↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/26

プロローグ⭐︎

挿絵(By みてみん)

 夜。


 昼間はあれだけ騒がしかった東京も、今はすっかり静まり返っている。


 雲ひとつない空には大きな月が浮かび、淡い光が眠りについた街を照らしていた。


 そんな穏やかな夜とは正反対に、高層ビルの屋上では激しい追走劇が繰り広げられていた。


『いい加減、止まりなさい!』


 高層ビルの屋上に、怒鳴り声が響き渡った。


『これ以上逃げるなら、こっちも手加減できないわよ!』


『いやッ! 絶対イヤッ!!』


 怒鳴り返したのは、一匹の狼だった。


 月明かりを浴びて輝く、金色の毛並み。


 まだどこか幼さを残したその狼は、傷だらけの身体で屋上を駆け回っている。


『私はお兄ちゃんに会いに来たのッ! あんたたちなんかに捕まるもんかッ!!』


『だったら少しは話を聞きなさい! このまま逃げ続けても、あなたの傷が増えるだけよ!』


『大人しく捕まったら、お兄ちゃんに会えないじゃんッ!』


『……本当に聞く耳を持たない子ね!』


 金色の狼を追いかけているのは、巨大な狐。


 しかも、普通の狐ではない。


 背後で揺れる尾は――九本。


 さらに、そのすべてに炎が灯っていた。


 金色の狼と、炎を纏う九尾の狐。


 人間が見れば腰を抜かすような光景だったが、幸いにもここは地上百メートルを超えるビルの屋上。


 この異常な追いかけっこに気づいている者はいなかった。


『これが最後よ。止まりなさい!』


『それ、止まっても殺されそうなんだけどッ!?』


『殺すつもりなら、とっくにそうしているわ!』


『全然安心できないよッ!!』


 九尾が叫ぶと同時に、九本の尾を大きく振るった。


 次の瞬間。


 ボウッ!!


 炎が一気に広がった。


『うわぁぁッ!?』


 逃げ場を塞ぐように火の海が屋上を包み込む。


 金色の狼は慌てて地面を蹴った。


 炎の中から勢いよく飛び出し、そのまま屋上を転がる。


『あつっ……熱いぃ……!』


 黄金色の毛皮の一部が黒く焦げていた。


 ツンと鼻を刺すような臭いが漂う。


 狼は自分の身体を見て、泣きそうな顔になった。


『うぅ……毛が焦げたぁ……』


『自分の毛より、まず傷を気にしなさい!』


『女の子には大事なのッ!』


『狼でしょう、あなたは!』


『狼でも女の子だもんッ!!』


『……まったく、こんな時まで元気なんだから』


 九尾は呆れたように目を細めた。


 そして。


『それなら、これで止めるわ』


 九本の尾に灯っていた炎が、一か所へ集まり始める。


『えっ』


 金色の狼の顔が引きつった。


『ちょ、ちょっと待って』


 炎はどんどん大きくなっていく。


『ねぇ、それ絶対ダメなやつだよね!?』


『避けられるなら避けなさい』


『なにが!?』


『当たれば無事では済まないわ』


『やっぱり死ぬやつじゃんッ!!』


『だから止まりなさいと言ったでしょう!』


『イヤァァァァッ!!』


 巨大な火球が放たれた。


 ゴォォォォォ――ッ!!


 凄まじい熱を撒き散らしながら、火球が一直線に迫ってくる。


 通り過ぎただけで屋上のコンクリートが赤く染まり、じわじわと溶け始めた。


『いやいやいやいやいやっ!』


 金色の狼は全力で地面を蹴る。


 直後。


 ドォォォォォンッ!!


 屋上の一角が爆発した。


 巨大な炎が夜空へ噴き上がる。


『…………』


 九尾は静かに爆煙を見つめた。


 しばらくして煙が晴れていく。


 しかし、そこに金色の狼の姿はなかった。


『……いない?』


 誰もいなかった。


 金色の狼の姿が、綺麗さっぱり消えている。


『……逃げたのね』


 九尾が辺りを見回す。


 残されていたのは、屋上に点々と続く赤い血だけだった。


『ハァ……ハァ……ハァ……!』


 その頃。


 金色の狼は、別のビルの屋上へ飛び移っていた。


『死ぬかと思ったぁ……!』


 着地した瞬間、力が抜ける。


『うぅっ……!』


 ガクッと前脚が崩れ、その場に倒れ込んだ。


 身体のあちこちが痛い。


 焼かれたところも痛い。


 それ以前に負った傷だって、まだ治っていない。


 身体からは、ぽたぽたと血が落ち続けていた。


『痛いよぉ……』


 今にも泣きそうな声が漏れる。


 それでも狼は這うように進み、屋上に置かれた設備の陰へと身体を隠した。


『見つかったら……今度こそ本当に焼かれちゃう……』


 九尾の火球を思い出し、ブルブルと身体が震える。


『あんなのズルいよぉ……』


 小さく文句を言いながら、その場に丸くなる。


『ちょっとだけ……ちょっとだけ休もう……』


 ほんの少しだけ。


 それくらいなら大丈夫。


 狼はそう自分に言い聞かせた。


 そして、ふと顔を上げる。


『…………わぁ』


 視界いっぱいに、東京の夜景が広がっていた。


 無数のビル。


 走り続ける車。


 道路を照らす街灯。


 色とりどりのネオン。


 東京という街そのものが、まるで宝石箱のように輝いている。


『すごい……』


 狼は思わず見入ってしまった。


 身体の痛みも、追われていることも。


 ほんの少しだけ忘れてしまうほどに。


 けれど。


『…………お兄ちゃん』


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥がきゅっと苦しくなった。


『今から……会いに行くからね』


 会いたい。


 ずっと、ずっと会いたかった。


 だからここまで来た。


『待っててね……お兄ちゃん』


 金色の狼はゆっくりと立ち上がった。


『よしっ……!』


 気合いを入れる。


 そして。


『いたっ!?』


 すぐに顔をしかめた。


『うぅ……やっぱり痛い……』


 それでも立ち止まるわけにはいかない。


 金色の毛皮の下には、先ほど負ったものとは違う傷がいくつも残っていた。


 古い傷。


 大きな傷。


 身体中に刻まれたそれらは、彼女がこれまでどんな場所で生きてきたのかを物語っている。


『でも……行かなきゃ』


 狼は前脚に力を込めた。


 ミシッ。


 足元のコンクリートに亀裂が走る。


 そのまま一気に蹴り出した。


『よいしょぉッ!!』


 金色の身体が宙を舞う。


 隣のビルへ着地。


 さらに次。


 その次。


 ビルからビルへと、夜の東京を駆け抜けていく。


『…………あ』


 だが、狼は立ち止まった。


 目の前にあるビルまでの距離が、明らかに遠すぎる。


『これ……無理じゃない?』


 下を見る。


 遥か下に道路が見えた。


『…………』


 もう一度、向こうを見る。


『…………』


 もう一度、下を見る。


『…………いや、無理でしょ』


 普通なら諦める距離だった。


 しかし。


『でも……遠回りしてたら見つかっちゃうし……』


 狼は周囲を見回す。


『ん?』


 向こう側のビルから一本の太いパイプが突き出していた。


『…………』


 狼は少し考えた。


『いける……かな?』


 どう考えても、普通ならいけない。


『…………よしっ!』


 走り出した。


『いっけぇぇぇぇッ!!』


 屋上の端を勢いよく蹴る。


 金色の身体が夜空へ飛び出した。


『届いてぇぇぇぇぇっ!!』


 当然――届かない。


『やっぱり無理ぃぃぃぃッ!?』


 落下しかけたその瞬間。


 ガキンッ!!


 狼の牙がパイプに食い込んだ。


『んぐぐぐぐぐ……っ!』


 顎の力だけで身体を支える。


『お、重いぃ……!』


 自分の身体なのだが。


 それでもどうにか壁へ脚をつけると、爪を突き立てた。


『よいしょ……よいしょ……!』


 壁を駆け上がっていく。


 そして。


『とうちゃーくっ!!』


 ようやく屋上へ上がった瞬間、その場に大の字――ではなく、狼なので四つ脚を投げ出すように倒れ込んだ。


『つ、疲れたぁ……』


 しばらく動けない。


 けれど、すぐに顔を上げた。


『……まだだもん』


 ここまで来た理由を忘れてはいけない。


 狼はゆっくり立ち上がる。


 そして鼻を高く上げた。


『…………』


 スン。


 スン。


 東京の空気を吸い込む。


『違う……』


 車。


 鉄。


 食べ物。


 人間。


 たくさんの匂いが混ざっている。


『これも違う……』


 さらに大きく息を吸う。


 すると。


『――――ッ!』


 狼の耳がピンッと立った。


『……この匂い』


 微かだった。


 ほんの少しだけ。


 けれど、間違えるはずがない。


 ずっと覚えていた。


 忘れたことなんて、一度もない。


『お兄ちゃん……!』


 狼の表情が明るくなる。


 痛みで下がっていた尾まで、少しだけ持ち上がった。


『いる……!』


 この街に。


 お兄ちゃんがいる。


『待っててね……』


 そして小さく。


 本当に小さく。


『お兄ちゃんじゃないと……私はダメだから』


 そう呟いた。


 先ほどまでの弱々しい声とは違う。


 そこには確かな決意があった。


 金色の狼は匂いのする方向へ顔を向ける。


『絶対……会いに行くから!』


 そして再び、夜の東京を走り始めた。


 一方。


『……ごめんなさい。また逃げられたわ』


 九尾は申し訳なさそうに頭を下げていた。


「気にするな」


 返事をしたのは、一人の男だった。


 場所は東京タワー。


 しかし、二人がいるのは観光客が利用する展望台ではない。


 そのさらに上。


 普通の人間なら、立っているだけでも足が震えるような場所だった。


 強い風が吹きつける。


 それでも男は平然と東京の街を見下ろしていた。


「ただ……面倒な場所に入り込まれたな」


『人間が多いこと?』


「人間が多すぎる」


 男は小さくため息をついた。


「騒ぎになれば、こちらも動きづらくなる」


『そうね。あの子もかなり傷を負っているし、このまま放っておくわけにもいかないわ』


「決まってる」


 男は迷うことなく答えた。


「見つけ出す」


『……まだ、あの子に拘るのね』


「あいつは絶対に俺が従える」


 その言葉に、九尾がわずかに目を細めた。


「誰にも渡さない」


 男は東京の街を睨みつける。


「絶対に、だ」


 握られた拳に力がこもる。


 そして。


「俺は――」


 男の瞳に、はっきりとした憎悪が浮かんだ。


「妖魔なんか認めない」


 金色の狼を探す男。


 その男から逃げながら、兄を探す狼。


 まだ二人は知らない。


 この夜を境に、止まっていた物語が再び動き始めようとしていることを。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。