襲撃者Ⅱ
『――ウェアウルフ』
その声が聞こえた瞬間、それまで楽しそうに朝食を頬張っていたシャーリーの身体が、何かに縫い止められたようにぴたりと止まった。
つい数秒前まで、亮人に食べさせてもらった鮭を嬉しそうに味わい、礼火や氷華と言い合いながら尻尾まで楽しげに揺らしていたというのに、その表情から笑みが一瞬にして消え失せる。箸を握った手は空中で止まり、僅かに見開かれた琥珀色の瞳だけが、リビングの大きな窓へまっすぐ向けられていた。
「シャーリー?」
突然の変化に気づいた亮人が名前を呼ぶ。
けれど、返事はない。
普段ならどれだけ食事へ夢中になっていても、『お兄ちゃん』と呼びながらすぐ振り向く少女が、今だけは亮人の声さえ耳に届いていないかのように窓の向こうを凝視している。耳は警戒するように立ち、先ほどまで機嫌よく揺れていた尻尾も動きを止めていた。
その姿を見た亮人の表情からも、自然と笑みが消えていく。
『ウェアウルフ。出てきなさい』
もう一度。
今度は聞き間違えようもないほど、はっきりと声が響いた。
「……え?」
礼火の箸が止まる。
昨日までの彼女なら決して聞くことのできなかったはずの声だった。だが今は違う。シャーリーとの接触をきっかけに、それまで閉じていた妖魔への認識が開いた礼火の耳にも、声は人間のものと変わらない明瞭さで届いている。
「今の……誰?」
戸惑いながら周囲を見回す礼火の隣で、氷華は何も答えないまま静かに椅子から立ち上がった。
その顔には、先ほどまで朝食を楽しんでいた柔らかな空気など残っていない。
視線はすでに声の主がいる場所を捉えていた。
『外よ』
「外?」
亮人も氷華の視線を追うようにして、リビングの大きな窓へ顔を向けた。
朝日が差し込む相馬家の庭。
普段なら風に揺れる木々や手入れされた芝生が広がるだけの静かな場所に、今は明らかにそこへいるはずのない巨大な影が立っていた。
「……なに、あれ」
礼火が呆然と呟く。
庭の中央付近にいたのは、巨大な狐だった。
四足で立っているにもかかわらず、人間など容易に見下ろせるほどの巨体。その全身を覆う毛並みが朝日を受けて淡く輝き、背後では一本や二本では数え切れない、九本もの太い尾がゆったりと揺れている。
さらに異様なのは、その尾の先だった。
青白い炎が、風に消されることもなく静かに灯っている。
確かに燃えているはずなのに、暖かさを感じさせるどころか、窓越しに見ているだけで背筋へ冷たいものが這い上がってくるような、ぞっとする気配を放っていた。
妖魔という存在について、まだほとんど何も知らない礼火でさえ、目の前のものが普通の獣ではないことくらい一目で分かった。
『……九尾』
シャーリーの口から、掠れた声が零れる。
「九尾……?」
亮人はその言葉を繰り返した直後、以前シャーリーから聞いた話を思い出した。
日本へ来る前。
アメリカで、自分と同じように妖魔を認識できる人間と出会ったこと。
自分を見られる人間なら、亮人のように受け入れてくれるかもしれないと期待したものの、その人間はシャーリーを捕らえようとし、逃げた彼女へ巨大な狐の妖魔を差し向けた。
シャーリーはその妖魔から必死に逃げ続け、最後には左肩へ深い傷まで負わされている。
そして彼女は、その狐について確かにこう話していた。
尾が、たくさんあった、と。
「まさか……あれが」
『お兄ちゃん』
シャーリーが、亮人の服を強く掴んだ。
振り返れば、いつもならどれだけ危険な相手を前にしても強気に振る舞う少女の指先が僅かに震えている。亮人を見上げる琥珀色の瞳にも隠しきれない恐怖が滲み、先ほどまでの無邪気な姿が嘘だったかのように、身体全体が強張っていた。
『あいつだよ。シャーリーを追いかけてきた妖魔』
「…………」
その一言で、亮人の中に残っていた疑問がすべて繋がった。
アメリカから日本まで逃げるきっかけとなり、左肩へ今も残るほどの傷を負わせた存在。
シャーリーがあれほど嫌がり、思い出すだけでも声を震わせていた相手が、今、自分たちの家の庭に立っている。
つい数秒前まで笑い声に包まれていた食卓から、穏やかな空気が一瞬にして消え去った。
『ウェアウルフ』
九尾が、改めてシャーリーを呼ぶ。
声を荒らげているわけではない。
威嚇するように牙を剥いているわけでもない。
それでも、その静かな声音には相手の拒絶など最初から考慮していないような、逆らうことを許さない冷たい圧力が込められていた。
『あなたを迎えに来たわ』
『嫌』
シャーリーは即座に答えた。
恐怖で身体を強張らせながらも、その返事に迷いだけはなかった。
『シャーリーは行かない。ここにいる。お兄ちゃんと一緒にいる』
そう言いながら、亮人の服を掴む手へさらに力を込める。
亮人の服に小さな皺ができるほど強く握っていても、シャーリーは離そうとしなかった。
しかし、九尾の態度は変わらない。
『あなたの意思を聞きに来たわけじゃないの』
「待って」
亮人は椅子から立ち上がった。
『亮人』
氷華が警戒を含んだ声で名前を呼ぶ。
奇しくも今朝、二人で話していたばかりだった。
シャーリーを追っている相手が諦めていないのなら、いつかこの家まで辿り着く可能性がある。その時には、亮人自身も巻き込まれるかもしれないと氷華は心配していた。
まさか、その話を交わした数十分後に現実になるなど、誰も想像していなかった。
それでも亮人は下がらなかった。
自分の服を掴み、震えているシャーリーを庇うように一歩前へ出る。
「シャーリーは行きたくないって言ってる」
『…………』
「だったら、無理やり連れていくのは駄目だよ」
それまでシャーリーだけを見据えていた九尾の細い瞳が、ゆっくりと亮人へ向けられた。
『人間』
「なに?」
『あなたには関係ないわ』
「あるよ」
亮人は、ほとんど間を置かずに答えた。
目の前にいる相手が、自分とは比べ物にならない力を持つ妖魔だということは見ただけでも分かる。
それがシャーリーを追い詰め、深い傷まで負わせた相手だということも、今は知っている。
それでも不思議なほど、声は落ち着いていた。
『何ですって?』
「俺には関係ある。シャーリーは俺の家族だから」
その言葉を聞いた瞬間、九尾の九本の尾が僅かに揺れた。
先端へ灯っていた青白い炎も呼応するように一度だけ大きく燃え上がり、朝の穏やかな庭へ似つかわしくない、重く冷たい気配が広がっていく。
窓一枚を隔てているにもかかわらず、礼火は無意識に息を呑んだ。
けれど亮人は視線を逸らさない。
背後ではシャーリーが服を握ったまま顔を上げていた。
先ほどまで恐怖に揺れていた琥珀色の瞳へ、ほんの少しずつではあるものの、別の色が戻ってくる。
『お兄ちゃん……』
小さな声だった。
けれど、その一言だけで亮人には十分だった。
改めて九尾をまっすぐ見据える。
「シャーリーが自分から行きたいって言うなら、俺は止めないよ。シャーリー自身が決めたことなら、その気持ちはちゃんと尊重する」
亮人は一度、背後のシャーリーへ視線を向けてから続けた。
「でも、本人が嫌だって言ってるのに、誰かが勝手に連れていくのは違う」
『…………』
「だから、シャーリーを渡すことはできない」
庭へ、重い沈黙が落ちた。
九尾は何も言わず、ただ亮人を見つめ続けている。
怒っているのか。
呆れているのか。
それとも亮人の言葉を確かめるように観察しているのか。
獣の顔から、その感情を正確に読み取ることはできなかった。
ただ九本の尾に灯った青白い炎だけが、内側にある感情を映すように揺らめき、ときおり僅かに強くなる。
氷華もすでに亮人の隣へ立ち、いつでも動けるよう九尾を警戒している。
礼火は何が起きても逃げられるよう椅子から立ち上がったものの、昨日初めて妖魔を認識できるようになったばかりの自分に何ができるのか分からず、それでも亮人たちから離れようとはしなかった。
シャーリーだけは、亮人の背後で服を掴み続けている。
誰も次の言葉を発さない。
朝の庭を鳥の鳴き声と風だけが通り抜けていく中、張り詰めた空気は少しずつ重さを増していった。
そんな時だった。
「やっぱり、そう言うんだな」
九尾とは違う声が、庭の奥から聞こえた。
「――っ?」
亮人が反射的にそちらへ顔を向ける。
巨大な九尾のさらに後ろ。
庭の端に植えられた木々が作る朝の影、その奥から一人の小柄な少年がゆっくりと姿を現した。
背丈だけを見れば、亮人より明らかに小さい。
けれど顔から身体までほとんどを布で覆っているため、その素顔はもちろん、正確な年齢さえ分からない。
少年は慌てる様子もなく九尾の横まで歩いてくると、そこで足を止めた。
「…………」
亮人は無言のまま、その姿を見つめる。
シャーリーの身体が、さらに強張った。
『……こいつ』
掠れた声が背後から聞こえる。
その反応だけでも、亮人には十分だった。
九尾と行動を共にし。
シャーリーが姿を見ただけでこれほど怯える相手。
そして何より、普通の人間なら認識することすらできないはずの九尾の隣へ、何の迷いもなく立っている少年。
亮人の脳裏へ、シャーリーから聞いたもう一人の存在が浮かぶ。
アメリカで出会った。
自分以外の。
妖魔を見ることのできる人間。
「君が……」
亮人が小さく口を開く。
「シャーリーを追ってた人?」
「…………」
少年は答えなかった。
ただ布の隙間から覗く目だけを亮人へ向け、その姿を値踏みするように静かに見つめている。
一週間。
遠くから観察し続けてきた相手。
妖魔と同じ家で暮らし、料理を作り、笑い合い、家族と呼ぶ人間。
少年にとって理解できず、そして何より見ているだけで胸の奥を掻き乱される存在が、今ようやく目の前にいる。
やがて少年は、亮人からその背後にいるシャーリーへ視線を移し、再び亮人へ戻した。
「相馬亮人」
「……俺の名前、知ってるんだ」
「調べた」
短い返事だった。
その言葉だけで、亮人の表情が僅かに険しくなる。
偶然ここを見つけたわけではない。
この少年は、自分たちについて調べたうえでここへ来ている。
「一週間見てた」
「一週間……?」
「ああ」
少年は悪びれる様子もなく答えた。
「お前がそいつらと何してんのか。どういうつもりで妖魔を家に置いてんのか、ずっと見てた」
『……ずっと?』
氷華の声にも警戒が滲む。
けれど少年は氷華へほとんど視線を向けず、亮人だけを見ていた。
「見てれば分かると思った」
「何が?」
「お前が何のために妖魔を使ってんのか」
「使う?」
亮人の眉が僅かに寄った。
その一言だけで、少年と自分では根本的な考え方が違うことが何となく分かった。
「でも」
少年が続ける。
「何もしてなかった」
「…………」
「命令もしてねぇ。何か探させてるわけでもねぇ。戦わせてもねぇ。それどころか飯作って、服まで用意して、名前つけて……同じ家で笑ってやがる」
吐き出される言葉には、少しずつ苛立ちが混ざり始めていた。
「俺には分かんねぇよ」
「何が?」
「なんで妖魔をそんなふうに扱える」
亮人はすぐには答えず、少年の目を見つめた。
そこにあるのは、単なる敵意だけではなかった。
怒っている。
嫌悪している。
けれど同時に、何かを必死に否定しようとしているようにも見える。
亮人にはその理由までは分からない。
ただ。
少年が自分を見ているようで、その実、もっと別の何かを見ているような気がした。
「扱うっていう言い方は、あんまり好きじゃないかな」
「は?」
「氷華もシャーリーも、俺の物じゃないから」
『亮人……』
「一緒に暮らしてるだけだよ」
亮人はごく自然に答えた。
「家族として」
その言葉を聞いた瞬間。
少年の目つきが、明らかに変わった。
「……家族」
低く繰り返す。
それだけで庭の空気がさらに重くなったように感じられた。
亮人はまだ知らない。
その言葉が。
目の前の少年にとって、どれほど重く。
そして、どれほど痛みを伴うものなのか。
ただ、自分とはまったく違う方法で妖魔と関わってきた少年との出会いが、この瞬間ようやく始まろうとしていた。




