居候は雪と狼
十一月下旬。
午前五時。
夜の気配を色濃く残していた空が、東の端からゆっくりと白み始めていた。太陽はまだ地平線の向こうに隠れたままで、住宅街には通勤する人の姿も、登校する学生の姿もほとんどなく、家々の屋根を冷たい朝の空気が静かに撫でている。
「んー……今日もいい天気になりそうだなぁ」
二階にある自室の窓辺で、カーテンを全開にした少年が大きく両腕を伸ばした。
名前は、相馬亮人。
十七歳、高校二年生。
起きてからそれほど時間が経っていないせいで黒髪には盛大な寝癖がついており、もともと眠たそうに見える目元は、気を抜けばそのままもう一度閉じてしまいそうなくらい重たげだった。細身ではあるものの痩せすぎているわけではなく、顔立ちも飛び抜けて整っているわけではないが、だからといって印象が悪いわけでもない。
良く言えば親しみやすく、悪く言えばどこにでもいそうな高校生。
そんな亮人は、一人で暮らすには少々どころか明らかに広すぎる一軒家で生活していた。
「なぁ、クロ。お前もそう思うだろ?」
「ニャッ」
腕の中に抱かれていた黒猫が、短く返事をする。
雌猫のクロ。
人間ではないとはいえ、亮人にとっては同じ家で暮らす大切な家族だった。
「ほら。朝焼け、結構綺麗だぞ」
「ニャー……」
「あれ?」
クロの前脚が、亮人の胸をぐいぐいと押し始める。窓の外の景色などどうでもいいと言いたげな反応に、亮人は腕の中の黒猫へ視線を落とした。
「もしかして、まだ眠い?」
「ニャッ!」
「ですよね」
次の瞬間、亮人の腕から器用に抜け出したクロは、そのまま一直線にベッドへ向かった。
ぴょん、と軽やかに飛び乗ると、まだ亮人の体温が残っている布団を前脚で掻き分け、もぞもぞと中へ潜り込んでいく。数秒もしないうちに身体のほとんどが見えなくなり、布団の端から黒い尻尾だけが覗く状態になった。
「……起こさない方がよかったかな」
その尻尾を眺めながら、亮人は少しだけ申し訳なくなる。
考えてみれば当然の話だった。
今は午前五時。
普通の高校生どころか、猫だって気持ちよく眠っている時間である。亮人にとっては昔から馴染みのある起床時間でも、それをクロまで共有する必要はどこにもない。
「たまには一緒に朝の景色を見たかったんだけどなぁ」
「…………」
「無視ですか」
返事はない。
完全に二度寝するつもりらしい。
「じゃあ、おやすみ」
布団から僅かに覗いていた頭を軽く撫でてから、亮人は静かに部屋を出た。
一階へ降り、そのままリビングへ向かう。
誰もいない広い室内には足音だけが小さく響き、亮人はテーブルの上に置かれていたリモコンを手に取るとテレビの電源を入れた。
「さて、と」
画面に映し出されたのは朝のニュース番組だった。
昨夜起きた事件、政治の動き、経済に関する話題。次々と切り替わっていく情報をなんとなく聞き流しながら、亮人は冷蔵庫を開けて牛乳を取り出した。
コップへ注ぎ、一口。
「ん……」
すぐには飲み込まず、口の中で少しだけ味を確かめるように転がしてから喉へ流し込む。
「微妙に味が落ちたような……?」
お気に入りの牛乳だった。
ほぼ毎朝飲んでいるせいなのか、銘柄が同じでもその日の状態による僅かな違いまで気づくようになってしまったらしい。
ちょうどその頃、テレビでは天気予報が始まった。
『本日の関東地方は、広い範囲で晴れるでしょう――』
「今日は快晴かぁ」
亮人はもう一口牛乳を飲み、窓の外へ視線を向ける。
「いい天気だね。毎日こんな感じだったら楽なんだけどな」
もちろん、返事を期待して口にしたわけではなかった。
いつもの独り言。
少なくとも亮人自身は、そのつもりだった。
『そうね』
「…………」
『なによ』
「いや、普通に返事が返ってきたなと思って」
『話しかけたのはあんたでしょ?』
「それもそうか」
亮人はあっさり納得すると、何事もなかったかのように牛乳をもう一口飲んだ。
そんな彼のすぐ隣には、一人の少女が立っている。
「それにしても……」
『なに?』
「もう少し離れてくれない?」
『どうしてよ』
「寒い」
『…………』
「すっごく寒い」
『仕方ないじゃない。私は雪女なんだから』
「それは知ってるんだけどさぁ」
亮人は自分の両腕を擦る。
少女が近くに立っているだけで、部屋の空気そのものが数度下がったように感じられるほど冷たい。
「せめて朝くらいは、ちょっと離れててほしいんだよね」
『なによ。私が邪魔ってこと?』
「そこまでは言ってないよ」
『じゃあいいじゃない』
「寒いのは変わらないんだけど……」
亮人の隣にいる少女は、人間ではない。
雪女だった。
透き通るような白い肌に、腰ほどまで伸びた白い髪。身に纏っている装束も雪を思わせるほど白く、見た目だけなら亮人と同年代の少女にしか見えない。
実際、本人も以前こう言っていた。
『私だって十七歳なんだから!』
ということらしい。
妖魔の年齢を人間と同じように数えていいのか、亮人には今ひとつ分からなかった。それでも本人が十七歳だと言い張っている以上、今のところはそういうこととして受け止めている。
そして、雪女の姿は普通の人間には見えない。
亮人自身も、少し前までは彼女たちの存在を目で捉えることができなかった。
それがある日突然、何の前触れもなく見えるようになった。
原因は分からない。
病院へ行ったところで説明できるはずもなく、神社へ相談したからといって明確な答えが得られたわけでもなかった。
それなら仕方がない、と亮人は考えた。
見えるものは見えるし、そこにいるものはいる。
理解できないからといって、目の前の存在まで否定する理由にはならない。
そんな流れの末、雪女と一緒に暮らし始めて今日で二週間になる。
「雪ちゃん」
『だからっ!』
「ん?」
『その呼び方やめなさいよ! なによ、雪ちゃんって!』
「雪女だから雪ちゃん」
『そのままじゃない!』
「覚えやすくていいと思うけど」
『よくないわよっ!』
雪女は頬を膨らませた。
『それより亮人。あんた、本当に分かってるの?』
「何が?」
『あんたが、私たちにとってどれだけ重要な人間なのかってことよ』
「ああ、その話?」
『その話よ!』
どうやら誤魔化されるつもりはないらしい。
雪女は亮人の正面へ回り込み、逃がさないと言わんばかりに顔を覗き込んでくる。
『前にも説明したでしょ?』
「うん」
『私たち妖魔はね――』
「俺みたいな人間を必要としてる」
『そう!』
「妖魔を見ることができる人間が少なくなってるから」
『そうよ!』
「それで俺は妖魔の女の子と子供を作って、種族を残すために協力する」
『そういうこと!』
「つまり婿養子みたいなものだよね」
『どうしてそんな軽いのよッ!?』
「違うの?」
『大筋では間違ってないのが余計に腹立つわね……!』
雪女が頭を抱える。
亮人としては、かなり真面目に聞いているつもりなのだが、どうにも彼女の求める反応とは違っているらしい。
『いい? そんな簡単な話じゃないのよ』
「うん」
『私たち妖魔の中には、人間との間に子供を残す種族もいる。でも、相手は誰でもいいわけじゃない』
「妖魔を見ることができないとダメなんだよね」
『そうよ。私たちの存在を認識できる人間じゃなきゃいけない。それなのに、最近はそういう人間そのものが少なくなってるの』
「なるほど」
『だから亮人みたいな人間は――』
「雪ちゃん」
『なによ』
「朝ごはん、何食べたい?」
『…………』
沈黙。
雪女はしばらく何も言わず、亮人をじっと見つめた。
「パンでもいいし、ご飯でもいいけど」
『…………』
「雪ちゃん?」
『なんで今その話になるのよッ!!』
「お腹空いてるかなと思って」
『完全に話を逸らしたでしょ!?』
「バレたかぁ」
『バレるわよ!』
亮人は苦笑しながら冷蔵庫を開ける。
「それで、何がいい?」
『まだ続けるの……?』
「朝ごはんは大事だからね」
『まったく……』
雪女は呆れたように息を吐いたものの、結局は亮人の質問へ答えることにしたらしい。
『だったら……焼き魚』
「焼き魚?」
『日本の朝ごはんらしくていいじゃない』
「じゃあ鮭にしようか」
『うん』
素直に頷いたあと、雪女は少しだけ言いづらそうに視線を逸らした。
『あとね』
「ん?」
『雪女だからって、冷たいものしか食べられないわけじゃないから』
「知ってるよ」
『本当に?』
「昨日も普通に温かい味噌汁飲んでたじゃん」
『…………そうだったわ』
「むしろおかわりしてたよね」
『それは言わなくてもいいでしょ!』
雪女の頬がわずかに赤くなる。
「じゃあ鮭と味噌汁。あとご飯でいい?」
『うん。それがいい』
「了解」
亮人は冷蔵庫から鮭を取り出し、調理の準備を始めた。
フライパンを取り出して火にかけ、冷蔵庫の中身を確認しながら味噌汁に使う具材も並べていく。その動きには慣れがあり、一人暮らしの長さを感じさせる程度には手際がいい。
「雪ちゃん、悪いんだけど食器出してもらえる?」
『どれを使えばいいの?』
「いつものやつでいいよ」
『わかった』
雪女は素直に食器棚へ向かった。
茶碗を二つ、味噌汁用のお椀も二つ、さらに焼き魚用の皿を取り出してテーブルへ並べていく。
そこまで終えたところで、何かを思い出したように動きが止まった。
『…………って』
「ん?」
『結局、話を最後まで聞いてないじゃない!』
「覚えてたんだ」
『忘れるわけないでしょ!』
「あはは」
『笑って誤魔化さない!』
「でも鮭、焦げちゃうから」
『むぅ……』
頬を膨らませた雪女だったが、それ以上は追及してこなかった。
その代わりに、料理を続ける亮人の横顔をじっと見つめる。
――どうして、こいつなんだろう。
そんな疑問が、もう何度目かも分からないほど頭の中へ浮かんでくる。
妖魔を見ることのできる人間。
自分たちにとって、とても重要な存在。
本来なら、その事実を知ればもっと慌ててもいいはずだった。怖がってもいいし、知らない存在に囲まれることを嫌がって逃げ出したとしても何もおかしくない。
なのに亮人は、いつもこんな調子だ。
「雪ちゃん、それ取ってもらえる?」
『え? あ、うん』
「ありがと」
『……どういたしまして』
あまりにも普通だった。
まるで自分が妖魔ではなく、本当にただ同じ家で生活している少女であるかのように接してくる。
特別扱いしない。
必要以上に怖がらない。
かといって、無関心なわけでもない。
それが雪女には、少しだけ不思議だった。
そして、ほんの少しだけ――居心地が良かった。
「焼き上がるまでテレビでも見ててよ」
『どうして?』
「味噌汁も作りたいから、一人の方が動きやすいんだ」
『私、邪魔?』
「キッチン狭いからね」
『……そう』
雪女は少し不満そうにしながらも、亮人の言う通りリビングへ向かう。
『なら、テレビ見てる』
「うん」
ソファへ腰を下ろし、リモコンを手に取る。
チャンネルを一つ変え、また一つ、その次へと切り替えていくが、どこを見ても天気やニュース、情報番組ばかりだった。
『朝って同じような番組ばっかりね』
「そういうものだよ」
『人間って毎朝こんなの見てるの?』
「人によるんじゃない?」
『ふーん』
テレビの操作にも、もうすっかり慣れている。
そんな雪女の姿を横目に見ながら、亮人は味噌汁を仕上げていった。
雪女と暮らし始めて二週間。
最初こそ、目に見えなかったはずの存在が家の中を歩き、自分と会話し、当然のように食卓へ座る生活には奇妙さを感じていた。
けれど人間というのは不思議なもので、毎日同じ景色を見ているうちに、それがどれほど常識から外れていても少しずつ日常へ変わっていく。
今では朝起きて雪女がいることにも、冷蔵庫の中身を一緒に確認することにも、彼女の分まで食事を用意することにも違和感を覚えなくなっていた。
「雪ちゃん、ご飯できたよ」
『ほんと?』
雪女がすぐに振り返る。
食卓には炊きたての白いご飯と、程よく焼き色のついた鮭、湯気を立てる味噌汁が並んでいる。決して豪華な食事ではないが、早朝の身体を目覚めさせるには十分な朝食だった。
『……美味しそう』
「口に出てるよ」
『いいでしょ、別に』
「別にいいけど」
二人は向かい合って席につく。
「いただきます」
『いただきます』
雪女はまず焼き鮭へ箸を伸ばし、一口分だけ身をほぐして口へ運んだ。
『ん……』
「どう?」
『美味しい』
「よかった」
『亮人って、料理は上手なのね』
「一人暮らし長いからね」
『褒めてるんだから、もう少し喜びなさいよ』
「じゃあ、ありがとう」
『……素直なのも調子狂うわね』
「どっちなの?」
『知らない』
そんな他愛のない会話を交わしながら、二人は朝食を食べていく。
焼き鮭を食べ、味噌汁を飲み、ご飯を口へ運ぶ。それだけの、ごく普通の朝食風景だった。
もし、この光景を見ることのできる人間がいたなら、二人のやり取りだけを見て「まるで新婚夫婦みたいだ」と冗談を言ったかもしれない。
もっとも、一人は普通の高校生で、もう一人は雪女。
しかも大半の人間には、その雪女の姿を見ることすらできないのだから、どう考えても一般的な朝食風景とは呼べなかった。
「ごちそうさま」
『ごちそうさまでした』
食事を終えた亮人が何気なく時計へ目を向けた。
そこで、表情が止まる。
「…………あ」
『どうしたの?』
「時間」
『時間?』
「学校」
雪女も時計を見る。
数秒後、ゆっくりと亮人へ顔を戻した。
『…………亮人』
「はい」
『あと何分?』
「かなり危ない」
『何してるのよッ! 早く準備しなさい!』
「そうする!」
亮人は勢いよく椅子から立ち上がると、そのまま階段を駆け上がった。
二階の自室へ飛び込み、制服へ着替えながら鞄の中身を確認し、机の上に置きっぱなしになっていた必要なものを急いで放り込む。ネクタイを直す時間さえ惜しいと言わんばかりに階段を降り、リビングを横切って玄関へ向かった。
「雪ちゃん!」
『なに!?』
「悪いけど食器お願いしていい?」
『分かったから早く行きなさい!』
「ありがとう!」
『本当に間に合うの!?』
「走ればたぶん!」
『最初から時間見てなさいよ!』
「走るの嫌なんだけどなぁ……」
『じゃあ遅刻しなさい』
「それはもっと嫌だ」
革靴へ足を突っ込み、踵を直しながら鞄を肩へ掛ける。
「じゃあ、行ってきます!」
『亮人』
「ん?」
玄関の扉へ手を掛けたところで呼び止められ、亮人は振り返った。
先ほどまで時間を気にして声を張り上げていた雪女が、少しだけ柔らかな表情でこちらを見ている。
『……行ってらっしゃい』
その声も、先ほどまでとは違っていた。
『ちゃんと帰ってきなさいよ?』
「もちろん」
亮人は笑う。
「帰ってくるから、安心して待ってて」
『…………うん』
「じゃ、今度こそ行ってきます!」
玄関の扉を開けると、冷たい朝の空気が一気に家の中へ入り込んできた。
亮人はそのまま外へ飛び出し、普段なら歩いて向かう道を学校へ向かって全力で走り始める。
雪女は玄関先に立ったまま、その背中が角を曲がって完全に見えなくなるまでじっと見送っていた。
『…………行っちゃった』
扉を閉じると、それまで響いていた亮人の足音も消え、家の中へ静けさが戻ってくる。
今ここにいるのは、雪女と二階で眠っているクロだけ。
亮人のいない家なら、好き勝手にすることだってできた。
物を壊そうと思えば壊せるし、部屋を荒らすこともできる。その気になれば、亮人が大切にしているものを勝手に持ち出すことだって難しくはない。
誰も止める者はいない。
亮人自身も、雪女が自分のいない間に何をしているのか確かめる術など持っていない。
けれど、そんなことをしようという気には少しもならなかった。
『さて、と』
雪女は袖を軽くまくり、先ほどまで二人で朝食を食べていたテーブルへ戻る。
『先に洗い物しないと』
亮人に頼まれた通り、食器を一つずつ流しへ運び、蛇口を捻る。
水に触れること自体は何ともない。
むしろ冷たい水なら慣れているはずなのに、亮人が毎日使っているスポンジを手に取り、食器を洗剤で洗っていくという行為には、未だにどこか不思議な感覚があった。
妖魔である自分が、人間の家で朝食を食べ、その後片づけをしている。
二週間前なら、そんな生活をしている自分など想像もしていなかった。
『これで……こっち』
茶碗を洗い、お椀を洗い、鮭を乗せていた皿も丁寧に汚れを落としていく。最初の頃はどの食器をどこへ戻せばいいのか分からず、そのたびに亮人へ聞いていたが、今ではほとんど迷うこともなくなっていた。
洗い終えた食器の水気を拭き、元あった場所へ戻していく。
『これでよし』
誰に見せるでもなく満足そうに頷き、雪女は手を洗った。
そのままリビングに残ってテレビを見てもいい。
もう一度何か食べても、亮人なら怒らないだろう。
家の中を好きに歩き回ることだってできる。
それでも雪女が向かったのは、二階だった。
階段を上がり、亮人の部屋の前で足を止める。
扉を開けると、朝の冷たい空気が少し残った室内に、カーテン越しの淡い光が差し込んでいた。
「ニャ……」
『あ、ごめん。起こした?』
ベッドの上では、クロが布団の中へ身体を埋めるようにして丸くなっていた。
眠たそうに薄く目を開けたものの、相手が雪女だと分かると警戒する様子もなく、再び瞼を下ろしかける。
雪女はそんなクロを起こさないよう静かに近づき、ベッドの端へそっと腰を下ろした。
『私も寝ようかな』
まだ朝は早い。
亮人は学校へ行ったが、自分に登校する必要などないし、急いで済ませなければならない用事もなかった。
雪女は布団の端を持ち上げる。
中には、少し前まで亮人が眠っていた時の温もりが残っていた。
その隙間へ身体を滑り込ませると、ひんやりとしていた自分の肌を柔らかな暖かさが包み込んでくる。
『…………あったかい』
雪女なのに、温かい布団は嫌いではなかった。
むしろ、こうして全身を包まれていると不思議なほど安心する。
枕へ顔を近づけ、身体の力を抜いたところで、ふと気づいた。
『……亮人の匂いがする』
そこまで口にしてから、雪女の動きがぴたりと止まった。
『…………』
数秒。
誰も何も言わない。
隣ではクロが眠っているだけ。
それなのに、今自分が何を言ったのか理解した途端、雪女の頬へ一気に熱が集まっていった。
『いや、今のなし!』
「ニャ?」
クロが片目だけを開ける。
『クロ、忘れなさい!』
「ニャー……」
『その反応なによ……』
もちろん、猫が誰かに話すわけではない。
そんなことは雪女自身にも分かっている。
それでも、妙に見透かされたような気がしてしまい、雪女は恥ずかしさを隠すように布団を頭まで引き上げた。
『もう寝る……』
「ニャ……」
クロも興味を失ったのか、すぐ隣で身体を丸め直す。
布団の中へ静けさが戻り、遠くからテレビの音が微かに聞こえてくるだけになった。
雪女は目を閉じた。
ほんの二週間前までは、人間と同じ家で暮らし、朝食を一緒に食べ、出かけていく背中へ「行ってらっしゃい」と声を掛け、その人間が使っていた布団へ潜り込む生活など想像もしていなかった。
それなのに今では、それら一つ一つが少しずつ当たり前になり始めている。
亮人にとっても。
雪女にとっても。
まだ互いのことを知らない部分は多く、どうして亮人が妖魔を見ることができるようになったのかも、これから二人の生活がどうなっていくのかも分からない。
それでも少なくとも今は、この家へ帰ってくる人間がいて、その帰りを待つ者がいる。
人間の少年と、人ならざる少女。
本来なら交わるはずのなかった二人が同じ屋根の下で暮らし始めて、二週間。
少し変わっているけれど、二人にとってはもう少しずつ「いつもの朝」になりつつある時間が、今日も静かに過ぎていった。




