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第9話 茨姫と不穏な足音——

もやもやとした霧の中を彷徨うように休日を消化し、訪れた週明けの月曜日。

失恋と初体験——未だに二つの出来事が脳内で未整理のまま不協和音を奏で、追い打ちをかけるように雫との一夜で悲鳴を上げている全身の筋肉痛。

それらすべてを抱えながら、4限の体育をどうにかやり過ごした俺は、昼休みの学食で食事を胃袋に流し込むだけの作業を終え、教室へと戻る廊下を歩いていた——


「なぁ湊人、今日どうしたんだよ?いつにも増して疲れてんな?あっ、お前もしかして、また朝凪さんにちょっかい出して凹まされたのか?ほんっとお前も懲りないよなぁ……」


横から降ってきたのは、直視すれば目にダメージを受けそうなほどの圧倒的イケメンオーラ。

流れる短髪に少し日に焼けた健康的な肌、眩しい真っ白な歯。

歩くメンズアイドル、あるいは女性向けラブコメの正統派主人公という役割を一身に背負ったような男、それがコイツ——舟橋匠ふなばしたくみ

同じ千葉のド田舎からわざわざこの高校まで俺についてきた、腐れ縁という言葉すら生ぬるい幼馴染だ。

そんなコイツとは、クラスは違えど昼飯を共にするというルーティンだけは入学以来変わっていない。


「ちげーよ、ちょっとバイトが忙しかっただけだって」

「ふーん、まあいいけどさ……どっちも程々にしとけよ?俺はお前が心配なんだよ……日曜の夜のネトゲの約束もすっぽかすし、そんなにバイトばっかりやってどうすんだよ?青春は一瞬だぞ?もっと楽しんだらいいのに……」

「うっせぇな……お前は俺のオヤジかよ?」

「は?幼馴染だよボケ」


こんな会話をしてくる匠という男は、そのスペックにおいても向かう所敵なしの超人だ。学業優秀、スポーツ万能、そして学費無償の特待生。

対する俺はといえば、上京に伴う一人暮らしのせいで、生活費を稼ぐためにバイトに明け暮れ、物語の背景に溶け込むことしかできない文字通りの凡人。モブだ。


なのに、この男は誰も友達がいなかった入学当時の俺の隣に当たり前のように居座り、こうして今も気にかけてくるほど気のいい奴なのだ。


まあ、その優しさがたまに無意識の暴力となって俺の劣等感を刺激していることは内緒だが……。


(ねぇねぇ舟橋くん〜!ちょっと私の友達が話あるって言ってるんだけど〜)


背後から割り込んできたのは、そんな主人公を放っておかない外野の女子たち。


「ん?俺に?」

(そう!ちょっと時間いい?)

「あ〜……えっと……」


匠が申し訳なさそうに俺の方へ視線を向ける。その気遣いに、また心がえぐられる。


「行って来いよ匠。俺はいいからさ」

「……ああ、そっか……湊人わりぃ、じゃあ俺はここで!また連絡するわっ」

「おけ、じゃなー」


バスケ部の王子様の名は伊達じゃない。

女子に連れ去られていく匠の背中を、俺はいつものように軽く手を振り見送ると、独り、自分の教室へと足を進めた——


————————


ドアをくぐり教室の最奥へと歩みを進める。

窓際の列から一つ手前の一番前、そのあまりにも視界が良く落ち着かない場所が俺の指定席だ。


そしてその横、窓際の席——

そこには、いつものように孤高という名の結界を張り、クラスの喧騒からも、男子たちの視線からも切り離された、別世界みたいな空間に身を置く一人の少女が座っている。


頬杖をつき、窓の外の景色に視線を預ける黒髪のポニーテール。

そう——茨姫、朝凪澪だ。


俺はそんな彼女にフラれたばかりという事もあり、どう接していいのかわからず今日という日を過ごしていた。

恐る恐る朝凪の隣にある自分の席へ腰を下ろした俺は、盗み見るように彼女へ視線を向けた。


隣に座る彼女のどこか遠くを見つめるような寂しげな横顔。

それを見た瞬間、俺の胸の奥が痛みを持って締め付けられる——


俺が朝凪に惹かれた理由は当初、単純なものだった。


最初は誰もがそうであるように、彼女の圧倒的なビジュアルに目を奪われただけ。

だが、その裏には、誰とも馴染めず周囲を拒絶する事しかできない不器用で孤独な少女がいた。


そんな彼女が、勇気を出して話しかけた俺に、ほんの一瞬だけ見せてくれた笑顔。

それを見た時、俺はその無垢な笑みを守りたいと思ってしまった。


彼女に友だちを作って、独りぼっちの景色から救い出してあげたい……もっと彼女を笑顔にしてあげたい。

そんな、傲慢な中二病のヒーロー気取りの独りよがりも加わり、俺の恋は加熱していった。


もし朝凪より先に雫と出会っていたら、この感情のベクトルは違う方向へ向いていたのかもしれない。


「……鳳くん。さっきからこっち見てるけど、私になにか用?」

「あっ……えっと……」


どうやら俺は、無意識に視線を固定していたらしい。

こちらを振り向いた朝凪の冷ややかな視線が、俺を射抜いている。


「……もっ、もう飯は食ったのか?」

「ご飯?……ええ、あたりまえでしょ?」

「そっ、そっか……」

「なに?それを聞きたかっただけ?」

「えっと………………ごめ——!?」


居心地の悪さに耐えかね、こちらに少し身体を傾けてきた朝凪に謝罪の言葉を投げようとした、その時だった——


瞬時に網膜に焼き付いた、あってはならない致命的なバグ。

普段の朝凪ならきっちりと制服を着ているはずだが、体育の後だったからか、リボンの結ばれていない彼女のワイシャツの襟元は、無防備にはだけていて……その透き通った首筋に薄っすらと、けれど、確実に残る赤い熱の痕跡。

それはあの夜、俺が雫の首筋に刻みつけてしまったものと、残酷なまでに一致していた。


「…………朝凪……その首の跡……どうしたんだよ……」


理性そっちのけで漏れ出た声。その一言が朝凪の表情を瞬時に凍りつかせた。


「ちょっと鳳くんどこ見てるのよ?!知らないわよっ、別にあなたには関係ないでしょ?!あんまりジロジロ見ないでくれる?!変態っ!」

「ごっ……ごめん朝凪っ……」


慌てて襟元を隠し、屈辱と羞恥の混ざったような色を頬に浮かべた朝凪。

その仕草、その頬の色、その視線。

目の前にいる朝凪と、あの日のホテルの雫の残像が恐ろしい精度で重なり合っていく。


雫の目の下に現れたほくろの影。

朝凪の首筋に刻まれた熱の跡。

これが単なる偶然だなんて、俺には考えられなかった。


心臓の鼓動が耳の奥で爆音を鳴らし、思考回路がから回る。

今すぐこの喉元まで出かかっている問いを彼女にぶつけたい。

けれど、あまりにも現実味を欠いたその問いに、俺は恐怖で足がすくみ言葉を奪われてしまった。


——朝凪は……雫……?いや、そんなはずがない。あり得ない。あり得てはいけないんだ。もしそうだったら俺は、あの日朝凪と……。



——朝凪……君は一体……誰なんだ……?



そんな俺の混乱をあざ笑うかのように、午後の授業を告げる予鈴が無機質に鳴り響き、二人の間に流れる重苦しい空気を切り裂いた——



————————



それからの授業内容など一秒たりとも記憶に残っちゃいない。

脳内のリソースは、全て朝凪の首筋の痕跡に取られ、俺は思考の迷宮に追いやられていた——


俺は授業を終えて帰宅するなり、雫に連絡を入れた。


【湊人:雫、今度はいつ会える?ちょっと話したいなって思って】


流石にこの内容をDMでサラッと聞けるはずがない。俺はちゃんと彼女と向き合って真実を確かめたかった。


返信が届いたのは、日付が変わりそうな深夜。


【雫:ごめん連絡遅くなって!なに湊人?寂しくてあたしに会いたくなっちゃったの?wwそしたら明日の夜とかなら時間取れそうだけど、どうかな?】


【湊人:そこまで寂しくないわ!!まあそんな事は置いといて、俺明日バイトあるし、いつもの公園でバイト上がりでどうだ?】

【雫:うん!じゃあ終わった頃にいつものとこで!楽しみにしてるね♡】


画面の向こうにはいつも通りの、あまりにも雫らしい雫がいた。

軽快でオヤジ臭いwwに、あざとい♡。

今日の教室で起きたあの凍りつくような一件なんて、どこにも存在しないと言わんばかりのいつもの振る舞い。

その安定したトーンが、逆に俺の脳を混乱させる。


——これは天文学的な確率が引き起こした奇跡で、たまたま二人がタイミングよく、同一人物に見えるほど似通ってしまっただけだ。


俺は必死にその都合のいい考えに縋り付こうとした。

そうであってほしいと心の底から願っていた。


そうすれば俺は、平穏でいられるから——


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