第10話 違和感と崩壊——
そして翌日——
昨日と同様、教壇から発せられる情報は、俺の意識を素通りして虚空へ消えていく。
すぐ隣に座る朝凪とも、一言も話せずに放課後のチャイムが鳴る。
バイトに向かうも、心ここにあらずの状態でまともな労働などできるはずもなく……オーダーミスを連発して店長に若干心配されながらもどうにか乗り切り、俺はいつもの公園へと向かった——
いつものベンチに腰を下ろす。
本来ならここは、雫との胸踊る甘いイベントが発生する場所のはず。
だが、今の俺の胃に溜まっているのは鉛のように重く、不透明な不信感だけだ。
でも、確かめなければいけない。これは、俺と雫の関係にとって見過ごせないものなんだから。
初めて彼女という存在ができて、ようやく青春というものに足を踏み入れたばかりだというのに、たった数日でこんな状況にぶち当たるなんて、よほど俺は恋愛の神様に嫌われているらしい。
朝凪とは距離がありすぎてこんな事聞けるはずもない。
けれど、雫との距離は確かに縮まったはず。
だからこそ彼女に真実を聞いて——そして安心したかった。
俺の隣にいるのは、世界に一人しかいない雫という名の少女なのだと。
「ふぅぅぅ……」
ベンチの背もたれに体重を預け、夜の冷気にため息を溶かす。
その時、視界の端から軽やかなステップを刻んで近づいてくる人影を捉えた。
「み〜なとっ!おまたせっ!」
いつものラフなパーカーのフードから覗く、弾けるような笑顔。
ひっそりと揺れる蒼いインナーカラー。
夜の街灯に照らされて歩いてくる雫の姿は、あまりにも雫で……それゆえに俺の心には、彼女を疑う事への耐え難い罪悪感が渦巻いていた。
「おおっ、雫。来てくれてありがとな」
「えへへっ♪そりゃ湊人に呼ばれたら来るに決まってんじゃん!あたしだって会いたかったし……♡」
「そっか……なんか、そう言われると照れるな……」
「ぷぷぷっwwなに柄にもないこと言ってんの湊人wwちょっと前まであたしのこと男友達と一緒とか言ってたくせにぃww」
「そっ、それは……変わったんだよ色々とっ!」
そう、変わったのだ。
これまでは、匠の女性版とでも言うべき最高の悪友だと思っていた。
圧倒的に可愛いルックスを持っていても、俺が雫を異性として意識してこなかったのは、俺の理想のヒロインの座に朝凪が居座っていたからに他ならない。
雫はひとしきり楽しげに笑ったあと、俺の隣に腰を下ろした。
その距離わずか数センチ。
以前なら拳二つ分は空いていたはずの距離はいずこ、肩が触れ合うほど近くに腰を下ろした彼女は、さらに当然のように俺の肩にその柔らかな頭を預けてきた。
「おいっ……雫……?!」
「……湊人、この前は勝手に先に帰ってごめんね……」
甘い香りが鼻腔をくすぐり、彼女の体温がダイレクトに伝わってきて、思わず言葉がしどろもどろになってしまう。
「それは……連絡も貰ったし、別に気にしてないって」
「ホント?薄情な女とか思われてたらどうしようって思ってたから……ちょっと安心したよ」
「大丈夫だよ雫、お前にも色々あるんだろうし……」
「うん……ありがと湊人」
いつの間にか、そっと俺の手の上に重ねられた雫の温かな手のひら。
こうなると、あまりにも切り出しにくい。
このまま何も聞かず、何も疑わず、この心地よい暖かさに身を委ねてしまいたいという誘惑に駆られる。
でも、それはできなかった。
それを許せば、この関係には取り返しのつかない歪みが生じてしまう。
そんな気がして。
俺は一度、肺の空気をすべて入れ替えて覚悟を決めると、真っ直ぐ雫を見つめた。
「雫。ちょっと話したいことがあるんだけど……いいか?」
「ん?話ってどしたの?改まって」
「そのさ……今からめちゃくちゃ変なことを言うかもしれないから、許してほしいんだけど……」
「変なこと?冗談ってこと?」
きょとんとして俺を見上げる雫。
その瞳には一切の隠し事の気配もなく、純粋な好奇心だけがそこにあった。
その真っ直ぐな視線が俺の心を傷つけてゆく。
「そういうわけじゃないけど……まあ、冗談ぽく聞こえたら笑ってくれ……」
「ん〜……なんかわかんないけどOK!カモンッ!」
——マジで……こいつは本当に……。
だが、この元気で予測不能な、朝凪には絶対出せないであろう彼女独特のテンポこそが俺の知る雫なのだ。
俺を絶望から救い出してくれた、この物語の唯一の女神。
その彼女を、俺は今から自らの手で追い詰めようとしている。
「俺いつも自分のことばっか話してて、あんまりお前の事聞いたりしてこなかったよな?……それでさ、俺たち付き合うことになったし。だから、もっとお前のことを知りたくてさ」
「ほうほう……例えば?」
俺の問いかけを待つ期待に満ちたような、少しだけ照れたような雫の表情。
本来ならもっと幸せで初々しい会話のはずだったそれを、俺は無常にも検証の道具へと変えていく。
「確か前も言ってたと思うんだけど、雫って一人っ子なのか?」
「うん!生粋の一人っ子だよ!」
「そっ……そっか……」
淡い期待はあっさりと打ち砕かれた。
『実は秘密にしてたけど、あたしに似ている姉がいるんだ!』なんていう、ご都合主義な展開はやはり用意されていないみたいだ。
「じゃあ雫……これは聞いたことなかったよな?今さらだけどお前の苗字……聞いてもいいか?」
「…………っ」
その瞬間、雫の視線が泳いだ。
それはほんの一瞬。けれど、俺たちの積み上げてきた時間を根底から揺るがす致命的な沈黙だった。
「えっ……えっとね……すっ、鈴木……かなっ」
「…………っ」
明らかな動揺を見せた雫。
その場しのぎの嘘をつく時の、あまりにも分かりやすすぎるその稚拙さが、今の俺にとってはどんな刃物よりも鋭く胸に突き刺さった。
彼女はやはり……何かを隠している。
「そうか。鈴木雫って、いうのか……」
「うっ、うんっ……そだよっ……ありきたりだよねっ……あはっ……あははっ……」
「雫……ゴメンな。ちょっといいか?」
「ん……?」
俺は震える手を伸ばし雫に顔を寄せると、パーカーの襟元を罪悪感を押し殺しながらそっと指でずらしてゆく。
「どしたの湊人っ!?ちょちょっ!?近いよっ!?ちゅーするのっ——」
冗談めかした彼女の声が、俺の眼前に突きつけられた現実を前にして途絶えた。
街灯に照らされた真っ白な首筋。
そこにはあの日、俺が刻んだキスマークが確かにあった。
その場所も、薄さも……昨日教室で見た朝凪のものと、寸分違わず一致して。
——雫は……やっぱり……。
俺が視線を戻すと、雫は子供のように呆然と立ち尽くしていた。
彼女の目元には今、泣きぼくろはない。
でも、俺の中の確信はもう揺るぎなかった。
「なぁ、雫……許してくれ。本当は俺、こんな事聞きたくないんだ。これ以上は触れちゃいけないってわかってる。でも聞かないといけないんだよ。そうじゃないと俺は納得できなくて……お前の彼氏として、これから真っ直ぐ向き合っていけないんだよ……」
「……みな……と……」
「雫……お前は一体……誰なんだ……?」
「………………」
雫の唇が震えている。
何かを言いかけては閉じられ、適切な言葉を見つけられないみたいに。
そんな彼女の姿を見るのは初めてだった。
俺の知る雫の輪郭が、みるみるうちに足元から崩れ去っていく。
「雫………………」
「………………っ」
「いや……朝凪……朝凪澪っ……!お前……一体なにやってんだよっ……!!」
力ない叫びが夜の静寂を切り裂く。
その瞬間、雫の——いや、目の前の少女の表情から一切の生気が失われ、氷のように固まった。
それは、心地よい雫との時間が終わり、俺の物語が取り返しのつかないエラーを告げた瞬間だった——




