らしいよ」
「ウェアウルフ……って、狼男?」
「女の子だけどね」
「狼女?」
「まあ、それに近いのかな」
「その子も亮人の家に住んでるの?」
「住んでるよ」
亮人はそこまで答えたところで、シャーリーがアメリカから自分を探してきたことや、左肩の傷を思い出した。
詳しい事情は、本人の許可もなく話すべきではないだろう。
「シャーリーについては、本人から話してもいいって言われたことだけ教えるね」
「分かった」
礼火はそれ以上追及しなかった。
その辺りの距離感を理解してくれるのも、長く付き合ってきた幼馴染らしいところだった。
「シャーリーは最近、野菜の皮むき覚えてるよ」
「なんでそこから?」
「家事の話してたから」
「そうだけど」
「氷華は料理の片付けとか洗濯も少しずつ覚えてきたし、二人とも最近かなり頑張ってくれてるんだ」
「……そっか」
「この前なんて、俺が帰ったら洗濯物ほとんど畳み終わっててさ。最初は何も分からなかったのに、覚えるの早いんだよ」
「…………」
「シャーリーは途中でクロと遊び始めることも多いけどね」
「そうなんだ」
「礼火?」
「なに?」
いつの間にか、礼火の笑顔が少しだけ弱くなっていた。
怒っているようには見えない。
けれど、さっきまで楽しそうに質問していた時とは明らかに雰囲気が違っている。
「どうしたの?」
「何でもないよ」
「本当に?」
「うん」
礼火はいつものように笑ってみせた。
けれど、その表情がほんの少しだけ無理をしているように見える。
理由を聞こうか迷っているうちに教室へ到着し、ほどなくして始業を告げるチャイムが校内へ鳴り響いたため、亮人もそれ以上尋ねることができなかった。
午前の授業が始まってからは、礼火も普段と変わらない様子だった。
休み時間になれば他の友人たちと楽しそうに話し、昼になればいつものように亮人と一緒に弁当を食べる。午後の授業も何事もなく進み、朝に見せた寂しそうな表情が嘘だったかのように一日は過ぎていった。
だからこそ、余計に気になった。
「……なんだったんだろう」
次の授業の準備をしながら、亮人は朝の礼火の表情を思い出す。
家へ帰れば、礼火が会いたがっていた氷華とシャーリーを紹介することになる。
そして礼火は、そのあと家へ帰ると言っていた。
それで全部、元通りになる。
礼火は自分の家へ戻り、亮人はまた氷華とシャーリー、クロとの生活へ戻る。
それだけのことだ。
なのに、なぜか亮人の胸にも、ほんの僅かな引っ掛かりが残っていた。
礼火が寂しそうな顔をした理由も。
自分がそれを気にしている理由も。
この時の亮人には、まだ分からなかった。




