襲撃者
迎えた土曜日の朝。
学校へ行く必要のない休日ということもあり、亮人は普段より少しだけ長く眠っていた。
『亮人……亮人、起きなさいよ』
「ん……?」
聞き慣れた声とともに肩を揺すられ、亮人は重たい瞼をゆっくりと持ち上げた。
まだ寝起きでぼやける視界の向こう、カーテンの隙間から差し込む柔らかな朝日を背にして、氷華がベッドの横へ立っている。普段なら亮人の方が誰よりも先に起き、朝食の支度を始めてから氷華やシャーリーを呼びに行くため、こうして逆に彼女から起こされるという状況そのものが珍しかった。
「……どうしたの、氷華?」
『どうしたのって……もう朝よ』
そう言われ、亮人は枕元に置いてある時計へ視線を向ける。
表示されている時刻は、平日ならとっくにキッチンへ立ち、味噌汁かスープのどちらかを作り始めている頃だった。
「珍しいね。氷華が俺を起こしに来るなんて」
『たまにはいいでしょう?』
「うん。なんか新鮮」
身体を起こしながら、亮人は眠そうに目元を擦って小さく笑った。
この一か月足らずの間に、相馬家の朝は驚くほど変わった。
最初に氷華がこの家へやって来て、その後を追うようにシャーリーが加わった。さらに一週間ほど前からは、母親と喧嘩をした礼火まで泊まるようになり、昨日にはこれまで氷華とシャーリーの存在を認識できなかった礼火にも、突然二人の姿が見え、その声まで聞こえるようになった。
以前はただ広いだけで、朝になってもクロの鳴き声以外ほとんど何も響かなかった家が、今では誰かの足音や話し声が当たり前のように聞こえる。
日に日に狭く感じられるほど賑やかになっていくこの変化を、亮人は一度だって嫌だと思ったことがなかった。
「……氷華?」
『何?』
「起こすだけにしては、ずいぶん真剣な顔してるなって」
『…………』
そこでようやく、亮人は氷華の表情がいつもと少し違っていることに気づいた。
単に寝坊した亮人を起こしに来ただけなら、もっと呆れたように文句の一つでも言っているはずだった。けれど今の氷華は、何かを口にするべきか迷っているようでもあり、それ以上に亮人のことを心配しているようにも見える。
少し考えた末、亮人は首を傾げた。
「もしかして……お腹減った?」
『はぁ!?』
「違うの?」
『何でそうなるのよ!』
思いきり睨まれた。
「いや、朝だし。氷華がこんな時間に俺を起こす理由って、それくらいかなって」
『もう……本当にあんたは……』
呆れたように息を吐いた氷華は、ベッドから降りようとした亮人の腕を掴んだ。
今度こそ、その表情から冗談らしいものが完全に消える。
『シャーリーのことよ』
「シャーリー?」
『前にも聞いたでしょう? あの子が何かに追われて、日本まで来たって』
「ああ……」
その言葉を聞いた瞬間、亮人の眠気が少しずつ薄れていった。
シャーリーが日本へ来る途中、アメリカで自分と同じように妖魔を見ることのできる人間と出会ったこと。
最初は亮人のような人間かもしれないと期待したものの、その相手はシャーリーを捕らえようとし、逃げた彼女へ巨大な狐のような妖魔まで差し向けたこと。
シャーリーの左肩に残っていた深い傷も、その時につけられたものだった。
『私もシャーリーとは一度戦ったから分かるけど、あの子はかなり強いわ』
「……氷華が言うなら、本当に強いんだろうね」
『ええ。だから気になるのよ。そんなシャーリーを追い詰めて、あれだけの傷を負わせられる妖魔がいる。それだけでも面倒なのに、そいつを従えている人間までいるんでしょう?』
「うん」
『もし今もシャーリーを探しているなら、そのうちこの家まで辿り着くかもしれない』
亮人の腕を掴む氷華の指先へ、僅かに力が入った。
『そうなったら、あんたまで巻き込まれるかもしれないのよ』
「…………」
亮人はすぐには答えず、自分の腕を掴んでいる氷華の手へ一度視線を落とした。
シャーリーが追われていること自体を気にしているのだと思っていたが、どうやら氷華が本当に心配していたのは、追手がこの家まで来た時に亮人まで危険へ巻き込まれることらしい。
「俺のこと心配してくれてたんだ」
『なっ……』
「ありがとう」
『べ、別にそういう言い方しなくてもいいでしょ!』
氷華の頬が僅かに赤くなる。
『私はただ、亮人が何も知らないまま危ない目に遭ったら困るって言ってるだけよ』
「それを心配してるって言うんじゃない?」
『……うるさい』
「はいはい」
亮人は笑いながらベッドを降りた。
とはいえ、氷華がここまで真剣に話してくれたことを、いつものやり取りの延長で流すつもりはない。
「でも、もし本当に追ってきたら、その時はちゃんと考えるよ」
『……ずいぶん軽く言うのね』
「軽く考えてるわけじゃないよ」
亮人の表情から笑みが少し薄れる。
「ただ、相手がシャーリーを追ってきたとしても、本人が嫌がってるのに渡すつもりはない」
『…………』
「ここはもう、シャーリーの家でもあるから」
氷華はしばらく何も言わなかった。
以前なら、そんな亮人の言葉に何かしら突っかかっていたかもしれない。
けれど今では、その言葉がただの綺麗事ではなく、本当に亮人がそう考えているのだと分かっている。
『……そう言うと思った』
呆れたような声だったが、その表情にはどこか安心したような笑みが浮かんでいた。
「氷華だって同じでしょ?」
『何が?』
「もし誰かが氷華を連れていこうとしたら、俺は止めるよ」
『…………』
「だって、氷華も家族なんだから」
あまりにも自然に言われたせいか、氷華は一瞬言葉を失った。
『……朝からそういうこと平然と言うの、本当にずるいわよ』
「何が?」
『何でもない!』
氷華が勢いよく顔を逸らす。
その直後。
静かな部屋の中へ、妙に間の抜けた音が響いた。
ぐぅぅぅぅ……。
「…………」
『…………』
二人の間に沈黙が落ちる。
「氷華」
『違う』
「まだ何も言ってないけど」
『私じゃないから!』
「じゃあクロ?」
亮人はベッドの上へ視線を向けた。
布団の隙間から顔だけを出していたクロが、青い瞳でこちらをじっと見返している。
「クロじゃなさそうだけど」
『だから私じゃないって言ってるでしょう!?』
顔を真っ赤にした氷華は、それ以上追及される前に逃げるような勢いで部屋を飛び出していった。
「……やっぱりお腹減ってたんじゃん」
亮人は思わず笑い、布団の中へ潜り込んでいたクロの頭を優しく撫でてから、自分も一階へ向かった。
◇
一階へ降りた亮人は、そのまま迷うことなくキッチンへ入った。
「今日は和食にしようかな」
冷蔵庫を開け、鮭と野菜、それから昨夜のうちに用意しておいた出汁を取り出す。
包丁で野菜を食べやすい大きさへ切り、鍋では味噌汁を温めながら、隣では鮭を焼いていく。休日だからといって特別に豪華な朝食を作るわけではないが、食べてくれる相手がいると思うだけで、以前なら省いていた小さなひと手間まで自然と加えたくなる。
一人で暮らしていた頃なら、自分のためだけの朝食にここまで時間を掛けることはなかった。
腹が満たされれば十分。
その程度だったはずなのに、今では味噌汁の具を誰が好むか、鮭の味付けをどうすればシャーリーでも食べやすいか、礼火ならどの程度の味の濃さを好むかまで考えるようになっている。
「……これからも、ずっとこんな感じだったらいいな」
誰に聞かせるでもなく、そんな願いが口から零れた。
もう少しすれば、眠そうな顔で誰かが階段を下りてきて、腹が減ったと騒ぎ、今日の朝食は何だと尋ねられる。
そんな光景が、いつの間にか亮人の中で当たり前になりつつあった。
朝の相馬家では、食事を始める頃までほとんど照明を使わない。
大きな窓から差し込む朝日だけでも、リビングからキッチンまで十分に明るいからだ。
人工的な灯りよりも、亮人は昔から自然の光の方が好きだった。
鮭の表面に焼き色が付き、香ばしい匂いがキッチンへ広がり始めた頃。
二階から突然、大きな声が響いた。
「きゃっ!?」
『いたぁぁぁぁい!』
続けて、廊下を慌ただしく走る足音が聞こえてくる。
「……何してるんだろ」
亮人が苦笑していると、数秒もしないうちにシャーリーが階段を駆け下り、そのまま涙目でキッチンへ飛び込んできた。
『お兄ちゃぁん……』
「どうしたの?」
『礼火がシャーリー叩いた……』
「礼火が?」
シャーリーは右頬を押さえている。
よく見れば、そこにはうっすらと赤い跡まで残っていた。
「ああ……」
亮人はそこで、ほとんどすぐに原因を察した。
昨日、礼火にも自分たちの姿が見えるようになったことがよほど嬉しかったのか、シャーリーは「今日は礼火と寝る」と言い出していた。礼火も特に嫌がらなかったため、そのまま同じ部屋で眠ったのだが、どうやら亮人が知っている問題をシャーリーは知らなかったらしい。
「礼火、寝相悪いからなぁ……」
『寝てたら急にバシッてされた……』
「それは災難だったね」
礼火が初めてこの家へ泊まった夜。
同じ部屋で休んだ亮人も、その寝相の悪さについては身をもって知っていた。
寝返りが多い程度ならまだいい。
眠っている間に腕や足が飛んでくることまであるのだ。
「先に教えておけばよかったね。ごめん」
『痛かった……』
「お詫びに味見する?」
『する』
ついさっきまで浮かんでいた涙が、一瞬で止まった。
「切り替え早いなぁ」
亮人は苦笑しながら、焼き上がった鮭を少しだけ取り分ける。
今日の鮭には、醤油をベースにしたソースへ風味付け程度のわさびを混ぜていた。
「熱いから気をつけて」
『はーい』
シャーリーが差し出された鮭を一口食べる。
最初は嬉しそうに目を輝かせた。
『美味しい――』
ところが数秒後。
『……っ!?』
突然、その動きが止まった。
『お、お兄ちゃん……』
「どうした?」
『鼻が……つーんってする……』
「あ」
亮人はそこでようやく気づいた。
自分たちには気にならない程度のわさびでも、嗅覚の鋭いシャーリーにとっては想像以上に刺激が強かったらしい。
『辛い……』
「ごめんごめん。シャーリーの分は別の味にするよ」
『ほんと?』
「もちろん」
亮人はすぐに別の小さな器を用意し、バターと醤油を使った刺激のないソースへ作り直した。
改めて鮭へ絡めて差し出すと、シャーリーは慎重に匂いを嗅いでから一口食べる。
『美味しい!』
今度は満面の笑みが返ってきた。
「よし。ならこれで決まり」
亮人は出来上がった料理を食卓へ並べ終えると、階段の方へ向かって声を張った。
「朝ご飯できたよー! 起きてこない人の分は、シャーリーに食べてもらうからねー!」
『食べる!』
「そこは否定してよ」
直後。
二階から激しい足音が聞こえてくる。
「待って! 私の分は絶対残して!」
『亮人、鮭よね!? 匂いで分かるわ!』
礼火と氷華が、ほとんど同時に階段を下りてきた。
「二人とも元気だね……」
「朝ご飯なくなるって言うからでしょ!」
『シャーリーなら本当に食べるもの!』
『食べるよ?』
「誇らしげに言わなくていいから」
昨日までとは違い、今は礼火にも氷華とシャーリーの姿が見え、その声もきちんと聞こえている。
だから今朝は誰かだけ時間をずらしたり、見えないように食器を動かしたりする必要もなく、最初から四人全員が同じ食卓へ座ることができた。
「今日は焼き鮭と味噌汁。鮭のソースは氷華と礼火がわさび醤油で、シャーリーはバター醤油ね」
『私だけ違う!』
「わさび嫌だったんでしょ?」
『じゃあこれでいい!』
「現金だなぁ」
亮人も自分の席へ腰を下ろした。
「それじゃ、いただきます」
「いただきます」
『いただきます』
『いただきまーす!』
四人の声が重なる。
腹を空かせていたらしい氷華と礼火はすぐに箸を進め始め、その隣ではシャーリーがまだ少しだけ右頬を気にしながら鮭を見つめていた。
「まだ痛い?」
『ちょっと』
「礼火」
「何?」
「シャーリーの頬、叩いたみたいだよ」
「えっ?」
礼火の箸がぴたりと止まった。
「私が?」
『寝てる時にバシッてされた』
「…………」
礼火は数秒ほど考え込んだあと、シャーリーの右頬へ薄く残っている赤みを見つけて、気まずそうに表情を引きつらせた。
「ご、ごめん……」
『痛かった』
「わざとじゃないからね!?」
「そこは分かってるよ」
亮人は苦笑する。
「礼火、寝相悪いもんね」
「亮人!?」
「事実じゃん」
「それは言わなくていいの!」
『礼火って寝相悪いんだ』
『覚えておいた方がよさそうね』
「氷華ちゃんまで!?」
休日の朝から、相馬家の食卓はいつも以上に騒がしかった。
礼火は顔を赤くして反論し、氷華はどこか面白そうにそれを眺め、シャーリーはさっきまで叩かれたと訴えていたことなど忘れたかのように朝食を頬張っている。
そんな中。
『お兄ちゃん』
「ん?」
『頬痛いから、ご飯食べられない』
「頬とご飯を食べることは、あんまり関係ないと思うけど」
『痛い』
シャーリーはじっと亮人を見上げた。
「……はいはい」
その視線に負けた亮人は、シャーリーの茶碗を手元へ寄せる。
一口分のご飯を箸で取り、そのまま口元へ運んだ。
「ほら」
『あーん』
シャーリーは嬉しそうに口を開け、ご飯を頬張る。
続いて亮人が鮭を一口分だけ箸で切り分けて差し出すと、それも迷いなく食べた。
『美味しい』
「それなら、もう自分で食べられるよね?」
『まだ痛い』
「本当に?」
『本当』
シャーリーは再び右頬へ手を当て、いかにも痛そうな顔を作る。
ただ。
向かい側に座っている礼火と氷華には、その口元がほんの少しだけ緩んでいることが、しっかり見えていた。
「…………ずるい」
『……ずるいわね』
「え?」
亮人が顔を上げる。
食卓の向こう側では、礼火と氷華がほとんど同じ表情でシャーリーへ冷たい視線を向けていた。
『羨ましい?』
シャーリーが小さく笑う。
「シャーリーちゃん」
『何?』
「もう頬から手、離れてるよ」
『…………』
指摘された瞬間。
シャーリーは慌てて右頬を押さえ直した。
『い、痛い! 急にまた痛くなってきた!』
『分かりやすすぎるでしょう!』
「シャーリー!」
『だって、お兄ちゃんに食べさせてもらいたかったんだもん!』
「俺を巻き込まないでよ……」
亮人は困ったように頭を抱えた。
氷華が呆れ、礼火が頬を膨らませ、シャーリーは悪びれる様子もなく楽しそうに笑っている。
そのやり取りを聞いているうちに、亮人も自然と笑っていた。
土曜日の朝。
学校へ行く必要もなく、いつもより少し遅く始まった朝食。
誰かの寝相が悪かっただの、食べさせてもらうのがずるいだの、そんな大した意味もないことで言い合いながら、それでも四人が同じ食卓を囲み、次の瞬間にはまた笑っている。
一人だった頃には考えもしなかった時間だった。
朝食は、食べるためだけのものだった。
学校へ行く前に腹を満たし、使った食器を片付け、それで終わるはずの時間だったのに、今では誰かが食べる速度を気にし、誰かが自分の皿から一口欲しがり、味付け一つ違うだけで声が飛び交う。
亮人がずっと望んでいたものが、どんな形をしているのか。
もし以前の自分に尋ねられても、きっと上手く答えることはできなかっただろう。
けれど、今なら少しだけ分かる気がした。
大きな家でもなく。
立派な食卓でもない。
誰かと同じ時間に起きて、同じ料理を食べながらくだらない話をして、時には呆れたり笑ったりできること。
それだけで十分だった。
「……何笑ってるの、亮人」
「ん?」
『また一人で変なこと考えてたんじゃない?』
『お兄ちゃん、鮭おかわり!』
「ほら、やっぱりシャーリー頬痛くないじゃん」
『あっ』
「やっぱり嘘だったんだ」
『ち、違うよ! 鮭なら食べられるくらい治ったの!』
『都合よすぎない?』
「本当に分かりやすいね……」
三人から一斉に突っ込まれ、シャーリーが慌てて言い訳を始める。
また笑い声が重なった。
朝日が大きな窓から差し込み、湯気の立つ味噌汁や焼き鮭の並んだ食卓を柔らかく照らしている。
そんな穏やかな朝だったからこそ。
誰一人として気づいていなかった。
窓の向こう。
朝露の残る庭の、そのさらに奥。
相馬家の敷地の中に、本来いるはずのない一つの影が、いつからか静かに立っていることに。
その影は騒ぐことも、家へ近づくこともなく。
ただじっと。
明るい窓の向こうで笑う亮人たちを見つめ続けていた。




