プロローグ⭐︎
夜。
昼間はあれだけ騒がしかった東京も、今はすっかり静まり返っている。
雲ひとつない空には大きな月が浮かび、淡い光が眠りについた街を照らしていた。
そんな穏やかな夜とは正反対に、高層ビルの屋上では激しい追走劇が繰り広げられていた。
『いい加減、止まりなさい!』
高層ビルの屋上に、怒鳴り声が響き渡った。
『これ以上逃げるなら、こっちも手加減できないわよ!』
『いやッ! 絶対イヤッ!!』
怒鳴り返したのは、一匹の狼だった。
月明かりを浴びて輝く、金色の毛並み。
まだどこか幼さを残したその狼は、傷だらけの身体で屋上を駆け回っている。
『私はお兄ちゃんに会いに来たのッ! あんたたちなんかに捕まるもんかッ!!』
『だったら少しは話を聞きなさい! このまま逃げ続けても、あなたの傷が増えるだけよ!』
『大人しく捕まったら、お兄ちゃんに会えないじゃんッ!』
『……本当に聞く耳を持たない子ね!』
金色の狼を追いかけているのは、巨大な狐。
しかも、普通の狐ではない。
背後で揺れる尾は――九本。
さらに、そのすべてに炎が灯っていた。
金色の狼と、炎を纏う九尾の狐。
人間が見れば腰を抜かすような光景だったが、幸いにもここは地上百メートルを超えるビルの屋上。
この異常な追いかけっこに気づいている者はいなかった。
『これが最後よ。止まりなさい!』
『それ、止まっても殺されそうなんだけどッ!?』
『殺すつもりなら、とっくにそうしているわ!』
『全然安心できないよッ!!』
九尾が叫ぶと同時に、九本の尾を大きく振るった。
次の瞬間。
ボウッ!!
炎が一気に広がった。
『うわぁぁッ!?』
逃げ場を塞ぐように火の海が屋上を包み込む。
金色の狼は慌てて地面を蹴った。
炎の中から勢いよく飛び出し、そのまま屋上を転がる。
『あつっ……熱いぃ……!』
黄金色の毛皮の一部が黒く焦げていた。
ツンと鼻を刺すような臭いが漂う。
狼は自分の身体を見て、泣きそうな顔になった。
『うぅ……毛が焦げたぁ……』
『自分の毛より、まず傷を気にしなさい!』
『女の子には大事なのッ!』
『狼でしょう、あなたは!』
『狼でも女の子だもんッ!!』
『……まったく、こんな時まで元気なんだから』
九尾は呆れたように目を細めた。
そして。
『それなら、これで止めるわ』
九本の尾に灯っていた炎が、一か所へ集まり始める。
『えっ』
金色の狼の顔が引きつった。
『ちょ、ちょっと待って』
炎はどんどん大きくなっていく。
『ねぇ、それ絶対ダメなやつだよね!?』
『避けられるなら避けなさい』
『なにが!?』
『当たれば無事では済まないわ』
『やっぱり死ぬやつじゃんッ!!』
『だから止まりなさいと言ったでしょう!』
『イヤァァァァッ!!』
巨大な火球が放たれた。
ゴォォォォォ――ッ!!
凄まじい熱を撒き散らしながら、火球が一直線に迫ってくる。
通り過ぎただけで屋上のコンクリートが赤く染まり、じわじわと溶け始めた。
『いやいやいやいやいやっ!』
金色の狼は全力で地面を蹴る。
直後。
ドォォォォォンッ!!
屋上の一角が爆発した。
巨大な炎が夜空へ噴き上がる。
『…………』
九尾は静かに爆煙を見つめた。
しばらくして煙が晴れていく。
しかし、そこに金色の狼の姿はなかった。
『……いない?』
誰もいなかった。
金色の狼の姿が、綺麗さっぱり消えている。
『……逃げたのね』
九尾が辺りを見回す。
残されていたのは、屋上に点々と続く赤い血だけだった。
『ハァ……ハァ……ハァ……!』
その頃。
金色の狼は、別のビルの屋上へ飛び移っていた。
『死ぬかと思ったぁ……!』
着地した瞬間、力が抜ける。
『うぅっ……!』
ガクッと前脚が崩れ、その場に倒れ込んだ。
身体のあちこちが痛い。
焼かれたところも痛い。
それ以前に負った傷だって、まだ治っていない。
身体からは、ぽたぽたと血が落ち続けていた。
『痛いよぉ……』
今にも泣きそうな声が漏れる。
それでも狼は這うように進み、屋上に置かれた設備の陰へと身体を隠した。
『見つかったら……今度こそ本当に焼かれちゃう……』
九尾の火球を思い出し、ブルブルと身体が震える。
『あんなのズルいよぉ……』
小さく文句を言いながら、その場に丸くなる。
『ちょっとだけ……ちょっとだけ休もう……』
ほんの少しだけ。
それくらいなら大丈夫。
狼はそう自分に言い聞かせた。
そして、ふと顔を上げる。
『…………わぁ』
視界いっぱいに、東京の夜景が広がっていた。
無数のビル。
走り続ける車。
道路を照らす街灯。
色とりどりのネオン。
東京という街そのものが、まるで宝石箱のように輝いている。
『すごい……』
狼は思わず見入ってしまった。
身体の痛みも、追われていることも。
ほんの少しだけ忘れてしまうほどに。
けれど。
『…………お兄ちゃん』
その言葉を口にした瞬間、胸の奥がきゅっと苦しくなった。
『今から……会いに行くからね』
会いたい。
ずっと、ずっと会いたかった。
だからここまで来た。
『待っててね……お兄ちゃん』
金色の狼はゆっくりと立ち上がった。
『よしっ……!』
気合いを入れる。
そして。
『いたっ!?』
すぐに顔をしかめた。
『うぅ……やっぱり痛い……』
それでも立ち止まるわけにはいかない。
金色の毛皮の下には、先ほど負ったものとは違う傷がいくつも残っていた。
古い傷。
大きな傷。
身体中に刻まれたそれらは、彼女がこれまでどんな場所で生きてきたのかを物語っている。
『でも……行かなきゃ』
狼は前脚に力を込めた。
ミシッ。
足元のコンクリートに亀裂が走る。
そのまま一気に蹴り出した。
『よいしょぉッ!!』
金色の身体が宙を舞う。
隣のビルへ着地。
さらに次。
その次。
ビルからビルへと、夜の東京を駆け抜けていく。
『…………あ』
だが、狼は立ち止まった。
目の前にあるビルまでの距離が、明らかに遠すぎる。
『これ……無理じゃない?』
下を見る。
遥か下に道路が見えた。
『…………』
もう一度、向こうを見る。
『…………』
もう一度、下を見る。
『…………いや、無理でしょ』
普通なら諦める距離だった。
しかし。
『でも……遠回りしてたら見つかっちゃうし……』
狼は周囲を見回す。
『ん?』
向こう側のビルから一本の太いパイプが突き出していた。
『…………』
狼は少し考えた。
『いける……かな?』
どう考えても、普通ならいけない。
『…………よしっ!』
走り出した。
『いっけぇぇぇぇッ!!』
屋上の端を勢いよく蹴る。
金色の身体が夜空へ飛び出した。
『届いてぇぇぇぇぇっ!!』
当然――届かない。
『やっぱり無理ぃぃぃぃッ!?』
落下しかけたその瞬間。
ガキンッ!!
狼の牙がパイプに食い込んだ。
『んぐぐぐぐぐ……っ!』
顎の力だけで身体を支える。
『お、重いぃ……!』
自分の身体なのだが。
それでもどうにか壁へ脚をつけると、爪を突き立てた。
『よいしょ……よいしょ……!』
壁を駆け上がっていく。
そして。
『とうちゃーくっ!!』
ようやく屋上へ上がった瞬間、その場に大の字――ではなく、狼なので四つ脚を投げ出すように倒れ込んだ。
『つ、疲れたぁ……』
しばらく動けない。
けれど、すぐに顔を上げた。
『……まだだもん』
ここまで来た理由を忘れてはいけない。
狼はゆっくり立ち上がる。
そして鼻を高く上げた。
『…………』
スン。
スン。
東京の空気を吸い込む。
『違う……』
車。
鉄。
食べ物。
人間。
たくさんの匂いが混ざっている。
『これも違う……』
さらに大きく息を吸う。
すると。
『――――ッ!』
狼の耳がピンッと立った。
『……この匂い』
微かだった。
ほんの少しだけ。
けれど、間違えるはずがない。
ずっと覚えていた。
忘れたことなんて、一度もない。
『お兄ちゃん……!』
狼の表情が明るくなる。
痛みで下がっていた尾まで、少しだけ持ち上がった。
『いる……!』
この街に。
お兄ちゃんがいる。
『待っててね……』
そして小さく。
本当に小さく。
『お兄ちゃんじゃないと……私はダメだから』
そう呟いた。
先ほどまでの弱々しい声とは違う。
そこには確かな決意があった。
金色の狼は匂いのする方向へ顔を向ける。
『絶対……会いに行くから!』
そして再び、夜の東京を走り始めた。
一方。
『……ごめんなさい。また逃げられたわ』
九尾は申し訳なさそうに頭を下げていた。
「気にするな」
返事をしたのは、一人の男だった。
場所は東京タワー。
しかし、二人がいるのは観光客が利用する展望台ではない。
そのさらに上。
普通の人間なら、立っているだけでも足が震えるような場所だった。
強い風が吹きつける。
それでも男は平然と東京の街を見下ろしていた。
「ただ……面倒な場所に入り込まれたな」
『人間が多いこと?』
「人間が多すぎる」
男は小さくため息をついた。
「騒ぎになれば、こちらも動きづらくなる」
『そうね。あの子もかなり傷を負っているし、このまま放っておくわけにもいかないわ』
「決まってる」
男は迷うことなく答えた。
「見つけ出す」
『……まだ、あの子に拘るのね』
「あいつは絶対に俺が従える」
その言葉に、九尾がわずかに目を細めた。
「誰にも渡さない」
男は東京の街を睨みつける。
「絶対に、だ」
握られた拳に力がこもる。
そして。
「俺は――」
男の瞳に、はっきりとした憎悪が浮かんだ。
「妖魔なんか認めない」
金色の狼を探す男。
その男から逃げながら、兄を探す狼。
まだ二人は知らない。
この夜を境に、止まっていた物語が再び動き始めようとしていることを。




