恋敵Ⅵ
相馬家の食卓には、その夜も楽しそうな笑い声が絶えることなく響いていた。
氷華が亮人へ呆れたように何かを言えば、すぐにシャーリーが横から口を挟む。今日になって初めて二人の姿を認識できるようになった礼火も、まだ多少の戸惑いを残しながら自然と会話へ加わっていた。
三人から次々と言葉を投げかけられる亮人は、時折困ったように眉を下げながらも、その表情には隠しきれない楽しさが浮かんでいた。
一か月ほど前まで、この広すぎる家で亮人がほとんど一人きりの食事を続けていたとは思えないほど、今の相馬家は賑やかになっている。
血の繋がりがあるわけではない。
同じ種族ですらない。
それでも、同じ食卓を囲み、くだらないことで笑い合い、互いの名前を呼びながら食事をするその光景だけを見れば、そこにあるものを家族と呼ぶことに何の違和感もなかった。
けれど。
そんな穏やかな時間を、遠く離れた場所から一週間もの間見つめ続けている者がいることを、亮人たちはまだ知らなかった。
◇
夜の住宅街。
相馬家から少し離れた場所に建つ建物の屋上に、一人の小柄な少年が立っていた。
顔から身体までを以前と変わらず布で覆い、その素顔も体格も外からはほとんど分からない。すぐ傍らには九本の尾を持つ巨大な九尾が静かに佇み、冷たい夜風に煽られるたび、豊かな尾がゆっくりと波打つように揺れていた。
二人が相馬家を見つけてから、すでに一週間が経っている。
少年は自分で決めた通り、すぐに行動を起こすことはなかった。
朝になれば亮人が礼火と並んで学校へ向かい、放課後には二人で帰宅する。日によってはそのまま買い物へ出掛け、夕方になれば両手に荷物を抱えて戻ってくることもあった。
亮人がいない間、家の中では雪女とウェアウルフが過ごしている。
外へ出ることもあれば、家の中で料理や掃除を手伝おうとしている時もあり、夕方になれば二人とも亮人の帰りを待つように玄関や窓の方へ意識を向けることが多かった。
一週間。
少年はただ遠くから、その生活を観察し続けた。
最初は、亮人が二体の妖魔をどのように利用しているのか確かめるためだった。
普通の人間には姿を見ることのできない妖魔を認識できる人間が、二体もの妖魔を自宅へ置いている。
そこには何かしらの目的があるはずだと少年は考えていた。
力を使わせているのか。
何かを探させているのか。
それとも、自分と同じように妖魔を管理し、自分のために働かせているのか。
そうでなければ、人間が妖魔をすぐ傍へ置く理由などない。
少年にとっては、それが当たり前だった。
ところが。
一週間見続けても、少年が想像していたような光景は一度として現れなかった。
「……九尾」
『何?』
「あいつ、やっぱりおかしいよな」
少年は相馬家の窓の向こうを見つめたまま、小さく笑った。
「あれだけ妖魔を従わせられる立場にいるのに、命令もしない。飯を作って、服まで用意して……名前までつけてる」
『…………』
「そのうえ、掃除をしてもらっただけで、あんなに嬉しそうな顔してやがる」
窓の向こうでは、亮人がシャーリーに何かを言われたらしく、少し困ったような顔で笑っていた。
その隣では氷華も何かを言い、礼火まで会話へ加わっている。
「馬鹿みたいだ」
『そうかしら』
「そうだろ」
少年は、疑う余地などないというように答えた。
「妖魔なんて、ちゃんと従わせればいいだけなのに」
『あなたは、そう考えるのね』
「人間と妖魔は同じじゃない」
その言葉に迷いはなかった。
少年の中では、何度考え直しても変わることのない前提だった。
「妖魔は人間より遥かに強い。放っとけば、その力で好き勝手する奴だっている。そんなのを野放しにするくらいなら、制御できる人間が管理した方がいいに決まってるだろ」
それが少年にとっての常識だった。
妖魔を無条件に信用することも。
同じ食卓を囲むことも。
自分が帰る場所で待っていてもらい、くだらないことで笑い合うことも。
そして何より、妖魔を人間と同じように家族として扱うことなど、少年には理解できなかった。
いや。
理解してしまうことそのものを、拒んでいるようにも見えた。
「なのに、あいつは……」
少年の視線が、また相馬家へ戻る。
四人が同じ食卓を囲んでいた。
その中心で、亮人が笑っている。
「家族みたいな顔してやがる」
『…………』
「ほんと、馬鹿げてる」
少年の口から、乾いた笑いが漏れた。
「はは……」
九尾は何も言わず、隣に立つ少年の横顔を静かに見つめていた。
確かに笑っている。
けれど、楽しいから笑っているわけではないことくらい、長く彼のそばにいる九尾には分かっていた。
「ハハハ……本当に――」
その笑いは途中で途切れた。
冷たい夜風が屋上を吹き抜け、少年の身体を覆う布を僅かに揺らす。
次に口を開いた時には、先ほどまで声に混じっていた軽さは完全に消えていた。
「……反吐が出る」
『…………』
九尾の耳が僅かに動いた。
「ああいう奴を見てると、反吐が出るんだよ」
少年の拳がゆっくりと握り込まれていく。
「妖魔と一緒に笑って、家族だとか言って……何も知らないくせに、幸せそうな顔してる」
吐き出す言葉が増えるほど、その拳へ込められる力も強くなる。
「あいつは何も分かってない」
低い声だった。
炎が現れたわけでも、何か特別な力が漏れ出したわけでもない。
それでも九尾には、少年の全身から黒い炎でも立ち上っているかのような、息苦しいほどの感情が伝わっていた。
怒り。
嫌悪。
憎しみ。
けれど、そのさらに奥には、それだけでは説明できないほど深く、重い何かが沈んでいる。
「……同じことを繰り返させるわけにはいかない」
『…………』
九尾は、その言葉に返事をしなかった。
少年が何を「同じこと」と呼んでいるのか。
そこにどんな記憶が結びついているのか。
九尾だけは知っている。
「ウェアウルフを連れ戻すだけじゃ駄目だ」
『どうして?』
「あいつがいるからだよ」
少年は迷うことなく相馬家を指した。
「ウェアウルフを連れ戻しても、あいつが妖魔を家族だなんて考え続けるなら、また同じことを繰り返す」
『相馬亮人が?』
「ああ」
一週間。
観察するだけなら、もう十分だった。
少年は相馬家に暮らす人間の名前まで調べている。
「相馬亮人」
その名を口にした瞬間、少年の表情が僅かに歪んだ。
「俺はあいつが嫌いだ」
『…………』
「妖魔と一緒にいながら、何も知らない顔で笑ってる。自分たちは家族だから大丈夫だって、本気で思ってる」
『実際、あのウェアウルフは――』
「分かってるよ」
少年が九尾の言葉を遮った。
「少なくとも今は、あいつに傷つけられてない」
『…………』
「それどころか……」
言葉にすることさえ不愉快なのか、少年の眉間へ僅かに皺が寄った。
「あいつのそばにいるウェアウルフは、笑ってる」
アメリカで一度。
東京でも一度。
自分たちから必死に逃げ続けたウェアウルフ。
警戒し、怯え、傷を負ってもなお逃げ続けた少女が、今は亮人の隣で何の警戒もなく笑っている。
亮人が名前を呼べば振り返り、食事を作れば嬉しそうに食べ、朝になればその家で目を覚まし、夜になれば同じ場所へ戻っていく。
相馬家を、自分の帰る場所として過ごしている。
一週間という時間を使ってそれを見続けた以上、その事実まで否定することはできなかった。
「……だから余計にムカつく」
『どうして?』
「分かんねぇよ」
吐き捨てるような返事だった。
九尾はそれ以上すぐに問い返すことなく、静かに少年を見つめる。
分からない。
そう口にした少年自身が、本当はその理由を誰より理解しているはずだった。
ただ、それを言葉にして認めることができないだけなのだ。
『ねえ』
「何?」
『あなたが相馬亮人を止めたいのは』
九尾の九本の尾が夜風の中でゆっくりと揺れた。
『本当に、ウェアウルフのため?』
「…………」
『それとも』
九尾も少年と同じように相馬家へ目を向ける。
『あの子を見ていると、昔の自分を思い出すから?』
その瞬間。
空気が変わった。
少年の口元に僅かに残っていた笑みが完全に消え、隠しきれないほど鋭い拒絶がその目に浮かぶ。
「九尾」
『何?』
「余計なこと言うな」
声を荒らげたわけではなかった。
それでも、その短い言葉だけで十分だった。
これ以上そこへ触れるな。
はっきりとした拒絶だった。
『……分かったわ』
九尾も、それ以上踏み込むことはしなかった。
九本の尾の先へ、小さな青い炎が灯る。
怒りや苛立ちといった感情が昂った時に現れる炎だったが、その感情が相馬亮人へ向けられたものなのか、それとも目の前で過去から逃げ続ける少年へ向けられたものなのか、九尾自身にもはっきりとは分からなかった。
「九尾」
『何?』
「手伝え」
『…………』
「あいつを止める」
九尾はすぐには返事をしなかった。
「必要なら、力ずくでも」
『そこまでやるつもり?』
「あいつ次第だ」
少年は感情を押し込めるように淡々と答える。
「俺たちの邪魔をしないなら、それでいい。ウェアウルフを渡して、妖魔との関わりをやめるなら何もしない」
『……あの人間が、それを受け入れると思う?』
「知らねぇ」
『一週間も見てたのに?』
「…………」
少年は答えなかった。
けれど、その沈黙そのものが答えだった。
一週間。
あの家を見続けたからこそ、少年にも分かっている。
亮人はウェアウルフを簡単に手放さない。
シャーリーを道具として置いているわけでも、力を利用するためにそばへ置いているわけでもない。
雪女も同じだった。
相馬亮人は、本気で二人を家族だと思っている。
『……あの人間』
「何?」
『少なくとも、ウェアウルフを道具として扱ってはいないわ』
「分かってる」
『なら――』
「だからって、正しいとは限らねぇだろ」
少年は九尾へ顔を向けた。
「優しくしてれば全部うまくいくなんて、そんな甘ぇ話じゃない」
『…………』
「妖魔と人間は違う。それを忘れたら、いつか必ず――」
そこまで言って、少年は口を閉ざした。
続きは言わない。
いや。
口に出せば、自分自身が見ないようにしてきた記憶まで引きずり出されることを分かっているからこそ、言えないようにも見えた。
九尾は何も聞かなかった。
「九尾」
『何?』
「どっちの味方なんだ?」
唐突な問いに、九尾は少しだけ目を見開いた。
『…………』
「ウェアウルフはあの家で笑ってる。あの人間も、ウェアウルフを傷つけてねぇ」
『ええ』
「それでも」
少年は九尾を真っ直ぐ見つめる。
「お前はどっちにつく?」
冷たい夜風だけが、二人の間を抜けていった。
九尾はしばらく少年を見つめていたが、やがてゆっくりと目を閉じる。
『あなたよ』
迷いはなかった。
『私はあなたのそばにいる』
「……ならいい」
『でも』
「まだ何かあんの?」
『無茶だけはしないで』
「またそれか」
『何度でも言うわよ』
「お前に心配される筋合いねぇよ」
『そうね』
九尾は小さく笑った。
『それでも心配するの』
「変な奴」
『あなたにだけは言われたくないわ』
ほんの一瞬だけ。
二人の間に、いつもの空気が戻った。
長い時間を共にしてきたからこそ成立する、互いの性格を知り尽くした軽いやり取りだった。
けれど少年が再び相馬家へ視線を戻した瞬間、その空気はすぐに消えてしまう。
「明日」
『え?』
「動く」
少年は屋上の床からゆっくり立ち上がった。
「一週間見た。もう十分だ」
『…………』
「まずウェアウルフを連れ戻す」
相馬家を見つめる少年の目が細くなる。
「そのあと、相馬亮人と話す」
『話すの?』
「ああ」
『いきなり戦うんじゃなくて?』
「俺だって意味もなく人間と戦いてぇわけじゃねぇ」
少年は相馬家から目を離さないまま答える。
「あいつが妖魔から離れるなら、それで終わりにする」
『離れなかったら?』
「…………」
僅かな沈黙。
けれど、答えそのものに迷いはなかった。
「止める」
『…………』
「必要なら、力ずくでも」
少年の拳が、もう一度強く握られる。
一週間。
毎日のように見続けてきた相馬家。
窓の向こうでは今も、亮人が氷華たちと笑っていた。
その光景を見つめながら、少年は誰に聞かせるわけでもなく、小さく口を開く。
「俺みたいなやつを、これ以上増やさないために……」
声そのものは静かだった。
怒鳴ったわけでも、憎しみを露わにしたわけでもない。
それでも、その一言だけは、それまで少年が口にしてきたどの言葉よりも重く、長い時間を経ても消えることのなかった何かを抱えていることが伝わるものだった。
九尾は何も答えなかった。
少年がまだ幼かった頃から、その過去を知っている彼女だからこそ、簡単な慰めや否定を口にすることはできなかった。
やがて九尾が少年の前へ身体を屈める。
少年がその背へ乗ると、九本の尾が支えるようにゆっくりと持ち上がった。
『行くわよ』
「ああ」
九尾が屋上の縁を蹴る。
巨大な身体が闇へ向かって躍り出し、九本の尾の先へ灯った青い炎が、夜の住宅街へ一瞬だけ長い軌跡を残した。
次の瞬間には、その姿も炎も建物の向こうへ消え、二人の気配は夜そのものへ溶け込むように住宅街から遠ざかっていった。
◇
少年と九尾が去ったあとも、相馬家では何一つ変わることなく、楽しそうな会話が続いていた。
『お兄ちゃん、それ一口ちょうだい!』
「シャーリー、それ俺のハンバーグだからね?」
『一口だけ!』
「シャーリーちゃん、私の少しあげようか?」
『ほんと!? 礼火いい人!』
『ちょっとシャーリー、食べすぎよ』
「氷華も食べる?」
『……少しだけ』
「氷華も食べるんじゃん」
『いいでしょ、別に』
亮人が笑えば、礼火もつられるように笑う。
氷華は少し照れたように視線を逸らしながら亮人から分けてもらったハンバーグを口へ運び、シャーリーはすでに次の一口を狙うように嬉しそうな顔で皿を見つめていた。
ほんの少し前まで、この食卓には存在しなかった光景。
誰かが誰かの皿を気にし、くだらないことで言い合い、そのたびにまた笑い声が上がる、何でもない夜の時間。
亮人たちはまだ何も知らない。
少し離れた建物の屋上から、その日常を一週間見続けていた者がいたことも、その少年が明日には自分たちの前へ姿を現すと決めたことも。
いつもと変わらない夜は、そのまま穏やかに過ぎていく。
けれど、その日常のすぐ外側ではすでに別の思惑が動き始めており、亮人とはまったく違うやり方で妖魔と関わり続けてきた少年との出会いは、もう避けられないところまで近づいていた。
明日。
相馬亮人がようやく手に入れ始めた家族の前へ。
妖魔を信じることができず、管理することでしか守れないと考える少年が現れる。
その出会いが、これまで少しずつ形を変えてきた亮人たちの日常を大きく揺らすことになるとは、この時の彼らはまだ誰も知らなかった。




