恋敵Ⅲ
亮人と礼火が学校で授業を受けている頃、相馬家では朝に決めたとおり、氷華とシャーリーが二人だけで家の掃除に取り掛かっていた。
『まずはリビングから始めるわよ』
長い白髪が作業の邪魔にならないよう頭に三角巾を巻き、舞い上がる埃を吸い込まないようマスクまで着けた氷華が掃除機を手に宣言すると、その隣ではまったく同じ格好をしたシャーリーが待ってましたと言わんばかりに右手を高く突き上げた。
『おぉぉぉー!』
『朝から元気ね……まあ、そのくらいの方がいいけど』
『だって、お兄ちゃんが帰ってきた時に驚かせたいもん!』
『それは私も同じよ』
二人は顔を見合わせて笑うと、それぞれ掃除機のコードを伸ばしてコンセントへ繋いだ。
亮人が少し前に同じ掃除機を二台買っていたおかげで、一人が作業を終えるまで待つ必要もない。氷華は窓際や家具の周囲、壁際といった細かな場所を担当し、シャーリーはソファや食卓の周辺を中心に掃除することにして、二人は互いの動線が重ならないよう少しずつ場所をずらしながら、広いリビングに溜まった埃を吸い取っていった。
掃除機を本格的に扱うようになってから、まだそれほど日数は経っていないものの、亮人が普段から使っている姿を何度も見ていたため操作そのものに迷うことはない。それどころか、氷華は隅に残った埃を見つけるたびに掃除機の先端を細かく動かし、シャーリーも最初こそ勢い任せだったものの、次第に家具の脚の周囲まで丁寧に吸い取るようになっていた。
『シャーリー、そこもちゃんとかけなさいよ』
『分かってるよー』
『ソファの下も』
『お姉ちゃん、細かい』
『やるならちゃんと綺麗にしたいでしょう?』
『それはそうだけど……』
口では不満そうにしながらも、シャーリーは素直にしゃがみ込み、ソファの下へ掃除機の先端を差し込んでいく。奥に溜まっていた細かな埃が吸い込まれていくのを見て少し嬉しくなったのか、そのまま反対側まで念入りに掃除し始めた。
二人で作業をしていると、一人ですべての部屋を回るより遥かに早く進んでいく。それ以上に二人が不思議に感じていたのは、家事というものを思っていたほど面倒には感じなかったことだった。
掃除機を動かしながら、氷華もシャーリーも頭の片隅では同じ光景を思い浮かべている。
学校から帰ってきた亮人が玄関を開け、いつもより綺麗になった家を見て驚き、そのあと嬉しそうに笑ってくれる姿。
『お兄ちゃん、喜んでくれるよね?』
期待を隠しきれない声でシャーリーが尋ねる。
『シャーリーたちが掃除して家を綺麗にしてたら、きっと喜んでくれるよね?』
『当たり前でしょ』
氷華は迷うことなく答えた。
『せっかく私たちが頑張ってるんだから、喜んでもらわないと困るわ』
『お姉ちゃん、それだと怒ってるみたい』
『冗談よ。亮人なら、何も言わなくても絶対に喜ぶでしょうね』
『うん!』
その光景を想像しただけで嬉しくなったのか、シャーリーの掃除機を握る手にもますます力が入る。
『もっと綺麗にする!』
『壊すほど力入れないでよ?』
『壊さないもん!』
そんな調子でリビングを終えると、次はキッチン、廊下、そして二階へと順番に進んでいった。掃除機をかける作業そのものは二人で手分けしたおかげで予想以上に早く終わったものの、氷華は家の中を見回したあと、それだけでは満足できなかったらしい。
『次は拭き掃除ね』
『まだやるの?』
『当然でしょ。せっかくなら全部綺麗にするわよ』
『お姉ちゃん、本気だ……』
バケツへ水を汲み、雑巾を濡らして固く絞ると、二人は床へ膝をついて拭き掃除を始めた。
掃除機を押して歩くのとは違い、こちらは思っていた以上の重労働だった。腰を屈めた姿勢を保ちながら腕を前後へ動かし続けなければならず、慣れていないシャーリーは十分もしないうちに速度が落ち始め、最初は張り切っていた尻尾まで徐々に元気を失っていく。
『お姉ちゃん……これ、結構疲れる』
『私も同じよ……』
氷華も少し息を切らしながら答えた。
もちろん亮人も、毎日ここまで徹底した拭き掃除をしているわけではない。それでも今日は、二人だけで本格的に家を掃除する初めての日であり、どうせやるのなら亮人が玄関を開けた瞬間に気づくくらい綺麗にしておきたいという気持ちは、疲れ始めた今も変わっていなかった。
『シャーリー、あと少し頑張りましょう』
『うん……』
『亮人は毎日学校に行きながら、私たちの料理も作ってくれてるのよ。それに洗濯もして、買い物だってしてるでしょう?』
『……そうだね』
シャーリーは雑巾を動かす手を止めないまま、少しだけ真面目な表情になった。
『お兄ちゃんは、シャーリーたちに何にも文句言わないよね』
『そうなのよね』
氷華も同じことを考えていた。
『私がここへ来てから一か月近く経つけど、亮人が私のことで面倒だとか、迷惑だとか言ったところを一度も見たことがないわ』
『シャーリーにも言わないよ』
『でしょうね』
それどころか必要な物があれば用意してくれ、食べたい物を聞けば作ってくれる。人間の生活について分からないことがあれば、忙しい時でさえ嫌な顔一つせず教えてくれた。
氷華にとって、そんな亮人の姿はいつの間にか当たり前の光景になりつつあった。
けれど、自分たちで実際に家事をしてみれば分かる。
決して当たり前などではない。
『……亮人って、本当に大変だったのね』
『うん』
『学校だってあるのに』
『だから私たちも、できることは自分たちでやれるようにならないとね』
『シャーリー頑張る』
『ええ。私も頑張るわ』
亮人の優しさへ甘えるだけではなく、自分たちもこの家で暮らす一人として役に立ちたい。
そんな気持ちを胸に、二人はもう一度雑巾を握り直し、途中で何度か休憩を挟みながらリビングだけでなく廊下や二階まで丁寧に拭いていった。
すべて終わった頃には、作業を始めてから二時間近くが経っていた。
『……終わった』
『疲れたぁ……』
二人とも、その場へ座り込みたくなるほど疲れていたものの、改めて家の中を見渡すと自然に表情が緩んだ。床にはほとんど埃が残っておらず、窓から差し込む冬の日差しが磨いた表面へ綺麗に反射している。
もともと築年数を感じさせないほど手入れされている家ではあるが、今日はいつも以上に整って見えた。
『頑張った甲斐はあったわね』
『お兄ちゃん、絶対びっくりするよ』
『そうだといいわね』
気づけばちょうど昼時になっていたため、二人は掃除道具を片付けてから食卓へ向かった。
冷蔵庫には、亮人が朝のうちに二人のため用意してくれた昼食が入っている。焼き鮭に卵焼き、簡単な煮物とご飯という内容で、特別な手間を掛けなくてもそのまま食べられるものを中心にしてあるのも、氷華とシャーリーだけで困らないよう考えてくれた結果なのだろう。
『いただきます』
『いただきまーす!』
朝から身体を動かし続けたあとの食事は、いつも以上に美味しく感じられた。
『……美味しい』
『お兄ちゃんの鮭、美味しいね』
『そうね』
氷華は焼き鮭を箸でほぐしながら、先ほどまでしていた掃除のことを思い返す。
たった二人で数時間家を掃除しただけでも、身体にはしっかり疲労が残っている。このあとには昨日洗い切れなかった分の洗濯も少し残っており、それを考えるだけで肩が重く感じられた。
亮人はこれを一人でやってきた。
学校へ通いながら、自分たちの食事まで作りながら。
『私たち、もっと亮人のこと手伝った方がいいわね』
『うん』
『掃除だけじゃなくて、洗濯も料理も少しずつ覚えましょう』
『シャーリーも料理できるようになりたい!』
『まずは皮むきから卒業しましょうね』
『むぅ……』
シャーリーは不満そうに頬を膨らませたものの、否定はしなかった。
二人が少しずつ自分のことをできるようになれば、その分だけ亮人が休める時間も増える。それは少し寂しい気もした。
亮人に世話を焼いてもらうことは嫌いではない。むしろ嬉しくて、その優しさへ甘えていたくなる時だってある。
けれど、嬉しいからといって何もかも任せ続けていては、本当の意味でこの家の一員になれないような気もしていた。
昼食を終えると、氷華はシャーリーと一緒に洗面所へ向かった。
今日は掃除を中心にする予定だったため、洗濯物の量はそれほど多くない。昨日のうちに大部分は終わらせていたものの、朝に使った衣類やタオルが少しだけ残っていた。
『ここに洗剤を入れて……』
氷華は亮人が普段やっている手順を頭の中で思い出しながら洗濯機を操作していく。
もう一か月近く彼の隣で生活していることもあり、どのボタンを押せばいいのかは大体覚えていた。その隣では、シャーリーがいつになく真剣な表情で氷華の指先を目で追っている。
『それ押したら動くの?』
『その前にここを設定するの』
『これ?』
『そう。物によって少し変えるみたいだけど、今日は普通のでいいと思うわ』
『シャーリーも覚える』
『次はあなたにやってもらうから、ちゃんと見てなさいよ』
『うん!』
洗濯機が動き始めると、規則的な水音と機械音が洗面所へ響き始めた。
『終わるまで少し時間があるわね』
『休む?』
『さすがに休みましょう。疲れたわ』
氷華が洗面所を出ると、シャーリーもすぐ後ろからついていく。
リビングへ戻ったシャーリーは真っ先にソファへ身体を沈め、全身から力が抜けたように大きく息を吐いた。
『つかれたぁ……』
『まだ洗濯物を干さないといけないんだから、寝ないでよ?』
『分かってるよ』
そう答えたものの、声にはまるで説得力がない。
氷華は苦笑しながらキッチンへ戻ると、昼食に使った二人分の食器を洗い、水気をしっかり拭き取って元の場所へ戻した。
すべて片付け終える頃には、それまで気を張っていた反動なのか、自分の身体にも一気に疲労が押し寄せてくる。
『……ちょっとだけならいいわよね』
テレビをつけ、シャーリーの隣へ腰を下ろした。
画面では昼の情報番組が流れており、出演者たちの明るい声が静かなリビングを満たしている。
本当に、ほんの数分だけ休むつもりだった。
けれど、身体がソファの柔らかさへ沈み込んだ途端、朝から動き続けていた疲労がまとめて押し寄せ、急激に瞼が重くなっていく。
『洗濯……終わったら……』
『お姉ちゃん……眠い……』
『私も……』
それが最後だった。
二人は互いの肩へ自然と身体を預けるようにして、ほとんど同じタイミングで眠りへ落ちていった。
氷華の白い髪とシャーリーの金色の髪が触れ合い、少しずつ呼吸まで同じような間隔へ揃っていく。朝から一緒に掃除をして、疲れた身体を寄せ合ったまま静かな寝息を立てている二人の姿は、まるで本当の姉妹のようだった。
◇
「ただいま」
「お邪魔しまーす」
放課後。
学校から帰宅した亮人と礼火が玄関の扉を開けると、家の中は普段以上に静まり返っていた。
「……あれ?」
「どうしたの?」
「いや、いつもなら誰か返事するんだけど」
亮人は少し不思議そうにしながら靴を脱ぎ、そのまま廊下の奥へ進んでいく。
「氷華? シャーリー?」
やはり返事はない。
けれどリビングへ入った瞬間、亮人はその理由をすぐに理解した。
「……なるほどね」
「何?」
「二人とも寝てる」
「二人?」
「氷華とシャーリー」
ソファでは、朝から掃除をしていた二人が肩を寄せ合うように眠っていた。
その姿を見たあとで改めて周囲へ視線を向けると、朝とは明らかに様子が違う。床にはほとんど埃が見当たらず、テーブルの表面も綺麗に拭かれており、家具の隅やソファの下といった普段なら毎日までは手が回らないような場所まで丁寧に掃除されていた。
「……本当にやってくれたんだ」
思わず笑みが零れる。
昨日の夜、二人は家事を手伝いたいと言っていた。
今朝も、自分たちで掃除をすると張り切っていた。
それでも、まさかここまで徹底して家中を綺麗にしてくれるとは思っていなかった。
『亮人のために……掃除したんだから……』
眠っている氷華が、小さな寝言を漏らした。
「氷華?」
声を掛けてみても、目を覚ます様子はない。
そのすぐ隣では。
『お兄ちゃん……大好き……』
シャーリーが幸せそうに微笑んでいる。
「…………」
亮人は二人を見つめ、少しだけ目を細めた。
「俺も二人のこと大好きだよ」
どうせ聞こえていないだろうと思いながら、小さな声で続ける。
「大切な家族なんだから」
そう答えたあと、二人を起こさないよう頭を軽く撫でると、亮人は一度リビングを離れて二階へ向かい、大きめの掛け布団を抱えて戻ってきた。
朝から自分たちのために家を綺麗にしようと頑張って、そのまま疲れて眠ってしまったのだろう。
そんな二人をわざわざ起こす気にはなれず、亮人はソファで眠る身体へそっと布団を掛けていく。
「……そこにいるの?」
後ろから、礼火の声がした。
「うん」
「二人とも?」
「寝てるよ」
礼火には、氷華とシャーリー自身も、二人が身につけている物も見えない。
だが、亮人が二階から持ってきた掛け布団は普通に見えている。そのため、誰もいないように見えるソファの上で、布団だけが二人の身体に沿うように不自然な形で膨らんでいた。
「…………」
礼火は目を丸くし、その光景をしばらく黙って見つめた。
姿は見えない。
声も、今は聞こえない。
それでも確かに、そこに何かがいる。
「本当に……いるんだ」
「だから言ったでしょ」
「うん。でも、話で聞くのと実際に見るのじゃ全然違うね」
礼火は少し緊張した様子で、ゆっくりソファへ近づいた。
「この辺に氷華ちゃん?」
「礼火から見て右側が氷華。左がシャーリー」
「……二人で一緒に寝てるの?」
「寄りかかってるね」
「なんか可愛い」
「俺もそう思う」
亮人も二人の寝顔を見ながら、小さく笑った。
「紹介するって約束してたけど、さすがに起こすのは可哀想だな」
「うん。起きるまで待つよ」
「ありがとう」
その時。
洗面所の方から、洗濯機が終了を知らせる電子音が聞こえてきた。
「……あ」
「どうしたの?」
「洗濯までしてくれてたみたい」
亮人が洗面所へ向かって確認してみると、洗濯槽の中には洗い終わった衣類やタオルが残っていた。
どうやら二人とも、洗濯機を回したところまでは覚えていたものの、終了を待っている途中で力尽きてしまったらしい。
「頑張りすぎだよ、二人とも」
亮人は苦笑しながら大きな洗濯籠へ衣類を移し、それを抱えたままリビングへ戻った。
「礼火、先にそっち座って待っててくれる? 二人が起きるまでにこれ片付けちゃうから」
「うん」
亮人は眠っている二人を起こさないよう、ソファから少し離れた場所へ腰を下ろし、その場で洗濯物を畳み始めた。
シャツ。
タオル。
制服とは別の普段着。
一枚ずつ手に取り、皺を伸ばして形を整え、種類ごとに重ねていく。その動きには迷いがなく、学校から帰ったばかりだというのに面倒そうな様子さえ見せず、いつもの日課をこなすように手だけを淡々と動かしていた。
そんな亮人の姿をしばらく眺めていた礼火が、ふと口を開く。
「ねぇ、亮人」
「ん?」
「怖くなかったの?」
「何が?」
「氷華ちゃんたち」
礼火は、布団だけが浮いて見えるソファへ視線を向けた。
「いきなり妖魔なんていう、人間じゃない存在と会って……怖いって思わなかったの?」
「…………」
もっともな疑問だった。
普通なら、きっと警戒するのだろう。
人間ではない。
普通の人には見えない。
しかも氷華は雪女で、シャーリーは狼へ姿を変えることのできるウェアウルフだと聞けば、昔話や怪談に登場する危険な存在として距離を取りたくなる方が自然なのかもしれない。
けれど、亮人は洗濯物を畳む手を少しだけ止めると、眠っている二人へ静かに視線を向けた。
「不思議と、あんまり怖くなかったんだよね」
「最初から?」
「うん」
氷華と初めて出会ったのは、一か月ほど前だった。
クロに導かれるように辿り着いた、山奥の古びた神社。
そこに人間ではない存在がいるなど知らなかった亮人の目に映ったのは、雪女でも妖魔でもなく、ただ一人でクロを膝へ乗せ、静かにその背中を撫でていた白い髪の少女だった。
「氷華と会った時はさ、妖魔だとか雪女だとか、そんなこと全然知らなかったんだ」
「うん」
「俺には普通の女の子に見えた。それに、あんな山奥の古い神社に一人でいたから……怖いっていうより、どうして一人でいるんだろうって、そっちの方が気になったんだよね」
「心配だったってこと?」
「たぶん、そうだと思う」
そのあとで氷華が雪女であることを知り、人間にはほとんど姿を認識されないことも、ずっと一人で暮らしてきたことも聞いた。
驚かなかったわけではない。
ただ、それまで目の前にいた少女が妖魔だと分かったからといって、突然恐ろしい存在に見えるようにはならなかった。
だから亮人は、行く場所がないのなら自分の家へ来ればいいと誘った。
「シャーリーも同じ」
「もう一人の子?」
「うん」
亮人の表情が少しだけ曇る。
「シャーリーは俺に会うために、かなり大変な思いをして日本まで来てた。身体にも傷が残ってたしね」
「傷……?」
「詳しいことは本人の話だから、俺からは言えないけど」
「そっか」
礼火は、それ以上踏み込まなかった。
亮人も無理に詳しく説明しようとはせず、畳んだタオルを一枚重ねてから続ける。
「でも、そんな状態の子を追い返す方が俺には無理だった」
「…………」
「怖いとか、危ないとか、そういうことを考えるより先に、放っておけないって思ったんだろうね」
自分で口にしてみれば、改めてそうだったのだと思う。
氷華の時も。
シャーリーの時も。
相手が人間ではないことより、一人でいることや傷ついていることの方が、亮人にはずっと大きな問題に見えていた。
そして今では、その時に感じたものさえ大きく変わっている。
「それに今はもう、怖がる理由なんてないよ」
「どうして?」
礼火が尋ねる。
亮人はほとんど間を置かなかった。
「家族だから」
「…………」
礼火が僅かに目を見開く。
今朝、礼火から「家族みたいだね」と言われた時には、少し照れくさくなって小さな声でしか答えられなかった。
けれど今は違った。
朝から自分のために掃除をして、疲れて眠っている二人を目の前にしていると、その言葉は考えるより先に自然と胸の奥から出てきた。
「人間か妖魔かなんて、今はもう俺にとってそんなに重要じゃないんだよね。一緒に暮らして、ご飯を食べて、家に帰ったら待っててくれて、俺が何か作ったら美味しいって言ってくれる。困ってたら心配するし、元気がなかったら気になるし、こうやって無理してたらちゃんと休んでほしいって思う」
亮人は眠っている氷華とシャーリーへ視線を戻した。
たった一か月ほど前まで、この広い家へ帰ってきても待っているのはクロだけで、静かな食卓で一人分の料理を食べることにも何の疑問も抱いていなかった。
今では氷華がいて、シャーリーがいて、食卓には三人分の皿が並ぶ。
朝になれば「おはよう」と言われ、家を出る時には「行ってらっしゃい」と送り出され、帰ってくれば誰かが自分の名前を呼ぶ。
それがいつから当たり前になったのかは分からない。
ただ、それを失いたくないと思っている自分がいることだけは、もう疑いようがなかった。
「血が繋がってるかどうかとか、人間か妖魔かとか、そういうことじゃないんだと思う」
「…………」
「同じ家で暮らして、一緒にいたいって思えて、相手に何かあったら嫌だって思うなら、それで十分なんじゃないかな」
亮人は少し照れくさそうに笑いながら、それでも誤魔化すことなく言葉を続けた。
「だから俺にとって、氷華とシャーリーは大切な家族だよ」
礼火は何も答えなかった。
亮人が再び洗濯物へ視線を戻しても、彼女はしばらくその場から動かず、姿の見えない二人が眠っているはずのソファを静かに見つめ続けている。
氷華とシャーリー。
亮人が出会ってから一か月にも満たない二人を、彼は今、迷いもなく「家族」と呼んだ。
その言葉が嬉しくないわけではなかった。
亮人が一人きりではなくなったことも、家へ帰れば誰かが待っているようになったことも、幼い頃から彼を知る礼火にとって本当なら喜ぶべきことなのだと思う。
それなのに胸の奥には、言葉では上手く説明できない小さな痛みのようなものが残っていた。
自分は十年以上、亮人のそばにいた。
幼い頃から一緒に学校へ通い、何度も喧嘩をして、互いの家へ泊まり、亮人が事故に遭ったあともずっと隣にいた。
自分なら亮人のことを誰よりも知っている。
ずっと、そう思っていた。
けれど今、礼火には見ることさえできない二人が、亮人の中で「家族」と呼ばれるほど大切な場所へ入っている。
羨ましいという言葉とも少し違う。
嫉妬していると認めるには、まだ自分でも感情の形がよく分からない。
ただ、ほんの少しだけ。
寂しかった。
「……そっか」
ようやく口から出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
「ん?」
「ううん。何でもない」
礼火はそう答えると、いつものように笑おうとした。
けれど、その笑顔にはほんの僅かに寂しさが混じっており、亮人はそれに気づかないまま、再び手元の洗濯物を一枚ずつ丁寧に畳んでいった。




