恋敵Ⅴ
礼火に氷華とシャーリーの姿が見えるようになってから、しばらくの間、相馬家のリビングには誰も状況を整理しきれない、何とも言い難い空気が流れていた。
ついさっきまで、礼火にとって二人はあくまで「この家のどこかにいるらしい存在」でしかなかった。亮人が誰もいないはずの場所へ向かって話しかけたり、何もないように見えるソファへ掛け布団を掛けたり、その布団が人の身体に沿うように不自然に膨らんだりする光景を目にして、ようやく本当に何かがいるのだと実感できた程度である。
けれど今は違う。
長い白髪を持つ少女と、金色の髪に狼の耳と尻尾を持った少女が、当たり前のように亮人と同じリビングにいる。表情も、仕草も、服装もはっきりと見え、先ほどまで聞き取ることのできなかった声まで、今では他の人間と同じように耳へ届いていた。
「……本当に見えてるんだよね?」
「だから見えてるってば。何回聞くの?」
何度目になるか分からない亮人の確認に、礼火はさすがに呆れたような顔をしたあと、彼の隣からほとんど離れようとしないシャーリーへ視線を向けた。
「金色の髪に黄色の目。見た目は中学生くらいで、さっきから亮人の近くを全然離れない子がシャーリーちゃん」
『子供じゃないもん』
「今、子供じゃないって怒った」
「声までちゃんと聞こえてる……」
礼火がシャーリーの言葉へ即座に反応したことで、亮人は改めて目の前の現象が本物なのだと理解する。
もう疑う余地はなかった。
ほんの少し前まで、氷華とシャーリーの姿はもちろん、その声さえ認識できなかった礼火が、今は二人の顔を見ながら会話している。そして、その変化が起きたのはシャーリーが礼火へ突然口づけをした、まさにその直後だった。
「でも、シャーリーがキスしただけで妖魔が見えるようになるっていうのは変だよね」
『私もそう思うわ』
氷華は腕を組み、どこか観察するような目で礼火を見つめた。
『そんな簡単な方法で私たちを認識できるなら、妖魔を見ることのできる人間がここまで珍しいはずないもの。誰かと口づけを交わすだけで視認できるようになるなら、とっくにもっと多くの人間が私たちの存在を知っているでしょうしね』
「じゃあ、礼火にも元々何かあったってこと?」
『可能性はあるわね』
「私に?」
礼火が自分自身を指差すと、氷華はしばらく考えるように彼女を眺め、それからゆっくり頷いた。
『妖魔を認識できる人間には、普通の人間とは少し違う何かがある。正確な仕組みまで分かっているわけじゃないけど、私たちは便宜上、それを視認因子みたいに考えてるの』
「視認因子……」
聞き慣れない言葉を確かめるように礼火が繰り返すと、氷華はそのまま説明を続けた。
『ただ、生まれた時からそれを強く持っている人間ばかりとは限らないらしいわ。何かのきっかけで認識できるようになる人間もいるし、同じような素質を持っていたとしても、一生こちら側を見ることなく終わる人間だっているかもしれない』
その説明を聞いていた亮人は、少し考えてから眉を寄せる。
「じゃあ、礼火も元々そういう何かを持ってた可能性があるってこと?」
『そうね。それに、妖魔を見られる人間が持っている何かが、身体を介した接触によって他の人間へ影響を残す可能性もあるとは言われてるわ。もちろん、それだけで誰でも妖魔を見られるようになるわけじゃないでしょうけど』
「身体を介してって?」
『例えば……唾液とか』
「「…………」」
亮人と礼火の動きが、ほとんど同時に止まった。
そして数秒もしないうちに、礼火の頬が分かりやすいほど赤く染まっていく。
『何、その反応』
「いや……」
「別に……」
『二人とも明らかに怪しいんだけど』
氷華が疑うように目を細めると、亮人と礼火は一度だけ互いの顔を見たものの、目が合った瞬間、示し合わせたかのように同時に視線を逸らした。
ずっと昔。
二人がまだ幼かった頃。
亮人と礼火は、一度だけ口づけを交わしたことがある。
これまでは幼い頃の思い出の一つでしかなく、わざわざ掘り返すような出来事でもなかった。けれど、もし亮人の身体に妖魔を認識するための何らかの素質があり、それが接触によって他者へ影響を残す可能性まで存在するのだとすれば、あの時の出来事もまったく無関係だとは言い切れなくなる。
『……なるほど』
氷華は二人の露骨な反応から何となく事情を察したらしく、呆れたように小さく息を吐いた。
『礼火の中には、ずっと前から亮人の視認因子みたいなものが残っていたのかもしれないわね』
「そんな昔のものが残るの?」
『知らないわよ。私だって視認因子について何でも知ってるわけじゃないもの。ただ、今ここで起きたことを説明しようとするなら、その可能性もあるってだけ』
「じゃあ、なんで今まで見えなかったの?」
『それも推測になるけど』
氷華はそこでシャーリーへ目を向けた。
『礼火の中に何かしらの素地があって、それが今まで眠ったままだったところへ、シャーリーとの接触が最後のきっかけになった……そう考えれば、一応は説明できるでしょうね』
『じゃあ、シャーリーのおかげ!』
「そこはまだ断定できないから」
『でもシャーリーがキスしたら見えるようになったよ?』
「結果だけ見ればそうなんだけどさ……」
得意げに胸を張るシャーリーを前に、亮人は困ったように笑うしかなかった。
少なくとも、シャーリーが誰にでも妖魔を見る能力を与えられるとは考えにくい。礼火自身にも以前から何らかの素地があり、今回の接触をきっかけとして、それまで閉じていた感覚が一気に開いたと考える方がまだ自然だった。
結局のところ、今の三人だけでは答えを出せそうにない。
そんな中、シャーリーは難しい話にはもう興味を失ったのか、亮人の服の袖を軽く引っ張った。
『それより、お兄ちゃん』
「ん?」
『礼火がシャーリーたちを見られるようになったなら、もう家の中でこそこそしなくていいんだよね?』
「ああ、それはそうだね」
これまでは礼火の前で食器が勝手に動いているように見えないよう食事の時間をずらしたり、二人がなるべく物へ触れないようにしたり、階段を上り下りする時でさえ音を気にしたりと、氷華とシャーリーにもかなり窮屈な思いをさせていた。
けれど、礼火が二人を認識できるようになった今なら、少なくともこの家の中でそうしたことを気にする必要はなくなる。
『じゃあ、ご飯もみんな一緒に食べられる!』
「それは俺も嬉しいかな」
亮人が笑うと、シャーリーも嬉しそうに尻尾を揺らした。
しかし。
『それなら、これからのことも礼火にちゃんと話せるね』
「これからのこと?」
『うん。シャーリーたち妖魔のこと』
シャーリーは何の悪気もなく、そのまま続ける。
『妖魔が子孫を残していくこと』
「…………え?」
礼火の表情が、そこで完全に固まった。
「ちょっと待って」
『なに?』
「今、妖魔が子孫を残していくことって言った?」
『いったよ?』
あまりにも当然のように答えられたため、礼火は一瞬どう反応すればいいのか分からなくなる。
亮人の方はというと、これから話が面倒な方向へ転がっていく気配を感じ取ったのか、さりげなく視線を逸らしていた。
「……それって、どういうこと?」
『そのままの意味だよ?』
「シャーリー」
『なぁに、お兄ちゃん?』
「説明は氷華に任せた方がいいと思う」
『なんで?』
「何となく」
『変なお兄ちゃん』
「亮人、逃げないで」
「逃げてないよ」
「じゃあこっち見て」
「……はい」
礼火からまっすぐ睨まれ、亮人は諦めたように身体ごと向き直った。
『まったく……』
そんな二人のやり取りを見ていた氷華が小さく息を吐く。
『妖魔にもいろいろな種族がいるけれど、中には人間との結びつきによって血を残してきた種族もいるのよ。私たちにとって、人間との関係が種の存続に関わる場合もあるってこと』
「人間との……」
礼火はそこで一度言葉を止めた。
そして亮人を見る。
氷華を見る。
シャーリーを見る。
最後に、もう一度亮人を見る。
「…………」
「礼火?」
「二人とも、亮人の家に住んでるよね?」
『そうね』
『うん!』
「亮人って……妖魔が見える人間だよね?」
『そうよ』
『そうだよ?』
「…………」
礼火の目が、少しずつ細くなっていく。
「まさかとは思うけど」
「礼火?」
「二人とも、その相手として亮人を考えてるの?」
『私は――』
『シャーリーはずっとお兄ちゃんと一緒にいるよ!』
「シャーリー!」
氷華が止めるより早く、シャーリーが元気よく答えてしまった。
「…………」
礼火の笑顔が消える。
代わりに、今朝から胸の奥へ引っかかっていた小さな違和感が、急にはっきりとした形を持ち始めた。
亮人に新しい家族ができた。
それだけでも、少し寂しかった。
けれど、この二人はただ一時的に亮人の家で暮らしているわけではなく、この先も彼の隣にいることを望んでいる。
しかも、その先には自分が考えていなかった未来まで存在しているのかもしれない。
『でもね、礼火』
氷華が先ほどまでより真剣な声で呼び掛けた。
「なに?」
『勘違いしないで。私たちが亮人のそばにいる理由は、それだけじゃないわ』
「……違うの?」
『少なくとも今の私は違う』
氷華は一度、亮人へ視線を向けた。
『最初は、人間と妖魔の関係をもっと単純に考えてた。でも今は、亮人だからこの家にいたいと思ってる』
「…………」
『名前をもらって、一緒にご飯を食べて、帰る場所までくれた。私が何者かなんて知ったあとでも追い出さないで、当たり前みたいにここにいていいって言ってくれた』
氷華の表情が柔らかくなる。
『だから私は亮人のそばにいる。妖魔だからとか、人間だからとか、そういう事情だけでこの家にいるわけじゃないわ』
『シャーリーも!』
シャーリーもすぐに声を上げる。
『シャーリーは最初からお兄ちゃんに会うために来たんだよ。お兄ちゃんじゃなきゃ意味ないもん』
「……そっか」
礼火は小さく呟いた。
二人の言葉を聞けば、利用するためだけに亮人のそばへいるわけではないことくらい分かる。
むしろ、自分が知らない間に二人は亮人と同じ家で時間を重ね、本当の意味で彼を大切に思うようになっていた。
だからこそ。
礼火の胸に残るものは、簡単には消えてくれなかった。
「でも」
『何?』
礼火は二人をまっすぐ見つめる。
「亮人の人生を、二人だけで勝手に決めるのは絶対に駄目だからね」
『決めるつもりなんてないわよ』
氷華は即座に答えた。
『そんなことをしたら、亮人に嫌われるでしょう?』
「だったらいいけど」
『それに、妖魔にとって子孫を残すことが大切な場合があるのは本当。でも、その事情と亮人自身の気持ちは別でしょう? 私たちがどう考えていても、亮人が望まないなら、それを無視してどうこうするつもりなんてないわ』
「…………」
以前の氷華なら、ここまで自然に言えたかどうかは分からない。
亮人と暮らし始めて、一か月近くが経った。
名前をもらい、一緒に食卓を囲み、帰れば「ただいま」と言える場所ができたことで、妖魔としての事情だけでは測れない感情が、氷華の中にも確かに生まれている。
「……それなら」
礼火の表情が少しだけ和らいだ。
「私も二人のこと、嫌いにはならない」
『最初から嫌われた覚えもないけど』
「さっきまで見えなかったんだから、そんなの分からないでしょ」
『それもそうね』
氷華は小さく笑った。
『せっかくだし、礼火には私たちについてもう少し詳しく話しておいた方がよさそうね』
『じゃあ、お兄ちゃんの部屋行こう!』
「なんで俺の部屋?」
『落ち着いて話せるから』
「まあ……荒らさないならいいけど」
『荒らさないわよ』
氷華とシャーリーは礼火を連れ、二階へ向かって歩き始めた。
亮人も一緒についていこうとしたものの、壁の時計を見れば、そろそろ夕食の準備を始めた方がいい時間になっている。
「俺はご飯作ってるよ」
『分かった! できたら呼んでね、お兄ちゃん!』
「はいはい」
三人が階段を上っていく姿を見送ってから、亮人は一人キッチンへ向かった。
◇
亮人の部屋では、氷華とシャーリーがこの一か月ほどの出来事を、順を追いながら礼火へ説明していた。
氷華が山奥の神社で亮人と出会ったこと。
妖魔という存在さえ知らなかった亮人が、事情を知ったその日のうちに氷華を家へ迎え入れたこと。
シャーリーが幼い頃に亮人と出会っていたことや、その記憶を頼りにアメリカからたった一人で日本まで彼を探しに来たこと。
もちろん、まだ詳しく話すべきではないこともあり、二人はすべてを余すことなく語ったわけではない。それでも、どうして二人がこの家で暮らすことになり、なぜここまで亮人を大切に思っているのかを理解するには十分な内容だった。
「……そっか」
一通り話を聞き終えた礼火は、ベッドの端へ腰を下ろしたまま、小さく息を吐いた。
「だから二人とも、あんなに亮人のことが好きなんだ」
『そうね』
『大好き!』
「シャーリーちゃんは迷わないね」
『だって本当だもん』
「そっか」
礼火は少し苦笑する。
けれど話を聞けば聞くほど、亮人が二人を放っておけなかった理由も理解できてしまった。
困っている誰かを見れば、自分とは関係ないと言って見捨てることができない。
自分のことよりも、相手が一人でいることや困っていることを気にしてしまう。
それは礼火が幼い頃から知っている亮人、そのものだった。
「……じゃあ私も言っておく」
『何を?』
礼火は氷華とシャーリーをまっすぐ見た。
「亮人を勝手にどこかへ連れていくのは絶対に駄目だから」
『しないって言ってるでしょう?』
「念のため」
『心配性ね』
「亮人のことだから」
『それなら分かるわ』
「そこで納得するんだ……」
『だって亮人、自分のことになると本当に無頓着じゃない』
『お兄ちゃん、すぐ無理するよ』
「……やっぱり二人もそう思ってたんだ」
『思うわよ』
三人の意見が、初めて綺麗に一致した。
ついさっきまで互いの距離を測っていたはずなのに、亮人の無茶についてだけは誰一人として異論がない。それがおかしくて、礼火は思わず笑ってしまった。
「私だって亮人のこと、大切だから」
『…………』
「幼馴染だからってだけじゃなくて……これからも、亮人のそばにはいたいって思ってる」
口に出した瞬間、礼火の頬が僅かに熱を持った。
それが恋なのか。
それとも十年以上一緒に過ごしてきた時間から生まれた、家族にも似た強い愛着なのか。
今の礼火自身にも、まだ明確な名前をつけることはできない。
ただ、氷華とシャーリーに亮人を任せ、自分だけがこれまでいた場所から離れていく未来を想像すると、それだけはどうしても嫌だった。
『なら』
氷華が僅かに挑戦的な笑みを浮かべる。
『これからは礼火も一緒に亮人の面倒を見ることね』
「望むところ」
『でも、お兄ちゃんの妹はシャーリーだからね』
「そこは別に取らないよ」
『よかった』
「そこまで心配してたの?」
『大事だから!』
つい少し前まで、互いを警戒していた三人。
けれど、こうして実際に言葉を交わしてみれば、少なくとも亮人を大切に思っているという一点だけなら、驚くほどよく似ているのかもしれなかった。
◇
「みんなー、ご飯できたよー!」
一階から亮人の声が聞こえてくる。
『できた!』
真っ先に反応したシャーリーが勢いよく立ち上がった。
『今日ハンバーグだよね!』
「そう言ってたね」
『早く行く!』
『ちょっとシャーリー、階段は走らないの!』
氷華も慌ててその後を追い、二人は賑やかな声を残しながら部屋を出ていった。
礼火も続いて廊下へ出ようとしたものの、扉の前でほんの一瞬だけ足を止める。
「……亮人のこと、大切なんだ」
ついさっき、自分自身の口から出た言葉を思い返す。
どうしてなのか。
胸の奥が、また少しだけ熱くなった。
「……何考えてるんだろ、私」
誰に聞かせるわけでもなく呟き、礼火は二人を追い掛けるように部屋を飛び出した。
◇
「礼火ー? 早くしないと礼火の分まで食べちゃうよー」
「今行くから絶対残して!」
階段を少し急ぎながら下りていくと、廊下では亮人が礼火を待っていた。
「そんなに急がなくても――」
亮人が言い終えるより先に、礼火は彼の制服の袖を掴んだ。
「礼火?」
何かを考えて、そうしたわけではなかった。
氷華とシャーリーの話を聞いて、二人が本当に亮人を大切にしていることを知った。
それでも。
自分だって亮人のそばにいたい。
これまで十年以上いた場所から、自分だけが離れていくのは嫌だった。
胸の奥に溜まっていた感情が、頭で考えるより先に身体を動かした。
礼火は僅かに背伸びをすると、ほんの一瞬だけ亮人の唇へ自分の唇を重ねた。
「――っ!?」
触れた時間は、本当に一瞬だった。
すぐに離れた礼火自身も、自分が何をしたのか理解した途端、首元まで一気に赤くなる。
一方の亮人は目を大きく見開いたまま、完全に動きを止めていた。
「……亮人の馬鹿!」
「なんで俺が怒られるの……?」
「知らない!」
『…………』
『…………』
食卓の近くまで来ていた氷華とシャーリーも、揃って言葉を失っている。
数秒。
最初に我に返ったのは氷華だった。
『礼火』
「な、なに?」
『今のはどういう意味かしら?』
「……わ、私だって」
恥ずかしさを誤魔化すように、礼火は少しだけ胸を張る。
「亮人の大切な人なんだから。それだけ!」
『ずるい!』
「何が!?」
『いきなりお兄ちゃんにキスした!』
「シャーリーちゃんにだけは言われたくない!」
『なんで!?』
『……はぁ』
氷華は何か言おうと口を開いたものの、まだ固まっている亮人を見て、途中で諦めたように息を吐いた。
『まあいいわ。亮人が完全に止まってるし』
「…………」
当の亮人は、いまだに廊下で呆然としている。
「亮人?」
「……なに」
「ご飯冷めるよ」
「誰のせいだと思ってるの……」
ようやく我に返った亮人は力なく肩を落とし、それ以上追及することもできないまま食卓へ向かった。
「とりあえず……ご飯にしよう」
『賛成!』
『そうね』
「私も」
「なんか三人、急に仲良くなってない?」
三人が一度顔を見合わせる。
『別に』
『仲良くないよ?』
「仲良くないから」
「そこだけ綺麗に揃うんだ……」
亮人は苦笑しながら自分の席へ腰を下ろした。
今日の夕食は、礼火が希望したハンバーグだった。
食卓には四人分の皿が並び、その足元ではクロが自分の食事を待つように尻尾を揺らしている。
「じゃあ、食べようか」
亮人の言葉を合図に、四人が揃って手を合わせた。
「いただきます」
『いただきます』
『いただきまーす!』
「いただきます」
これまで礼火には聞こえなかった二人の声が、今は同じ食卓のすぐ隣から聞こえてくる。
食器だけが勝手に宙へ浮かんでいるように見えることもない。
氷華がフォークで切ったハンバーグを口へ運び、シャーリーが嬉しそうに大きく頬張る姿も、その表情も、今では礼火の目にきちんと映っていた。
『美味しい』
『お兄ちゃん、おかわり!』
「まだ一口目でしょ」
「シャーリーちゃん、本当に食べるの早いね」
『礼火が遅いんだよ』
「私が普通なの!」
『じゃあ勝負する?』
「何を競うの!?」
『食べ終わる速さ!』
「しないよ!」
急に賑やかになった食卓を、亮人はしばらく何も言わず眺めていた。
正面には氷華。
その隣にはシャーリー。
そして礼火。
足元にはクロ。
ほんの少し前まで、この広すぎる家で食事をするのは亮人一人だった。
一人分の料理を作り、一枚の皿を並べ、食事が終われば一人で片付ける。テレビをつけなければ、食卓で聞こえるのは食器の音と自分の呼吸くらいで、それを寂しいと考えることさえいつの間にかなくなっていた。
それが今では、料理を出せば感想を言う相手がいて、おかわりを要求する声があり、くだらないことで言い合いを始める相手までいる。
「亮人?」
『亮人?』
『お兄ちゃん?』
三人がほとんど同時にこちらを見た。
「……いや」
亮人は目元へ浮かびそうになったものを、誰にも気づかれないよう指先で軽く拭った。
「何でもないよ」
「絶対何かあるでしょ」
『言いなさいよ』
『お兄ちゃん、隠し事はダメ!』
「三人とも、そういう時だけ仲良すぎない?」
困ったように笑う。
けれど、その笑顔に無理はなかった。
「たださ」
三人へ視線を向ける。
「俺も一緒にご飯食べてるんだから、ちゃんと会話に混ぜてよ」
一瞬、三人はきょとんとした顔をした。
それから。
ほとんど同時に笑い出す。
『自分から混ざればいいじゃない』
『お兄ちゃんが黙ってるからだよ』
「そうだよ、亮人」
「結局俺が悪いの?」
再び笑い声が上がった。
血が繋がっているわけではない。
同じ種族ですらない。
人間と、雪女と、ウェアウルフ。
そこへ一匹の黒猫まで加わった、少しどころではなく変わった四人と一匹の食卓。
それでも亮人には、もうこの時間を偽物だとは思えなかった。
一緒に笑って、くだらないことで言い合って、ときには相手のことで本気で心配して、最後には同じ家へ帰り、同じ食卓を囲む。
自分がずっと欲しかったものは、きっと豪華な家でも、決められた将来でもなく、こういう何でもない時間だったのだと思う。
「……いただきます」
「亮人、それ二回目」
「もう一回言いたくなったんだよ」
『変なの』
『お兄ちゃん変ー』
「二人に言われたくないよ」
また笑い声が響く。
以前はただ広く、静かすぎるだけだった相馬家。
その食卓には今、四人と一匹分の気配が満ちている。
誰かが笑い、誰かが文句を言い、その横では誰かが料理を頬張り、クロが自分の皿を前足で催促する。
特別なことなど何もない。
けれど、そんな何でもない時間こそが、亮人にとってはずっと手に入らなかったものだった。
自分が長い間望み続けてきた「家族」は、誰かに用意してもらうものではなく、こうして一緒に過ごす時間の中で少しずつ形を持ち始めている。
そのことに亮人自身はまだはっきりと気づいていなかったものの、四人と一匹の笑い声が途切れない食卓は、以前の相馬家にはなかった確かな温かさに包まれていた。




